巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

過度の単純化/還元主義/誤前提から生み出される解釈的弊害を避けるために②ーー神学と哲学との関係についての諸類型(ミラード・エリクソン『キリスト教神学』)

「ヘブライ的思考 vs ギリシャ的思考」(トーラー遵守を強調する「ヘブル的ルーツ運動」団体The Way Biblical Fellowshipの教え)

 

目次

 

ミラード・J・エリクソン著『キリスト教神学』第1巻、第1部、p.37-39, 55-61.

 

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ミラード・エリクソン。1932年生まれ。1960年以降の米国における宗教復興と共に、プロテスタントの主流となった「エヴァンジェリカル」(福音派ーー宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』参)の代表的神学者の一人。(参照:『キリスト教神学』第1巻 監修者あとがきの項)

 

神学と哲学との関係についての諸類型(ミラード・エリクソン)

 

神学と哲学の間には全く関係がないとする立場

 

1.神学と哲学との関係については、さまざまな理解がなされてきた。まず取り上げたいのは、実質上、両者は全く関係がないとする立場である。神学は哲学から分離しているというのである。このアプローチはテルトゥリアヌス(160-230年頃)の時代に現われた。以下のテルトゥリアヌスの有名な言葉を考えてみよう。

 

アテネとエルサレムは何のかかわりがあろうか。

アカデメイアと教会は何のかかわりがあろうか。

異教徒とキリスト者は何のかかわりがあろうか。*1

 

このアプローチによると、哲学にはキリスト教神学の役に立つものなど何もない。実際、神学と哲学の目標はかなり違うのであり、信徒には哲学との接触や対話は一切しないよう指導したほうがよいというのである。信仰のために、哲学などから助けを借りる必要はない。もっとも、それらの学問は、「何らかの貢献はするが」という但し書きつきである。

 

中世に、同じ見解をもつアヴェロエス主義という思想が現れ、二重の真理概念を説いた。この説によると、神学の真理と哲学の真理は事実上、二つの全く異なる、別々の事柄である。*2

 

マルティン・ルターは、トマス・アクィナスのスコラ的カトリック哲学に反対していたため、哲学自体を否定する傾向があった。ルターは著書『卓上語録』で、「哲学を、神が定められたように、その領域にとどまらせよ。我々は哲学を喜劇役者として用いることにしよう」と語っている。*3

 

哲学は神学を解明することができるという立場

 

2.歴史に現れた第二の立場は、「哲学は神学を解明することができる」と考えるアウグスティヌスのものである。アウグスティヌスは、聖書の啓示を信じ受け入れることを優先させるべきであると力説しながらも、哲学がキリスト教神学をよりよく理解させる一助になると主張した。

 

彼がプラトン哲学を採用したのは、そこに神学を表現する手段があることを見て取ったからである。たとえば、キリスト教形而上学には、神の超自然的世界と、その超自然的世界に由来し依存する被造世界という概念があるが、アウグスティヌスによれば、これはプラトンによる二元論(imagery of the divided line)を用いれば理解しやすい。

 

一方の側にある不可視なイデア(形相の世界)は、もう一方の側にある知覚可能な対象の世界よりも真なるものである。知覚することのできる対象は、それらのイデアが落とした影に過ぎないからである。*4

 

アウグスティヌス神学は、プラトンの知識論も採用した。プラトンによると、我々がもっている知識はすべて、イデアあるいは純粋な形相の知識である。我々の魂は先在的な状態において、これらのイデア(白さ、真理、椅子であること等)に遭遇している。今日経験的に知覚する事物に、それらの特質を認めることができるのは、そのためなのである。*5

 

アウグスティヌスは、照明の教理(doctrine of illumination)を形成する際、プラトンのこの思想を採用した。すべての人を照らすために世に来た光(ヨハネ1:9)とは、人間の知性に諸形相を印象づける神であるというのである。*6

 

哲学が神学を立証するという立場

 

3.哲学が神学を立証するという考え方。キリスト教神学が、異教やキリスト教以外の諸宗教と対峙するようになると、メッセージに権威があるという真実性を中立的立場から立証する必要が生じてきた。アクィナスは、神存在を立証するものとして、アリストテレスの議論が有効であることを見て取った*7。この試みは功を奏し、哲学によって神学の信憑性が証明された。アリストテレスの哲学に関しては、このほかにも、「実体ー出来事」の形而上学をもとに、聖餐式におけるキリストの現臨など、重要な教理が形成された例もある。

