巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

新約聖書の中における意味変化について(by モイセス・シルヴァ、ゴードン・コーンウェル神学大)

目次

 

f:id:Kinuko:20180217145834p:plain

モイセス・シルヴァ。1945年生まれ。ウェストミンスター神学校(1981-1996)、ゴードン・コーンウェル神学校(1996-2000)で聖書学を教鞭。NASB(新米国標準訳聖書)およびESV(英語標準訳聖書)の翻訳委員。

 

Moisés Silva, Biblical Words and Their Meaning, An Introduction to Lexical Semantics, chap.3. Semantic Change in the New Testament(抄訳)

 

意味的保守主義による変化

 

このカテゴリーには特殊化のあらゆる事例が含まれますが、さらなる下位区分が必要でしょう。変化やシフトの内のあるものは、指示対象の中における事実変化(factual change)、特に、ユダヤ文化の中における事実変化に起因しています。

 

ἀργύριον:「銀貨」>「シェケル」

συναγωγή:「会合の場所」>「シナゴーグ」

φυλακτήριον:「(身につける)お守り、魔よけ」>「聖句箱、経札(きょうふだ)」*1

 

こういった事実変化のいくつかは、初期キリスト教に特有のものです。

ἐκκλησία:「集会」>「教会」*2

χήρα:寡婦、やもめ>やもめの中のある特別な層(1テモテ5:3)

 

それから、ここでの特殊化の大半は、神学的なものです。それらの多くはすでに七十人訳(LXX)の中で裏付けられており、〈意味的貸し付け〉と捉えることができるかもしれません。

ἄγγελος:「メッセンジャー」>「天使」

διαθήκη:「'testament' 遺言」>「聖契約」*3

δόξα:「意見、appearance」>「栄光」

κύριος:「主」>「唯一の神」

 

さらに新約聖書メッセージに特有の語もあります。

ἀλήθεια:「真理」>「キリスト教」(特にヨハネの福音書にて)

εὐαγγέλιον:「良い知らせ」>「福音」

μετανοεῖν:「悔い改める」>「キリスト教の回心」(参:TDNT 4: 979-80)

χάρισμα:「贈り物」>「霊的賜物」

 

ここで留意したい点は、こういった神学的事例はたいがい、「指示対象の中における事実変化」ではなく、「話者の理解の中における主観的変化」に関わっているということです。例を挙げましょう。ひとたびギリシャ語話者が、真の知恵を、旧約聖書の概念と同一視し始めるや、彼の中でのσοφίαの使用法は変化していったはずです。*4

 

さて、保守主義に関するこういった諸例を理解するに当たり、覚えておかねばならないのは、私たちがここで、語の意味における変化につながる歴史の中でのーー技術的、社会的、宗教的等のーー諸変化を取り扱っているということです。

 

この種の意味シフトは、その他のものとは実に明瞭な形で異なっているため、ほとんどの分類法の中で、これは特別なカテゴリーの中に入れられています*5

 

G・シュテーンは特に、置き換え(substitution)という分類名をつけています。なぜなら、この変化は、新しい指示対象の置き換えによって生じているものだからです。彼は続けてこう言っています。

 

「置き換えの原因は、指示対象が変わり、それらを指し示す新たな名称が必要になってくることにあります。今取り扱っているこの事例では、新しい言葉を作るのではなく、指示対象を既知のカテゴリーのどこかに置き、それを同じ名前で指し示しています*6

 

またさらに重要な点は、シュターンが、このカテゴリーをさらに二分割していることです。

①外的、非言語的要素によって引き起こされた変化

②(言語的要素を含む)その他すべての要素によって引き起こされた変化。

 

もっともシュターンのこの分類は一般的承認を受けてはいません*7。ですが、この区分により、現在私たちが取り組んでいる主題にかなりの光明が投じられるのではないかと思います。

 

なぜなら、聖書の中の「(半)術語, (semi)-technical terms」がこのタイプの変化を経て来たということに気づく時、私たちは「なぜそういった言葉が、ほんの少しの辞書学的吟味にも影響を受けやすいのか?」の理由に目が開かれていくようになるからです。

 

仮にある言語学者が「ἄγγελοςは、ヘブライ語のmal'akの意味をカバーしつつ用いられている」と確定したとします。ーーつまり、指示対象に関するさらなる知識は、新名称ではなく、置き換えの中に入れられることになったと結論しました。そうすると、もうその時点で(言語学者としての)彼の働きは完了します。ἄγγελοςの意味に関するさらなる考察は、ヘブル神学の領域での議論であり、彼の属する辞書学の領域ではない、となるのです。

