巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

時代を徹底的に生き抜いた信仰者、南原繁ーー「ナチス精神とその世界観的基礎」および歌集「形相(けいそう)」より

天なるや日は照らせども現身(うつそみ)のわれのいのちの常なげくなり  繁

 

Image result for 南原繁

南原繁(なんばら しげる、1889-1974)。日本の政治学者。香川県大内郡南野村生まれ。1910年6月一高卒業。7月、東京帝国大学法学部に入学後、内村鑑三の薫陶を受け、以後、生涯に渡り、堅実なるキリスト者としての道を歩む。同信の矢内原忠雄と共に、戦時中、国体思想に対し一貫して批判者として立ち続ける。戦後、東京帝国大学総長として、次世代の育成に尽力。教え子に福田歓一(政治学史)、丸山眞男(日本政治思想史)等がいる。彼はまた歌人でもあり、自らの信仰や思想を歌集『形相』に収めている。

 

目次

 

南原繁著『国家と宗教ーーヨーロッパ精神史の研究』、序および第4章「ナチス世界観と宗教」より一部抜粋

 

第三版序

 

本書の初めて出版せられたのは、あたかも今次世界大戦のただ中にあり、わが国もまた太平洋戦争遂行の過程にあった。爾来、幾変遷、ナチス=ドイツはついに崩壊し、わが国もまた有史以来の惨敗の苦杯を喫した。

 

ナチスはなぜ崩壊すべきであったか。その理由は、ヨーロッパ精神史の流れの全体を跡づけることにより、ナチス世界観の批判において証示したところである。そして、そのことはわが日本についても当てはまるものがある。心ある読者はそれを読み取られたことと思う。

 

しからば、ヨーロッパ文化のーーなべて世界人類の「危機」は去ったか。否。現代文化の危機が一面、近代実証主義の精神とマルキシズムに深く根ざすと見る以上、断じて然らずと言わなければならない。

 

この意味において、これら近代文化と精神の頽廃に対して、彼らの掲げた抗議はそのかぎり残されてある。こうして危機の打開はいかにして可能であるのか。問題の解決の方法とドイツ復興の途(みち)も、そこに示唆しておいた。

 

それらの主張とその根拠となっている著者の立場は、今に至ってもますます強められこそすれ、少しも変更されていないと同時に、全体の内容についてもニ、三加筆した以外、変るところはない。

 

いま第三版において特に記すべきは、「カトリシズムとプロテスタンティズム」の一篇を「補論」として新しく加えたことである。これは本書が世に出た際、諸方面からなされた紹介と批評のうち、学術的意義ある二、三のものにつき、当時試みた論作である(『国家学会雑誌』昭和18年8-9月号)

 

これは諸家によって提起された問題や批評に対する回答というよりも、むしろ、その機会において、全体にわたり本書の内容をなす主要問題につき、著者の立場や根本思想をあるいは一層強く表明し、あるいは一層詳しく展開したものである。

 

なかんずく、初版においては概説するにとどめたカトリック主義を特に採り上げたことと、ドイツ理想主義哲学のむしろ背景においてあった宗教改革者ルッターやカルヴィンを前景に浮かび上がらせたことが、これの主題を構成した所以である。

 

問題は依然として「宗教」と「国家」ーー広く「文化」との関係であり、この難問の理論的解決についても、著者の見解を一層詳しく論述した。それゆえに、「補論」は、決して単なる補遺ではなく、むしろ全体の「緒論」であり、同時に「結論」でもあるのである。読者はまず初めにこれを読まれるのも一つの順序であるであろう。

 

いまや祖国再建の苦難の途にのぼる時に当り、日本にとって省察すべき根本の問題は、実に「宗教」の問題、そしてそれと国家との関係に凝集せられてあると言っていい。少なくともヨーロッパ精神史との関連において「キリスト教」が問題となる場合、これをいかに解決すべきであるか。これも初版の結尾において関説したところを、さらに展開したつもりである。

 

わが国が平和日本として真に世界史的民族たるの使命を自覚し、新しい精神と新日本文化の創造と、それを通して東亜はいうに及ばず、広く世界人類に寄与する上において、いくばくの示唆を供し得んことは、純学術的労作の背後に隠された著者の目的でもあるのである。

 

昭和20年(1945年)9月中浣

著者

 

Image result for 戦後 青空教室

1945年9月25日、屋外の青空教室で元気に授業を受ける子どもたち。(情報源

 

 

ナチス精神とその世界観的基礎

 

ナチス勃興の精神的理由は、まさに以上、われわれの辿り来たったヨーロッパ「近代精神」とその帰結に対する反抗からであり、単なる政治的権勢運動たることを超えて、文化の本質に関する問題ーー詳しくは哲学、一般に全精神歴史において新たな紀元たろうとする、世界観の全的更新につながる問題を含む。

 

それは、なかんずくデカルトに始まる西欧的合理主義ーーその機械的・合法則的な世界の分析的解明と、それから生じた近代主義、ひいて唯物論的社会科学の思惟方法に対する抗議であり、これによって彼らの期するところは近代自由主義ないし民主主義文化ならびにマルクス的世界観の打倒と変革である。

 

由来、広義における自由主義の政治的貧困ーーむしろその非政治的態度を、ナチスは近代科学の客観的・法則的で静的・没意志的な純粋の理論的方法の結果として認めるがために、彼らにとって新しい哲学と科学は、必然に、主体的・意欲的で決断を伴う動的な実践的性格を持つものでなければならぬ。

 

ここに哲学・科学のすべての分野において重心を占めるものは実践哲学、なかんずく政治哲学であるべきである。あたかも国民の実際生活の諸領域にわたって全体的統括の任務に当るのが政治的指導であるように、国民思想生活のあらゆる部門を通じて一つの根本理念に結びつけ、それを滲透せしめることによって統一秩序を保つことが政治哲学の課題であろう。*1

 

かようにして、およそ自由主義的近代文化とは反対に、政治が哲学のまっただ中に己を現わし、非政治的ではなくして、いまや政治的な文化と世界の形像がつくられる。かくのごときは由来、西洋精神とは異なるドイツ固有の伝統というべく、国家の理念が哲学の重要な課題であったドイツ理想主義哲学の跡を追うもののように見える。

 

ここに国家的政治生活は、彼らの新しい世界創造の活動圏であり、これを中軸として新し世界観が構成せられるのである。その結果、近代精神とは異なり、国家は単なる、一つの強力組織や権力機構ではなく、むしろ有機体的全体としての民族の統一的組織形態ーー性格には「民族共同体の最高の組織的現象形態」--として把握せられる。*2

 

それは、個々人またはその多数の利益と幸福とを保護し、社会の秩序を維持するための社会的形成物ではなくして、民族の精神生活の維持発展を図り、種族の保存と純化とをその最高使命とする、民族の創造である*3。けだし、近世「シュタート」の概念よりも広く、かつ、深い概念であって、むしろドイツ固有の「ライヒ」に該当し、有機体的統一として民族そのものの理念と合致するものである。

