巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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「時代の教理」ファシスト的伝統(by G・エドワード・ヴェイス他)

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「彼は愚かではなかった。完全な無思想性―――これは愚かさとは決して同じではない―――、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してもアイヒマンから悪魔的な底知れなさを引き出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。」ハンナ・アーレント「イェルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告」より

 

目次

 

「時代の教理」ファシスト的伝統(by G・エドワード・ヴェイス)

 

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G・エドワード・ヴェイス(パトリック・ヘンリー大学学長、コンコーディア神学大理事)

 

Gene Edward Veith, Jr., Modern Fascism: The Threat to the Judeo-Christian Worldview, chapter 2, "The Doctrine of Our Age" The Fascist Traditionより一部翻訳抜粋

 

 

「各時代にそれぞれ特有の教理があるのだとしたら、われわれの時代の教理はファシストのそれであろう。無数の徴候がそれを示唆している。」ベニート・ムッソリーニ*1

 

ファシズムは特異な系譜を持っています。そしてその諸前提の出処は西洋精神史の深懐まで達しています。それは、現代文化ーー右翼だけでなく左翼の内にも、保守層だけでなくアヴァンギャルドの内にも、過激派だけでなく大衆文化の中にもーー浸透しています。

 

ファシズムに対する理解が貧弱であり、またその本性が集団的否定という行為の背後に巧妙に隠されているため、ファシズム思想の特定化が困難なものとなっています。ファシズムが首尾一貫したイデオロギーであるにもかかわらず、1930年、40年代に実際にファシストたちが何を支持していたのかを説明できる人は今日ほとんどいないのが現状です。

 

ゼーン・シュターンヘルは、「ファシスト」という語が、「これ以上ないと言っていいほど、決定的に乱用されている」と指摘しています。*2

 

誰かをファシスト呼ばわりすることは、論敵を中傷しけなす方法の一つです。これを自称する人は誰もいません。ファシズムというのは必ず自分たちの〈敵〉に帰されるべき名称であって、それは間違っても決して自分たちを指すものではなく、またそうあってはならないのです。

 

こうしてこの語はそれが意味するものから切り離され、かくある内にも、ファシズムの本質は、気づかれず検知されないまま生存し続けています。ーーそれは名が特定されていないため検知されていないのです。

 

大半の人にとり、ファシズムというのは一つのシンボルに過ぎません。ファシズムは、(受容もしくは拒絶されるべき)一群の思想というものではなく、原型的悪の同義語となっています。そうです、ファシズムは、大衆文化の中で、万能・多目的な「悪漢」の代名詞となりました。*3

 

サディスティックな拷問者、命じられた通り機関銃で無実な人々を殺していく怪物ーーファシズムのそういったイメージが私たちの第一印象となっています。そしてそれらのイメージはそれ以上にぞっとするような恐い事実をぼかしていますーーそう、実際のファシストは私たちとほとんど何も変わらない一般人であり得るということを。

 

マルティン・ハイデッガー*4ポール・ド・マンなど著名なファシスト知識人の擁護者たちは、彼らがいかに善良かつ礼儀正しい市民であったかを強調します。--あたかも、「ハイデッガーたちは映画の中に出てくるナチ党員とは全然違っているので、本物のナチ党員ではない」とでも言っているかのように。

 

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Martin Heidegger and Nazism - Wikipedia

 

その人は実際、優しく、思慮深く、創造的で、知的なのかもしれません。しかしそうでありながらも依然として彼はファシストなのです。ニーチェのようにファシズム理論に影響を及ぼした思想家たちや、エズラ・パウンドのようにファシズム・シンパであった著名な近代主義者たちに関する本をみると、〔彼らの擁護者たちは〕彼らとファシズムとの関連性をなんとか覆い隠そうとし、いかに彼らの展開したテーマがファシストたちに誤解されたのかということを強調してやみません。

 

右翼と左翼

 

ファシズム認識における問題の一つは、それが「保守的なものである」という前提(思い込み)に在ります。シュターンヘルは、いかにイデオロギー研究がこれまで「ファシズムに関する公的マルクス主義解釈」によって曖昧にされ且つ覆い隠されてきたのかを指摘しています。*5

 

マルクス主義はファシズムを自らの対極に位置づけています。つまりマルクス主義が漸進的なら、ファシズムは保守的であり、マルクス主義が左翼なら、ファシズムは右翼であり、マルクス主義がプロレタリアートを擁護しているのなら、ファシズムはブルジョアジーを擁護し、マルクス主義が社会主義支持なら、ファシズムは資本主義支持、、といった具合です。

 

マルクス主義学界の影響により、ファシズムに関する私たちの理解はこれまで深刻に歪曲されてきました。共産主義とファシズムは、社会主義のライバル銘柄です。マルキスト社会主義が国際的階級闘争に基づいているのに対し、ファシスト国家社会主義は、国家統一を中心にした社会主義を促進しています。そして共産主義者もファシストも両者共に、ブルジョワジーに敵対し、両者共に保守層を攻撃しました。