 

ある著者たちは意味に関与する変化は全くないと言っていますが、それはおそらく行き過ぎでしょう。しかしながら、そういた変化が言語の構造にはほとんど影響を及ぼしていないというのは確かにそうだと思います。

 

「共時的ネットワークによって提供されている結合的仕組みを通し、変化を説明しようと試みる構造的アプローチは、明らかに二番目のカテゴリー(言語的刷新による意味変化)に限定されています。なぜなら、実際的刷新が起らない限り、そのような仕組みが機能するようになることはないからです。」*8

 

また、なぜこういった「仕組み」が機能しないのかについてのもう一つの重要な理由は、それらが指示的用法の語であるという事実に在ります。そして、それらの単語はそれほど容易に意味領域の諸学に影響されはしません。

 

しかしこういった単語は、"word-and-thing"という方法論によって実り多く研究され得るでしょう。

 

 「多くの文献学者にとり、置き換えというのは最も興味深い種類の意味変化です。なぜなら、これらの意味変化は人類歴史に関する諸事実の理解を助けるヒントとなるからです。

 

 「意味の発展」は「指示対象の発展」に追従しており、前者のルーツを辿っていけば、おそらく(少なくともいくつかの事例において)後者に関するなにがしかの結論を導き出すことができるかもしれませんし、逆に後者のルーツを辿ることで前者に関する結論が引き出せるかもしれません。"Wörter und Sachen, ohne Sachforschung keine Wortforschung"(言葉と事象、事実的研究なしに、単語研究は存在し得ない)というのが有名な合言葉です。」*9

 

そして、ここにおいてTheological Dictionary of the New Testament (TDNT)は貴重な役割を果たし得ます。そしてもちろん、この種のリサーチのほとんどは、厳密に言うと、言語学的研究ではなく、概念的・歴史的なものであるということを私たちは認識すべきだと思います。

 

二番目に、提示される言語学的証拠というのは堅固なリサーチの上になされていなければなりません。それから三番目ですが、「語彙的・辞書的事実」と、「観念的・概念的事実」の間にパラレル関係を引き出すに当たっては、十分な注意および慎重さが必要だということです。なぜなら、両者は常に符合しているとは限らないからです*10。なるほどそういった諸事情・問題があるのは否めないと思いますが、それでもクーゲル・キッテルの方法論はかなりの成果を上げましたし、彼らの辞書編纂の業績なしには、聖書意味論の分野の研究は「かなりの度合いで」貧窮化していたことでしょう。*11

 

意味刷新による変化

 

さてこれまで考察してきました諸変化を分かりやすく捉えるべく、これを三つの型に分類しようと思います。①省略、②メトニミー(換喩・転喩)、③メタファー(隠喩)です。*12

 

①省略(Ellipsis)

 

ウールマンは、変化に関するこの型は、単語と単語の間に生じてきた関係や結び付きに起因するものであると言い、次のように解説しています。

 

「しばしば同じ文脈の中に登場してきます、実際、あまりにも頻繁に登場してくるので、フレーズを丸ごと言わなくてもいいほどです。隣接している語の意味はいわば、その「お隣さん」に移っており、それは、特別な種類の意味論的〈省略〉を通し、完全な構造の代行をするようになります。」*13

 

より具体的に言うと、〈省略〉というのは通常、主要語(headword)が修飾語句(qualifier)と密接に結びつく場合に生じます。そして修飾語句が削られた場合、主要語は、新しい意味を採用しつつも、その統語的機能は保持し続けます。主要語は次に挙げるように動詞の場合もあり得ます。

 

ἀναφέρειν「運び上げる」>「(犠牲を)捧げる」、修飾語句θυσία

〔訳注〕ヘブル7:27

ἁμαρτιῶν θυσίας ἀναφέρειν ἔπειτα τῶν

欽定訳: those high priests, to offer up sacrifice,

新改訳:ほかの大祭司たちとは違い、、いけにえを捧げる

 

καταβαίνειν「降りる、降りて行く」>"leave Jerusalem, エルサレムを発つ"(参:ルカ10:30、31;使24:1)

,,,τις κατέβαινεν ἀπὸ Ἱερουσαλὴμ εἰς Ἱερειχώ,,, δὲ ἱερεύς τις κατέβαινεν ἐν τῇ ὁδῷ ἐκείνῃ, (ルカ10:30,31)

ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、、祭司がひとりその道を下って来たが、、

,,κατέβη ὁ ἀρχιερεὺς Ἀνανίας,,(使徒24:1)

大祭司アナニヤは、、下って来て

 

また、次のように主要語が名詞の場合もあります。

 

αἱ γραφαί= αἱ ἱεραὶ γραφαί(聖書)

マタイ26:54

 πληρωθῶσιν αἱ γραφαὶ ὅτι οὕτως

欽定訳: then shall the scriptures be fulfilled,

新改訳:こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。

(その他、マタイ26:56、マルコ14:49)

 

ἡ σκηνή= ἡ σκηνὴ τοῦ μαρτυρίου(あかしの幕屋)

使徒7:44

 Ἡ σκηνὴ τοῦ μαρτυρίου

欽定訳: had the tabernacle of witness

新改訳:あかしの幕屋

 

 Η σκηνὴ τοῦ μαρτυρίου(情報源 

 

しかし、ある場合には、主要語は省かれています。英語では修飾語句が新しい統語的機能を受容します。(private='private soldier')そして同様のことがギリシャ語でも起こり得ます。

 

οἱ δώδεκα = οἱ δώδεκα μαθηταί (1コリ15:5)

 

またギリシャ語の単語はただ単に格を変えることもしばしばあります。というのも、属格が修飾語句として機能しているからです。

 

τά ἂζυμα(「種なしパン」マルコ14:1) =ἡ ἑορτή τῶν ἀζύμων(出23:15)

ἀποστάσιον (「離縁状」マタイ5:31)=βιβίον ἀποστάσιου

παρασκευή =ἡμέρα παρασκευῆς(「準備の日」、ルカ23:54、しかしヨハネ19:14も参。)

 

τά ἂζυμα 種なしパン。イーストを入れずに焼いたパン。現代ギリシャ語ではλαγάνα(ラガナ)。正教会暦での復活祭の7週間前から始まる断食の初日の月曜日であるカサラ・デフテラ (Καθαρά Δευτέρα, 聖灰月曜日、Great Lent)には、国中のパン屋さんでこのラガナが焼かれ、人々は種なしパンを食べます。2018年の正教会暦では、2月19日がカサラ・デフテラに当たります。

 

②メトニミー(換喩・転喩, metonymy)

 

ウールマンの分類法に倣うと*14、私たちは、連続性をベースにしたあらゆる変化(意味の類似性を除く、原因、時間、空間などの意味関係)をこのカテゴリーに含めます。

 

二つの意味の関係が、類似性のそれではない場合、変化はーーたいてい意図的ではありませんがーー、両義的意味においてその語が頻繁に使われる時に限り生じます。

 

例えば、ἂρτοςは、ルカ15:17に見られるように、「パン」という意味にもとれれば、「食べ物」という意味にとることもできる場合がしばしばあります。

 

「ひとたび単語の関連性が確立するならば、ついに最終段階シフトへの道が開かれることになります。つまり、両義性・多義性(equivocation)なしの新しい意味における語使用、そして原初の意味を含意することなしの語使用です。」*15

 

ἂρτοςの事例におけるこの最終段階は、マルコ3:20の内にも見られ、この箇所でこの単語はもはや「パン」とは訳すのは適切でない状態にあります。

 

Καὶ ἔρχεται εἰς οἶκον· καὶ συνέρχεται πάλιν ὁ ὄχλος, ὥστε μὴ δύνασθαι αὐτοὺς μηδὲ ἄρτον φαγεῖν.(マルコ3:20)

イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。(新改訳)

(「一同は食事をする暇もないほどであった。(口語訳)」、「一同は食事をする暇もないほどであった。(新共同訳)」、「食事する暇もなかりき。(文語訳)」*但し、調べてみると、例外的に岩波翻訳委員会訳1995だけは、「一行はパンを食べることすらできないほどである。」と訳していました。)

 

メトニミーはさらに下部区分することができます。例えば、ἂρτοςは、〈部分〉が〈全体〉を表すものとして使われている例です。その他にも次のような事例があります。

 

κῶλον:「肢(し)」>「死体」

πούς:'foot'(くるぶしから下の部分)>'leg'(脚),黙10:1

 

それから逆に、〈全体〉が〈部分〉を表すものとして使われる場合もあります。

 

θάνατος:「死」>「疫病」(例:黙2:23)

παιδεία:「養育」>「懲らしめ」(ヘブル12:5ff)

 

また時として、〈抽象〉が〈具体〉を表すものとして使われることもあります。

 

ἀνάπαυσις:「休み」>「休む場所」(マタイ12:43;ルカ11:24)

ἐξουσία:「支配 'rule'」>「統治 'dominion'」(参:TDNT 2:565-66)

ἔπαινος:「称賛」>「称賛に値する行為」(ピリピ4:8)

 

他方〈具体〉が〈抽象〉を表すものとして使われている用例は下の一例だけです。

 

βασιλεία:「統治 'dominion'」>「支配 'rule'」(*上のἐξουσίαと比べてみてください。正反対ですね!)

