巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「知ることは可能か?」キリスト教認識論ーー21世紀の激戦地

目次

 

エスター・ミーク著『Longing to Know』の書評(by ジョン・M・フレーム、フロリダ州改革派神学校)

 

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John M. Frame, Review of Esther Meek’s Longing To Know: The Philosophy of Knowledge for Ordinary People, in Presbyterion 29:2 , Fall, 2003.(全訳)

 

エスター・ミーク著「私は知りたい!:認識についてのやさしい入門書」(邦訳なし)

 

この著書の中で、エスター・ミークは、ソクラテス以前の哲学以来、永きに渡って認識論を悩ませ続けてきたパラドックスに取り組んでいます。

 

「自分の車の中にガソリンがあるって事を僕は知ってる(“I know there is gas in my car.”)」と言う時、実際に自分の車にはガソリンが入っているということを私は含意しています。

 

古典的な定義で言うと、知識(knowledge)とは、「正当化された、真なる信条(“justified, true belief”)」です。要するに、知識としてみなすに当たり、それは真でなければならないのです。

 

そしてもし私がそういった信条の真理に関して何か疑いがあるのなら、それが本当に知識(knowledge)であるのかを疑わなければなりません。それゆえ、哲学史をみますと、大半の学派の中で、知識というのは、「全き確実性を含意し、懐疑を締め出すもの」とみなされてきました。

 

ある人々は、困難な合理的思弁というプロセスを通し、私たちはかくのごとき全き確実性に到達できると考えました(例:プラトン、デカルト)。他方、「いや、そのような全き確実性は不可能。だから、懐疑主義がわれわれの取れる唯一の選択肢だ」と考えました(例:プロタゴラス、ヒューム、ポストモダン主義者の一部)。

 

ですから、これまでの認識論の主流の考えでは、「知識というのは得難く、稀にして困難な達成」であるか、もしくは「そんなものは存在しない」ーーそのどちらかである場合が多かったのです。

 

にもかかわらず、そしてこれがパラドックスのもう一つの側面なのですが、日常生活の中で、私たちは絶えずありとあらゆる事ーー事実、数、人、技術、言語、科学的法則、神などーーに関する知識を持っていると考え、そのように主張しています。

 

そして全き確実性を主張していない時、また、そういった知識がもしかしたら間違っているかもしれないということを認めている時でさえ、私たちは尚もそういった知識を持っていると考え、そのように主張しています。

 

ミークは、そういった日常生活の中で普段私たちが何気なく「知っている」と思い、そう主張している行為の中に、潜在的なる認識論が存在しており、それは、従来の、合理主義者や懐疑論者たちの哲学的伝統とは著しく異なるものであると考えています。

 

そして彼女の信じるところによれば、こういった認識論こそが私たちを、懐疑主義からも、また「懐疑主義に陥ってしまうのではないか」という恐れからも私たちを救出するのです。

 

またクリスチャンとして、ミークは、そういった懐疑主義が、神を求める道程における私たち信仰者の陥る罠となっているとみています。その意味で、彼女の著書には、牧会的な機能があります。つまり、信仰に至る道を遮ろうとするそのバリアーを取り除くことです。

 

彼女は言います。「私たちは、他の人々を知っていく営みと同じように、神を知ることができるのです。」「近所にジェフという名の自動車整備士が住んでいます。神を知り、知っていく過程は、ちょうどこのジェフを知り、知っていく営みのようなものです。」

 

彼女の認識論はマイケル・ポランニー(Michael Polanyi)のそれにかなり類似していますが、この本自体は、ポランニーの作品研究を主眼とはしていません。

 

彼女は本書の中でポランニーを引用したり、彼の論を分析したりもしていません。その代りに、ミークは、彼のベーシックな遠近法を適用した上で、いかにして私たちが日常生活の中で自分自身を知り、世界を知り、神を知っていくのかということを探求しています。そして彼女のそういった適用により、ポランニー的アプローチ法がかなり豊かにされていると私は思います。*1

