目次
D.A.Carson, Exegetical Fallacies, Chapter 4. Presuppositional and Historical Fallacies, p.127-130, 106-107(拙訳)
前提的および歴史的誤謬
この章のテーマだけでも一冊の分厚い本ができてしまう程、この主題は深遠なものです。前提的および歴史的な次元における誤謬について述べることは、哲学や歴史に関する多くの複雑な問いを浮上させることであり、それは本書において私が取り扱うことのできる範囲を超えています。
(*主として歴史的誤謬に関心のある方にとって、デイビッド・ハケット・フィスチャーの「歴史家の誤謬(Historian's Fallacies)」は最良の書だと思います*1。また、前提的誤謬に関心のある方は、満足できる包括的理解に至る上で、まず認識論にかかわる文献を一定以上の量読みこなす必要があると思います。)
とは言っても、やはり本書の中で、前提的および歴史的誤謬についてなにかは述べなければならないでしょう。なぜかというに、それらは聖書解釈の中でかなり重大な役目をはたしているからです。聖書には数多くの歴史的データがあり、有限にして罪性のある私たち人間がそういった歴史に取り組む際に、いわゆる「歴史家の誤謬」が出てきてしまいます。釈義には持続された思想および立論行為がからんでおり、そういった持続思想が有るところに、前提的誤謬というのも見い出され得ます。
新解釈(New Hermeneutic)の影響
この現代潮流の中で、いわゆる「新解釈」運動の興隆によりもたらされた、思想における革命のことをまず指摘しなければなりません。*2
ほんの数十年前までは、解釈学というのは、(神学に関する限り)聖書解釈に関する解釈技術ないしはscienceと大部分において考えられていました。解釈者は主体であり、テキストは客体です。そしてここでの目的は、主体としての解釈者が、客体(テキスト)を正しく適切に解釈することができるよう、解釈技術および"feel"(センス)を発達させていくことにありました。
こういった試みには称賛されるべき点が多くある半面、解釈者がそのタスクをするに当たってもたらされている「理解への障壁・障害物」に対する適切な考慮が十分になされていません。そしてこの点において、新解釈は、いくつかの概念的光明をもたらしています。
「新解釈」は、旧来の解釈的理論の特徴であった強固な主体/客体間の分離(subject/object disjunction)を解体しています。ここで論じられているのは、テキストに取り組もうとしている解釈者はすでに、彼自身と共に、ある一定量の文化的、言語的、民族的〈荷物〉を持ち込んでいるという事です。
テキストに関し、解釈者が問おうとしている(あるいは問いそびれている)質問群でさえ、その〈荷物〉によって負わされている諸制限を反映しているとされています。そしてある程度、それらが、テキストからもたらされる「応答」の種類、および解釈者の理解を形成していきます。
それゆえ、そういった応答により、解釈者が持ち運んでいる心的〈荷物〉はさらに形成されていくことになります。そうするとどうでしょう。次に解釈者がテキストに取り組もうとし、テキストに投げかける質問群の種類は、以前とは微妙に異なってくるということになります。
そしてそれ故に、また新しい種類の一連の応答が生み出されていくことになり・・と、そのプロセスが延々と続いていきます。こうしていわゆる「解釈学的循環("hermeneutical circle")」というのが出来上がっていきます。
「新解釈」のいくつかの解説においては、テキストの中の、真にして客観的意味というのは幻想にすぎず、そういった客観的意味を追い求めることは風を追うようなものだとされます。
そうした上で、テキスト全体に適用される「多義性 "polysemy"」が、彼らの内で、最もうぶでナイーブな仕方で擁護されます。ーーつまり、「一つのテキストには多くの意味があり、その中のどれ一つとして客観的に真なるものはない。それら全ては、それらが解釈者にもたらしている影響如何により妥当ともされるし、妥当でないともされる」と彼らは主張しているのです。
しかしそういった絶対的相対主義は、不必要であるばかりでなく、自己矛盾さえしています。なぜなら、そういった見解の持ち主であってもやはり、私たちが彼らの論文の意味を理解してくれるよう期待しているわけですから!