 

それから〈結果〉が〈原因〉のために与えられることもあるでしょう。(言葉の緩い意味において)

 

ἔλαιον:「(オリーブ)油」>「オリーブの木」(黙6:6)

κρίσις:「審判」>「法廷」(マタイ5:21-22)

 

その反対に、次のように〈原因〉が〈結果〉のために与えられることもあるかもしれません。

 

ῥαντίζεσθαι:「振りかける」>「清める」(マルコ7:4;異写本*16

ῥίζα:「根」>「芽生え」(参:TDNT 6:987)

 

しかしながら多くの場合、意味間の関係性は、分類が難しく、おそらく「同伴("accompaniment")」といったような何か一般的な用語が当てはまるかもしれません。

 

ἀπειθεῖν:「服従しない」>「信じない」(参:Bauer s.v.)

ἐπισκέπτεσθαι「訪問する」>「ケアする、世話する、いたわる」

 

それから最後に、すべてのメトニミーを横断するもう一つの区分があることをご紹介したいと思います。-「同時的 simultaneous」vs「連続的 successive」です*17

 

ここに挙げるメトニミーの事例のほとんどは、一時的に「同時的」である関係を持つ一対(いっつい)の意味で構成されています。が、「連続的」継続の事例も二、三あり、それらは二次的意味が一時的に以前の意味に従っています。

 

κλητός:「呼ばれた」>「キリスト者」(神の招きに応答した者)

μάρτυς:「証言」>「殉教者」(証言する結果、死に至る)*18

ῥαντίζεσθαι(上記を参照。)

 

③メタファー(隠喩, metaphor)

 

メタファー(隠喩)というのは前述のメトニミーに似ていて、両者共、一対の関連した意味を持つ単語のことを指しています。しかしメタファーの場合、意味間の関係は、類似性に基づくものです。

 

例えば、一人の話者が木から落ち行く葉っぱを見て、「ああ、あれはまるで本のページのようではないか」と思い、葉っぱとページ紙の間に類似性を見い出したとしましょう。そして彼はleaf(葉)という語を「移動」させ、それを'ページ'の意味で用いるかもしれません。これがメタファーです。

 

それとは対照的に、もしも私たちが「ホワイトハウスが声明を発表した。」と言う時、移動は、類似性ではなく、関係性に基づくものです。(⇒ホワイトハウスと大統領)従って後者のこのケースはメトニミーの該当し、そこでの意味は類似ではなく隣接的・連続的なものです。

 

メタファーは意味変化における最も一般的型であり、さまざまな種類の特定問題を提示しており入り組んでいます。そこで本稿ではとりあえず整理のため、メタファーを「意図的移動」と「非意図的移動」という二つに区別して考察を進めていきたいと思います。*19

 

多くの場合、たしかに識別は難しいのですが、書き手が文芸審美的目的で言葉のあやを用いているのかどうかは通常、探知可能です。「非意図的」なメタファーであろうと思われる例を下に挙げます。

 

θάλασσα:「海」>「池」(マタイ8:24)

καρδία:「心」>「内 'interior'」(マタイ12:40)

πρόσωπον「顔」>「表面」(ルカ21:35)

 

ほとんどの「意図的」用法は、ヘブライ語からの文字通りの訳文として七十人訳(LXX)の中に裏付けられています。

 

δοῦλος:「奴隷」>「神のしもべ 'God's servant'」

ἔργον:「行ない」>「倫理的行ない」

μοιχαλίς:「姦婦」>神に背いた者 'apostate'

 

メタファーはさらなる探求が可能ですが、修辞表現に関する大半の研究はリテラシー理論や心理学の分野に属しており、その意味で「意味論の研究には間接的に関わっているに過ぎない」ということはたしかに言えるかもしれません。*20

 

ー終わりー

 