 

神学は哲学による評価にさらされるとする立場

 

4.神学は、哲学による評価にさらされるとする立場。神学は哲学によって証明できるという立場を論理的に押し進めていった結果として、神学は哲学によって証明できなければ受け入れられないという考えが現れた。理性によって検証したり論証したりできる宗教の教義だけを受け入れるとしたのが、理神論である。*8

 

哲学は神学に中身を与えさえするという立場

 

5.哲学は、神学に中身を与えさえするという考え方。たとえば、ゲオルク・ヘーゲルは、キリスト教を自らの観念論哲学の視点から解釈した。その結果、徹底的に合理化されたキリスト教ができあがった。ヘーゲルによれば、キリスト教の諸真理は、普遍的真理、すんわち歴史を方向づける弁証法的な形態の諸例にすぎない。

 

例として、三位一体を取り上げてみよう。純粋な抽象的思想(pure abstract thought)として神は御父であるが、永遠に有限な存在へ向かう者としては御子であり、有限な存在となったことで豊かにされ、再び天に戻る者としては聖霊である。キリスト教の諸教理は、歴史を貫く三幅対の型(定立、反定立、綜合)に適合するという理由で立証され、保証される。ただしそれは、特殊な事実としてではなく、あくまでも普遍的真理としてである。このように、キリスト教に対する理解は、真理であると認められる哲学に適合するように修正されている。*9

 

神学による哲学の活用(ミラード・エリクソン)

 

われわれの神学において哲学の役割と位置はどうあるべきか?

 

本章の冒頭で、神学と哲学との関係にさまざまな形がありうることに留意した。われわれの神学において哲学の役割と位置はどうあるべきなのか?以下に、二つの基本的なガイドラインを提案しよう。

 

基本的指針1

 

第一に、基本的な前提に沿えば、われわれの神学の中身を供給してくれるのは哲学ではなく、啓示ということになる。したがって、実在を理解するのに欠かせない主要な要綱を供給するために、まず啓示を調べよう。そうすることによって、思想的な探索を進めるための基本的枠組みを手に入れることができる。そんなわけで、われわれの基本的な立場は、先に概略を述べた第一と第二の立場の中間に位置する。

 

また哲学を用いても、それだけで一つの哲学体系そのものに縛られることはない。むしろ、われわれは神学の自律性を主張したい。啓示の内容を説明する際に、哲学の特定の体系に従属する必要はないのである。

 

キリスト教神学は一つの明確な世界観をもっている*10。聖書は、実在については有神論的であり、特に唯一神を明確に主張している。至高の実在は、人格をもち、全能、全知で、愛に満ちた聖なる存在(神)である。神は、ご自身の存在からの流出によってではなく、先在した材料を使用せずに生じさせることによって、ご自分以外の現存するすべてのものを創造された。

 

したがって、キリスト教形而上学は、超自然と自然という、実在の二つの類型や段階がある一つの二元論、神以外のすべてのものは神によって存在させられたという条件つき二元論となる。神は現存するすべての被造物を保持される。そして神の目的の成就に向けて歴史が動いていくなかで、すべての出来事を支配しておられる。

 

万物は神に依存している。神の造られた最高傑作である人間は、神のように人格をもち、それゆえに他の人間や神と社会的な関係をもつことができる。自然は、単なる中立的なものではない。神のご支配のもとにある。そして、自然は通常、神の設けられた法則に従って統一を保ちつつ、予測可能な形で動く。けれども、神はそれらの通常のパターンと矛盾するような形(奇蹟)で自然の中で行動できるし、また行動なさる。

 

このことを出発点として、キリスト教の神学者は、神が下さった思考力を用いて、啓示された真理の体系の意味合いをつかむべきである。言い換えると、神の啓示によって創造された立場や観点に立って思想的に考察するのである。この点で、筆者の立場は、聖書的世界観がすべての知的活動の出発点であり枠組みであると主張するカール・F・H・ヘンリーの立場に近い*11。また、キリスト教神学は、一つの眺望に立つもの(perspectival)であるとする点では、エドワード・ラムズデル*12やアーサー・ホームズ*13と意見を同じくしている。

 

聖書の概念を実在についての自己の見解の要綱(tenets of one's view of reality)ととらえると、受け入れられる哲学的世界観の範囲はかなり限定される。たとえば、自然主義的世界観であれば、観察可能な自然体系に実現が制限され、また、この体系内において生起する出来事はその不変の法則と一致するものに制限されてしまう。唯物論は、聖書の啓示と明白に相対立している。同様に、ほとんどの観念論も、物質世界と神の超越性から成る実在を否定する傾向にある。

