巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

聖書の神的意味に関する考察(by ヴェルン・ポイスレス、ウェストミンスター神学校)

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私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。詩篇119:18

私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。詩篇130:5

 

目次

 

Vern Sheridan Poythress, Divine Meaning of Scripture in Westminster Theological Journal 48,1986. (序文と第1章を拙訳)

 

はじめに

 

神と、聖書を執筆した人間記者たちは一体どのような関係を持っているのでしょうか?神の意図している意味は、人間記者の意図と全ての点で一致・照合しているのでしょうか?また、霊感されていない書物を扱う時と同じような手順を私たちは聖書解釈の分野においても適用させて良いのでしょうか?

 

たとい私たちが聖書の霊感に関し、正統的、かつ「高い」見方を保持していたとしても、そういった一連の問いに答えることは容易ではありません。もちろん、最初からストレートに聖書の記者が神であることを否定する人々も多くいます。そういった人々は、聖書の各書は、誤り、歪曲、人間の倫理的失墜の影響を免れ得ないその他多くの人間の書物と同様に解釈されなければならないと主張しています。*1

 

他方、もしも私たちが、イエス・キリスト、使徒たち、そして旧約聖書の証言を信じるのなら、聖書の各書は、神の言葉であり、それと同時に、人間記者たちの言葉でもあるということを認めます。

 

聖書各書の作成に関連する正確なる歴史的、心理学的、霊的経緯はもちろん、各書それぞれ異なるでしょう。また多くの場合、そういった経緯に関する確実な情報は限られています。しかし、いずれにしても、文芸作品(特に直筆のもの)は、神が仰せられ、また人間記者が書いたものであるという結論になるでしょう。(参:申5:22-33、使1:16、2ペテロ1:21)。*2

 

それでは、仮に今ここで、聖書の霊感に関し、古典的な立場に立っている人々だけに焦点を絞ることにしたとします。しかしそうであったとしてもやはり、神の意図された意味と人間記者の意味との関係に関しては私たちの間に意見の相違があります。

 

ダレル・ボック(Darrell Bock)は、最近の論文の中で*3、福音主義者たちの間で、少なくとも4つの異なるアプローチがあるということを述べています。

 

ボックが取り扱っているここでの主題は、「新約による旧約解釈」の問題です。新約聖書の、旧約聖句使用は、時として、人間記者が考えていた事以上のことを神が意味していたということを示唆しているのでしょうか?

 

この問いに対し、ウォルター・C・カイザー(Walter C. Kaiser, Jr.)は「否」と言っています。反対に、S・ルイス・ジョンソン、J・I・パッカー、エリオット・ジョンソンは「然り」と言っています。

 

ブルース・K・ウォルケ(Bruce K. Waltke)はさらに第三のアプローチを提示し、「解釈の究極的文脈としての正典」を強調しています。

 

また、E・アール・エリス(E. Earle Ellis)*4、リチャード・ロングネッカー(Richard Longenecker)、ウォルター・ダンネット(Walter Dunnett)等によって代表される第四番目のアプローチは、使徒的解釈と、1世紀のユダヤ教解釈との親近性を強調しています。*5

  

確かに新約聖書の旧約使用は、それ自体の内に、ある種の複雑性を内包しています。本稿ではこの主題に関するすべての領域を網羅することはできませんが、新約ないしは旧約どちらかの特定問題というよりは聖書全体に対する私たちの理解に関わってくる問題ーー二重作者性の問題ーーに焦点を絞っていきたいと思います。

 

第1章 神的意味と人間の意味(Divine meaning and human meaning)

 

聖書解釈における意見の相違は、神的作者性と人間作者性との関係に関する、それぞれ異なる諸見解により生じてきます。ここで要となる問いは次のものです。「この聖句を通し神が私たちに語ってくださっている事と、人間記者が言っている事の関係は一体いかなるものであるのか?」です。まずはシンプルな二通りの見方を考えてみることにしましょう。

 

見方1

 

さて一番目に、「神的記者の意図していた意味は、人間記者の意図していた意味とはほとんど(もしくは全く)関係がない」という立場を採ったと仮定してみましょう。

 

例えば、しばしオリゲネス*6と関連して語られる「寓喩的アプローチ」によると、いつでも「文字通り/字義的」意味が神にふさわしくない(と判断された場合)、それは却下されます。そしてたとい「文字通り/字義的」意味が異論のないものであったとしても、事の核心はしばし、「霊的」もしくは寓喩的意味という別の次元の意味の内に見い出されます。

 