より熟練した論者たちは、解釈学的循環は悪質なものではないということを理解しています。ーーつまり、理想的にはそれは解釈学的「循環」というよりは、解釈学的「螺旋(らせん)」だということです*3。解釈者は、(そのテキストの筆者がそう意図しているように)、たとい網羅的・包括的ではなかったにしても、彼/彼女が本当にテキストの意味を把握できるようになる段階まで、徐々にそれに接近していくことが可能です。
こういった熟練した論者たちは、「テキストが書かれ、もしくは出版されるやいなや、テキストはその作者から遮断される」という見解を拒絶しています*4。ですから、テキストそれ自体の中に指示されている事から判断された、テキストの作者の意図が何であるかを問うことは常に正しく、また妥当なことなのです。
もちろん、文芸のいくつかのジャンルにおいては、作者の意図を反映しているある種の多義性が存在するかもしれません。例えば、アフォリズム(aphorism; 格言、金言)は、作者が真理をいくつかの異なった次元で伝達すべく作られている可能性があります。しかしそういった例であっても、それらはテキストを作者から遮断はしていません。
疎隔(distanciation)の必要性
「新解釈」からいかなる諸問題が出されていようとも、私たちは一連の進展から多くを学ぶことができると思います。特に、私たちはテキストを把握し理解していくために、「疎隔(distanciation)」というものがやはりどうしても必要であるということを認めざるを得ないと思います。
つまり、解釈者は、自分自身の理解の地平を、テキストのそれから「遠ざけ/距離を置く(distance)」必要があるということです。そしてこういった相違がより明瞭に自覚されてゆけばゆくほど、私たちは、より優れたきめ細かさや感度を持ち、テキストに接近することが可能になっていきます。*5
F・F・ブルースが、こういった「疎隔」の大切さを全然知らない一人のクリスチャンについて興味深い回想をしています。話の中に出て来るある兄弟(漁師)は、ヨハネ21:3で、なぜ弟子たちがその夜、何も魚を採ることができなかったのかついて次のように説明しています。
「弟子たちはどうせ魚がとれないということを知っておくべきだったんですよ。ほら、そこにはゼベダイの二人の息子もいたと書いてあるでしょ(2節)。そしてイエス様は彼らのことを『雷の子』と呼んでいました。漁師たちの間では周知の事実なのですが、雷の天候の時には、魚は海底に頭をうずめるんです。ですから、そんな時に魚を採るというのはどだい無理な話なんですよ。」*6
私は本書の3章の5項「世界観の混同」でこういった諸問題に触れました。
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〔訳注:以下、その部分を訳します。本書 p.106-107〕
この種の誤謬は、解釈者の側に「疎隔」の必要性を明確に訴えています。自分たちを、テキストと隔てている「距離」ーーこれを私たちが自覚しない限り、私たちは見解、見通し、語彙、関心についての相違を見落としてしまうでしょう。
そして意図せずして、「はたしてこれは適切なのだろうか?」と立ち止まって自問することなく、自らの心的〈荷物〉をテキストの中に読み込んでしまいます。
「テキストが語っていること」と、「そのテーマについて自分が関心を持っている(gravitate to)こと」の間のいくつかの違いを理解した後に初めて、私たちは真にテキストを理解する備えができるようになります。自分自身の心的装備の「性質」と「作用域」を認識し損なうなら、私たちは、デイビッド・ハケット・フィスチャーの言ういわゆるBaconian fallacyという語謬に陥ることになります。
「Baconian fallacyというのは、歴史家が、ーー予断された(あらかじめ考えた)問い、仮説、思想、諸理論、パラダイム、前提条件、偏見・先入観、推測、もしくは一般的諸前提という補助なしにーー、働くことができるという考えの中に存在しています。
この見解によると、歴史家である彼は、過去という暗い森を自在に散策して廻り、木の実やベリーなどの諸事実を十分に採集しつつ、こうして彼は一般真理をものにできるのだとされています。こうして彼はそういった一般諸真理を蓄積していき、やがて全体真理を所持することができるようになります。