 

エドガー・シェフィールド・ブライトマンは、観念論の四つの主要な類型について次のように語っている。

 

.プラトン的。価値は客観的なものである。その起源と意味とは人間を超えたものである。

.バークリー的。実在は精神的なものである。物質的なもの(material objects)は独立した存在ではなく、精神の観念としてのみ存在する。

.ヘーゲル的。実在は有機的である。つまり、全体は、部分にはない特性をもっている。究極的実在は理性の顕現以外の何ものでもない。

.ロッツェ的(あるいはライプニッツ的)。実在は人格的なものである。ただ人間または自己のみが現実である。*14

 

観念論の第一の類型は、キリスト教神学に吸収できるように思われる。第四の類型は、ある制限つきでキリスト教神学に取り入れることができる。しかし第二と第三は、上の概略に示されているようにキリスト教有神論の教義とは相容れないようである。おそらく最も適合する形而上学の類型は、ある種の実在論であろう。その実在論が自らを自然に限定することなく、超自然的次元を含むという条件つきで。

 

ここで提示されている世界観は(一つの)客観主義である。これが意味しているのは、真実、善、正義に関する客観的な尺度が存在することである。聖書に啓示されている世界観の中心である神は、感情を表し行動するお方である。それだけでなく、完全かつ完結的であり、ある意味で不変の存在でもある。そして、永遠不変の規範や価値も存在する。愛、真理、誠実が永久に善であるのは、神の不変の性質に一致するゆえである。したがって、プロセス哲学は妥当な選択肢とは思われない。

 

ここで提示されている世界観はまた、真理を統一あるものと見ている。科学的な事柄に関してある種の真理(客観的)があり、宗教の事柄には別の真理(主体的、主観的)があるというよりも、真理はあらゆる領域に共通するものをもっているのである。真理は、物事のあり方に一致する言明あるいは命題の特性である。

 

プラグマティストであるウィリアム・ジェイムズでさえ、真理についての同様の定義を行なっている。「どんな辞書を見てもおわかりになる通り、真理とはわれわれの或る観念の性質である。虚偽が観念と実在との不一致を意味するように、真理は観念と〈実在〉との〈一致〉を意味している。プラグマティストと主知主義者とはどちらもこの定義を自明のこととして承認する」と。*15

 

神を実在世界は、誰かがそれを認識、理解、評価、承認することとは無関係なものである。認識主体の反応は重要であるが、真理はその反応に依存しない。したがって、実存主義のある面も含めて、いかなるタイプの主観的観念論も排除される。

 

論理はすべての真理に適用できる。ある領域は神秘をまとっているため、そこにある関係をすべて理解することはわれわれの能力を超えているかもしれない。けれども、本有的に矛盾しているというような領域はない。一貫した思想、あるいは少なくともコミュニケーションはこの前提に依存している。真理とは命題の特性であって、われわれがそれにどう反応するか、それをどう用いるかの結果として生じてくるものではない。したがって、徹底した機能主義も支持できないと考えなければならない。

 

基本的指針2

 

第二の基本的ガイドラインは、哲学を真理の体系というよりも、第一義的に「思索する」という活動と考えるべきであるということである。

 

哲学はある観点から、そしてあるデータをもとに自己の役目を果たすことができるのである。だから、神学が用いることのできる道具なのである。分析哲学として知られる哲学は、神学における用語、概念、議論を明確にし精錬することを目標とする。この学問を本書の以下の部分で活用し、第6章で特別な注意を払うつもりである。

 

さらに、現象学は、経験を特出してそれを明確にし、経験の真の性質を判断する方法を提供してくれる。現象学を適用した例は、本書第1章の最初の部分で行なった。宗教の本質の研究に見られる。これら二つの哲学はどちらも、記述的かつ分析的という範囲内で神学の貢献できる。だが、規範的な面は、それらの前提を鑑みて細心の注意を払って評価する必要があるだろう。

 

われわれが哲学を用いると、まず第一に、批評的能力を発展させ、それを生かすようになる。批判的能力は、すべての活動領域、特に知的な探求において貴重であり、神学をする上でも非常に役に立つ。

 