もしも私たちはこういった見解を採るなら、霊的もしくは寓喩的意味は、聖句の中の神的意味の一部であると論じていることになります。しかしその際、人間記者はそのことを自覚していなかったのです。

 

この見解の困難点は明らかです。私たちが神的意味を人間記者から切り離す時、テキストそれ自体がもはや(私たちがそれから引き出すところの)意味に対し、効果的統制をしていないということになってしまいます。

 

神が言っている内容だと私たちが認識する事における決定的要素は、私たちの寓喩的構想や、何が神に「ふさわしい」のかに関する私たちの前概念から派生しているということになります。後になって読み取った(read out)内容を、私たちはそこに読み込む(read in)こともできます。こうして、主の言葉を通した私たちに対する神のロードシップは、実質上、否定されます。

 

見方2

 

上記の見解に内包されている危険性を知る時、私たちは自然に、対極にあるオールターナティブの見解に同情心を持つようになります。その場合ですと、「神が言っていることはすばり、人間記者が言っていることである。それ以上でも、それ以下でもない。」ということになります。*7

 

もちろん、特定の人間記者が特定の箇所で言っていることが何であるのかを判断するのが難しい時もあるでしょう。また人間記者たちが言っていることが完全に明確でない時もあるかもしれません。さらに、ある場合には、彼らはあえて曖昧な表現を選び、明言することなく何かを暗示することを選び取っているかもしれません。

 

しかしそういった困難点は、人間言語に関するあらゆる解釈の過程で私たちが直面するのと同じ困難です。現にそういった困難があるにも拘らず、私たちは十分に互いに意思疎通することができています。聖書の神的作者性は、私たちの手段(procedure)に変更を加えはしません。

 

私はこの見解に同情心を持っています。いくつかの適格性があれば、この見解は、抑制のきかない寓喩化の手順よりはずっと有益なものとなるでしょう。しかしながら、この見解がうまく取り扱えていない、解釈に関するいくつかの微妙なニュアンスや複雑性も実はあるのです。

 

まず第一に、そしておそらく明瞭に、この見解は、いかにして聖書が私たちの状況に語り、そして私たち自身に適用されるのかについて十分に明示していないように思われます。*8

 

聖書の人間記者の幾人かはもしかしたら、意識的に「後代のために」書いていたのかもしれませんが、大半の記者は、主として自分の同時代の人々に向けて書いていたことでしょう。

 

彼らは私たちの事を直接的に念頭において書いてはいませんでしたし、また、私たちの現在の状況やニーズを予見していたわけでもありませんでした。彼らが当時、同時代の人たちに言っていることを私たちも「小耳にはさむ」ことはできますが、やはりそれは誰かが私たちに直接話しかけているのと全く同一というわけにはいきません。

 

もしも彼らが私たちの事を念頭に置いていなかったのだとしたら、いかにして私たちはーー彼らがその言葉によって私たちが為すよう望んでいる内容ーーを知ることができるのでしょうか?

 

E・D・ハーシュによる「ミーニング」と「シグニフィカンス」の区別

 

この困難に対し現在人気がある解決法というのは、E・D・ハーシュ(E. D. Hirsch)によって提唱されている、「ミーニング」(meaning)と、「シグニフィカンス」(significance)の区別にあります。*9

  

ハーシュの見解における「ミーニング」というのは、(暗に、引喩的に、間接的に表現されていることも含め)人間記者が表現・意図していることを指します。またそれは合法的に推断され得ることも含みます。一方の「シグニフィカンス」は、そこで言われていることと、自分たち自身(あるいは他者の)状況との間に、読者としての私たちが引き出す「関係」のことを指します。

 

狭義に言うと、聖書聖句の解釈は、人間記者の意味を決定します。それに対し、適用というのは、その一つの意味が私たちに対して持つシグニフィカンスの吟味、および、それに付随する行為が関与しています。

 

マラキ3:8-12の例

 

さて、それでは、マラキ3:8-12を例に挙げてご一緒に考えてみましょう。この箇所でマラキは、「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたは十分の一と奉納物を盗んでいる。」そして「モーセが命じたように、十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来なさい」と彼の読者たちに向け、教示しています。

 

盗んではいけないという一般原則、それから十分の一の掟を守ることに対する特定の適用、その両方が、ここでは「ミーニング」の一部となります。マラキは直接的に私たちの現代の状況を考慮していたわけではありません。

 