 

それらは両者共に大衆運動であり、労働者たちだけでなく、インテリ知識人層、学生、芸術家たちに特別のアピールをしました。共産主義者もファシストも共に、強固な中央集権化した政府を好み、自由経済および個の自由に関する理想を拒絶しました。

 

ファシストは自らのことを右翼とも左翼ともみなしていませんでした。彼らは自分たちが、両極の最良部分を綜合した、第三翼を構成していると信じていたのです。*6

 

たしかにマルクス主義とファシズムの間には重要な相違点があり、また両者の間には苦いイデオロギー的憎悪・対立があります。しかし互いに対する反目によって、革命的社会主義イデオロギーとしての両者の親近性の事実に、私たちの目が覆われるようなことがあってはなりません。

 

また、「右翼」もしくは「左翼」といった修辞表現、あるいは「反動」「ラディカル」といった人工的構成概念によって、政治的・社会的立場全域に浸透している一つの思想方式の存在がぼかされるようなことがあってもなりません。

 

二つの革命イデオロギーを「相反する両極」と描き出す左翼/右翼のメタファーは、深刻に人を誤らせるものです。ジャロスラヴ・クレジュキーは、左翼 vs 右翼という「一直線上の形象("unilinear imagery")」の不十分性を指摘しています。*7

 

このメタファーは、元々、革命後のフランス議会の議席配置に由来しています。政治的に言って、右側に座っていた議員たちは絶対君主制を支持していました。

 

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経済的に言えば、彼らは政府専売および統制経済を支持していました。また文化的には、彼らは人民に対する専制的支配を支持していました。それに対し、左側に座っていた議員たちは、民主主義、自由経済および個人の自由を支持していたのです。*8

 

こういった空間的メタファーは、啓蒙期のデカルト幾何学*9 や18世紀の政治的選択にはよく調和するでしょうが、20世紀以降の政治分析のモデルとしてはもはや正常に機能し得なくなっています。

 

元来のモデルで言うなら、より少ない政府干渉を望み、自由経済市場に信頼を置いているアメリカの保守派は、「左翼」ということになります。そして政府主導の経済をより望むリベラル派は「右翼」となるでしょう。*10

 

ですから「リベラル」「保守」という用語それ自体は、相対的用語なのです。ーーそれは人が何を保持しようとしているかによって変わってきます。(自由経済市場および政府統制に対する抵抗を展開した)19世紀における「リベラル」は、20世紀の「保守」です。

 

そしてこれを社会主義のケースで考えてみますと、クレジュキーが指摘しているように、左翼および右翼の領域は意味のないものになります。マルクス主義諸国家は、統制経済および、人民に対する厳格な統制を伴う強固な、権威主義的中央政権を実施しています。ですから本来なら、彼らはフランス国民議会における「右翼」側の席に着かなければなりません。しかしながら、マルクス主義者は、革命主義者であり、それゆえ明確に反保守です。

 

他方、ファシスト社会主義はどうかと言いますと、マルクス主義とのさまざまな相違点を持ち、文化的・知的にラディカルでありつつも、統制経済、強固な中央政権、人民に対する厳格な統制を推進しているという点でマルクス主義に類似しています。「両者の間に存在する多くの類似点にもかかわらず、共産主義者たちは今に至るまで『極左』、そしてナチスは『極右』と見なされ続けているのです。」*11

 

その結果、自分たちのことを「政治的公正さにのっとった左翼」と考えている人々は、「右派」保守層のことをファシスト呼ばわりして彼らを非難していますが、その実、自分たち自身のファシスト傾向には全く盲目なのです。

 

疎外

 

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彫刻家アルベルト・ジャコメッティ(Alberto Giacometti, 1901 - 1966年)の作品:Three Men Walking

 

ファシズムは実質的に、啓蒙期以来の西洋の精神的景観の一部となっていた「疎外」に対する応答でした。現代社会の個々人は互いに疎外感を感じています。また科学、テクノロジー、経済的現実、産業革命による環境破壊は、個人を自然から引き離し、乖離させました。

 

それゆえ、「ああ共同体とつながりたい」「自然世界と有機的な調和の内に生きたい」という切なる呻きが人々の内にありました。論理や合理主義、、それらの冷ややかな分析や基本的人間衝動の否定は、何か息詰まるもののように思われ、疎外感は深まる一方でした。もしも客観的知識が人を疎外させるのなら、主観的経験は私たちを解放し癒しに導くに違いない。。真正なる存在は、さまざまな感情を解き放ち、人生における主観的・不合理な次元をはぐくんでいくことで到来するのではないだろうか?