.哲学は、われわれの概念についての理解を鋭敏にする。どんな正確な意味論を採用するにしても、われわれが信じていること、語っていることが意味するものを判定しようとすることはきわめて重要である。概念の真理を立証する際には、それらの概念が何を意味するかを正確に知ることが求められる。さらに、コミュニケーションには、われわれが勧めているものが何であるかを相手に示す能力を有することが必要である。自分がよく理解していないものを他者に理解させることは決してできない。

 

.哲学は、ある概念や思想体系の背後にある前提を探し出すのに役立つ。たとえば、相容れない前提に依存する複数の思想を結び付けようとする場合、それらの思想が最初いかに興味をそそるものに見えたとしても、必然的に内部矛盾を起こしてしまう。哲学は、それらの前提を探し出し、評価することで状況を解決することができるのである。

 

また、中立的な分析や評価というようなものはほとんどないことを知っておく必要がある。批判はどこからか出てくるものである。そして、どれほど真剣に評価したらよいかを決めるときには、そのような評価をする視点が有効であるかどうかを考慮しなければならない。そうして主張は、三段論法の結論と考えたらよいだろう。三段論法の二つの前提がどういうものなのかを十分に問うのである。われわれは時として、省略三段論法を扱っていることに気づくことがあるだろう。疑わしい仮説が明確にならず、ひそかに入り込んでいるのである。

 

自らの前提に敏感になることは、より客観的になるのに役立つ。前提はわれわれが実在を認識する方法に影響を与えるけれども、時に、その影響力を見抜くことができないかもしれない。しかしながら、前提が現にあり、おそらく機能しているだろうことを知ることで、前提から受けそうな影響に対処できるのである。

 

これは、魚をヤスで突こうとしている漁師が直面する問題に似ている。魚を見る漁師の自然な反応といえば、自分の目が教える魚の居場所をめざして、ヤスを突き刺すことである。ところが彼の知性は、一つの媒介(水)からもう一つの媒介(空気)へと通過するときの光の屈折作用のために、魚がいるように見える所にはいないと告げる。漁師は、いるように見えないところを意識的に突かなければならない。同様に、動いている獲物をねらうハンターは、獲物の移動を見越さなければならない。弾丸が到達するときに標的がいる地点をねらって撃たねばならないのである。

 

前提を知るとは、事物に対する知覚を意識的に調節することである。このことはわれわれの一般的なアプローチと特定のポイントを分析するときの両方に言える。たとえば、バプテスト派の信者である私は、教派的背景から、教会論のような分野では、バプテストの立場を強調するであろう。その結果、私は自分の根拠に合致する結論へ導くために、過度とも思われる証拠を要求する。

 

.哲学は思想の含意をたどるのに役立つ。思想自体の真理を評価することはしばしば不可能である。だが、どんな意味合いがそこからもたらされるかを見ることは可能だろう。それらの意味合いはしばしばデータに反する結果となるだろう。もしその意味合いが偽りであるとわかれば、そこから論理的に生じる主張(あるいは諸主張)も、同様に偽りとなる。たとい論証の主張が確かなものであったとしても、である。意味合いを決定する一つの方法は、実際の歴史的出来事において、同様の一つの概念が主張されたとき、その結果がどうであったかを検討することである。

 

.哲学はまた、真理を自称するものを検証する必要性に気づかせてくれる。自分で主張するだけでは、受け入れるのに十分ではない。検討しなければならないのである。これには、その問題の真偽にかかわる証拠はどのようなものか、いつ適切なタイプの証拠や十分な量の証拠が出されるのかを問うことも含まれている。また、それぞれの主張の論理的構造を評価し、主張された結論が本当に、提出された裏付けから導き出せるのかを確認する必要がある。*16

 

神学というタイプの営為において、完全あるいは正確な証拠を期待すべきではないだろう。蓋然性(probability)が、期待できる最善のものである。しかし、概念のもっともらしさを示すことで満足してはならない。これを選ぶことが最も好ましいということを論証する必要がある。同様に、批判するときでも、所与の見解に欠陥を発見するだけでは十分でない。「代わりのものは何か」、「代わりのもののほうが問題は少ないか」とつねに問わなければならない。

 

ジョン・ベイリーは、ある見解を厳しく批判する論文を書いたときのことを述べている。彼の教授は、「すべての理論には困難な点がある。しかし君は、ほかの理論が、君の批判した理論よりも困難が少ないかどうかを考えなかった」と論評したという。*17

 