 

これが疑いもなく「民族」であり、民族共同体の理念が世界観の基底を形づくる。そこでは政治運動と歴史と哲学とが一体となって、民族共同の源泉ーー共同の体験および感情に溯ることが要求させられる。

 

彼らはこれによってドイツ民族精神の底に潜む生命と力を喚び醒さんとするのであり、「西欧」の理性主義に対抗して、まさに「北方的」ゲルマン主義の高調である。それから構成せられるものは民族的世界観と、それに基づく科学であり、これによって最高度の政治的実践的な学の樹立が企てられるに至るのである。

 

あたかも近代精神が人間個人を中心としたのに対して、これは民族共同体が中心であり、近代「個人」主義に対する民族「全体」主義の主張である。けだし、近世自由主義ないし民主主義と、さらにはマルクス的社会主義に対抗してナチスの依拠する根本原理であるとともに、個人主義の系をなす単なる世界主義ないし国際主義に拮抗して彼らの戦う根本理念である。

 

彼らにとっては、人間は個々に独立して世界または宇宙にあるのではなく、もともと共同体的存在者として同胞民族に本源的に結びつく。民族が唯一の現実的にして包括的な、それみずから完結した生の有機体であって、民族においての根本衝動と体験との共同のうちに、真の全体的共同体の理念が育成せられると見る。

 

それ故に、個々の人格でなく、民族こそが生の根本形態であって、およそ世界観と諸科学は、この認識の上に出発すべく、かようにして生の維持と向上とを最高度の完結にまでもたらすことが新しい世界観の使命でなければならない。*4

 

ここに新しい倫理は、近代精神の功利主義的な利益幸福の原理ではなくして、民族的全体者への没入、すなわち全体に対する個の服従と犠牲の精神の高揚となって現われる。

 

「共同体の存在のために、みずからの生命を捧げることにすべての犠牲の冠が置かれる。・・あたかも、われわれのドイツ語はこの意味の行為をいみじくも表現する言葉を持つ。すなわち『義務の実行』これである。それは自己自身を満足せしめることでなくして、全体に奉仕することである。かかる行為の生ずる原則的な心情をわれわれはーー利己心や我慾とは区別してーー理想主義と呼ぶ。われわれはその名のもとにただ、全体性に対する、また同胞に対する個々人の犠牲能力を理解する。」*5

 

言いかえれば、名誉と忠誠とがゲルマン人の価値であり、民族のうちにある神性こそがあらゆる価値の基準、絶対価値である。それ故に、道徳の格率は人間人格の「自由」にではなくして、かかる民族の「名誉」においてある。それはさらに次の如く言われるときに、最もよく表出されていると思う。

 

「名誉の理念ーー民族の名誉ーーがわれわれにとってわれわれの全思惟と全行動の初めであり、終りである。それは他にいかなる種類の同価値の力の中心をも、自己とならんで存立するを承認しない。*6」かようにして、民族的名誉のための犠牲的感情と行為の意志的性格が、その思想の核心として摘出せられ得るであろう。

 

上述のごときナチスの主張には、明らかに一種の理想主義ーー実践的理想主義ーーの精神の高揚が認められる。けだし、近代ブルジョワジーの功利主義的道徳ならびにプロレタリアートの同じく快楽主義的倫理理想に対する反立として、別しては第一次世界大戦の後、この両方面からの浸潤による国民の精神的・肉体的な頽廃と苦悩とについてつぶさに体験し来たったドイツにとっては、必然にして深刻な叫びと言わなければならない。

 

「内的に病みかつ腐敗したこの時代を救済しようと欲する者は、まずこの悩める諸原理を解明する勇気を振り起こさねばならぬ。一切の市民性を失ってわれわれの国民性から、新しい世界観の尖兵として堪え得る諸力を集中し、秩序立てることが、民族社会主義運動の使命でなければならぬ。」*7

 

それはまた、一般に近代精神の帰結したところ、いずこにおいても人間生活が低調化し、精神的高貴性が失われようとするに際して、若い優れた民族が、精神的自己保存を企て、滅亡から時代を救うために興った必然の精神運動と考えられよう。

 

そうして、このことはひとり人生と道徳についてのみでなく、およそ実証的合理精神とマルクス的唯物論の思惟方法そのものに対する反対、根本において近代の機械論・技術文明に対する抗議を意味し、これに代えて新たに有機的な精神的一大綜合の文化の創造の要請と解せられる。

 

言いかえれば、近世啓蒙哲学に淵源する自然科学的理論の哲学に対して、今や民族的生の強調に基づく一種の「生命」の哲学の主張と考えられる。かようなものとして、それは根本において反理論的・非体系的なのを特色とし、概念的思惟や理論的認識は背後に押しやられて、ひとえに根元的にして現実的な生の衝動あるいは感情の直接的・非合理的なものが前面に浮び出る。

 

かくのごときは、もはやカントからヘーゲルに連なる厳密な意義におけるドイツ理想主義哲学の精神とはまったく性格を異にし、むしろ西欧実証主義とならんで19世紀前半、特にドイツを中心として興ったロマン主義の精神と結びつくものと言うべく、これを広義における一つのロマン主義ーー「新ロマン主義」--として理解し得られるであろう。

 

その新たな所以は、旧いロマン主義の根本理念であった動的な力としての生を、現実的な民族的生としての「種」の核心にまで掘り下げた点にある。ここにシェリングにおけるごとき模糊たる「世界霊(ヴェルトゼーレ)」が、いまや明瞭に民族的心霊の「人種魂(ラッセンゼーレ)」として把捉せられる。

 

その場合、多分に前者にまとわっていた詩的空想と主観的気分が払拭せられて、より意志的・実践的特質を明らかにする。同時に注意すべきは、旧いロマン主義が広く民族を超えて世界主義と世界文化理想に赴いたのに対して、この新しいロマン主義は民族文化と民族国家の理想に終始することである。

 

これによって前者はむしろ非政治的で審美的な「静寂主義(Quietismus)」であるのに対して、後者の積極的で政治的な「行動主義(Aktivismus)」の性格を形づくるものと考えられる。

 

かようにしてナチスらの強調するところは、「血」によって形成された性格としての民族ーー畢竟「人種」のことであり、ひとえに北方的アーリアン人種としてのゲルマン民族の理想にほかならない。これは従来の抽象的な合理主義に対して「人種に拘束せられた民族精神」「人種的民族精神」の主張である。*8

 

けだし、彼らに従えば、理性と批判によっては何ものも創造せられず、創造的原理はひとり人種・種族のみである。北方的ゲルマン人種こそは環境によって制約せられず、かえって自らの歴史と生活圏との積極的な形成原理である。*9

 

