巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「この聖書テキストには果して『意味』があるのだろうか?」ーーケヴィン・ヴァン・フーザーの著書レビュー(by ヴェルン・ポイスレス、ウェストミンスター神学校)

 

Vern Poythress, Review of Kevin Vanhoozer’s Is There A Meaning In This Text? in Westminster Theological Journal 61/1 (1999) 125-28. (拙訳)

 

書名: Is There a Meaning in This Text? The Bible, the Reader, and the Morality of Literary Knowledge.

著者名:Kevin J. Vanhoozer

出版社:ゾンダーヴァン社

出版年:1998年

 

ケヴィン・ヴァン・フーザー師について。

Kevin J. Vanhoozer

ケヴィン・ヴァン・フーザー(Ph.D.ケンブリッジ)トリニティー神学校、組織神学。主著に、The Drama of Doctrine: A Canonical-Linguistic Approach to Christian Theology (Westminster John Knox) and Remythologizing Theology: Divine Action, Passion, and Authorship (Cambridge University Press, 2010) 等がある。

 

ケヴィン・ヴァン・フーザーは、明確なる三位一体論的見地から、現代の解釈学的潮流に対し、際立った応答をしています。著者は、この本の中で、ポスト近代からのさまざまな挑戦および、モダニスト解釈側からの反応、その両方に対し、明晰かつ洞察力に富んだ考察をしています。

 

ヴァン・フーザーの方法論は、ポスト近代、モダニストその両方の世俗的代替アプローチを避けつつ、キリスト教諸前提の中において明確に意味の根拠を置こうとしています。

 

また彼は解釈学における現在の危機は、基本的に神学的なものであるということを説得力をもって論じています。もし人々がもはや神を信じなくなるのなら、その結果、意味も、作者も、テキストも、読み手も、すべてが問題をはらんできます。

 

「意味に対するポスト近代の自身喪失の根底には、神の超越性および臨在に対する感覚の喪失がある。」そう彼は指摘しています。

 

主要な諸問題を導入部で紹介した後、この本の第一部で、彼は解釈学における三つの主要な焦点ーー①作者(第2章)、②テキスト(第3章)、③読み手(第4章)それぞれに対する詳細分析を行なっています。また、脱構築、ラディカル・プラグマティズム、「読み手の反応アプローチ(reader response approaches)」等を表層的に糾弾する代わりに、彼は、時間をかけ、ていねいにそれらを記述し、詳細にわたって解説しています。

 

そしてその過程を通し、根底に横たわっている「意味の究極的根源としての神に対する問い」及び、ポストモダニズムもモダニズムも回答することのできていない諸問題が浮き彫りにされていきます。

 

脱構築の持つ無秩序な諸傾向をはっきりと拒絶しつつも、本書は最終的に、脱構築からなにがしかの良い洞察を得ることに成功しています。ヴァン・フーザーは言います。

 

「ーー常に二次的かつ文脈的であり決して究極的ではないーー自分の解釈というものが、あたかもテキストそれ自体であるかのように錯覚するという真の危険性に対し、私たちは無自覚なのではないでしょうか?そういった危険性を私たちはリテラシー知識に対する偶像礼拝と呼んでいいかもしれません。」

 

その意味において、脱構築は、「解釈的プライドに対する力強い挑戦なのです。」(p.184)

 

本書は第2部で、そういった肯定的回答を提示しています。世俗主義者によるアプローチに代替する選択の可能性についてのこういった提示は大いに称賛すべきだと思います。まず、それは、現代の諸見地によってアジェンダが据えられることを回避しています。

 

 「一連の異なる問題意識を持ち、私は〔彼らとは違う〕別の場所から論議を始めているがゆえに、私はデリダと議論するのではなくむしろ対話すべきなのです。それにたとい、逐一脱構築を反証したにしても、それにより脱構築がアジェンダを打ち立てることを止めることはできません。