自分と違う見解を批評するときはいつでも、正当で客観的な基準を用いなければならない。この基準には二つのタイプがあると思われる。見解自体が設定する基準と、そのようなすべての見解が到達しなければならない基準(すなわち普遍的基準)である。実際、われわれの見解とほかの立場との相違を指摘することは、害のある批評ではない。実際おおかたの批評は、AはBと異なっていると非難することから成っている。しかし、Bは正しい見解である、あるいはAはBの実際例だということを立証しなければ、そんな訴えは筋が通らない。

 

前提や体系を評価する基準については、宗教的言語の章でさらに語られることになる。ここでは、一般的に利用される基準は思想の内的整合性と首尾一貫性であり、関連する事実に基づくデータをすべて正確に表現し、説明する能力であると指摘することで十分である。

 

ー終わりー

 

〔比較研究のための参考資料〕神学と哲学の関係に関する東方正教会側の見解(オリヴィエ・クルマン)

 

オリヴィエ・クルマン著『東方正教会』、第二章 神学の基礎, p.52-58.

 

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オリヴィエ・クルマン(Olivier-Maurice Clément , 1921-2009)1921年、フランス南部の不可知論者の家庭に生まれ、長い間、無神論者として過ごす。30歳の時にイエス・キリストに信仰を持つ。亡命ロシア人の神学者V・ロスキーの下に学び、パリ聖セルギイ正教神学院で教鞭を取った。

 

体験されるものとしての神学

 

知性の堕落と再生

 

ギリシャの教父たちにとって、さらにそれ以上にビザンツの霊的な求道者にとって、キリスト教の教えは、当然のことながら神の示す啓示と人間との関係をあらわしたものである。ところが、まずなによりも、われわれの知性が堕落してしまっている。知性は、もはや神の生命をとらえることができない。

 

〈清らかな、霊的な状態・・・すなわち、歪曲や空想をまじえず、神のもつ生命そのものに思いをひそめるような状態をはなれ・・・知性は、訳も分からぬこの世のことに没頭し、偽りの多い、常に不安定で相対的な生存のなかに埋没してしまった。知性はみずからの幻影にとらわれ、矛盾とあやまちにみちた論証(ロギスモイ)一辺倒におちいってしまった〉(聖ニコデーモス・ハギオリト)。

 

このため東方教会の神学者たちは、〈暗くなった〉(ローマ1:21)哲学者の知恵について述べたパウロのことばを取り上げ、その教えを説いてきたのである。東方教会の神学は、プラトンなどの古代哲学に依拠していたという伝説が根強くあるが、これは事実からかけ離れたことである。

 

ナジアンゾスのグレゴリオスは、キリスト教思想は、「アリストテレスではなく、使徒たちを範として」生まれてきたと力説したし、ビザンツの神学者たちも、プラトン哲学や新プラトン主義が周期的に復興してくると、そのつどこれに抵抗した。パラマスは「彼らの見解は、真に神的なものを遠ざけている」と述べており、実際、聖パウロがいかに唯心論を否定したかを明らかにしたのは、他ならぬこのパラマスであった。

 

もともと唯心論では、霊的なもの(神の御霊という意味での霊性)と知性で理解できるものとが混同されており、神の生命のもつ絶対的な超越性は考えられていない。また、人間の「身体」が、神の受肉からどういう意義を持つにいたったのかも考えられていない。

 

したがって、「自然のままの」理性では、神の生命をとらえることはできない。それは堕落した理性にすぎないからである。知性にしても、「キリストのみたま」(ピリピ1:19)にあずかり、新しくうまれかわるには、洗礼の水の中で、いちど、われとわが身をほろぼさなければならない。なぜなら、「神の知恵はイエス・キリストなのだから」(アンティオケのイグナティオス、エペソス人への書17:2)〔1コリント1:24〕。「洗礼において、はじめて人は、永遠に定められた神の真理に接することができる」(聖エイレナイオス,130頃-200頃)のである。

 

つまり、洗礼において、われわれは神と存在論的にむすびつくことができ、このむすびつきは、洗礼の直後におこなわれる傅膏(ふこう)の秘跡ーー聖油をとおして聖霊の恩寵にあずかる秘跡ーーによって、またその際の実存的な認識によって「実現される」。したがって、神学的な思惟とは博学な知識とか、理論のための理論といったものではない。それは、神を知的にたたえることであり、知的で透徹した敬神という、一つのχάρισμα(charisma, 賜物)にほかならない。

 

《神学》ということばの意味

 