それはひとえに「血」の自然的共同性の高揚であり、まさしく血の理念である。かようなものとして、結局、一つの人種学的ないし人類学的立場、それ故にまた根本において一つの「生物学」的立場に通ずるものと見なければならない。

 

したがって、それはまた19世紀のダーウィン主義とも連なるが、もはや旧い進化論的生物主義とは性質を異にして、新しくロマン主義的な根源的「生」の原理に立脚するものと考えられる。すなわち、かつての生物学主義が、主として外的事情に依存する機械論的進化の法則概念であったのに対して、後者の意義は、およそ生けるものの根元にあって、かえってそれらの外的状況を支配し、利用するところの生の創造的形成原理たろうとする点にある。

 

この関連において、近代にあっては誰よりも多くニーチェが重要な関係と影響を持ってくる。いずれも活力的(ヴィターレ)な生命自体を原理とし、生の高揚を旨とするにおいて、生の哲学思想が根柢をなすと言えよう。同じく近代精神と近代文化に対する決定的抗議者ニーチェにあっても、われわれ自身を超えて高き生の存在を創造することが、あらゆる行為の衝動とせられる。

 

ただ、彼においては、それが有機体的共同体としての民族または一種族ではなく、全体としての人類ーー殊にヨーロッパをいかなる方向へ向かわしめるかが課題であり、そのために偉大な個性ーー超人ーーを中心として、その最高の訓育と養成による人類の高揚が主要事であった。

 

これに対しナチスにあっては、さような超人としての個性またはその階級ではなく、人種としての民族ーー特に北方的ゲルマン種族ーーを中心とする点に、ニーチェと異なる意図と理想が認められるであろう。

 

両者の相違の根拠は、実にニーチェにおいては欠けていて、おそらく拒否したでもあろうが、新たにナチスに至って強調せられた「生物種族学」--民族の生物学的基礎に求められなければならぬ*10。そこには、ニーチェのごとき主観主義でなくして、実在は確固とした客観的全体性の上に移されたように見えるけれども、他面に、ニーチェに包有されてあった偉大な精神は色褪せて、より自然主義的・現実主義的色彩が濃厚となる。

 

けだし、彼らは種の性格としての血からのみヨーロッパのすべての精神財が創造せられ得るとの認識に出発するのであって、この認識が国家観ならびに世界観の基礎を成し、もろもろの生活領域を通じて「種」に固有な文化を創造する力の根拠と考えられてあるからである。*11

 

以上のような見地から抽き出される重大な論理上の帰結は、一切の文化の問題が生物学的人種の問題、すなわち民族の血の純化と高揚に向かって集中されることである。文化とは「ひとつの人種の植物的=活力的なものの意識的形成」の意味にほかならず*12、かようにしてそれは「相敵対する人種魂の戯曲的闘争」であり、そのいずれの側に味方するかは本来血の命令によって決定される問題である。

 

「血液の法則が意識的にせよ、あるいは無意識的にせよ、人間の理念と行動とを決定するところにおいてのみ、もろもろの価値が創造せられ、維持せられるのである。*13」それは人種をもって最高の認識価値とし、他の諸価値をこれに従属せしめることでなければならぬ。「人種の魂を喚びさますことは、その最高価値を認識して、その支配のもとに他の諸価値にそれぞれの有機的位置を指示することである。*14

 

あらゆる価値の根元、最高唯一の絶対価値は人種において存し、人種としての国民の生存自体が哲学における根本事実であって、科学・芸術その他一切の文化は、政治的国家と同じく、民族的生の手段にすぎなくなる。すべての生活は人種の活力的生命の中に融解せられ、文化の形成と創造過程はむしろ生物学的世界の現象と本質的に相違なくなるであろう。

 

それ故に、そこにはたとい創造的な「生命の力」や「生命の力への意志」が説かれるにしても、種々の活力的な生とその衝動との強調にほかならずして、ひとえに生の活力を増進するか否かが価値の尺度と考えられることとなる。それは多分に非合理的・運命的なものを含意し、単なる因果法則的関係ではないとしても、その結果、いわゆる「生命の価値」はせいぜい一つの「運命価値」となり、ついにこれが高い精神的文化価値に取って代わる危険を否むわけにはゆかぬ。

 

かくのごときはニーチェと同じく近代文化に対する根本の懐疑と不信から出発することは言うまでもないが、さらにそれが極端化され、一般の文化の否定と破壊に向かう可能性がある。なぜならば、文化はその本質において精神的価値のことであるよりも、より多く肉体的身体性のこととなり、後者が価値測定の基準を化するのを免れないであろうから。

 

それから導出せられるものは畢竟「権力への意志」にほかならず、これが「善悪の彼岸」にあってそれ自ら妥当する価値として、ますます強化高揚せられるところに、一切の文化のみならず、われわれの全存在と世界の意義が置かれるに至るであろう。

 

それゆえに、近代個人主義に対して新たに民族的共同体の理念が立てられたにはしても、ナチスにおいては、それは内面的・精神的なものから創造せられる真の共同体であるよりも、より多く人種的同一性によって結成せられる「種」の自然的共同体の意義が先に立ち、民族の本質は精神的文化の核心においてよりも、かえって「種の保存」と、その「生存の闘争」において捉えられるであろう。*15

 

これとともに、近代政治の貧困化に抗して回復せられた国家の理念も、真の文化国家あるいは客観的精神の現実態というがごとき価値と意味とを没却して、むしろ「血と鉄」とが最もよく象徴する巨大なレヴァイアサン的存在を顕わにするに至るであろう。

 

国家の内部においては、人間は直接、民族的生の存在に従属して考えられる結果、自律的な人格価値または精神的個性としての自由の意義を喪失するに至る。そこには新たに民族「社会主義」の理想がかかげられるにはしても、人間は自らの労働によって自己の使命を自覚し、人間に値する生活を生きるというよりも、むしろ種族的全体を構成する細胞的組織とひとしい生と同時に運命のもとに置かれる。*16

 

これと同時に外部に対しては、その北方的アーリアン種族優越の主張の結果、近代の国際主義または世界性に対立する他の極として、ふたたび新たな汎ゲルマニズムの思想が展開せられる可能性がある。弱小な人種を押し除け、「勝利の剣の力」によって、自己の生存のために必要な領土を拡張することは、強大な優秀民族の「権利」でなければならない*17

 

それは直ちに国際における「強者の権利」の主張であって、そこには民族の生存のための永遠の闘争が開始せられるであろう。これらは文化の発展と協働よりもむしろ反立と闘争、平和と秩序よりもまず戦争と勝利の教説である。

 

以上のごときは、一面、ナチスが理想主義的精神の高揚にかかわらず、他面、根本的にそれと反立するものをそれ自らに内包する結果と考えられなければならぬ。そしてかくのごときは、一般にロマン主義に共通する一つの特徴として、「精神」と「自然」との同一化の思想に由来するものと思われる。