 

疎外のジレンマを解決しようとの試みはーーそれ自体としては理解できますがーーその具体的かつ政治的表現をやがてファシズムの内に見い出すようになります。*12

 

18世紀に始まり、加速を続けていた産業革命は、人間生活における深刻なる疎外を意味していました。自然は機械に取って代わられ、村は工場に取って代わられました。産業革命以前には、多くの人々は自然から生計を立てていました。自然のリズムーー季節、光と闇のパターン、種まきがあって収穫という事の並びーーこういったものが彼らの生活を調整していました。しかし産業化により、自然とのこういった親密性が壊されました。工場が意味するのは、人がもはや野外ではなく屋内で働くということです。

 

人々は自分の手で育てたものや作ったものの代わりに製造された品に依拠するようになっていきました。機械の到来により、人々は自然に依存する必要性から解放されましたが、それには環境からの疎外という代価が伴っていました。産業革命に伴う、近代科学の興隆と共に、自然それ自体が機械と見なされるようになっていきました。

 

自然は、因果律を持つ閉鎖体系として解釈されるようになり、それは数学的・実験的分析によって完全に説明がつくものとみなされるようになりました。産業革命以前、人間が「計り知れない有機体」としての自然に直面してきたのに対し、啓蒙期の科学者たちは自然を、「複雑ではあるけれども、分解し、合理的に理解し、その他の機械装置と同様に使うことのできる不活性なメカニズム」に引き下げました。

 

機械は自然と支配し、搾取し、侵害しました。丘陵や森林地帯は平らにされ、原料物質は地から掘り起こされ、機械に送り込まれ、人間の消費のための製品となっていきました。産業廃棄物は大気、水、そして景観を汚染しました。19世紀の終わりにはすでに、ウィリアム・ブレイクが、空気を汚染し教会に黒く汚点をつけている「暗きサタニックな製造所」のことを非難していました。*13

 

産業化は人間の自然との関係に変化をもたらしただけではありませんでした。それはまた社会的関係にも革命をもたらしたのです。産業的効率性という名の下に小さな家族経営の畑は併合され、機械によって運営される広大な耕作地に変貌していきました。こうして追放された農夫たちは都市へと流れ込み、機械に仕えつつ工場で働くようになりました。

 

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チャップリン「モダン・タイムズ」

 

村での生活における密接な地域的つながりは、大都市における個的関係性を持たない経済的つながりに取って代わられました。何世代にも渡って同じ場所に根付いていた大家族制は崩壊し、その代りに、家族それぞれが、仕事にありつける所ならどこでも移動していくようになりました。旧来の農村では、父親、母親、子ども達が安定した社会的・経済的秩序の中で自らの持ち場を担当しつつ、家族の構成員それぞれが異なる、重要な役割を担っていました。

 

初期産業都市では、男性、女性、そして子供たちまでもが、最低限の報酬で長時間、工場での働きをしていました。貧困層の中での伝統的な家族生活は砕散しました。社会疎外は民主主義の興隆によっても焚きつけられました。産業化と同様、民主主義も多くの点で、解放的でしたが、それはまた不安定さをもたらすものでもありました。民主主義改革は啓蒙主義に付随して起り、その合理主義的諸前提を共有していました。

 

何世紀にも渡る階層構造ーーその中で皆が明白に規定された役割を持っていましたーーは平等に関する新イデオロギーによって転覆します。以前には階級や家族によって決定されていた人のアイデンティティーが不確かなものになりました。

 

慣習による旧い契約や繋がりは、非個的な法典に置き換わりました。民主主義革命およびその産業化・平等イデオロギーは、それまでのあらゆる伝統的諸権威に問いを挟むようになり、こうして混乱とシニシズムが生じてきました。

 

旧秩序という有機的一致ーーその中で個々人は家族、共同体、国というより大きな有機体に統合されていましたーーは、競合する諸党派、競合する個々人に取って代わられ、それぞれが狭い範囲での自己利益を追及していくようになりました。より大きな全体の一部であるという旧い意味における帰属感がこうして失われていきました。

 

ロマン主義

 

人々は自然、社会、そしてーー自己のアイデンティティーがあまりに不確かになったためにーー自分自身に対してでさえも疎外感を覚えるようになりました。この病癖を作り出した張本人であるように思われた啓蒙期合理主義は、19世紀に生じたロマン主義からの応答に遭いました。

 

ロマン主義者たちは自然界の価値を再評価しました。自然は機械としてではなく、生ける有機体として見られるべきだと彼らは主張しました。自然に対し、人は分析知性のみによって接近してはならない、、ワーズワース曰く、「われわれは解剖することにより殺人を犯しているのである」と。*14

 

自然の美や荘厳さを黙想することにより、私たちは癒しと霊感をもたらす宇宙と一体になる経験をすることができる、、ロマン主義者によって神格化された自然は、自己に対する新評価をも伴うものでした。理性ではなく情熱が一意的に「自然なもの」とされました。抽象的知性の人為性を拒絶しつつ、ロマン主義者たちは具体的経験や純正なる感情を磨いていきました。

 