 

まずミークは、抽象概念としての「知識」ではなく、知るということに関する具体的な諸行為ーー私たちが日々行なっている「認識的行為(“epistemic acts”)」ーーから話をスタートさせています。(そして遠まわしにではありますが、彼女は、私たちが「正当化された、真なる信条」としての知識に関する従来の定義を捨てるべきではないでしょうかと示唆しています。)

 

そして彼女は、「知っていくこと」を「首尾一貫した形(パターン)に焦点を合わせ、そのリアリティーに服従すべく〔それを可能にしてくれるような〕手掛かりに寄り頼もうとする責任ある人間の努力 」と定義しています。そして本書は順を追いつつ、この定義を一節ごとに取り上げていきます。

 

「知るという行為」について彼女は、3Dの絵を見るかのような方法で新聞のパズルを見ることを具体例として挙げています。

 

ぱっと見た感じでは、このパズルの表面は、単なる形や色のぼやけにしか見えません。しかし少しずつ自分の顔を新聞から遠ざけていくという行為をすることにより、何かが変わり、今までぼやけて見えていたものが3-Dの絵になってきます(例えば、イルカの絵)。

 

その際、皆が皆、すぐにこのイルカ像を判別できるわけではありません。多くの人にとり、「ぼやけたもの」から「イルカ像」への移行は努力を要する葛藤(struggle)です。

 

表面の形(features)は私たちになにがしかの手掛かりを与えてはくれるでしょう。しかしそれらの多くは結局、メインとなる絵の「一部」としてではなく、「背景」としてしか役割を果たしてくれません。全体としての型を捉えるべく、私たちは手掛かりを詳しく調べ、よく見ることを学んでいかねばなりません。しかる後に、その形を肯定し、リアルなものとして扱いつつ、私たちはその型に従っていかなければなりません。

 

同じことが、自動車整備士たちや神を知っていく営みについても言えるのではないでしょうか、とミークは問いかけます。私たちはまず自分たちの持っている情報からスタートし、AさんやBさんに関するしっかりした判断をしようと努めます。

 

その後、AさんやBさんのさまざまな属性(例:信頼できる人柄)などが示されていくにつれ、そういった諸属性は、さらなる経験を照らす一つの型となっていき、最終的に、私たちは自分の思いや行動の中でその型に自らを従わせていくことになります。(ここで彼女は神と人間との関係の中における知識と従順の聖書的統合についてすばらしい省察をしています。)

 

知ることに関するこういった営みの中において、私たちは自分が一寸の懐疑もない完全な確実性に到達できるのだと期待すべきではないと彼女は言います。そしてミークはいわゆる確実性の概念(⇒彼女はこれを、「網羅的・包括的、誤りのない知識」だと解釈しています)を、確信(confidence)に置き換えることができるのではないかと考えています。

 

ここでいう「確信」とは、知るという営為が私たちをどこかにたどり着かせようとしており、正しい方向に導こうとしているという事に対する継続した再確認(安心、再保証)のことを意味しています。また、知っていく過程で、私たちは、精神とリアリティーの間に、“correspondence”(一致、対応)ではなく、"contact"(接点、つながり、交流)を求めるべきだとミークは言っています。

 

私自身の著作である「神の知識にかんする教理(Doctrine of the Knowledge of God)」の中で、私は、知識(もしくは知ること)に関するいくつかの遠近法(perspectives)について説明しました。

 

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ミークが扱っているのは主として、私が自著の中で言っている「実存的遠近法(existential perspective;主観的プロセスとしての知識)に関してです。

 

その他の遠近法としては、規範的遠近法(normative perspective;規範や規則に従うことによって得られる知識)や、状況的遠近法(situational perspective;諸事実との一致や適合を求めることによって得られる知識)が挙げられます。

 