 

それは、もと啓蒙的な抽象的理性ーーあまりに合法則的に把握せられた精神を、自然実在の深い源泉へ還元することによって、生々の生命をもって満すということであった。人びとはそのために、精神と自然との根柢に全体的な存在の理念としての「生命」を置くことによって、これは遂行したのであった。

 

だが、その結果は、精神と自然との両者の限界が撤し去られ、一方に自然が精神化されるとともに、他方に精神が自然化されるという混淆と危険が生ずる。なぜならば、人間の精神は根柢において動物の衝動と本質的に異ならず、理性的自由の行為も動物の自然的生と同格として、ともに同じく根源的な無限の生命の表出として把握せられるからである。

 

ここに、すべて内面的・理性的なものはかえって自然的・野獣的(brutal)なものに、また、すべて精神的・理念的なものはせいぜい心理的・象徴的なものに打ち換えられるという結果を生ずるに至るのである。

 

かようにして、ニーチェにあってもそうであるように、一方には精神的・理想主義的要素を、他方には野性的・自然主義的要素を包摂し、この二者の結合、否、混淆の上にナチス精神の真の性格が見いだされるであろう。そこには、精神的・理性的なものは根柢から動揺するに至り、精神的なものから野獣的なものへ、理性的なものから非理性的なものへの転化が開始せられ、ついには粗野な自然主義による精神や理性文化の完全な征服が可能となるであろう。

 

かようにして、本来ドイツ理想主義哲学におけるごとき精神の哲学であったものが、いまやもろもろの自然的本能と意欲との生命の形而上学に変化し、ここに人間は理性的・精神的存在でなくして、自然と運命の暗い世界をたどる形而上学的存在となる。

 

これをわれわれは一言にしてナチス精神の「デモーニッシュ」な性格として特質づけることができるであろう。それは人間におけるなにか動物的・反精神的な衝動を意味し、創造的要素と破壊的要素との結合または二重性、あるいは精神的と反精神的との対立または二重の弁証法的要素として論じ得るでもあろう。*18

 

これはもと近代の実証的・唯物的精神に対抗し、理想的・創造的なものを約束して起ったにしても、それがまた容易に非創造的・自然野生的な存在ともなり得るのである。そして、かくのごときは実にナチス精神と世界観における根本の問題として指摘されなければならぬところである。

 

南原繁の歌集『形相』より

 

勅題「海上雲遠」

  

見はるかす大わだつ海のきはまりに密雲(あつぐも)わけり嵐來むとす

 

二・二六事件

 

ふきしまく吹雪は一日(ひとひ)荒れゐたり由々しきことの起こりてゐたり 2/26

重大のこと起これるにかかはりのなきが如くに人ら往きてかへるも 2/28

「兵に告ぐ」と戒厳司令官の声いへどわれの心に徹(とほ)らざるものあり 2/29

  

春の行程

 

音立ててストーブの湯はたぎりをり三月の陽は斜に射せり

朝まだき辛夷(こぶし)の花の白々と咲きたる林に雨は降りをり

眞靑なる空に綾なし咲き満てる桜花(はな)を見あげてうつつともなし

 

家族

 

食事終へて直ちに部屋へ退(さが)りたまふ母はつつましき老に入りたり

ひとつ蚊帳に枕ならべてうまいせる四人の子らの父なる吾は

 

明暗

 

谷ふかき洞(ほら)なかに火の燃ゆる見ゆさながらわれの生きて來にけり

戒厳令いまだも解けず夏となりぬ何がなされてゐるにやあらむ   6/25

 

七月某日 二・二六事件の結末発表あり

  

十七名の死刑報ぜる今朝の記事は食堂にゐていふものもなし

かの人もこの人もはやわが友ならずと思ひ飯(いひ)食(を)しにけり

 

スペイン動乱

 

ひとつ国の民らがたがひに敵となり戰はねばならぬものありといはむか 

ファシズムとコンミュニズムふた分かれ世界戰はむ日なしと誰がいふ

 

故江原萬里君 八月九日三周年記念日に当たりて

  

こころ凝りて書きけむ君が絶筆をけふの忌日に取り出して見つ

 

和解 十月十七日暫く交わり絶えゐし・・・植木良佐君の告別式に列なりて

 

相共にいのちまもりて茅ヶ崎にかなし乙女と君は逢ひけり

 

秋より冬

 

蟋蟀(こほろぎ)は霜夜に鳴かずなりにけり夜半に目さめて思ひ出でつも

 

十月三十日 郷土をおもひて

 

曼珠沙華咲ける田畔(たあぜ)に筵(むしろ)しきて遊びしことも四十年の昔

 

師走

 

言にいでて民らいはずなりぬるとき一国の政治のいかにあると思ふや

ふるきものなべて滅びむ寺々のこの夜半鐘の鳴りつつひびけ

 

昭和十二年

 

一月宇垣大将組閣成らず

あかつきにふりたる霜のさえざえし大命降下して内閣ならず

 

きさらぎ

 

わが部屋に置きつつぞ見るシクラメンの花は一夜に伏しみだりたり

 

春点綴

 

自首せむ人を警視庁に伴ひ來て混凝土(こんくりーと)の階段を幾つか昇る

 

研究室

 

かたつぶりの殻にひそめる如くにもわれの一生(ひとよ)のひそみてあらな

研究室にゐてひとり飯食(は)むわがこころ世にそむくものの心にはあらぬ

Y君の辞職きまりし朝はあけて葬(はふ)りのごとく集ひゐたりき 12/1

 (Y君=矢内原忠雄)

研究室をたどき知らなく檻のなかの獣のごとく歩みゐたりき

(たどき=方便・たづき)

 

事変

 

けふもあまた人うたひつつ出征の兵士を送る街はひそけし 8/3

この夜も起こりてあらむ上海のたたかひをおもひつつねむりけり 8/12

軍うごきただならぬ世となりにけり心ひそめて何をしなさむ

 

昭和十三年

 

木枯はゆふべ吹きまき雪もよふ天垂らす雲は深く動かぬ

ソヴヰエット・ロシアの国さかひ越え一共産主義者恋人と落ちゆきぬ

 

 

教授グループ事件

 

きさらぎとなりし一日O君等囚はれにけり君既にいへりき

  (O君=大沢章)

二人なき友とし結び富山県に仕へころは吾ら若かりき

聖マリア大聖堂に相寄りて嘆けば君が面影に顕つ

相ともに喜寿を祝ひし君逝きて吾のいのちの空しきが如

大内教授とらはれしのみに日月経ぬ君は僂麻質斯(リウマチス)を病みて居らずや

 (大内教授=大内兵衛)

 

終講

 

校庭の公孫樹の枝に春の光流れゐたりき講義をはりぬ

 

春光

 