またロマン主義的主観主義と反合理主義は、哲学分析によっても強化されていきました。カントや彼の追従者たちは、客観的世界の知識というのが問題をはらむものであり、それゆえ私たちが確信できるのはmental sensations(心的知覚)であると論じました。カントはいかにして人間知性が諸感覚からのデータを積極的に形成しているのかを論証することにより、啓蒙主義の経験論を解体しました。ここにおいて、自己は受動的情報の受け手であるにとどまらず、その世界に対する積極的形成者ともなったのです。

 

ロマン主義はまた、過去へのノスタルジーおよび原始の状態に対する崇敬によって特徴づけられています。ロマン主義にとっての重要な枠組みは「高貴な野蛮人」であり、彼らはより洗練された社会の罠によって害されておらず、自然との調和・一致の内に生きているのです。それゆえ、原始的文化は進歩し且つ疎外された諸文明よりも倫理的に優越しているとされました。ロマン主義者たちは、民話を収集し、歴史小説を書き、民族的アイデンティティーを基盤にした新しいナショナリズムを滋養しつつ、自らの文化遺産を探求していきました。

 

多くのロマン主義者は、個の内に孤立することへの没入により、疎外に答えようとしました。こうして彼らは社会を軽蔑しつつ、自然および自己実現に向けての個人的探求の内に慰めを見い出しました。

 

そしてロマン主義は政治的影響をも及ぼしていきます。ロマン主義の第一人者であるジャン=ジャック・ルソーは、個人の自由と、(「一般意志」という概念の内にある)集合的有機体としての状態とを綜合させました。そしてこの「一般意志」は単一の指導者の内に具現化され得るとされました。*15

 

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フランス革命は人間の権利という啓蒙主義の実践として開始されましたが、それに続く恐怖政治の流血と殺戮は、情熱のほとばしり、原始的感情の解き放ちというロマンティズムを持っていました。こうして短命の共和制は、ナポレオンに取って代わられました。そしてこのナポレオンこそ、彼自身の内に、《覚醒されたナショナリズム》という集合的意志を具現化するロマンティズムな英雄だったのです。

 

ロマン主義的唯物論

 

19世紀の後半になると、自然に対するロマン主義的見方が翳り始めます。チャールズ・ダーウィンジークムント・フロイトの研究は、ロマン主義者たちの楽観主義に揺さぶりをかけました。初期ロマン主義者たちは、「自然は調和と平安についての教えを教示している、そしてもしも人がそういった自然の倫理的模範に従いさえすれば、万事善くなる」ということを信じていました。しかしチャールズ・ダーウィンによって明かされた「自然」は、それとは全然異なるものでした。

 

自然は調和や平安ではなく、闘争と暴力を教示しています。そして自然の法則は、弱肉強食のそれに他ならないのでした。進歩は、強者が弱者を破壊するという、無慈悲な競争により成し遂げられます。テニソンによれば、自然とは「牙や爪が、弱者の血で染められた強者を選ぶもの “red in tooth and claw”」です。*16

 

自然淘汰によるダーウィンの進化論は、生物学の領域を遥かに超え、影響していきました。ーー自然に対し妥当なものは、きっと個人や社会においても真であるに違いない、、もし自然が、競合、闘争、弱肉強食によって進歩していくのなら、すべての進歩がそういった方法で成し遂げられるに違いないと。

 

これは、19世紀における容赦なき資本主義の劇的成功にも見られる、経済面にも適合しているように思われました。「社会ダーウィニズムが広範囲に受容されるようになるにつれ、それは礼典的尊厳を持つ人間の人格性を剥ぎ取っていきました。社会ダーウィニズムは肉体的生活と社会的生活の間に何ら区別を設けず、人間の状態を絶え間ない生存競争という観念で捉えました。その結果が、弱肉強食という概念です。」*17

 

科学者たちにとり、ダーウィン主義は、さらなる問いを引き出し、研究のための新たなる道が拓かれました。シュターンヘルは、いかに科学的実証主義が「社会ダーウィニズムのインパクトを受け、深遠なる変化を遂げた」のかについて述べています。「19世紀の後半、人間行動の決定的要素として合理的選択への科学的実証主義のそれまでの強調は、次第に遺伝、人種、そして環境に関する新しい考察へと道を譲っていくようになりました。」*18

 

決定論の観念はさらに、自由と平等に関する民主主義的な諸前提を弱体化させていきました。何人かの生物学者たちは、人間は動物の一種に過ぎないと仮定した上で、人種を亞種として観察し始めました。

 

ダーウィニズムの解剖を基盤にした人種主義という誤った科学は、人種間の競合および人種の優越性についての研究を始めました。社会改革者たちは、優生学の諸理論を形成することにより、種を改良しようと試み始めました。自然に関するこういった暗く、唯物論的見解は、ロマン主義的な理想主義に揺さぶりをかけ、また、それにより、自然からの疎外感が増し加わっていきました。

 

