巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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過度の単純化/還元主義/誤前提から生み出される解釈的弊害を避けるために①ーー「ヘブライ的思考」「ギリシャ的思考」に関する考察(ミラード・エリクソン『キリスト教神学』)

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「ヘブライ的思考 vs ギリシャ的思考」ーー代表的な「ヘブル的ルーツ運動」の団体119Ministriesの教えより

 

Millard J. Erickson, Christian Theology, Part 5. Humanity, sec. 23. The Constitutional Nature of the Humanより(抄訳)

 

非常に重要かつ影響力のある著書『聖書言語の意味論』の中でジェームズ・バーは、説得力を持ち、ジョン・A・T・ロビンソンの論文を批判しています。

 

ロビンソンの見解によると、「ギリシャ人は問いかけをし、その結果、"body"と"flesh"を区別しなければならない必要に迫られた。それとは対照的にヘブル人はそのような区別を全くしていなかった」とされています。

 

「(ロビンソンの言明は)言語的意味論を完全に無視しないことには言述することのできない種類の見解である。」とバーは批判しています。 *1

 

ロビンソンの見解は、「概念における相違は複数の単語を要求する」という前提に依拠しています*2。しかし、言語学の検証により、そのような前提が真ではないことが論証されています。

 

ある言語には、人("man")を表す言葉が二つあります。(例:ラテン語のvirとhomo、ドイツ語のMannとMensch、ギリシャ語のἀνήρ [anēr]と ἄνθρωπος [anthrōpos])。他方、それが一語だけの言語もあります。(例:フランス語のhomme、英語のman)。同様に、フランス語、ドイツ語、ギリシャ語には、「知る」を表す語が一語以上あるのに対し、英語とヘブライ語にはそれが一つしかありません。しかしそれにも拘らずそれぞれの事例において、文化の中に概念的区別は存在しています。そして、そういった各諸概念を表す別個の言葉が欠如している場合でさえも、それは然りなのです*3

 

それゆえに、ヘブライ語が"body"と"flesh"の間に区別を置いていないからといって、ヘブル人がその区別に無自覚だったということにはなりません。ロビンソンの提示している孤立した例を超え、それが採用される時、彼の取っている手順は、証拠に逆らっているどころか荒唐無稽であるようにさえみえます*4。バーはまた、ロビンソンが歴史的ないしは通時的意味論をないがしろにしている点を批判しています*5

 

ロビンソンは、「〈形相〉と〈質料〉との間の対比ゆえに、σῶμαとσάρξという二語が必要であった。そしてこの対比はギリシャ的思想の根底を成すものである」と主張しています。しかし、--この二語は確かにホメロス期にはしっかり確立していましたがーー、〈形相〉と〈質料〉の区別は、草創期のギリシャ哲学者たちの知るところではなかったとアリストテレスは断言しています*6

 

そうなると、果たして本当にギリシャ人が〈形相〉と〈質料〉という観点でσῶμα とσάρξの事を考えていたのか、信憑性が問われます。前述したように、ロビンソンはこういった見解を裏付けるようなギリシャ思想に関する証拠資料を全く提示していません

 

バーの批判に加え、私たちはロビンソンの立場の抱えているその他の諸問題にも留意する必要があります。その一つは、彼が、いわゆる「ギリシャ的見方」というのを一枚岩でできたメンタリティーであるかのように思っているふしがあるということです。しかし初期ギリシャ哲学を学んだことがある人なら誰もが知っているように、ギリシャ的見方というのは実に多様性に富んでいます。そしてここにおいてもまた、ロビンソンは証拠資料欠如ゆえに、自らの見解を弱体化させてしまっています。

 

さらに、聖書神学運動(biblical-theology movement)の中によく見られるように、ロビンソンは、「ギリシャ的思考」と「ヘブライ的思考」との間に鋭利な区分があるという前提をしています。この前提はかつて、H・ウィーラー・ロビンソン(H. Wheeler Robinson)、ヨハネス・ペダーセン(Johannes Pedersen)、トールレイフ・ボーマン(Thorleif Boman)等によって唱道されていましたが、ブレバード・チャイルズが指摘しているように、それはすでに却下されています。

 