風ひけば心素直に口あきて咽喉(のど)に薬ぬりて貰ひつ

わが待ちし春は來にけり天地を光に揺りて春は來にけり

 

内村鑑三先生 三月二十八日八周年記念日

 

日曜講演にたましひそそぎて先生にブルー・マンディのありし親しき

 

講義

 

大勢の新入学生のまへに講義していよいよわれは愚かになりつ

 

梅雨ふる頃

 

梅雨ふるにしとどに濡れし庭の藪萱草の花咲きにけり

 

夏休 七月十日神戸地方水難

 

山津波に訓導殉職したる話紙帳(しちよう)のなかに起きなほりきく

 

七月某日

 

一片(ひとひら)の雲のごとくに日華和平の望みあらはるときけば嬉しも

八月十一日正午砲火ををさめたる張鼓峯の上(へ)に虫が鳴くとぞ

颱風過ぎ空限りなき宵月夜弟に動員令は下りたり   9/3

 (弟=義弟西川宗保)

 

九月二十日、ズデーデン問題を繞りてチェッコをドイツを中心にヨーロッパは戰争触発の形勢にあり

 

戰は欧州に捲き起らむとして秋の没(い)る日の静かなる空

 

九月三十日・・・欧州戰争は寸前にて一先づ回避さる

 

戰はずして欧州に平和よみがへり日華のいくさ限りなくつづく

 

『小島の春』

  

業病のかなしき生を嘆きたる君が手記を讀むいのちに沁みて

 

善悪の彼岸

 

善悪の彼岸に政治はありといふ現代(いま)にあてはめてしかも然るか

 

歳晩

 

みいくさの炎とたぎち進むときわれは古典を讀み暮らしつつ

この冬は石炭乏しといふ研究室の暖炉に近く机を寄せぬ

何ひとつ為遂げしもののあらなくに吾が四十九の年暮れむとす

 

昭和十四年

 

歳旦頌

ひんがしのアジアをこめて新(あらた)しき年のはじめの光あれこそ

 

河合教授の場合    (河合教授=河合栄治郎)

 

心静かにと思ひゆきし今日の会議に言(こと)にし出でて憤りけり

おほやけのためとし思(も)へどひとつの理論を貫きいへば我執に似るか

面(おも)ををかしてわれいふべきはいへりまたこの人に会ふこともなけれ

 

平賀総長

 

たのみし同志らつぎつぎに追はれこの冬寒くひとり籠らふ

 

二月十五日 釈尊寂滅の日、偶々雪降る

 

み仏の園にしあれや木も石も雪ふりつみて清(さや)けき光

 

春愁

 

人間の諸厄(しよやく)すませて幼(いと)けなくわがありし日のごと純(もはら)ならしめ

身ひとつをもてあましけりわが生(よ)の四十になりても五十歳にても

童貞をたもちしわれの若き日を恋ひおもひつつ老をたのしむ

かの日には聖きと智慧と眞実を求めあへぎつつ死にしと記せ

下嘆く愁いはいはず夕されば心はればれしくかへりゆかむか

朝あけてわれに愛(かな)しき詩を讀まぬ日はなし足るとこそ思へ

 

五月

 

新しき支那に呼号して起ちしといふ呉佩孚将軍のこと伝はらず

 

六月 大学にて独乙のナチス学者の歓迎会あり

 

ケルロイター博士の午餐の会を断りて雨寒き昼をひとり飯くふ

歌一首詠みたるのみにこの日われ心和みて六月(みなづき)に入る

弟が帰還せしと聞けるだにあるひは戰争の終るかろおもふ

灯ともる昼の廊下をゆきつきて吉野作造先生この室(へや)にいましき

 

八月二十七日、突如独蘇不可侵条約成り、平沼内閣総辞職す

 

わが頭のなかにとどこほれるものあるらしきこの夜もまた睡られざらむ

 

八月三十日 独蘇の包囲態勢に対し波蘭(ポーランド)蹶起

 

ひとつの国のほろびむとしてふるひ立つ絶対のちから凡(おほ)にし見めや

 

九月三日 英国遂に対独宣戦布告、仏これに倣ふ

 

目つぶりて屡々(しばしば)も思ふこの日はや第二次世界大戦はとどろき起こりぬ   9/1

息づまるごとき世界大戰の重圧を感じつつ部屋をわれ起ち歩く

英仏軍いまだも動かず午後早く衢(ちまた)に出でて夕刊を買ふ    9/6 

国境突破けふ仏蘭西軍が進入せしといふザール・ブリュッケンを地図にたしかむ 9/7

陥落を伝へしワルソオに女(をみな)子供もあはれ銃とり死守しゐるとぞ 9/11

 

九月十三日 独軍の進撃愈々急、英仏軍の波蘭救援直接の途なし。例年ならば九月に來る

 

雨期が唯一の頼みなりといふ

二旬にあまる死闘のかぎりつくしつつ遂にほろびゆく波蘭なるか  9/18

おもむろに欧州大戦は進むらし英国商船けふも沈みぬ 10/某日

 

ノモンハン高原

 

五月にわたるノモンハンの戰闘の佇(や)みしか国は秋ならむとす   9/17 

コロンバイルに戰ひ死にし同胞の一万八千あまりかなしも  10/3発表

 

銀杏黄葉

  

銀杏葉の靑きがなかに黄葉(もみぢ)そむる下に歩みを暫しとどめつ

銀杏葉の黄なるに靑きひとところのこれるありて夕日うつらふ

 

十月三十日 新設の東洋政治思想史講座開講。早稲田大学津田左右吉博士講師として招聘

 

相欺き憎み戰ふ世にありて愛を説き平和を説くは非現実的か

演習(ゼミナール)の学生にむかひ哲学はkontemplativとわれはいひたり

(kontemplativ=contemplative)

 

坐机

 

今年は書斎に石油ストーブを廃し机を買ひ來りて坐して学ぶ

新しき机のまへにわが坐る思はむことの清くしあれな

 

昭和十五年

一月一三日阿部内閣退陣

 

大いなる戰のなかに三たびまで一国の政府の変わるべかりし

 

業苦

 

いまの現(うつ)つに世を憤りはた自らを嘆けばつひに学者たらじか

愚かしくひとつのことに思ひこり学びつづけつつ吾が生(よ)は経むか

 

立春

 

わが庭の椎の根方に蕗の薹いくつか萠え出で春は來りぬ

 

三月九日津田左右吉博士起訴

 

つつましく一生(ひとよ)日本神話の研究にだずさはり來て君起訴されぬ

いまの時代(よ)に生きつつをりて何事の起らむもわれら驚かざらむ

 

籠居

 

春さればわが庭つちに咲き出づる紫薄きかたくりの花

 

欧州大戦図 五月十四日独軍蘭・白に侵入

 

英仏独軍国をかけての戰も新聞(ニユース)の上には演習の如し

 

五月二十一日 北仏乱入の独軍を聯合軍遂に阻止し得ず

 