 それはちょうど、ポスト近代によるその脱構築により、近代性がアジェンダを打ち立てるようなものです。ですから私としては、その代りに、神、言語、超越性に関するキリスト教理解によって引き出される、テキストの意味に関する問いーーここから新鮮な出発をしたいと思います。

ー私は、あらゆる真の伝達(communication)に関わるパラダイムとして、神の三位一体性に基づく自己伝達を提示します。

ー私たちに必要とされているのは「現代の思想流行への迎合をよりよく避けつつ、キリスト教的自己確信により堅く立つこと」です。(アルヴィン・プラティンガの講義より引用)*1

 

本書は、意味について次のような説明をしています。ーー意味はまず、三位一体という属性におけるより生成し、始まらなければならない。またご自身のかたちに似せて造られた被造物としての人間、及び、契約という文脈の中における人間同士のコミュニケーションおよび交わりのために神により与えられた賜物としての言語から始まらなければならない。

 

そうした後、本書は、3章を割き、作者の意図(第5章)、テキストの構造(第6章)、読み手の責任(第7章)に対する肯定的アプローチを提示しています。結論部の8章では、人間のプライドおよび怠惰を進んで十字架につけようとする、解釈学における十字架の意味を考察しています。

 

私たちは久しく、本書のように、知的に深遠なる著書を必要としていたと思います。本書は現代の諸問題を学識高く考察しながら、それと同時に、キリスト教の三位一体論に基づく正統教義の内に堅く据えられた自身の前提的足場をしっかり保っています。

 

本書には称賛されるべき点が実に多いのですが、次に挙げる二つの点で、今もなお課題が残っているように思います。5章で展開されている脱構築に対しての積極的回答で、本書は、その究極的土台を、三位一体神の中に置いています(p.199)。すばらしい事です。

 

しかしその後、作者に関する問題を詳細に考察していく段階になると、すぐさま、その神学的土台が置き去りにされてしまっています。そして主として彼はその土台を、ジョン・R・サール(発話行為)、ポール・リクール(世界を投影するものとしてのテキスト)、ユルゲン・ハーバーマス(コミュニケーション的行為の理論)に置いています。

 

こういった諸理論にはいくつかの良い洞察が含まれていますーーですから、その事で本書を責めてはいけないと思います。しかし、こういった諸理論が、神の御性質および臨在を認め、絶えず呼起するような神学的諸理論にラディカルに変容されない限り、それらは脱構築がかくまで骨折り示そうとしている不確定性に依然として従属しています。

 

例えば、ジョン・サールの発話行為理論は、通常の社会的文脈に関するコモンセンスに訴えています。しかしポストモダン思想は正当にも、「究極的安定性は、『コモンセンス』及び『標準』の内に見い出され得る」といった考えに挑戦をかけています。

 

確かに現代人が、常識(commonsensical)とか普通のこととして取り扱っているものは実際には、ラディカルにアブノーマルなものです。なぜならこの世の人々は神を知る知識を体系的に抑圧しているからです(ローマ1:18-21)。

 

実際、人類および人間行為に関する人の見方は、究極的には、世俗の社会理論に根差すことなどできません。同じような問題がリクールやその他の世俗諸理論にみられます。

 

リクールの場合で言いますと、彼曰く、テキストが世界を投影しています。しかしそれに対しポストモダニズムは次のように反論します。「投影された世界というのは結局、読み手の文脈次第だ」と。

 

同様に、ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論は、合理性および正義に関する抽象的基準に訴えています。しかし、合理性および正義に関する、単一にして非歴史的な概念というようなものは、実際にはどこにも存在しません。アラスデール・マクインティール(Alasdair MacIntyre)の言うが如く、「それは誰の正義か?どの合理性か?」です。*2

 

第1部で、本書は、骨折りつつ、意味や解釈学を巡る現在の危機がその根本において神学的であるということを提示しています。それならば、神については一言足りとも言及していない世俗諸理論というのは、結局もう一つの偶像であるに過ぎないということ以外、それらは〔私たちキリスト者に〕いったい何を提供し得るというのでしょう?