しかし、現代の読者たちはマラキの意図した意味を自分たちに適用します。包括的に言って、彼らは、自分たちの人生や所有物すべてを主に捧げるよう、そして特に彼らは自由に、自分の得たものの内の一部(ある人々は、少なくとも10%だと言っています)を教会やキリスト教の諸使命のために捧げるものとされています。こういった適用は、「シグニフィカンス」です。つまり、これは「マラキの意図した意味」と、「現代の状況」の間の関係をベースにしたものです。

 

さて、ここまではまずまず合理的で良いでしょう。しかし一つ難点があります。というのも、ここで言う「シグニフィカンス」というのは、読者が、自身の状況と聖句の間に知覚するどんな種類の関係としてでも理解されることが可能となってしまうからです。

 

単一の読者にとってでさえも、多くの可能な(複数形の)「シグニフィカンス」が存在します。また多くの可能なる適用が存在します。それでは聖句に対する「良い適用」と「悪い適用」とは何によって識別されるのでしょうか?それは私たち読者の俊敏さにかかっているのでしょうか。

 

私たちがシェークスピアやカミュや、その他の人間著者の作品を読む場合、私たちは読んだ内容からなにがしかの「教訓」を引き出し、事柄を自分自身に適用させるかもしれません。しかし、ハーシュや、彼の陣営にいるその他の理論家たちは、自分たち自身の枠組みや諸価値を基盤にした上で、いかにそれを為すのかを決定するのは読者である私たちであると主張しています。*10

 

もちろん、人間著者であってさえも、私たちの価値観に挑戦をかけてくる時はあるでしょう。しかし私たちは、ただ単に、自分と同じように過ちを犯し得る他の人間からの挑戦として、そういったものを取り扱います。

 

しかし聖書の場合ですと、話は違ってきます。聖書には神的権威があるというまさにその理由により、私たちは御言葉が、ーーこれまで自分の最も大切にし、あたためてきたさまざまな考えや価値観ーーをも揺さぶり変更するよう迫ることを許さなければなりません。しかしそれはいかにして為されるのでしょうか?

 

私たちは人間記者(ここではマラキ)の言うことに耳を傾けています。しかし彼は当時生きていたユダヤ人の聴衆者に語っていたのであって、私たちにではありません?!そうなると、仮定の話ですが、現代の読者は、以下に挙げる幾つかのストラテジーにより、マラキ3:8-12を自分自身に当てはめることを巧みにかわすことができるかもしれません。

 

ストラテジー1

神の意図は、シンプルにマラキの意図です。つまり、ここでの意図は、マラキのユダヤ人読者たちが、十分の一の奉納物に関する彼らの態度や実践に関し悔い改めることです。ですから私たちに対する含意は全くありません。

 

ストラテジー2

私たちが神のものを盗んではいけないということを分からせるのが神の意図しておられることです。しかしそれはただ自分の財産に対する私たちの一般的態度に適用されます。なぜなら、旧約聖書の意味でいうところの神殿はもはや存在しないからです。

 

ストラテジー3

もしも私たちが現在、経済的な責務を果たすことを怠っているのなら、神はそのことを告知するべく預言者を遣わすだろうということを分からせるのが、ここで神の意図しておられることです。

 

留意していただきたいのが、こういった諸解釈は、E・D・ハーシュ的な意味におけるマラキ3:8-12の「ミーニング」に対して異議を唱えているわけではないという事です。彼らはただ適用の部分(「シグニフィカンス」)に異議を唱えているだけです。これに関し、いくつかの応答ができるでしょう。

 

まず「聖書のその他の箇所、それから特に新約聖書は、私たちが比例的に(proportionally)に捧げるべきであり(1コリ16:1-4)、さまざまな他の方法によっても私たちは神の賜物に対する良き管理者でなければならないということを示している」と私たちは論じることができるでしょう。この部分に関しては異論はありません。むしろ、ここで問題とされているのは、果たしてマラキ自身が、そういった諸適用を私たちに示しているのか否かという点にあるのです。

 

二番目ですが、私たちは次のように論じることもできると思います。つまり、「聖書のその他の箇所に照らし合わせ考えた場合、マラキ〔の言葉〕を私たちの比例的奉納に適用させることを神は意図しておられるということが分かります。」ということです。

 

しかし「マラキ書の妥当な適用を神が意図(!)しておられる」と私たちが言った場合、通常の意味において、それぞれの妥当な適用は、ーーそれがたとい直接的にマラキ書の人間記者の念頭になかったとしてもーー神の意味(=意図)ということになります。

 

そうなりますと、どうやら、「神的意図と、人間記者の意味の間には、絶対的にして純正なる等式(equation)が存在する」という考えは解体されてしまう感があります。つまり、神はあらゆる未来の諸適用をご存知であられるため、神的意図は、より多くを内包しているということです。