けさも聯合軍不利のニュース見てひと日を何かわがいら立たし  5/22

新聞の伯林(ベルリン)電報を抹殺し讀まむもわれの心やすめか

 

マジノ線

 

マジノ線破りて深く進入せし独軍「突出部隊」の語あり

ほしいままなる人類の慘虐地の上にのこしてこの年五月は去りぬ

 

六月十五日巴里入城

 

独乙軍つひに巴里に入城すといふその光景(ありさま)を想ひ眩(めく)らむ

 

倫敦市民

 

独乙軍つひに海峡(チヤンネル)を渡るべしと思へど何か英国に恃めり   7/1

対英独空軍爆撃のにぶりたるこの二三日息づく吾は  8/23 

独軍の対英上陸戰疑はず誰も誰もいひし七八月は過ぎぬ  9/1

  

土用

 

にはかに暑くしなれば朝は日の照りつくる研究室にわれ居りがたし

物価変動のはげしき世に住み学者われらに臨時手当六拾七円下されき

もの乏しくなりゆく世にし朝な朝な水道だに迸り出でよ

 

八月某日 穎原家長女信子京都より來る。十年目なり

 

手毬歌(てまりうた)うたへりしををさな児はしづかなる少女子(をとめご)となりて相見つるかも

 

親友故松本実三君の一子立一、東大入学の後間もなく病を得て入院、遂に死去

 

この世の別れと思ひたづね來し病院の階段のぼる心ととのへつつ 6/25

 

十一月四日 立一君の祖父米国より帰る。その追悼記念会の席上

 

大洋を渡りて祖父(おほちち)のかへりますこの日待ちゐて君は亡きかも

二十年まへ夫(つま)を葬りし紀の国の浦べの山に子をまた君の梅子母堂に

 

八月二日実と晃を伴ひ秩父三峯に登る。途中飯能に一泊

 

神森(かむもり)の杉の木の間にわが立ちて仰げる天(そら)ゆ霧ふり來る

 

三国同盟

 

日独伊三国同盟成りしかばわれは英吉利の友に便りをつつしむ 9/30

勝とぐるまで独伊と戰はむ英吉利を私(ひそか)に嘆美すわれのいはなく

 

秋夜

 

たらちねの母のまはりに幼きらかたまりて寝る秋夜となりぬ 

をさなくて振りさけ見にし三ツ星の今宵も光りぬ傾きながら

 

 

汗垂りつつ書き起したる論文の半ばならぬに冬となりたり

かすかなるわれの書けるも伝はらぬ紀元二千六百年記念論文集

獣(けだもの)のごとく寝ね起きたたかひて君が遺しし歌よみかへす   渡辺直己歌集

妻を子を一日怒らず家にあり茶を入れしめつこの日のゆふべ 

 

昭和十六年

 

生(しやう)ありて子らと來て遊ぶ草野原春日うららかに照りてゐるかも

米とぼしければ狭きwが庭に植うるもの靑々と伸びよ

麺麭(ぱん)買ふ独乙女(をみな)がいくところにも列なせる見き前大戰ののちに

 

近衛内閣に与ふ

 

客観的実在性なきことがこの幾年(いくとせ)決断せらるるに吾はおそるる

正しき否は暫く措き果たして事の可能性ありや卿等よ思へ

第一線に立てる大臣(おとど)らが決死奉行(ぶぎやう)せざればいかにか国は

庶政一新を論ずれども誰も誰も周辺をめぐりつつ核心に触れず

 

バルカンとスエズ

 

バルカンの国々枢軸に傾きゆく中にユーゴー起ちて戰ふ

ユーゴー軍起ちたるのみにし四断さる後(のち)のニュースはわが讀み敢へず

くるほへる世界の兇暴のまへに起ちて誰ぞこれを阻まむものは

大戰を避(よ)くといへども米蘇の遂に参戰せむ日なしと誰がいふ

 

五月空

 

隣家(となりいへ)の竹の根のび來てわが庭にぬきいづるその筍を愛(を)しむ

 

母逝く

 

老いまして盲(めし)ひし母の病み臥せば嬬(つま)は育む幼児(をさなご)の如く

むしろ死の静けさ待てる老の上にも苦しみは去らずいのちの限りは

かなしみの極みにありて風を静め湖(うみ)を歩み給ひしイエスを信ぜむとす

わが母のいのちの終り見守りて出でたる庭に月照りにけり

母が愛(め)でしゆすら梅の實縁先に朱(あけ)に照りゐて昼は静けき

はるかなるものの如くに思ひをりし母のみ葬(はふ)りけふ吾がせむとす

必ずわが出づるとに送りましし母のいまさず今日を出でゆく

池の水のかきつの花の光にも慰もるわれのこころと思へや

 

独蘇開戰

 

立ちゐて独蘇開戰の号外を讀みしままわが庭のへを幾めぐりすも 6/22

独蘇戰五週に入りぬ黄に熟るるウクライナの麥刈り入れつらむか

戰は童ら地に線を描きて国取りする如く思はゆる瞬間あり

 

ノートより

 

くれなゐの柿のつぶらな實枝ながら黄菊と活けて朝をすがしむ

 

十月十一日長女待子結婚 

 

嫁ぎゆく娘(こ)に与ふると女(をみな)の道われは訓へて奉書に書く

眞實(まこと)なるものこのこの国に生(あ)れしめよ汝が脊子が生(よ)をたすけ成さしめ

黒髪の白くなるまで睦まじくかたみに生きて清らかなれよ

 

十月十七日第三次近衛内閣倒れ東条内閣つくらる

 

一死国に報いむと言挙げし大臣(おとど)近衛の三月にして去る

一人(いちにん)に総理陸軍内務大臣を兼ぬこの権力のうへに国安からむか

祖国(くに)の上にいよいよ迫り來らむものわれは思ひていをし寝らえず

権をとれる者ら思へヒットラーといへども四面作戰は敢てなさざらむ

あまりに一方的なるニュースのみにわれは疑ふこの民の知性を

 

十二月八日

 

人間の常識を超え学識を超えておこれり日本世界と戰ふ

日米英に開戰すとのみ八日の朝の電車のなかの沈痛感よ

民族は運命共同体といふ学説身にしみてわれら諾(うべな)はむか

 

昭和十七年

 

新春譜

あかあかと林に燃えて巨(おほ)き日の初日の没(い)りを見つつ立ちをり

わが知れる卒業生の大方が明日の入営に來り惜別す

学生にてありたる君等たたかひにいのち献(ささ)げて悔なしといふか

 

新嘉坡(シンガポール)

 

まのあたりほろぶるものの時ありていのち甦る日なしと思ふや 2/15

 

三月六日出発、芦屋なる氷上家(長女の嫁ぎ先)に客となる

 