 

この緊張関係をもう一つ別の方法で描写してみたいと思います。本書は、社会理論に関するジョン・ミルバンク(John Milbank)の批評から洞察を受けていることを認めています。*3

 

「神学は社会理論に従うべきではないとミルバンクは論じています。なぜなら、社会理論というのは、『世俗理性』によって生まれ、養われているものだからです。つまり、正統的キリスト教信条の修正ないしは拒絶によって生成したものであるということです。同様のことが、神学と文芸理論との関係についても言えると思います。いわゆる世俗的文芸諸理論というのは、変装したアンチ神学です。」(p.200)

 

しかし本書はその方針を継続的に貫いてはいません。「中立的にして、世俗的かつ『科学的』で、社会学的分析こそ真に科学的である」という思想を脱構築すべく、ミルバンクはポスト近代の手段を用いました。しかし、それは虚偽の神学を仮面で被っています。

 

意味および理解に関する領域における類比的研究は、初期西洋哲学の見せ掛けの世俗的中立性だけでなく、サール、リクール、ハーバーマスそれぞれの立場を脱構築すべく、ポスト近代のリテラシー・哲学的方法論を用いるでしょう。それらの諸理論もまた、虚偽の神学を仮面で被っています。

 

ミルバンクの批評はまだ、社会学より来るいくつかの洞察に対する肯定的評価と両立し得ます。同様に、世俗の意味理論に関する類比的批評は、その洞察を認めることと両立し得ます。

 

しかし本書は、部分的に良い洞察を認めるという次元にとどまらず、そういった世俗の諸理論をあまりにも性急に採用しすぎているきらいがあります。

 

確かに世俗の諸理論の使用と並行して、本書はキリストを通した神の啓示に関する神学的事柄にも触れています。しかしこの二つはなにか互いに窮屈げに座っている感じがします。なぜなら、ミルバンクとは違い、本書は、世俗の情報源から着服した理論的装具の徹底的な変容に至る、世俗的意味の徹底的批評に未だ取り組んでいないからです。

 

二番目の緊張関係は、ポストモダニズムに関する彼の詳細分析(第1部)から起ってきています。クリスチャンの読者には往々にして、ポストモダニズムの議論に対し、あまりに早急であり過ぎる傾向があります。(なぜなら、私たちキリスト者は、その中に直ちに「無神論的、相対主義的、ニヒリズム的傾向」を見るからです。)

 

称賛されるべきことに、本書はその点において慎重です。そして、それゆえに、「解釈的プライド」(p.184)という批評形式における肯定的結果へと至りました。しかし、多くのクリスチャンの読者にとって、この最終結果は、満足できるにはできるけれども、同時に失望を感じざるを得ないものであるに違いありません。

 

それと言うのも、私たちはこの結論をそもそも初めから知っていてしかるべきだったのではないでしょうか?私たちは本当に、デリダやポストモダニズムによる、骨の折れ、知的に難解なそういった分析を経由しなければ、聖書が私たちにこれまで何百回も言っていたことを理解できないのでしょうか?

 

それにもちろん、聖書は、世俗のポストモダン主義者たちの世界観の中に混在する「良い洞察」と「偶像礼拝」という苛立たしい二種混合物などよりもずっとパワフルに罪を暴露しています。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12)

 

脱構築からの良い洞察を得た後に、本書が結局、(サーレ、リクール、ハーバーマス等に代表される)コミュニケーションと意味に関する世俗の諸理論に内蔵されている「解釈的プライド」を批判する上で、それを徹底的に適用できていないのなら、私たちの失望はさらに増加します。

 

もちろん、最良のモダニスト諸理論は私たちに、「矯正された」形のモダニズムを提供します。ポストモダンからの攻撃を受け、彼らモダニストたちは、自分たちの主張をある程度加減する術を学んできました。ですからプライドは覆われています。