 

三番目に、すべての適用のことが人間記者の念頭にあったわけではないとしても、それらは、彼の「無意識的意図」の一部であったと言うことができるかもしれません。*11

 

つまり、(妥当なる)諸適用は、「彼の思いの中にあった種類の事柄」であるということです。ですからマラキが私たちの状況を見たなら、彼は私たちの適用の正当性を認めるに違いないと。これはかなり合理的だと思います。

 

しかしここにも尚、いくつかの複雑性があります。

 

(1)「ミーニング」に関し非常に狭義の捉え方をしている人々は、「これでは、ミーニングとシグニフィカンスの元々の区別が解体されてしまうではないか!」と反論するかもしれません。私個人はそうは思いませんが、確かに、「ミーニング」と「シグニフィカンス」の間の厳密な境界線がどこにあるのか、識別が難しい時もあります。

 

(2)適用を引き出す上でいかなる指針を用いるのかについてはやはり議論すべきだと思います。マラキが在世中に直面したのとは全然違う状況に彼が直面した場合、彼が何と言うのかを私たちはいかにして判断することができるのでしょうか。その基準となるものとしては、彼のテキストしかありません。

 

もしくはマラキの思想と調和するような思想を表現しているその他の聖書正典があるのでしょうか。しかし神の御思いを表すものとして、その他の正典に訴えることは、マラキの思い・考えを超えたところに私たちを持っていくことになります。(それらすべては彼の「無意識の意図」にあると言わない限り。)

 

(3)たといマラキが私たちの状況に通じていたとしても、彼は、神が私たちの状況に通じておられるのと同じようには決して知り得ないでしょう。さらに、神のテキスト理解と、マラキのそれとの間には、紛れもなく違いがあります。なぜなら、マラキ自身は意識していない部分の彼の意図のそういった各アスペクトを、神は意識しておられるからです。

 

こういった難点をどうすればいいのでしょうか?おそらくこれが示唆しているのは、ーー私たちが適用をする段階にくる際、そこに至るどこかの地点で私たちは直接、神の知識、権威、そして臨在に訴えているはずだ、ということです。

 

そうでなければ、私たちは、ただ単に、古(いにしえ)よりの人間の声を「小耳にはさんでいる」だけということになり、しかもそういった声に対し、私たちは自分自身の価値体系にフィットする形で応答しているのだということになりかねません。

 

もちろん、聖書の中の神的意味と、人間の意味をシンプルに同一視する考えは有益なものです。それにより、寓喩的体系の持つ恣意性から離れることができるでしょう。しかし、この考えを単に人間の意味に固着するために用いる時、そこには依然として、恣意性が存在し得ます。どこにでしょう?そうです、適用の領域においてです。

 

意味に関する私たちの体系におけるいかなる専門的厳密性であっても、それ自体では、この危険性から容易に私たちを逃れさせてはくれません。なぜなら、そこには無限の数の適用が存在し、それらの多くは、聖書テキストの中で直接的には予測されていないからです。

  

それゆえに、適用に関するこの領域に取り組むことを私は提案したいと思います。私は、認知領域における諸効果(例:「自分の教会に捧げ物をするという実践をしなくてはならないと思う。」と心的に結論づける。)及び、公的行為の領域における諸効果(例:献金箱にお金を入れるという行為)、その両方に対し、それらを「適用」と見なしています。

 

その意味における「適用」は、一つの聖書テキストの持つ意味に関するあらゆるinferences(含蓄、暗示、示唆)を含みます。そういった示唆は、常に、認知領域における適用です。例えば、マラキが十分の一の奉納を教えていると結論づけること(意味についての示唆)は同時に、「マラキは十分の一奉納を教えている」ということを信じるに至るという事です(判断者の内での認知効果)

 

そのことを念頭におきますと、現在、私たちが直面している中心的問いは、「ある聖句に関するどんな適用を神は是認しておられるのか?」ということです。これに答えるために、私たちは言語を通したコミュニケーションのいくつかの特徴を次章でみていく必要があるでしょう。

 

ー1章終わりー

*1:例: James Barr, The Bible in the Modern World (London: SCM, 1973); 同著者, The Scope and Authority of the Bible (Philadelphia:Westminster, 1980); 同著者, Holy Scripture: Canon, Authority, Criticism (Philadelphia: Westminster, 1983); ジェームズ・バーをこの見解の一形態を代表する一人として捉えることができるかもしれません。歴史的・批評的伝統の系譜にある多くの解釈者たちと並び、ジェームズ・バーは、聖書の広汎な(拡散したdiffuse)権威を保持しようと望んでいます。それによると、神学者たちは依然として、聖書を省察し、われわれの教理のためにそこに何が含意されているかと自らが考えていることを言及するよう召されています。しかしそれと、「神が言っておられるように彼らが聖書を取り扱っている」というのは二つ別々のことだと彼らは考えています。