神学(テオロギア)ということばは、そのもっとも古い意味では聖書のことを指している。アレオパギテスが「神秘神学」という場合、それは「聖書のもつ、隠された高い頂き」と意味していた。アレオパギテス*18はその頂きをめざし、われわれの精神を高めようとしたのである。

 

ニュッサのグレゴリオスにとっても、神はあたかもベールにつつまれているかのように、聖書のことばの背後に隠されている。それから15世紀ほどたって、モスクワの府主教フィラレートも次のように述べている。「聖書のことばの一つ一つには光輝く意味が隠されており、神の『知恵』がふくまれている」と。

 

ところで「表信者」マクシモスによれば、聖書は神の「ことば」が形になったものである。したがって、神の「ことば」を完全に受肉しているイエス・キリストにおいて、はじめて聖書のもつ深い意味がはっきりしてくる。つまり、聖書の深い意味は、キリストによって「要約され」、完全なものとなる。したがって、キリストの「からだ」である教会において、すなわち秘跡ーーとくにミサーーにおいて、キリスト教徒ははじめて聖書のもつ深い意味、聖書の《神学》を把握することができる。換言すれば、聖書の《神学》は、教会の「聖伝」ーー神の「真理」をうけつぐ「聖伝」*19--において理解されるといえよう。

 

神の神秘は、聖霊のみちびきによる「聖伝」をとおして、教会において示される。したがって、正教会でいう神の「霊的な知識」とは、パウロの場合となんら変わらない。グノーシス派の影響を受けて、福音を不純なものにしたことは一度もない。

 

キリストを知るとは、キリストと人格的に交わることであり、またキリストの存在にあずかることである。このように、キリストにおいて、はじめてわれわれは聖書や、この宇宙のもつ深い意味を知ることができる。なぜなら、聖書の宇宙も神の受肉した存在のあらわれなのだから。

 

「表信者」マクシモスは次のように述べている。「聖書のもつ謎や象徴の意味は、神の『ことば』が受肉したという神秘のうちにすべて含まれている。そればかりでない。知覚しうるかぎりの、いっさいの創造物に隠されている意味も、この受肉という神秘のうちに含まれている。キリストの「処刑」や「死」という神秘を理解してこそ、はじめて、いっさいの事象の本質を理解することができる。さらに、キリストの「復活」の神秘を深く洞察し、きわめたものは、太初に神が万物を創造した、その目的をも知るようになる。」*20

 

正教会の「霊的な認識」には、聖ヨハネの「知る」ということばが、きわめて深く捉えられている。すなわち聖ヨハネにとって、「知る」とは聖霊のみちびきにより、三位一体の神の完全無欠な愛にあずかることであった。

 

こうして、われわれは教父たちが使った神学ということばの別の意味にたどり着く。つまり、それは三位一体の近づきがたい超越性であり、同時に、光あまねく神の栄光をとおしてこの三位一体を瞑想することである。聖書とミサのむすびつきを深め、神の生命にあずかることによって、神学ということばのすべての意味が充実してくる。

 

存在論の内的変化

 

人間の知性は堕落したものであり、いずれは滅びるということを認めたとき、はじめてわれわれの知性に聖霊の光が射してくる。知性が、自分勝手な方法で、神の「啓示」について考えることをやめたとき、知性は、はじめて新しい創造的な方法で、「啓示」によって考えるようになるだろう。そのとき、人間の思考はゆたかさをとりもどし、聖霊のみちびきによってもういちどつくりなおされるだろう。

 

堕落の結果、人間と神との類似がすっかり失われたわけではないが、不明瞭になったため、「神を求める心、どうしても神と交わりたいという欲求」(モスクワのフィラレート)が哲学をつくりかえ、哲学を深い存在論的な問いにする。ギリシア教父、とりわけカッパドキア派の教父やディオニシオスたちは、ゆたかなヘレニズムの思想を「啓示」に照らされたものにつくりかえていった。

 

ニカイア全地公会以後、ギリシアの存在論上の諸概念が正教の神学思想にとりいれられた。しかし、存在論はキリスト教の啓示の中心になる神秘、すなわち位格の神秘を解き明かす上で、いわば「寓意的に」(J・ダニエル)用いられたのである。

 

たとえば多様性と同一性とは、理性にとっては、あくまでも二つの異なった存在様式である。しかし、三にして一という神の「多様性=同一性」(V・ロスキー)は、たとえ理性には矛盾していても、信仰にとっては同じことで、いずれも真なのである。さらに、これだけでない。キリストはまことの神であり、同時にまことの人間でもある。神は一にして三ーー本質にして、しかもエネルゲイアなのである。