しかしこれらは遠近法ですから、それぞれが他の二つに関わりを持っています。つまり、主観的プロセスとして、知るという営みは、権威ある規範に従うことを求め、それ自身を実在世界と一致させようとします。ですから、ミークは規範的・状況的諸次元のことも把握しています。

 

規範というのは例えて言えば、(新聞に載っている)3Dパズルを解読するための諸規則のようなものであり、一方の状況的諸事実というのは、①手掛かり、及び、②(手掛かりを通し私たちが見ている)型、その両方を指しています。そして、神を知るという事例において、ミークは、聖書の権威及び被造世界における神ご自身の啓示に関し、啓発的コメントをしています。

 

本書は素晴らしいと思います。この短いレビューでは、彼女の文章の美しさや、議論の説得力について十分に言い表すことができないほどです。しかし一つだけ言わせていただきますと、私はこれほどまでに雄弁に、そして喜びに溢れた表現で記された、しかも本格的哲学書を読んだことがありませんでした。

 

ミークの表現力には脱帽します。豊かな泉から流れる小川のように彼女の中からさまざまなアナロジーや像が溢れ出てきます。どのページにも二つか三つの例が出されていますので、本書全体ではそれこそ何百という類比や例が盛り込まれているわけです。

 

身近な例を出す中で、彼女は、私たちの人生のありとあらゆる日常経験の中で、いかにして「知るという営み」が織りなされているのかを示そうとしているのだと思います。

 

しかし、確実性と疑いへの寛容についての彼女に批評に関し、私には二、三の懸念があります。仮に彼女のように確実性を「網羅的・包括的知識」と定義した場合、私も、その意味における「確実性」を彼女と共に拒絶することは可能です。しかしながら、聖書は、疑いに関し、否定的なことを言っています。(マタイ14:31;21:21;28:17、使10:20、11:12、ローマ14:23、ヤコブ1:6)。マタイ14:31とローマ14:23では、疑いは、信仰に相反するものであり、それゆえにそれは罪だと断言されています。

 

さらに、聖書の中で述べられている「神を知ること」はしばし、ミークの定義する「確実性」よりは低いかもしれませんが、私に言わせると、それは、彼女の定義する「確信」以上のものとしてのsureness(確実さ)を持っているように見受けられます。特にルカ1:4の"certainty"、使徒1:3の"proof"、そしてルカ23:47の百人隊長の言葉に留意してください。

 

またおそらく、それ以上に言及する必要があるのは、知識に関するミークの定義の最終段階である、恭順の性質に関することです。もしも私たちの恭順する神の啓示が無謬(infallible)なら、それは、その他すべての知識の基準としての役目を果たすはずです。

 

それゆえ、それは確実性(certitude)の基準であり、ある意味、それ自体で最大限確実なもの(maximally certain)とみなされるはずです。

 

神の御言葉の確実性でさえも、神の御思いの網羅的・包括的複写(exhaustive transcript)ではないというミークの見解には同意します。また、誤りを免れられない私たち人間の性質に対する正直な告白としての疑いというのが、許容され得るだけでなく、徳である場合さえあるという点でも彼女に同意します(ヤコブ4:13-16;ローマ11:33-34での神に関する知識についてのパウロの告白を参照)

 

しかし、です。ミークの著書『Longing to Know』を読む限りでは、私には罪深い種類の「疑い」と正当化され得る種類の「疑い」の区別がつけられません。あるいは、神の啓示が私たちに「弁解の余地」を残さないという事に関する意味をフルに理解することもできません。

 

おそらく、今後の課題としては、「神を知る」ということと、「彼女のなじみの整備工を知る」ということの間に存在する相違を、より良く検討し、探求していくことが必要になってくるのではないかと思います。

 

しかしながら、そういった問題は(それが単に私の誤解ではなく、問題だったらの話ですが、、)省略の誤りであるに過ぎません。そして本書に詰み込まれている内容は実に豊富であるため、そういった二、三の「抜け」は到底、不満の理由とはなりません。

 

