巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ある中東圏改宗者の苦悩の告白「私がキリスト教会を去ることにした理由」ーーCCMロック礼拝が中東宣教にもたらしている破壊的影響について

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出典

 

少し前に実際に起こった出来事です。ある場所で中東ミッションを行なっている保守的な福音主義宣教団体で主任ディレクターの入れ替えがありました。

 

そしてこのディレクターの就任と共に、主日礼拝の中にCCMロックが初めて導入されました。そしてその後、2カ月以内に、スンニ派イスラム教を背景とする中東圏の求道者および初信者のほとんどが教会を去るという事態が発生しました。

 

泣くに泣けないこの事態に直面し、現地宣教師たちの間で深刻なるCCM論議が起りました。以下に邦訳する文書は、某湾岸諸国出身の初信者某兄の告白文であり、北米の宣教本部に送付されたものです。

 

 

「私が○○教会にとどまることができなかった理由」

 

私は救われてから7カ月の間、○○教会に通っていました。しかし数か月前、良心的理由により、私はもはやこの教会に通い続けることができなくなりました。理由はいくつかありますが、今、その一つを告白します。

 

私は○○教会の日曜礼拝を愛していました。なぜならそこに聖霊による厳かさ、静けさ、そして聖さを感じていたからです。しかし数か月前、教会の人々は日曜礼拝に新しいシステムを導入し始め、それ以後、すべてが変わってしまいました。

 

礼拝の途中、彼らは神のきよい聖所のただ中で、騒音を出し始めました〔注:「騒音」=CCMオープン賛美スタイルのこと〕。私の心は引き裂かれました。彼らは聖所を、人が楽しみ騒ぐ「ディスコ・クラブ」のような場所に変貌させたように私には感じられました。

 

このような事を書くのは非常に気が引けるのですが、正直に申し上げますと、多くの西洋人クリスチャンの心の中には、神に対する畏れや崇敬の念がないように思われます。そしてなぜこの数か月、これほど多くのアラビア語圏求道者たちが教会を離れていったのか私は理由を知っています。実に、彼らの多くは、クリスチャンと言われる人々が、「礼拝」と「世的楽しみ」を混合しているそのやり方を見て、それに躓いてしまったのです。

 

私たち中東の信仰者にとって、神を礼拝するという行為は面白おかしい余興ではありません。私たちにとり、それは非常に真剣にして厳かな行為です。ですから今、○○教会は単に面白おかしさや楽しみを求めている中東人たちを教会に引き寄せ、その代りに、真剣な求道者たちをキリスト教会から締め出していっていると思います。

 

少し前にイエス様を信じた私の友人は、もう金輪際キリスト教会には足を運びたくないと言っています。「なぜなら、どこに行っても、クリスチャンたちの集まる場所はエンターテイメントばかりで、私はキリスト教会といわれる場所のどこにも神を崇敬するスピリットを見い出すことができないからです。」

 

ある日曜礼拝の時、某宣教団体の若い女性たちが会堂の後ろの方にいて、ワーシップ音楽が始まると、その場でダンスし始めました。周りにいた求道者たちは、ダンスする女の子たちのくねくねした体の動きを驚きの目で見つめていました。この官能的な光景にショックを受けた私は、携帯でこの光景をビデオ撮影し、神の聖所で今、どんな事が実際に起こっているのかを世界の人々に知らせなければならないと思いました。が、やめました。

 

こういった問題を解決しようともがくよりは、静かにここから身を引くことの方が賢明ではないかと思ったのです。それに私はイエス様を信じたばかりの一介の初信者にすぎません。一旦教会のポリシーがこうなったのなら、私のような者にいったい何ができるというのでしょう?静かに去る方がいいのではないでしょうか。

 

また別の時に、ある信者が(礼拝でダンスしている時)、気づかず、床に置いていた聖書を足で踏みつけました。もちろん、西洋のクリスチャンの多くにとって、こういった事は別段、気に留めるような事ではないということを私も知っています。しかし私たちにとっては、神を礼拝しているその行為のさなかに、聖なる経典を足で踏みつけるというのは非常に深刻なことです。

 

以前には、○○教会の人々は、聖霊が彼らの上に働くよう求めているように私には見えていました。しかし今、彼らは、自分たちのやり方に合わせ、聖霊をむしろ「guide」しようとしているように思えます。少なくとも私にはそう思われます。例えば、賛美をリードする人々は、「さあ今、手を挙げましょう!」「座りましょう」「さあ立って!」という風に私たちをguide(<命令)しますが、何といいますか、聖霊にではなく、人間の命令によってコントロールされているように私には感じられてしまうのです。

 

こういった事を現在教会の中で目撃している、中東諸国からの新しい信者たちのことを想うと、彼らが可哀想でなりません。彼らは、おごそかさに欠け神に対する敬意を欠いた西洋人のキリスト教によって躓かされています。

 

以上が私の告白文です。主の恵みがみなさんの上にありますように。

 

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