 

こうした矛盾を認めることは、知性にとっては十字架にかけられることである。しかし、この十字架をとおして、はじめて知性は「位格」の啓示に接し、存在論も神の啓示において成立するようになる。とりわけ、ビザンツの神学者は教父の伝統をさらに深め、位格相互の結び付きにかんして、比類ない神学をつくりあげた。

 

ビザンツの神学によれば、神の本質は、客観的にとらえることのできない神秘的な「他者」であり、神のエネルゲイアは、位格そのものからさしだされた贈物である。このようにパラマスの神学では、神の存在はさまざまな形でダイナミックに把握され、ギリシアの存在論も内的な変化をとげることになった。

 

教理ーー感動、体験、神の賛美ーー

 

この表題から、正教会にとって教理がなにを意味するかが理解できよう。教理は、信仰の定義としては不完全なものであり、感動、体験、賛美〔詠頌〕(典礼による神の賛美)という三つの観点から把握されるべきものである。もともと、定義はある実際的な必要にせまられて、すでに経験的に自明のことがまちがった方向にすすまないようにという目的でなされる。したがって、定義にはどうしても危険がともなう。教理を定めることは、主との完全な体合・帰一や正しい神の賛美を「限定すること」(ホロス)であり、知的な規定である。そのため、どうしても自己矛盾をはらみ、ネガティブな表現になりがちである。

 

「概念的に神をとらえることは、神の偶像をいくつもつくることであり、これに対して感動こそがなに物かに肉薄していく」(ニュッサの聖グレゴリオス)*21むしろこの場合、なに者かにというべきかも知れないが、、、。二律背反的な、あるいはネガティブな教理で神をとらえることはできない。むしろ教理をとおして神がわれわれを捉え、光でみたすというべきであろう。

 

東方キリスト教の教理神学にきわめて特徴的なことは、神学がネガティブな(アポファティケー)道をたどることである。しかし、これは単に方法といったものではなく、むしろ知性が恩寵により、神にとらえられることを期待、表明したものである。この神の恩寵に満たされたパラマスは次のように述べている。

 

「否定を通して認識を深めてゆくことが、神とは異質の存在であるわれわれにできる唯一の認識方法である、、。しかし、恩寵の光に浴したものは、この全体的な否定を心に思いうかべながら、恩寵の光をたたえる。この神秘的な光明のなかに身をおくものは、この光がすべてを絶対的に超越していることを理解するであろう。」*22

 

すなわち教理とは、決定的な体験の原理、聖霊の光にあふれた明証性の原理をいいあらわしたものである。したがって、神秘と神学との間には、いかなる対立もない。「真に祈る者が神学者なのである。」このように、神学的な認識は、聖化と切り離せず、認識する主体が存在論的な変化をとげることである。認識することは存在すること、いや、むしろなにかとともにあること、なにものかとの出会い、神の存在の光の中で、みずから生まれ変わることなのである。「神について語ることも重要だが、神に対してみずからを清めることの方が、さらに重要である。」(ナジアンゾスの聖グレゴリオス) *23

 

「精神のうまれかわり」も「悔い改め」も、回心(メタノイア)という一語で表現される。とえば、パラマスは好んで次のように語っていた。「すべて、ことばは相互に否定しあう」と。むしろ重要なことは、「神をじかに感じること」で、それは信仰や戒律の遵守、「清らかな祈り」などとかたくむすびついている。「神をじかに感じること」によって、はじめて人間は、絶対確実なところに身をおくことができるのであり、教理はただそれを教唆し、われわれをそこに近づけようとするにすぎない。

 

正教会の教理には、神を賛美する性格ーーミサ本来の性格ーーが認められるが、これも、教理がいままで述べてきたように、実際的・実践的な面をもっているからである。E・シュリング(1903-。ドイツのルター派神学者)も強調しているように、教理を典礼から切り離すことはできない。教理は賛美の形をとることもあれば、イコンで表現されることもある。

 

こうして、教理は、各人がそれぞれ典礼を内面的に体験し、神と一体化するとき、人々を沈黙にみちびいてゆく(使徒パウロが聞いた「口に出すことのできないことば」2コリント12:4)。「信経は、それを体験しないかぎり、あなたのものにならないであろう。」(モスクワのフィラレート)。

 

ー終わりー

*1:Tertullian, De praescriptione haereticorum 7(テルトゥリアヌス『異端者法廷準備書面評定』)。

*2:Stuart McClintock, "Averrosim," in Encynlopedia of Philosophy, ed. Paul Edwards (New York: Macmillan, 1967), vol.1, p.225.