多くの人はダーウィニズムに触れた後、ロマン主義を捨てていき、テニソンのようにキリスト教に再び戻っていきました。しかしロマン主義者の中にはダーウィン主義を包容することにした者たちもいました。それは、ロマンティズム的個人主義の中に内在している彼らのエリート意識に訴えたのです。ロマン主義者たちは、「凡人たちの世界の中にあって自分は、より優れた存在なのだ」と自負する傾向があったからです。

 

ダーウィニズムの容赦ない思考、無慈悲に対するその容認もまた、ヴィクトリア朝式道徳主義に反発を覚えていたロマン主義者たちの心に訴えました。彼らの目標は今も尚、自然との合一にありました。ーーたといその自然が「弱者の血で染められている」ものであったとしても。

 

こうして自然が再解釈されるのと並行して、ジークムント・フロイトは自我の再解釈を強行していきました。

 

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ジークムント・フロイトSigmund Freud、1856-1939)著書「The Future of an Illusion (1927)」の中でフロイトは、宗教が幻想にすぎず、「おそらく、文明における精神的商品の中でもっとも重要なアイテムであろう」と述べています。(参照

 

ダーウィンが自然の本質を暴力的な闘争と見なしたように、フロイトは自我の本質を暴力的な闘争とみなしました。人間の内面に関するフロイトの探求は、ロマン主義によって鼓舞された自己探求に関連しています。

 

彼は、精神分析は、「人間の行動は、無意識的にして不合理な諸力によって支配されている」と説きました*19。ーー実に、合理性は、原始的激情の奔出を覆い隠している一枚の薄いベニヤ板に過ぎない。〈超自我〉という罪悪感を誘発する諸規範は、自然的本能を抑圧している。ゆえに健全な人格はそれを解放してやらなければならないと。

 

セクシュアリティーに対するフロイトの強調にショックを覚える方がいるかもしれませんが、それは、ロマン主義の内にある放縦な歪みに強く訴えているのです。性に関するフロイト見解は、「抑圧された願望の満たし」を基盤とする新しい倫理観を正当化しているように思われました。フロイトによると、そういった願望には、暴力的で屈折した衝動ーー権力、破壊、そして死への渇望ーーが伴っています。

 

伝統的倫理観が激情をコントロールすることを強調したのに対し、フロイト主義は、そういったコントロールのメカニズムを非合法化し、激情の奔出に認可を与えています。また伝統的倫理観が平安および同情に価値を置いていたのに対し、ダーウィニズムは進歩のためのメカニズムとして闘争と暴力を認可しています。

 

両思想家とも、「自然」と「自我」というロマン主義的二極について言及する過程において、新しい種類の科学的唯物論を可能なものとしました。啓蒙主義の科学は、理性、平等、自由を促進する傾向にあり、それらは皆、民主的諸制度という合理的型を通して支持され得ました。他方、新しい唯物論は、民主主義に関するあらゆる諸前提を弱体化させました。シュターンヘルは次のように指摘しています。

 

「社会的・政治的心理学の新理論は、『人間の行動は合理的選択によって統治されている』と主張する、人間に関する従来の機械論的概念を言下に、拒絶しました。こうして新見解は、政治的問題に取り組む上で、論理的思考よりも情操や感情の方が価値があると規定しました。そして、それにより民主主義およびその諸制度や働きに対する侮蔑心が助長されていきました。」*20

 

ダーウィン主義的科学および哲学的非合理主義、その両方を受容した「ロマンティズム唯物論」の出現における主要人物は、フリードリヒ・ニーチェです。

 

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)

 

暴力に対する彼の同情と称賛、善悪の彼岸を超えた「超人」の進化に対する彼の信奉、そしてユダヤ・キリスト教的伝統への彼の知的攻撃は、ファシスト理論発展における礎石になりました。ファシズム理論にとっても現代思想にとっても重要な、こういったニーチェの思想に関しては次に続く章でさらに詳しくみていきたいと思います。

 

ダーウィン、フロイト、ニーチェーーこの三人の登場により、ファシスト世界観の諸要素が今や整い始めました。1890年までには、ヨーロッパの精神的風潮は、ダーウィニズム、人種理論、そして哲学的非合理主義で飽和状態になっていました。

 

シュターンヘルによれば、その当時の「新しい」知識人たちは、合理主義的な個人主義や、共同体的つながりの断絶を糾弾し、創造力なき型どおりの日課を責め、本能ーー「時には動物的本能でさえも」--を称賛するがゆえに理性的主張を攻撃していました*21

 

時代的疎外に対する典型的応答は、反抗の諸運動の内に見られました。「事物と理性の世界に対する反抗、唯物論および実証主義に対する反抗、ブルジョワ社会の平凡性に対する反抗、リベラル民主主義の混沌に対する反抗です。*22」若い知識層の間での流行りはーー今日でもそうですがーー「彼らの目に根本的に腐敗しているように見える、西洋文明そのものを糾弾すること」にありました。*23

 

