巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「○○的な聖書の読み方をしよう」と人に誘われた時、私たちはどう対応すればいいのでしょうか?

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ある時、教会の役員の方が私の所に来られ、次のようにおっしゃいました。「あのね、○○的な聖書の読み方って知ってる?これ、すごいんよ。講義テープ貸したげるから一度聴いてみて。○○的読み方分かるとね、聖書が、ぐぁーってものすっごく良く分かってくるから。」

 

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「○○的聖書の読み方」という表現は私たちに何を暗示しているのでしょうか?まず、そこには、「○○的聖書の読み方」ではない「非○○的聖書の読み方」という別の読解法があるということだと思います。また、「○○的聖書の読み方」が薦められる時、それが意味しているのは、現在、私やあなたは、「非○○的聖書の読み方」をしているんですよと相手が認識しているということだと思います。

 

この部分は非常に大切だと思います。というのも、それまで自分的には特に意識していなかった場所に、「○○的聖書の読み方」という新概念の紹介がなされることにより、突如として「○○的」vs「非○○的」という二つの異種概念が私たちの内に生じ、その結果、「それじゃあ、○○的聖書の読み方をしていない私は、聖書の読み方においてどこか欠けているのだろうか?いや、それどころか、これまでの私の聖書の読み方は間違っていたのだろうか?私の聖書理解の進みがのろく、遅々としたものであるのは、もしかしたら、私が○○的聖書の読み方をしていないからではないのか?役員のA姉妹が言うように、○○的聖書の読み方が分かるようになったら、私も『聖書が、ぐぁーってものすっごく良く分かってくる』のではないだろうか?」といった漠然とした不安を感じるようになる場合も少なくないと思います。

 

特に、イエス様の御言葉をもっと味わいたい、信仰の歩みにおいても成長していきたい、でもなかなか願うように成長できていないように思い、試行錯誤している信仰者にとって、こういった「薦め」は決して軽く見過ごすことのできないものではないかと思います。

 

それは譬えて言えば、難病の完治を求め、長年さまざまな治療法を模索しながらも、未だこれといった決定的な薬や療法を見い出すことができず悩んでいる方にある日、誰かが「この薬知ってる?これ、すごいんよ。この特効薬飲み始めたらね、あなたの体、ぐぁーってものすっごく回復してくるから。」と薦めてくるようなものではないかと思います。

 

真摯な人であればあるほど、そして試行錯誤の内にもなんとか神様の御言葉を知り、深く交わりたいと望んでいる人であればあるほど、深層の部分で、それこそ藁にも縋る思いで、「良い薬」を求めているのではないかと思います。特に、最近開発されたという「万能薬・特効薬」及びその「抜群のすばらしい効果」が大々的に提示される時、だれかそれに惹かれない人がいるでしょうか?

 

「強い不安や緊張状態にさらされるようになったとき、、分かりやすい世界観の誘惑は強くなる」と仲正昌樹氏は言っていますが、これは教理的カオス状態の中にあるキリスト教界にも当てはまるのではないかと思います。

 

さまざまな相反する教えが乱立する現在の混乱の中で彷徨う私たち信徒は、その状態に疲れ果てた挙句、This is THE answerと言ってくれるような「分かりやすい」「特効薬」を求め、それへの誘惑が強くなっていきます。そんな時に聞く「○○的読み方をすれば、聖書がぐぁーってものすっごく良く分かってくる。」という薦めは、なんと説得力があることでしょう!これこそ、主がA姉妹を遣わし私に助けの御手を差し伸べてくださっていることの「しるし」ではないのでしょうか?これを拒まなくてはならない理由などどこにあるのでしょう?さあ、○○的聖書の読み方を教えてくれるセミナーや講習会に行ってみようではありませんか!・・・

 

しかし、そんな時だからこそ、私たちは立ち止まって、熟考する必要があると思います。

 

まず、なぜ「今」(つまり21世紀に)、○○的聖書の読み方が唱道されるようになったのか、なぜ3世紀や、8世紀や、14世紀や、17世紀には唱道されず、「今」唱道されているのか、その部分を熟考してみる必要があると思います。D・A・カーソン師が言っているように、ここにおいて歴史神学およびキリスト教教理史の研究が大切になってくると思います。(here

 

私たちは今しばらく、21世紀という〈現在〉から目を離し、歴代のキリスト教会(初代教会、カトリック教会、正教会、プロテスタント教会等)の「聖書の読み方2000年史」に溯っていき、そこに果たして「○○的聖書の読み方」という現在提唱されている方法論がかつて存在していたのか否か、そしてそれが存在していたのなら、それは具体的にいつのことで、その周辺にどのような論争ないしは教会会議があったのか、そういう点を手間暇かけ、ていねいに丹念に追っていくことが大切ではないかと思います。

 

2000年余の教理史を辿っていくと分かるのが、そこには、有限なる人間としてのキリスト者たちの、切なる真理探究と試行錯誤の歴史があったということです。

 

聖霊は生ける真のキリスト教会を絶えず助け、罪や弱さゆえに教会が誤りに陥りそうになった時、また異端侵入に翻弄される時、切なる呻きのうちに、羊たちの群れを正統教理に引き戻し、あるいは死に至るまでも正統信仰に忠実であるよう教会を真理の霊で満たしてくださいました。

 

しかしああ、それは何と遅々とした紆余曲折の多い歩みだったことでしょう!そして痛み多き過ち多きキリスト教会の、信仰者たちの歩みを堪忍し、赦し、見守り続けてくださっている私たちの神はなんと忍耐強い御方でしょうか!

 

2000年余の教理史は、驚くべき神の御忍耐および御慈愛を示すと同時に、これぞ「The 聖書の読み方」「The 特効薬」「The ロードマップ」といった解釈的幹線道路の諸主張の多くがーー良くて ‟不十分”そして最悪の場合 ‟欺瞞”であるということにすらなりかねないーーという厳しい現実をも私たちに突きつけてくると思います。

 

聖霊を宿した1世紀のクリスチャンが試行錯誤し、聖霊を宿した中世のクリスチャンが試行錯誤し、聖霊を宿した宗教改革期のクリスチャンが試行錯誤した、その長い長い解釈学的歩みの連続した地平の上に私たちは信仰の歩みを続けています。

 

皆、「万能特効薬」は見い出すことができなかったけれども、それでも地道な真理探究を続け、書き物を残し、後世の私たちにつないでくれました。カオスの中をもがき進むのは苦しいことです。いつ果てるかも知れぬ薄暗いトンネルの中を、限られた光を頼りに進んでいくのは孤独な作業です。しかしそれはルターであっても、クリソストムスであっても、アタナシオスであっても、アクィナスであっても同様だったと思います。

 

「人々は、様々な問題を一発解消してくれる秘策が、どこかに必ずあるはず──そう期待したのです、、単純な解決策に心を奪われたときは、『ちょっと待てよ』と、現状を俯瞰する視点を持つことが大切でしょう。」現代にも起こり得る全体主義より

 

「○○的な聖書の読み方」というような新しい薦めがなされた時、私たちはそれらに飛びつかず、まずはどこまでも慎重である必要があると思います。真新しい方法論がすべて間違っているということにはならないと思いますが、私たちは主の前に謙遜であると同時に、弱さと誤りを犯しながらも聖霊に絶えず見守られ保持されてきた使徒以来のキリスト教会の為してきた各種判断の前にも謙遜である必要があると思います。