*1:〔織田昭新約聖書ギリシア語小辞典より〕φυλακτήριον, -ου, τό (<φυλλάσω,遵守する)聖句箱、経札(きょうふだ)、聖句羊皮紙片入れのカプセル;出13:1-10、11-16、申6:4-9、11:13-21の聖句を小さな羊皮紙に記したものを小箱に入れ、それを紐に付けて、左上膊の内側と額に結びつけ、祈りの時に合掌すると文字通り「心(臓)の上に、目の間に」聖句の箱が来るようになっていた。これはまた、悪霊よけの護符(字義)とも考えられた。

f:id:Kinuko:20180217150013p:plain

経札(φυλακτήριον;ヘブライ語ではtefillin)をつけて祈るユダヤ教徒の男性(情報源

*2:〔関連記事〕

*3:〔関連記事〕

*4:変化が話者側の態度に起因する場合の事例(例:英語のscholasticism)。それから、いくぶん異なる視点を持った見解としては、Stern, Meaning, p.197を参照のこと。

*5:例えば、ウェルランダーはBedeutungsunterschiebung(Stern, p.192n.)と特別枠に入れています。それから、Antoine Meillet, Linguistique historique et linguistique generale, 2nd ed., 2 vols. (Paris: Libraie Ancienne Honore Champion, 1926-36), 1:230 ff.

*6:Stern, pp.192-93. 彼はさらにこう述べています。「置き換えというこの現象は、意味変化における非常に頻繁に起こっている形態です。実際、これによって多かれ少なかれ影響を受けてきていない同義語や同系語は少ないと言っていいでしょう。ある言語における意味ストックは、何千というさまざまな方法で、話者コミュニティーの物質的、知的、倫理的文明の瞬間的状態を反映しているのです。人間生活および思考生活における絶え間ない恒常及び修正は、意味と影響し合っています。やがて、そういった意味の諸修正は、かなりのsense-changesをもたらします。(但し、そういった変化は緩進的・段階的であり、今というこの瞬間にはほとんど知覚されません。)」それから、Ullmann, Principles, p.209も参照。

*7:婉曲語法等は言語的原因によるものではないとウールマンは指摘しています。参:Ullmann, Principles, p.210.

*8:Ullmann, Principles, p.211.但し、彼の鋭利な二分法はさらなる説明を必要としているでしょう。

*9:Stern, pp.104-105.cf. Hope's formulation, quoted above, pp.30-31.

*10:〔関連記事〕

*11:Ullmann, Principles, p.211.

*12:参:Ullmann, Principles, pp.220ff. 四番目の型ーー音声的類似性による変化ーーは、私たちの取り扱っている〔聖書〕文献には明らかに不在です。

*13:同著p.238.それから、Breal, Semantics, "abridgement"(pp.146-54) 及び "contagion" (pp.200-204) の項を参照。

*14:Ullmann, Semantics, p.218.伝統的には、メトニミーは、より狭義の意味で使われており、それは代喩(synecdoche)とは対照をなすものです。Stern, p.297も参照。

*15:Stern, p.357.λειτουργεία「奉仕」は、ピリピ2:30や2コリ9:12では「援助、贈り物 'gift'」と訳すことができるかもしれませんが、これらの聖句は両義的・多義的ですので、メトニミーはまだ完全には確立していないように見受けられます。

*16:〔訳者注〕 ῥαντίσωνταιと表記されている写本⇒Nestle GNT 1904, Westcott and Hort 1881, Westcott and Hort / [NA27 variants]

βαπτίσωνταιと表記されている写本⇒RP Byzantine Majority Text 2005, Greek Orthodox Church 1904, Tischendorf 8th Edition, Scrivener's Textus Receptus 1894, Stephanus Textus Receptus 1550〔参照

*17:Ullmann, Principles, pp.232-33を参照。

*18:〔関連記事〕

*19:ウールマン (Principles, p.222)はこの区別を認めてはいますが、自分の論考の中でそれを実際に使用してはいません。それとは対照的に、シュターンにとって、この区分は根本的なものです。p.284-87, 345-46.

*20:にもかかわらずウールマン(Principles, p.224)は、substantial(=認知的), emotive, synaestheticな類似性という三重の区分をしています。参:別の視点からのものとしては、Derek Bickerton, "Prolegomena to a Linguistic Theory of Metaphor," FL 4 (1968):34-52, それから、Robert J. Mattewの批評論文、FL 7(1971):413-25.聖書の中における比喩的言語についての詳説に関しては、Caird, Language and Imageryの第二部を参照のこと。〔モイセス・シルヴァ師によるその他の論文〕