こういった物の見方は一般化していきました。--知的エリートだけでなく、学生やジャーナリスト、大衆作家、一般教養層の間でも*24。一般の人々はそういった線上の思考に慣れていきました。こうして彼らは新しい倫理観および新しい社会秩序という思想を受け入れるよう条件付けられていきました。*25

 

第一次世界大戦の後遺症、1930年代の経済破綻、そしてそういった諸問題を取り扱うに当たっての民主主義の明らかな失敗、、こういったものが重なり、現代世界の産物である疎外は今や危機段階に達しました。この時までに、新運動の理論的枠組みは完了し、すでに一つの政治的運動として融合化しつつありました。

 

ファシスト党はヨーロッパほぼ全諸国で次々と誕生し始めました。またその劇的成功がとりわけドイツで起こされたというのは決して偶然の産物ではありません。ロバート・エリクソンが指摘するように、近代性の危機は、ワイマール共和国において絶頂に達したのです。ーーそう、精神分析学、新しい相対主義物理学、産業主義、そして現代神学の中心地であったワイマール共和国において、です。*26

 

 

〔補足資料〕「世界観」が大衆を動員するーーハンナ・アーレント『全体主義の起源』(仲正昌樹氏)

 

仲正昌樹著「ハンナ・アーレント『全体主義の起原』 2017年9月 (100分 de 名著) 」(一部抜粋)

 

国民国家の瓦解と全体主義の台頭

 

近代ヨーロッパの主要な国民国家は、互いの境界線を守ることによって均衡を保っていました。しかし、十九世紀末に勃興した「民族」的ナショナリズムは次第に人々の「国民」意識を侵食し、国民国家を支えていた階級社会も資本主義経済の進展によって崩れていきます。ほころびが目立ち始めた国民国家を、文字通り瓦解させたのが全体主義だったのです。

 

「大衆」の誕生 

 

全体主義とは何だったのか。数多ある政党と全体主義政党との違いを、アーレントはまず「大衆」との関係で論じています。   

 

「全体主義運動は大衆運動である。それは今日までに現代の大衆が見出した、彼らにふさわしいと思われる唯一の組織形態だ。この点で既に、全体主義運動はすべての政党と異なっている。」 (『全体主義の起原』第三巻、以下引用部はすべて同様)

 

ヨーロッパ社会に「大衆」の存在が浮上し、その特質が論じられるようになったのは十九世紀の終わり頃からです。そこで強調されたのは、「市民」との違いでした。

 

国民国家で「市民」として想定されたのは、自分たちの利益や、それを守るにはどう行動すればいいかということを明確に意識している人たちです。彼らは自分たちの利益を代表する政党を選び、政党は市民間の利害を調整して、その支持を保っていました。

 

「市民」社会における政党が特定の利益を代表していたのに対し、何が自分にとっての利益なのか分からない「大衆」が自分たちに「ふさわしい」と思ったのが全体主義です。全体主義を動かしたのは大衆だったということです。

 

「全体主義運動は、いかなる理由であれ政治的組織を要求する大衆が存在するところならばどこでも可能だ。大衆は共通の利害で結ばれてはいないし、特定の達成可能な有限の目標を設定する固有の階級意識を全く持たない。」

 

労働者階級、資本家階級など、自分の所属階級がはっきりしていた時代であれば、自分にとっての利益や対立勢力を意識することは容易でした。逆に言うと、資本主義経済の発展により階級に縛られていた人々が解放されることは、大勢の「どこにも所属しない」人々を生み出すことを意味したのです。 

 

アーレントはこれを、大衆の「アトム化」と表現しています。多くの人がてんでんバラバラに、自分のことだけを考えて存在しているような状態のことです。大衆のアトム化は、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、西欧世界全般で見られました。

 

...階級社会では、同じ階級に属する誰かが自分の居場所や利益を示してくれるので、政治や社会の問題に無関心であっても生きていくことができました。これに対して、階級から解放されると、自由である反面、選ぶべき道を示してくれる人も、利害を共有できる仲間もいなくなってしまうのです。

 

しかし、平生は政治を他人任せにしている人も、景気が悪化し、社会に不穏な空気が広がると、にわかに政治を語るようになります。こうした状況になったとき、何も考えていない大衆の一人一人が、誰かに何とかしてほしいという切迫した感情を抱くようになると危険です。

 

深く考えることをしない大衆が求めるのは、安直な安心材料や、分かりやすいイデオロギーのようなものです。それが全体主義的な運動へとつながっていったとアーレントは考察しています。   

 

「ファシスト運動であれ共産主義運動であれヨーロッパの全体主義運動の台頭に特徴的なのは、これらの運動が政治には全く無関心と見えていた大衆、他のすべての政党が、愚かあるいは無感動でどうしようもないと諦めてきた大衆からメンバーをかき集めたことである。」

 