こういった思想は、二重に欠陥があります。なぜなら、この見解は、実行不可能なメソッドにより、不可能な客体(対象)を追及するよう歴史家に過ちを犯させているからです。」*7
しかしそうだからと言って、真の知識が不可能ということにはなりません。そうではなく、これが示唆しているのは、次のことです。つまり、もしも私たちが自分自身の諸前提、問題意識、問い、関心、先入観などの存在を認識し損なうのなら、その時、私たちの内で、真の知識はほぼ不可能になります。
しかしその反対に、私たちがそれらを認識し、そうした上でテキストに向き合う際、自分の持つ諸前提などの存在を意識して考慮に入れようと努めるなら、私たちは、自分自身の世界観と、聖書記者たちのそれとをごちゃ混ぜにするような過ちを、より強固に避けることができるようになるということです。(以上、p.106-107)
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3章5項での私の焦点は、自分自身の経験や諸概念をテキストの中に読み込んでしまうという論理上の困難点にありました。しかし同じ諸事例が、前提にまつわるより大きな諸問題に関しても当てはまるかもしれません。
まとめ
「新解釈」は、確かに、神の御言葉に私たちが接近する際に、私たちが自らの諸制限や先入観について注意し、また意識的であるよう教えてくれるという点で大いに有益だと思います。
しかし、それによって、人が「聖書が何と言っているかについてのあらゆる諸見解は結局のところ相対的なのだ」と、それを相対化作業の根拠づけに用い始める時、私たちに害をもたらします。
もし私たちが、聖書が言っており、イエスが教えている事に対し、自分の言い分や価値や心的構造をそれに従わせようとする覚悟ができていないのなら、私は「聖書の権威が何なのか」、「イエス・キリストのロードシップに対する恭順が何なのか」ーーそれらの意味を理解することはできません。
実際に聖書が何と言っているかを巡り、意見の相違はあるかもしれません。そしてそういった相違は時として、長い時間と謙遜な対話により、解決がもたらされ得るでしょう。
しかし私たちキリスト者の中で、「客観的真理を知ることは不可能である」といった虚偽の根拠を土台に、聖書が言明していることをないがしろにしたり、回避したりする動きに対し、私たちは、それらに弁解の余地を与えるようなことがあってはなりません。
ー終わりー
関連記事:
*1:David Hackett Fischer, Historian's Fallacies: Toward a Logic of Historical Thought (New York: Harper and Row, 1970).
*2:「新解釈」についての導入的解説は、D.A. Carson, "Hermeneutics: A Brief Assessment of Some Recent Trends," Themelios 5/2 (Jan.1980): 12-20を参照PDF。より包括的な解説書としては、Anthony C. Thiselton, 'The New Hermeneutic," in New Testament Interpretation: Essays on Principles and Methods, ed. I. Howard Marshall (Exeter: Paternoster; Grand Rapids: Eerdmans, 1977, 308-33. New Testament Interpretation: Essays on Principles and Methods | Monergism
*3:〔訳者注〕解釈学的螺旋(hermeneutical spiral)を初めて提唱したのは、私の知る限り、グラント・R・オスボーン教授ではないかと思います。
PDFはここです。
*4:〔関連記事〕
*5:〔関連記事〕
*6:F.F. Bruce, In Retrospect: Remembrance of Things Past (Grand Rapids: Eerdmans, 1980), 11m.14.
*7:David Hackett Fischer, Historian's Fallacies: Toward a Logic of Historical Thought (New York: Harper and Row, 1970), 4.