*3:Martin Luther, The Table-Talk, trans. William Hazlitt(Philadelphia: United Lutheran Publishing House, n.d.), p.27(M・ルター『卓上語録』)。

*4:Plato, Republic 6(プラトン『国家』第2巻、藤沢令夫訳、岩波書店、1979)。

*5:プラトンの認識論における形相あるいはイデアを、一般概念ではなく、個々の事物の形式と理解する解釈は、A.E.Taylor, "On the First Part of Plato's Parmenides," Mind, n.s., vol.12 (1903):7を参照。

*6:Augustine, The City of God 12.25. アウグスティヌス『神の国』全5巻、服部英次郎訳、岩波書店、1982-91);On Christian Doctrine 2.32.

*7:Thomas Aquinas, Summa contra Gentiles (トマス・アクィナス『異教徒論駁大全』)。

*8:John Toland, Christianity Not Mysterious: Or A Treatise Showing That There Is Nothing in the Gospel Contrary to Reason, Nor Above It. Reprinted in Deism: An Anthology, ed. Peter Gay (New York: Van Nostrand-Reinhold, 1968), pp.52-77(J・トーランド『神秘的でないキリスト教』海保信夫訳、玉川大学出版部、1969)。

*9:Georg Hegel, The Science of Logic, trans. A.V. Miller (New York: Humanities, 1910) (G・ヘーゲル『大論理学』ヘーゲル全集6a-8、武市健人訳、岩波書店、1956-61);"Revealed Religion," in Phenomenology of Mind (New York: Macmillan, 1961), pp.750-85(『精神の現象学』ヘーゲル全集4-5、金子武蔵訳、岩波書店、1971-79)。一般的な意見に反して、ヘーゲルが自らの見解を述べる際、「定立」「反定立」「綜合」という語を同時に使っている箇所はない。ヘーゲルがこの三語を組み合わせて使っている唯一の例は、イマヌエル・カントの思想について述べる箇所だけである。この三語を組み合わせて使っている例は、ヨハン・フィヒテ、フリードリヒ・シェリング、カール・マルクスに見られる。Walter Kaufmann, Hegel: A Reinterpretation (Garden City, N.Y: Doubleday, 1965), p.168; Gustav Emil Muller, "The Hegel Legend of Thesis, Antithesis, Synthesis," Journal of the History of Ideas 19 (1958):411-14.

*10:James Orr, The Christian View of God and the World (Grand Rapids: Eerdmans, 1954), p.4.

*11:Carl F. H. Henry, God, Revelation, and Authority: The God Who Speaks and Shows (Waco, Tx.: Word, 1976), vol.1, pp.198-201.

*12:Edward Ramsdell, The Christian Perspective (New York: Abingdon-Cokesbury, 1950).

*13:Arthur Holmes, Faith Seeks Understanding (Grand Rapids: Eerdmans, 1971), pp.46-47.

*14:Edgar Sheffield Brightman, "The Definition of Idealism," Journal of Philosophy 30 (1933): 429-35.

*15:James, Pragmatism, p.132 (ジェイムズ『プラグマティズム』)。

*16:宗教的知識はどのように得られるかという問題については、ある程度、本書6章で扱っている。福音的キリスト教の視点による、この問題の取扱いは、Jerry H. Gill, The Possibility of Religious Knowledge (Grand Rapids: Eerdmans, 1971); Holmes, Faith, pp.134-62を参照。

*17:John Baillie, Invitation to Pilgrimage (New York: Scribner, 1942), p.15.

*18:ディオニシオス。1世紀ごろ。ただし6世紀より、彼の作といわれる神秘主義的著作があるが、いずれも偽作。

*19:聖霊が働きかけるしるしとして、伝統的に存続してきている信徒の信仰規範。具体的には、正教会では、①新旧約聖書、②ニカイアからコンスタンティノープルに至る全地公会で決定された教理、③地方教会で決定された教理、④ニカイア、コンスタンティノープルにおける12条からなる信経、⑤公祈祷などの諸祈祷、⑥諸教父の著作や規則書、⑦教会法、⑧イコンや聖歌などを含む。

*20:Patrologie grecque, 90-1108AB, de Migne.ミーニュ編『ギリシア教父全集』

*21:P.G., 44-377 D.

*22:Triades, p.150.

*23:P.G., 36-188.