 

しかし依然としてそれは克服されていません。なぜなら、モダニスト諸理論は今も尚、「人間は自律的に考え、神の臨在を遮断することが可能である」といった幻想に根差した世俗性を持ち続けているからです。

 

自律性は、人間の作者が「意味」に対し、神のごとき支配力を持っていることを前提しています。それに対し私たちキリスト者は、「三位一体という性質を持つ神がそのような支配力を持っているのであって、人間の作者ではない」と応答することができます。ヴァン・フーザーの本は、神と人間の間のこの決定的区別について、一貫性を持ち、論じ切れていないように思います。

 

例えば、作者の意図に関し詳述した後、本書は、「テキストの意味というのは、作者が彼自身の言葉を取り扱う上でattend(注意)した事である(“the meaning of a text is what the author attended to in tending to his words.”)」と提示しています。〔←ここの訳、分かりにくくてごめんなさい!

 

しかしこの定義を提示する上で、本書は、「人間は自らのコミュニケーションにおいて完璧な統御者ではない」という第1部での省察との整合性がとれていないと思います。

 

人間は高慢にも自分たちが無(ex nihilo)からテキストを造り出すことのできる神々であると想像するようなことがあってはなりません。それにまた人間は、(テキストに内蔵されているところの諸構造を持つ)「言語」をすでに用いているのです。

 

それゆえ、作者が「注意している(“attended to”)」ことと、「(言語体系のアスペクトに関する無意識的効果を含む)部分的に無意識的プロセスを通し生じてきたもの」との間に明確な境界線はあり得ないということになります。

 

さらに重要なことに、人間の作者は、神の御力および臨在から、自分たちのコミュニケーション行為を封鎖することはできません。実に人間はそれと絶えず交わっており、また罪により緊張状態に置かれています。

 

そして書くという行為内における、こういった絶え間ない人格間内の緊張関係により、人間の文書は、一元論的にしてユニタリアン的意図には添えないということになります。神から隔絶された、彼それ自身における作者(author-in-himself)というようなものは存在しないのです!そしてこの点において、本書の鍵となる定義は、第一部で詳述されている諸理由を十分に規定できていないように思います。

 

本書は正当にも、「解釈的リアリズム」を擁護しています。これは、意味というのが「そこに存在しており(“out there”)」、ただ単に人間の読み手によって作り出されたものではないという見解のことを指します。しかし、いかにしてこの意味が、三位一体の神の中にある「多様性の中の一致」に根差しているのかということがもう少し説明される必要があると思います。

 

本書からは三位一体論の教理にその礎を築こうとするすばらしい意志が感じられます。しかしながら、それと並行して、「人間の作者の意図は、彼らの行為の中における神の人格的関わりから離れたところで意味を持ち得る」というエリック・ドナルド・ハーシュの世俗的合理主義者の見解に甘んじているような兆しもみられます。ハーシュによれば、人間の作者的意図は、一元論的なものであり、それゆえに、意味は一(いつ)であり、重要性(significances)は多数であるとされています。

 

作者的意図を、発話行為のための社会諸規則の中に置くことは行き詰まるでしょう。なぜなら、社会諸規則というのは、完全なる正確さに固定されていないからです。

 

個々の人間と同様、社会というものも、自己十全的に自律した存在ではなく、神に依存しており、罪ゆえに神と緊張関係にあるのです。ーーそう、本書が「人間は、、人間の堕落性を特徴づけるあらゆる不完全性ならびに歪曲に隷属しています。」(p.457)といみじくも言っているように。

 

ー終わりー

 

関連記事:

*1:Alvin Plantinga, “Advice to Christian Philosophers,” inaugural lecture to the John A. O’Brien Chair of Philosophy at the University of Notre Dame on November 4, 1983] p. 199

*2:Whose Justice? Which Rationality? [Notre Dame: University of Notre Dame Press, 1988]

*3:Theology and Social Theory [Oxford: Blackwell, 1990]