「愚かあるいは無感動でどうしようもない」とは直截な表現ですが、階級社会の崩壊で支持基盤を失った政党も、アトム化した大衆の動員を狙っていたということです。党是を理解できないような人であっても、とにかくたくさんのメンバーをかき集めて支持基盤を築きたかったのです。

 

こうした動きは、第一次世界大戦後のヨーロッパで広く認められました。しかし、実際に大衆を動員して政権を奪取できたのは、ドイツとロシアだけだったことにもアーレントは注目しています。

 

「政党の勢力はその国内での支持者の割合に比例するから、小国における大政党ということもあり得るが、これに反して運動は何百万もの人々を擁してはじめて運動たりうるのであって、その他の点ではいかに好条件であっても、比較的少ない人口の国では成立が不可能である。」

 

確かに、ある程度の規模の「大衆」が存在しなければ、社会を大きく動かすような運動にはなり得ません。ヨーロッパ大陸で最も人口が多かったのが、ドイツとロシアであり、しかも第二巻で考察されていた通り、この両国には全体主義へと発展しやすい民族的ナショナリズムも広がっていました。

 

「世界観」政党の登場 

 

第一次世界大戦で敗戦したドイツは、領土を削られ、賠償金問題*27で経済も逼迫。さらに1929年に始まる世界恐慌*28 によって多くの有力企業が倒産し、街には失業者があふれていました。 

 

この先、自分はどうなるのか。経済が破綻したこの国は、どうなってしまうのか──。不安と極度の緊張に晒された大衆が求めたのは、厳しい現実を忘れさせ、安心してすがることのできる「世界観」。それを与えてくれたのがナチズムであり、ソ連ではボルシェヴィズム*29でした。   

 

 「人間は、次第にアナーキーになっていく状況の中で、為す術もなく偶然に身を委ねたまま没落するか、あるいは一つのイデオロギーの硬直した、狂気を帯びた一貫性に己を捧げるかという前代未聞の二者択一の前に立たされたときには、常に論理的一貫性の死を選び、そのために肉体の死をすら甘受するだろう──だがそれは人間が愚かだからとか邪悪だからということではなく、全般的崩壊のカオスの状態にあっては、こうした虚構の世界への逃避こそが、とにかく最低限の自尊と人間としての尊厳を保証してくれるように思えるからなのである。」

 

ともかく救われたいともがく大衆に対して全体主義的な政党が提示したのは、現実的な利益ではなく、そもそも我々の民族は世界を支配すべき選民であるとか、それを他民族が妨げているといった架空の物語でした。

 

「全体主義運動は自らの教義というプロクルステスのベッドに世界を縛りつける権力を握る以前から、一貫性を具えた嘘の世界をつくり出す。この嘘の世界は現実そのものよりも、人間的心情の要求にはるかに適っている。ここにおいて初めて根無し草の大衆は人間的想像力の助けで自己を確立する。そして、現実の生活が人間とその期待にもたらす、あの絶え間ない動揺を免れるようになる。」

 

「現実世界」の不安や緊張感に耐えられなくなった大衆は、全体主義が構築した、文字通りトータル(全体的)な「空想世界」に逃げ込みました。それは、自分たちが見たいように現実を見させてくれる、ある種のユートピアでした。

 

アーレントは、全体主義は「国家」でなく「運動」だと言っています。奥義通暁の程度に応じて細分化されたヒエラルキーも、大衆の心を組織の中枢へと引き寄せ、絶えず動かしていくための仕組みといえるでしょう。 

 

通常の国家は、指導者を頂点として、命令系統が明確なピラミッド状(もしくはツリー状)の組織を形成します。法による統制を徹底するには、それが不可欠だからです。これに対し、組織が実体として固まっていかないのが「運動」。イメージとしては台風や渦潮に近いと思います。 

 

台風の目(中枢)は確認できても、全体の形状は不安定で、輪郭も定かではありません。全体主義においては、命令を発する台風の目も常に運動し、それに合わせて周辺の雲(組織)もどんどん形を変えていきます。

 

現代にも起こり得る全体主義

 

アーレントは『全体主義の起原』のエピローグで、全体主義支配が人間の「自己」を徹底的に破壊することを指摘しています。彼女自身はナチスのような全体主義が再興する危険性を、具体的な形で言及してはいません。しかし、条件が揃えば現代でも全体主義支配が起こる可能性はゼロではないと思います。 

 

ナチスが台頭した頃と同様、現代は個人がバラバラになっています。人間同士のリアルなつながりが薄れる一方、人々が逃げ込むインターネット上ではプロパガンダが跋扈しています。

 

人間は、明快な世界観や陰謀論的なものに弱いものです。大人向けのアニメの多くに陰謀論的な筋書きが施され、またそうしたものが支持されているということに、それは表れているでしょう。 

 

強い不安や緊張状態にさらされるようになったとき、人は救済の物語を渇望するようになります。それまでの安定と、現在の不安とのギャップが大きければ大きいほど、分かりやすい物語的世界観の誘惑は強くなります。経済的格差が拡大し、雇用や福祉制度などの社会政策が崩壊しかけていると言われる今の日本は、物語的世界観が浸透しやすい状況と言えるかもしれません。

