巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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過度の単純化/還元主義/誤前提から生み出される解釈的弊害を避けるために③ーー「ヘブライ的思考 vs ギリシャ的思考」という教えの落とし穴(マーティン・コースラン)

ヘブライ的イェシュア vs ギリシャ的イエス」ーーネヘミヤ・ゴードンは、「本当のイェシュアは、ギリシャ語新約聖書に描写されているような『イエス』ではなく、実際にはユダヤ教原始カライ派的人物であり、彼は、人々が(パリサイ人たちによる口伝的人間の伝統を拒絶しつつ)モーセ律法に従うことの必要性を人々に説いていた」という教えをし、現在、「ヘブル的ルーツ運動」の影響下にあるクリスチャンたちを徐々に、そして確実にキリスト教信仰から逸脱させています。*ネヘミヤ・ゴードンの教えに関する検証記事:Nehemia Gordon | CARM.org

 

目次

 

「ヘブライ的思考 vs ギリシャ的思考」という教えの落とし穴(マーティン・コースラン)

 

Martin Cothran, Is Hebrew Better Than Greek?(抄訳)

 

前述したような多くの批判の中において、「ヘブライ的思考というのは明白に良いものであり、それに対するギリシャ的思考というのは改変不可能に悪である」という風に表現されています。

 

こういった批判には長い系統があり、その中には、少なくとも初代教父テルトゥリアヌスにまで溯ることができるようなバージョンもあります。テルトゥリアヌスは問いました。「アテネとエルサレムは何のかかわりがあろうか?」

 

確かにギリシャ人の考え方とヘブル人の考え方の間には重要な区別があってしかるべきでしょう。しかしながら上記のような批判は、競合する世界観の問題を過度に単純化しすぎているだけでなく、こういった諸相違の多くを根本的に誤解しており、そのためにそこから誤った諸結論を引き出してしまっています。

 

しかしながらギリシャ思考とヘブライ思考の相違からいかなる推論を引き出そうとも、まずもって私たちが明確にしなければならない点は、「それらがいかなる種類の相違であるか」ということです。そして最初に認識すべきは、たしかに両者の間には相違があるということです。

 

〔中略〕他にも諸相違はありますが、マシュー・アーノルドは、最も根本的な点に触れていると思います。ですから考察されるべきは、「ギリシャの知的思考は生来的に悪であり、ヘブライ的な倫理的行為は均一的に善なのか?」という問いです。

 

ですがもちろん、ギリシャ的合理性に対して反駁することは困難です。と言いますのも、「ギリシャ的合理性」を反証するために、あなたは「ギリシャ的合理性」を活用せざるを得ないからです。最初に論理学(logic)の諸原則を分類したのはアリストテレスをはじめとするギリシャ思想家たちであり、それゆえ、論理的に(logically)それらを反証するあなたの試みは無益なものとされるでしょう。ロジックに反対すべくロジックを使うことは本来あり得ない話ですし、従ってあなたに刃向かう主張に対しあなたは反論することもできません。合理性に対する唯一可能な反論は、あなたが黙ることです。

 

にもかかわらず、「ギリシャ的世界観」に関しキリスト教教育界内でなされている批判の多くは、まさに上記のような自家撞着性を抱えています。つまり、彼らは無意識の内に、自らが拒絶していると主張しているまさにその物自体を援用しているのです!

 

数年前に友人と交わした会話のことを思い出します。その友人は、「(彼が悪だと考えている)ギリシャ的思考」と「(彼が善だと考えている)ヘブライ的思考」の違いに関する分析を熱心に私に説き聞かせてくれました。彼の話が終わった時、私は彼の方を向き、こう言いました。「君はまさしく真のギリシャ人のように語ってくれたね!」と。

 

それを聞いた友人は「えっ?」と困惑した表現を浮かべましたので、私は彼に説明しました。--君が使っていた分析プロセスそのものが典型的にギリシャ的なものだった、と。そして私は彼に「アリストテレスの著作を少し読んでみたらどうかな。彼は分析に関する巨匠で、それを読めば、私が先ほど君に言ったことの真意がより良く分かると思うから」と提案しました。

 

また別のウェブサイトである方が分析を行なっており、それによると、(彼が悪だと捉えている)「ギリシャ的分析」を特徴づけているものは、「箇条書きにして」諸思想を提示するやり方にあるとのことでした。不幸なことに、それを主張している当人が、一連の箇条書きの中にギリシャ的分析を挿入してしまっていました。

 

こういった比較対象の多くが、ギリシャ思想を過度に単純化しているか、もしくは事実を歪曲して伝えています。ある特定のギリシャ思想家がその問題に関しギリシャ思想を代表するものであるかのように取り扱っている人々もいますが、現実には、それとはまさに正反対の考え方をしていたギリシャ思想家たちもいるのです。

 

例えば、最近私がみた記事の中で、ある人が、変化(万物流転)に関するギリシャ的見方を代表するものとしてヘラクレイトスを挙げていましたが、彼は、恒久(不変不動)という正反対の思想を強調したパルメニデスの考えのことは無視し去っていました。

 

〔中略〕ギリシャ的合理性とヘブライ的霊性および倫理の間に存在する相違を私たちはどのようにみるべきなのでしょうか?両者は互いに排他的なものなのでしょうか?一つを受容し、もう一方を拒絶しなければならないのでしょうか。現代思想における主要な誘惑の一つが「還元主義」です。

 

C・S・ルイスはそういった還元主義の問題に関し、それを「ナッシング・バター(“nothing-buttery”)」と名づけています。つまり、彼/彼女にとって「事象Aはコレに他ならない(“nothing but”)。」もしくは「事象Bはアレに他ならない(“nothing but”)。」のです。いくつかの理由により私たちは、妥当な「区別」をつけるだけにとどまらず、そこに不可侵なる「分離」をも制定する必要があるかのように感じてしまうのです。そしてこれは、道を誤った合理「主義」が何であるかを示す良い例でもあります。

 

関連記事

 

〔補足資料〕「区別」と「分離」の違いについて(R・C・スプロール)

 

R.C. Sproul, The Christian and Science,Part 2(一部翻訳抜粋)

 

ここで私たちは時として鋭敏なる思想家たちも見落としてしまうことがある微妙な問題に直面しています。「区別(distinction)」と「分離(separation)」の間には微妙な相違が存在します。その相違はたしかに僅かなものではありますが、途轍もなく重要なものです。

 

私たちが為すことのできる最も重要な区別の一つは、「区別」と「分離」の間の区別です。物事を「区別すること」と、それらを「分離すること」は二つかなり異なることです。私があなたの肉体と魂を「区別」する際、あなたには何ら害は及びません。しかし私があなたの肉体と魂を「分離」するなら、私は殺人を犯します。同様に、キリストの神性と人性を「区別」するなら、私たちは正統派キリスト者です。しかしひとたび私たちがキリストの神性と人性を「分離」するなら、私たちはひどい異端者になってしまいます。