春の雨けぶれる汽車の窓に凭(よ)り何ゆゑなしのわれの一日(ひとひ)よ

えにしありて婿(むすめむこ)の家に一夜(ひとよ)いね暁(あかとき)にふる雨を聴きをり

故郷(ふるさと)につづく海辺にとれし魚(いを)少年の日のごとく食ひ飽かなくに

夙川(しゆくがは)の堤(どて)の長手をわがゆきてその白き土老い立てる待つ

津の国の広き大野をふりさけて古(いにしへ)の日本のまほらとぞ思ふ

ひたむきに君が書きけむ独乙(どいつ)精神論讀みつつわれの心揺らげり

 

十日帰京

 

アスファルトのまだ敷きのこる武蔵野の黝(くろ)き土のうへ恋(こほ)しみてゆく

七日の旅よりかへり來てわが部屋に火鉢の燠火(おきび)つぐこともなし

 

春闌(たけ)く

 

八十四年のいのち生きまししたらちねの母が終焉(をはり)の春たちかへる

小笹生(おざさふ)の丘のなだりを下り來てはつか流るる水のせせらぎ

たゆたひつつ一年われの書きて來しナチス論文けふ脱稿す

 

四月十九日(※東京初空襲)

 

春ま昼たちまち高射砲のみだれうつ音底ひびき家居りがたし

空襲のありたる夜半立ちて見張りする天つ空に星ものものし

  

母の一周忌

 

さ庭べのゆすら梅の實あかく垂り去年のごとく夏は來にけり

ありありと今宵おもかげに立つ母を心にもちて寝ねむとぞする

 

軽井沢

 

わが汽車の信濃境に入らむとき白き霧ふる山迫り來も

きよらなる処女子(をとめご)と青年を見合わしむとこの山のまにわれは來にけり

 

晩夏

 

をさなきより貧しきなかに生くるゆゑきびしかる世もわが常としぞ思ふ

教授俸やうやく五級に達せしときわが白髪(しらかみ)のいよいよ白かり

わが庭に植ゑし南瓜に生(な)れる實の大き栗南瓜貯へつつ食(を)さむ

一時間あまり並び立ちゐてわが妻の買ひ來し胡瓜ひとつを愛(を)しむ

久しぶりに手に入りし甘きもろもろを食ひつつ児らの豊かなる顔

二百十日静かに雨の降るなべにきびしかりける夏も去(い)ぬべし

 

処女作

 

わが書の小さき広告を目にとめて言寄せたまふ遠き友らが

 

ニュース

 

九月十三日コーカサス戰線の山の上に白々雪の降りそめしといふ

たかぶれる心あきらかに打たるる日歴史にありて国はほろびし

ツーロン港にフランス艦隊のことごとくが自沈に記事を読みつつ思ほゆ  11/29

 

昭和十八年

 

戰ふ世界

 

ドイツ軍神にしあらねばスターリングラードに重囲のなかに陥りにけり

このま冬独蘇の軍の戰へるドン河の辺に吹雪あらすな

トリポリ陥(お)ちたりときき衢(ちまた)ゆくわれの心にしみとほるもの  1/25

チュニジアを囲める軍の春たけて動き初めぬ世界視るべし

 

早春

 

昼餉(ひるげ)せむ列にまじりて春まだき新宿街(がい)に立ちつつ吾がをり

やうやくに席にしつきてわが食(た)うぶ一椀の飯(いひ)飽くといはなくに

電車にてやうやく坐りし病みあとのわがまへに立つ嫗(おうな)ゆるし給へよ

疲るれば椅子にしよりてあからひく昼をひとときまどろむ吾は

 

春ゆく

 

さみどりのけぶるが如く公孫樹(いてふじゆ)の芽ぶけるときに逢へらく思ほゆ

春おそく芽ぶきそめたる庭木々のみどりの色のわが眼にし沁む

 

六月十四日次女愛子M先生の媒介により・・満州に出動中の未見の青年と婚約す 

(M先生=三谷隆正  青年=喜多川篤典)

 

とこしへの縁(えにし)にあれやわが娘子のよき夫(つま)得たりいまだ見なくに

 

六月某日 宮中に大祓の儀ありて参列

 

齋庭(ゆには)なる白き真砂をふみまして皇弟(いろと)の宮のまゐのぼります

まこと船の艫(とも)ときはなちわが罪を海のはたてにもちて棄(す)てしめ

 

イタリア崩壊

 

いまの現(うつつ)にわが生きをりてまさに見るファシズム・イタリア崩壊の日

この日ムッソリーニ退きいづれの日にヒットラー死なむも驚かめやも

イタリア半島の尖端といへど英米軍まさに欧州大陸に上陸す 9/3

 

書斎

 

うちにたぎつものをおさへてわが書かむ論理の行(ゆき)を静かにたどる

原稿を書きつつをりて毎日が決戦の連続といふをわれは諾(うべな)ふ

むらぎもの心動きに日もすがら書きしもろもろ破りて棄てつ

 

秋づく

 

十月十日雨がしぶきて降るなかに雷(いかづち)鳴るも夏終るべく

たたかひに出で立つ日までこころ凝り書き遺したる君が論文

昏れのこるわが庭のへにつはぶきの花のあかるきその黄なる花

 

病床

 

相寄りてともに学びし若きらのいづこの涯にたたかふらむか

 

冬來

 

枯れ枯れし銀杏の落葉ふみてゆく今日の講義のおろそかならず

凩(こがらし)の吹ければ校庭(には)の公孫樹(いてふじゆ)の諸枝(もろえ)あらはになりにけるかも

 

昭和十九年

  

もの乏しくなりたる時を君が家に白米の飯(いひ)まぶしみて食ぶ

 

牡丹江

 

満州に寒さゆるびぬといふ記事にわれはうれしむ子ら居らしめて

いのちあらばまたも相見むわが子らの真幸(まさき)くあれよ雪凝(こご)る国に

 

 

M君の結婚         (M君=丸山真男)

 

若き友のこのよろこびに入らむ日をわが待ちにつつ恋ふるが如く

 

大内教授令息婚筵 (大内教授令息=大内力)

 

現身(うつしみ)のいといと豊(ゆた)にまどかなる君がへに坐り今日をことほぐ   父君

 

撤収

 

夥しきいのち死につつ独と蘇は三年(みとせ)たたかふ何といはむかも 

チャーチルが世界戰史にたぐひなき大軍事行動といふはいつか始めむ

大東京火(ほ)むらとなりて燃えむ日のいまは空想のときにしあらず

三年(みとせ)経しウクライナの争奪戰成らじかも独軍完全に撤収しぬ

 

彼岸前後

 

やはらかに雨ふりぬればみちのくの雪か解けむと思ひつつをり

春雨はけぶりつつ幽(かそ)かわが傘に音して降るも朝ゆくときに

 

河合栄治郎君

  

きさらぎの中の五日のゆふべまで君書読みつつその夜倒れぬ

 