より保守的なバルト的見解、もしくはブレイヴァード・チャイルズ(Brevard Childs;Introduction to the Old Testament as Scriputre [Philadelphia: Fortress, 1979])に代表されるような「正典的」アプローチは、歴史的・批評的解釈を基盤としたものよりは、はっきりした「神学的」解釈のための余地を残していると言えます。しかし私見では、そういったアプローチは、聖書の命題的内容の中に誤りを認めることにより、神的作者性および権威に対し妥協があると思います。参照:John M. Frame, “God and Biblical Language: Transcendence and Immanence,” in God’s Inerrant Word, ed. John Warwick Montgomery (Minneapolis: Bethany Fellowship, 1974) 159-77.

*2:聖書の霊感に関するほとんどどの聖書箇所も、無誤性を否定する人々によって抵抗に遭っています。さらに、いくつかの例外はあるとしても、霊感に関する直接的言明は、主として、新約ではなく、旧約聖書(もしくは旧約の一部)になされています。それゆえ、さらなる議論が必要とされています。

*3:“Evangelicals and the Use of the Old Testament in the New,” Bibliotheca Sacra 142 (1985) 209-223.

*4:  

*5:Bock, “Evangelicals and the Use of the OT.”

*6:Frederic W. Farrar, History of Interpretation (Grand Rapids: Baker, 1961) 191-98.  しかし、次に挙げるハンソンはオリゲネスに関し、より肯定的評価をしています。R. P. C. Hanson, Allegory and Event: A Study of the Sources and Significance of Origen’s Interpretation of Scripture (London: SCM, 1959).〔関連記事〕:オリゲネスのローマ書解釈ーオリゲネスの寓喩的解釈との関係をめぐって(伊藤明生師、東京基督教大学)

*7:ウォルター・C・カイザー.Jrを、この「単一の意味」アプローチの代表格とみなしていいかと思います。彼は以下の著述の中で、聖書テキストにおける単一の意味を支持するべく強固な言明をしています。(“Legitimate Hermeneutics,” in Inerrancy, ed. Norman L. Geisler (Grand Rapids: Zondervan, 1980) 125, 127; 同著者, Toward an Exegetical Theology: Biblical Exegesis for Preaching and Teaching [Grand Rapids: Baker, 1981] 47).しかしカイザーの立場にはこれ以外のものがさらに多く含まれています。彼は今日に対する聖書の適用に関する取り扱いの問題に関し、詳細なる教示をしています(同著. 34, 149-63)。そして彼は、聖句を解釈する際、「先行する聖書(“antecedent Scripture”)」ーー当該の聖句が作成される前に構成された聖書の各書のことーーを考慮に入れるよう私たちに序言しています(同著. 131-47)。これは私たちがただ単にその聖句の一般的歴史的・文芸的背景を理解すべきと言っているにとどまりません。彼が含意しているのは、私たちはどんな種類のテキストであれそうすべきだとカイザーは言っています。しかし、それに加え、聖書の場合ですと、私たちは同じ神的作者を持つそういったテキストにも特別の関心を払わなければなりません(同著,133-34)。最後に、カイザーは、聖書全体の教えを統合すべく、組織神学の必要性を認めています(同著,161)。これは、聖書全体を、単一の神的作者の書物として見ることの価値を前提しています。それゆえに、カイザーは後期の合成物として正典全体を見ることの価値を否定するのではなく、歴史的背景や漸進的啓示の価値を守ろうと配慮しています。

*8:カイザーはここに欠けを見、救済案を提示しています。(Exegetical Theology 149-63).

*9:Eric D. Hirsch, Validity in Interpretation (New Haven/London: Yale University, 1967); 同著者, The Aims of Interpretation (Chicago: University of Chicago, 1976); cf. Emilio Betti, Die Hermeneutik als allgemeine Methodik der Geisteswissenschaften (Tübingen: Mohr, 1962); Charles Altieri, Act & Quality: A Theory of Literary Meaning and Humanistic Understanding (Amherst: University of Massachusetts, 1981) 97-159; Kaiser,Exegetical Theology 32.

*10:Hirsch, Aims 95-158.

*11:Hirsch, Validity 51-57.