「バーの批判を受けても尚、見解を変えなかった聖書神学運動の神学者たちの間であってさえも、『ヘブライ的メンタリティー』対『ギリシャ的メンタリティー』というこの運動の強調点は、今後、大規模な修正を経ることなしに決して存続し得ないという点で皆同意しています。」*7

 

ですから、「ギリシャ的思考」と「ヘブライ的思考」の間の相違は、ロビンソンが主張しているようなラディカルな程度よりはずっと抑えられたものであるということが認識されています。また、「ギリシャ的思考」と「ヘブライ的思考」という二つのメンタリティーの相対的価値に関する評価にも疑問が差し挟まれなければならないでしょう。ロビンソンは、「ヘブライ的思考の方が自動的に、より聖書的である」と前提しています。

 

チャイルズは、聖書神学運動の持つこういった推測を次のように要約しています。「--彼らの中で悪いものだと考えられているところのーーギリシャ的思考とは対照的に、ヘブライ的思考は、なにか本質的に良いものである。*8

 

しかしながら、このような仮定が立証されたことはありません。ここから明示されるのは、そういった聖書神学運動が、より本体論的そして客観的思考に対し抱いている不快感です。そして彼らのそういった不快感の表現から見て取れるのは、この運動が、ーープラグマティズム、実存主義、分析哲学、プロセス哲学といったーー現代哲学諸派の中の一つもしくはそれ以上の数の諸哲学からおそらく影響を受けているだろうということです。

 

またこの運動が、漸進的啓示に関するいかなる可能性をも排除していることも見て取ることができます。漸進的啓示には、内容だけでなく言語形態および概念形態も含まれています。それ本来の姿である以上に「列聖化"canonizing"」することを主張することにより、そういった「ヘブル的メンタリティー」は、(ヘンリー・キャドベリーの言う)いわゆる「われわれ自身を擬古調に見せかける危険」を冒しているといえます。*9

 

それでは今ここで、ロビンソンの見解をまとめてみましょう。

 

.ヘブル人は人間本性に関し単一的見方をしていた。彼らには、"flesh"と"body"を区別する言葉がなかった。なぜなら、彼らは「全体としての人"the whole person"」と、「肉体的側面 "physical aspect"」の間に区別を置いていなかったからである。

.パウロは、ヘブル的概念ないしは枠組みを採用していた。

.パウロはーーσάρξ, σῶμα, ψυξή, πνεῦμαーーという異なる単語を用いてはいたが、彼の脳裏にはそれぞれ異なる実体は存在していなかった。それらの単語は皆、「全体としての人」を表す同義語である。

.それゆえ、旧約聖書も新約聖書も、人間本性に関する二元論的見方を教示していない。「体ー魂」という二元論は非聖書的である。

 

上記のようなロビンソンの主張は立証されていないだけでなく、専門的言語学者たちの研究によっても、「単語の多重性/多様性の不在は、複雑性と十分に調和している」という事が極めて明確なものとなっています。

 

ロバート・ロンギャクレは、次のような例を挙げています。メキシコ・スペイン語はllaveという一語だけで、英語における"key(鍵)"、"wrench(捻挫)"、"faucet(蛇口)"という三語を指し示すべく用いられています。ということは、メキシコ人は、私たち英語話者が認識している鍵/捻挫/蛇口の区別をすることができていないのでしょうか?ロンギャクレはそうは考えていません。なぜなら、その単語はさまざまな文脈の中に登場しており、メキシコ人も、ーー英語話者と同じようにーー、その単一語によって表示されている異なる対象物を明確に区別することができているからです。*10

 

関連記事:

*1:James Barr, Semantics of Biblical Language (New York: Oxford University Press, 1961), 36.

*2:同上。

*3:同上。

*4:同上。

*5:同上。

*6:同著p.37.

*7:Brevard Childs, Biblical Theology in Crisis (Philadelphia: Westminster, 1970), 72.

*8:同上。

*9:Henry J. Cadbury, “The Peril of Archaizing Ourselves,” Interpretation 3 (1949): 331–37.

*10:Robert E. Longacre, review of four articles on metalinguistics by Benjamin Lee Whorf, Language 32, no. 2 (1956): 302.