伝道者浅野猶三郎君

 

なきがらのまへに涙垂りつつ亡友(とも)を語れる大賀一郎博士

 

法学士三浦淳君

  

はるかなる石見の国のふるさとをした恋ひにけむ君病みたれば

 

故郷

 

阿波讃岐さかひの山脈(やまなみ)日にきらふ幻に見て恋ひつつぞをる

 

秋川

 

秋川の川辺に咲ける梅の花わが下ゆけば香ににほひけり

 

小出かず刀自、・・・三月三十日七十七歳にて永眠す

 

春寒きま澄める空に人を焼く黒き煙ののぼりけるかも

 

欧州上陸作戦 六月六日英米軍北仏に上陸

 

既にして六月六日夜のあけに欧州上陸作戦遂げてゐたりし

方二十七哩海をおほひて艦船のとどろき渡る態勢(さま)し思はむ

ダンケルクを逃げ落ちしより四年目のけふを英米軍上陸す

この日にあへりしのみに吾がこころ燃ゆるが如し人にいはぬかも

偉大(おほい)なる夏來にけらし歴史ありて世界の運命極まらむとす

大戰のはじまりてより六年目(むとせめ)に入らむ今宵を月あかあかとのぼる

この月のかけにつつまた満ち照らむまでに戰争(いくさ)のやまんとしいはば

 

サイパン

 

太平洋の洋心とこそサイパンのひとつの島に戰ひ決せむ

 

秋風

 

四人の子のひとり疎開せしのみに家はひそけくなりしとぞ思ふ

さやけき秋の光のしみて照る空にむかひて歌うたふ子よ

戰の果(はて)はさもあらばあれ秋の日の野の上(へ)に赤く昏れ入りにけり

 

法学士大川幸平君応召入隊中病死す

 

現世のわかれは愛(かな)し妻にいひて君たたかひに召されたりけむ

近江の海大津の浦にかなしびて君が母父(おもちち)の老いつついまさむ

 

噫(ああ)小野塚先生

 

秋澄める山を來たりてうらがなし高原にして日は没(い)らむとす

軽井沢の旅の宿りの夜は明けて霜一面に白くひびけり

病む君をさびしき山にひとりおきて妻子らのへにかへらむ吾れか

むらぎもの心嘆きてわが書きし小野塚先生=人と業績

君が身につけ給ひし服外套着つつしわれの心つつしむ

われ夢にみまかりましし師の君をひとり言ひつつ音(ね)に泣きにけり

 

昭和二十年(1945年)

 

ただならぬ時代(とき)の流れのなかにして汝がたましひを溺れざらしめ

うつしみの老いゆくわれのかがやきて今ひとたびを起たしめたまへ

幼ならよ汝が魂(たま)をふるひ立たし大きくなれよ国危ふきに

戰のむしろ後(のち)なる国民(くにたみ)の底力しもわれはおもはむ

 

級友陸軍歩兵鈴木辰之助君レイテ島に戰死す 

 

帰還して言葉少なに語る君の和顔(にこがほ)をおもひありけるものを

君若くドイツにあそび女(をみな)子供にヘル・ハウプトマンと親しまれにき

すめ国の大き平和(たひらぎ)を恋ひにつつ君たたかひにいのちはてにき

 

一月七日 米軍ルンガエンに上陸開始す

 

待ちに待ちたるこの日や大いなる日は地のうへにめぐり來りぬ

迫り來るルソン島のたたかひを幻にみつつ夜々寝ねなくに

たたかひの天王山とわれの言ひしレイテ島はいかになりつらむか

 

春寒し

 

けふひと日わが妻子らを怒ることもなくて過ぎにき豊かなるに似つ

うつそみのわが毛髪(かみのけ)ののびしかば手鋏(たばさ)みて切る冬の名残りに

いみじき時代(ときよ)をいまに生きてをり大きくなりて子らは思はむ

 

某日某夜

 

防空壕の掩蓋は尺余の土盛りてわれのいのちの安けきに似つ

防火用水にわが飼ひおく鯉の子の小さきゆゑにあはれなるかな

夜のまもりに立ちゐて仰ぐ冬の空に北斗かたぶきうつくしきかな

 この美しき夜空を侵し入らんもの瞬時ののちにありとし思(も)へや

 

劫火

 

白々と雪はふりゐて壕のなかに米編隊機の近づくとどろき

天地は暗く閉して燃ゆる火の炎はこがす雪ふる空を

くれなゐに夜空を染めて燃ゆる火に大東京は焼けつつあり

 

焦土

 

大爆撃に一夜のうちに焼け果てし市路に立ちて声さへ出でず

焼跡に土と石とを積み重ねこのうつつなを遊べる幼なら

見のかぎり町は焼野となりにけりたたかひなればか人怪しまず

焼け果てし東京といへど旅ゆわがかへり來りてなつかしきかな

焼け壊(く)えし庭にし立てる石燈籠に三月の雨は静かに流る

花見れば花のうつくし雲見れば雲ぞ恋(こほ)しきわが生きをりて

美しきものはわが見て善きものは讀みてぞ置かむ明日は死すとも

 

暁光

 

ヨーロッパ戰終了したれば壁に貼りし世界地図はたたみてしまひぬ

けふよりは詩篇百五十日(ひ)に一篇讀みつつゆけば平和來なむか

眞夜ふかく極まるときし東(ひむがし)の暁(あけ)の光のただよふにかあらし

 

*1:Vgl.Walter Schulze-Soelde, Weltanschauung und Politik, 1937, S.4.

*2:Wilhelm Stuckart, Nationalismus und Staatsrecht (in "Grundlagen u. Wirtschaftsordnung des nationalsozialistischen Staates" Bd.I.), SS.17-18.

*3:Hilter, Mein Kampf, SS.430f.

*4:Vgl.Ernst Kriek, Leben als Prinzip der Weltanschauuung und Problem der Wissenschaft, 1938, SS.25-26.

*5:Hitler, a.a. O., S. 327.

*6:Alfred Rosenberg, Der Mythus des 20. Jahrhunderts, S.514.(吹田・上村邦訳参照)

*7:Hitler, a.a. O., S. 485.

*8:Rosenberg, a.a. O., S. 634.

*9:Kriek, a.a. O., S. 741.

*10:Heinrich Hartle, Nietzsche und der Nationalsozialismus, 1937, S.64.(南・松尾邦訳参照。)

*11:Rosenberg, a.a. O., S. 115.

*12:Rosenberg, a.a. O., S. 140.

*13:同著、S.22.

*14:同著、S.2.

*15:Hitler, a.a. O., S. 440.

*16:民族社会主義の問題については、著者はフィヒテとの対比において別に詳しく論述しておいた。(『国家学会雑誌』第54巻第12号)

*17:Hitler, a.a. O., S. 741.

*18:Paul Tillich, Das Damonische, 1926.