巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

クリスチャン・エンターテイメント――福音主義教会の問題(by A・W・トーザー)

自ブログ「地の果てまで福音を」より再掲載

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Ⅱテモテ3:4b-5

「神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。」

 

クリスチャン・エンターテイメントは、完膚なきまで教会を汚染し尽くしているため、何百万という人はもはやそれが異端であることにすら気づいていない。

 

何百万という福音主義クリスチャンがこういった「クリスチャン・エンターテイメント」に自らを明け渡している。

 

しかしこれを明るみに出そうとするや、嵐のような怒りの抗議が上がる。もはや神礼拝のできなくなった教会は、娯楽でその場を埋めなくてはならない。神を礼拝するよう教会を導くことのできなくなった人々は、信徒に娯楽を用意しなければならなくなる。

 

キリスト教は今、悲劇的なほど新約聖書の規準を下回っている。世俗化というのはもはや公認されたライフ・スタイルとなり、私たちは礼拝の本質を見失ってしまった。そしてそのような場所からは聖徒は輩出されない。

 

多くの教会において、キリスト教はあまりにも「水で薄められ」害にも益にもならない代物になってしまった。唯一の「売り」が神である集会には、人はもはや集まってこない。神の子どもたちはもはや主に「飽きて」しまったのだろうか。

 

娯楽で養われている教会は、新約聖書の教会ではない。表層的な刺激を求める願望は、罪深い性質の顕れである。

 

今日、人気を博す形式のキリスト教というのが流行しているが、そこにはほとんど力がない。なぜなら、そこには確信がなく、悔い改めもなく、主より来る悲しみもないからだ。

 

クリスチャン・エンターテイメントにより、「福音集会に〈お笑い〉の要素がなければならない」という観念が植え付けられた。これは悲劇である。その結果、人間が崇めたてられるようになり、肉的な方法論が導入され、単に威勢のいい人が御霊に満ちた人だと勘違いされるようになった。

 

またキリスト教は単純化されすぎた形態を取るようになった。「神さまは愛です。イエス様はあなたのために死んでくださいましたよ。それを受け入れてごらんなさい。そして楽しく陽気に生きようじゃありませんか。そしてそれを他の人々にも伝えましょう」と。

 

私はそういう種類のキリスト教とは全く関わりたくない。

 

浅薄で世俗的な指導者たちは、教会の中に娯楽を求める群衆のご機嫌を取るべく、十字架の言を「修正」しようとし、それにより、霊的災害が引き起こされている。

 

今日の「〈金の子牛〉的キリスト教」に対する抗議は、必ずといっていいほど、「でも、私たちは魂を勝ち取っているじゃありませんか」という反論に遭う。

 

魂を勝ち取る、、一体何のために?

 

それはまことの弟子を生み出すためであろうか。自己犠牲的な愛をもった信仰者を生み出すためであろうか。聖なる生活に導くものであろうか。イエスに対する完全なる献身を求めるものであろうか。

 

もちろん、これらの問いに対する答えはNO!である。教会は往々にして、御霊によって触れられることなしに、ただ人間的な才能を行使することによって生き残り、また繁栄を遂げているように見える。

 

今日、何百万ドルというお金が「神の子どもたち」を娯楽によって楽しませようという、清くない産業のためにつぎ込まれている。多くの場所で、クリスチャン・エンターテイメントは恐ろしいスピードで、神に属する真剣な事柄を締め出していっている。しかもそれに対し、警告の声を挙げる者はほとんど誰もいない!

 

私たちには新しい改革が必要とされている。私たちは、無責任にして面白半分のこういった〈異教的キリスト教〉とはっきり袂を分かつべきである。こういう種類のキリスト教は今や、非聖書的なメソッドを用いる非聖書的な人間によって、世界中に拡がっている。

 

「キリスト教を、世の人に受け入れられるものにしよう」という私たちの痛ましい努力は、実を結ぶどころかますます悪化の一途をたどっている。

 

マラキ1:6a

子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。――万軍の主は、あなたがたに仰せられる。――