 

ナチスも、結党当初はそれほど強い支持を得ていたわけではありません。しかし第一次世界大戦で敗北して以降、急速に経済が逼迫するなか、当時の政権(ワイマール共和政の社会民主党政権)は、大衆が国の再興を実感できる(期待できる)処方箋を提示できずにいました。

 

議会での民主的審議を重視するあまり、物事を決定できなくなっていたのです。戦勝国に対しても、強い交渉力を発揮できていないように(大衆には)見えた。我慢できなくなった大衆が求めたのは、強力なリーダーシップを発揮できる剛腕でした。様々な問題を一発解消してくれる秘策が、どこかに必ずあるはず──そう期待したのです。

 

それまで政治に対してまったく無関心・無責任だった人たちが、危機感のなかで急に〝政治〟に過大な期待を寄せるようになると、そういう発想に陥りがちだという点にも留意する必要があるでしょう。

 

単純な解決策に心を奪われたときは、「ちょっと待てよ」と、現状を俯瞰する視点を持つことが大切でしょう。人間、何かを知り始めて、下手に「分かったつもり」になると、陰謀論じみた世界観にとらわれ、その深みにはまりやすくなります。

 

全体主義は、単に妄信的な人の集まりではなく、実は、「自分は分かっている」と信じている(思い込んでいる)人の集まりなのです。

 

*1:Mussolini’s Fascism: Doctrine and Institutions, 31.34.n2.  Zeev Sternhell, “Fascist Ideology” in Walter Laqueur, ed. Fascism: A Reader’s Guide (Berkeley: Univ. of California Press, 1976), p. 318より引用

*2:Sternhell, p. 315.

*3:Alvin H. Rosenfeld, Imagining Hitler (Bloomington: Indiana Univ. Press, 1985), pp. 103–112を参照。

*4:〔関連記事〕

*5:Sternhell, p. 316.

*6:Sternhell, pp. 353–354.

*7:Jaroslav Krejci, “Introduction: Concepts of Right and Left,” in Neo-Fascism in Europe, ed. Luciano Cheles, et al. (London: Longman, 1991), p. 7. 

*8:Krejci, pp. 1–2.

*9:Krejci, pp. 1–2.

*10:アメリカ保守派が伝統的倫理観の必要性を強調し、制度的変化に対し懐疑的であるなら、彼らは一応「右翼」という位置づけになります。一方、リベラル派は伝統的価値観よりも個人の自由の方を強調する傾向があり、そのため彼らは「左翼」という位置づけになるのでしょう。ここでの論点はどこに米国リベラル派および保守派を位置づけるかにあるのではなくーー(こういった用語自体おそらく不適切なメタファーであるかもしれません。)私の論点はむしろ、こういった隠喩的モデルにより各立場を分類するという事自体が、過度の単純化および誤解につながるのではないかという懸念です。

*11:Krejci, p. 6.

*12:Robert P. Ericksen, Theologians Under Hitler: Gerhard Kittel, Paul Althaus and Emanuel Hirsch (New Haven, CT: Yale Univ. Press, 1985 参照

*13:“Milton,” I. 8 and “London.” 

*14:“The Tables Turned,” I. 28.

*15:The Social Contract, Book I. Chapters vi, vii; II. i–v, viii–x; III. ii, vi.ルソーの有機的国家理論は、驚くほど、その後のファシズム理論および実践に先駆けています。

*16:“In Memoriam,” stanza LVI, I. 15.

*17:Sternhell, p. 322.

*18:Sternhell, p. 322.

*19:Ericksen, p. 3.

*20:Sternhell, p. 323. p. 329–330.

*21:Sternhell, p. 322.

*22:Sternhell, p. 321.

*23:Sternhell, p. 323.

*24:Sternhell, p. 323. 26.

*25:Sternhell, p. 322.

*26:Ericksen, pp. 4–5.

*27:1919年、連合国側とドイツはヴェルサイユ条約に調印し、ドイツはすべての植民地と領土の一部を失い、さらに巨額の賠償金の支払い(1921年、1320億金マルクに決定)を課せられた。

*28:世界恐慌 1929年、ニューヨーク株式市場での株価の大暴落から世界中に拡大した経済恐慌。ドイツはヴェルサイユ条約と世界恐慌により、深刻な経済状況に陥った。

*29:ボルシェヴィズム ソ連共産党の前身であるボルシェヴィキの政治思想。ボルシェヴィキは「多数派」の意味で、1903年にロシア社会民主労働党が分裂した際にレーニンが率いた勢力。彼らはブルジョア階級との妥協を排し、前衛政党が労働者・農民指導する武装革命を提唱し、一七年の十月革命で政権に就くと党による独裁体制を築いた。分裂したもう一方の勢力は「メンシェヴィキ(少数派)」と呼ばれた。