総括して言いますと、この数十年の間出版された認識論(そしてキリスト教認識論)の中で、エスター・ミークの本書を凌ぐものは他にないと言えます。そして、この本は聖書を真剣に学んでいる方々、そして「いかにして神を知ることができるのか」についてのより明確な理解を求めている信徒のみなさんにとっての必読書だと思います。

 

 

エスター・ミーク著『Longing to Know』の書評(by D・A・カーソン、トリニティー神学校)

 

D.A. Carson, Christ and Culture Revisited, Refining Culture and Redefining Postmodernism, p.92-94.(抄訳)

 

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エスター・ミークは最近出版した著書『Longing to Know』の中で、知識に対する単なる合理主義的アプローチにも、そして懐疑主義の方向に流されていくポストモダン的漂流に対しても、その双方に思慮深い批評をしています*2

 

そうした上で、彼女は、希望に満ち、喜びに溢れた「知る」営為ーーこういった認識論に至ることができると提示しています。

 

一方において彼女は「知識というのは、あなたがこうだと確信している何かでなければならず、しかもそれは間違っていてはならない。なぜならもしも間違っているのならそれは知識ではないから。*3」という一般的西洋の立場を批判しています。

 

「こういった考えは最終的に"to know"という動詞およびその同源語を、一種の〈成功語〉にしてしまいます。つまり、この語を使う時、私たちは自分たちが真理をきちんと理解するのに成功していると暗に言っているのです。*4

 

こうして真理への探究は、またたく間に無謬性および絶対的確実性への探求となっていきます。その結果何が生じるのかということを、ミークの著書のレビューを書いたマーク・R・タルボットが次のように述べています。「古典的および現代哲学は両者共に、確実性に到達するための提言を通した懐疑主義の初期状態から、提言の実現挫折による懐疑主義へのぶり返し・・・を繰り返しています。」*5

 

そしてこの点において、ポストモダニズムは、「絶対的真理は存在せず、大きな物語(メタナラティブ)も存在しない」と自ら主張する時、それは結局のところ、単なる「懐疑主義に対する最新版の降伏」状態を表しているにすぎません*6

 

しかし、認識に関する人間の能力を語ることについてのより穏当な立場を採用することにより、また、人間認識に関わりをもつ諸能力、知覚・感覚能力、統合、文化的諸現実の多側面を認めることにより、私たちは依然として人間認識〔能力〕について語ることが全く妥当です。

 

ミークの議論すべてに同意するしないにかかわらず、少なくとも私たちは、近代 vs ポスト近代の議論の大部分が、いかに時代遅れかつ、過度に単純化しすぎており、またいかに痛ましいほど還元主義的であるのかということに気づくでしょう。

 

北米の多くの場所で、この問題が今も尚深刻であることは、最近、ミシガン州で開かれたディベートに典型的に現れています。この討論会では、ある有名な「イマージング・チャーチ」の指導者と、より「伝統的な」キリスト教思想家との間で対話がもたれました。

 

その際、「伝統的」キリスト者がイマージング運動の指導者に提出した質問の一つは次のようなものでした。「純正なるキリスト教にとって必要とされる信仰信条を列挙することができますか?もしそうなら、それらは具体的にどんなものでしょうか?」

 

それに対し、イマージング指導者はうーんと咳払いし、口ごもった末、やっとの事でリストを仕上げましたが、それらはいずれも〔正統信仰(オルソドクシー)に関する内容ではなく〕オルソプラクシー(orthopraxy;正統な実践、正統規範性)に必要とされる二、三の事柄でした。

 

そしてその中の一つたりとも、真理や信仰を要求するものはありませんでした。真理を語ることに対する彼らのこういった不承不承の態度が、いかに聖書記者たちとかけ離れているかは周知の事実です。*7

 

紙面上、ポスト近代に関する、年毎に拡張しつつある内容目録について詳説することはしませんが、とりあえず以下のことを提示したいと思います。

 

全知なる神の無限な認識に比べたとき、たとい人間認識がいかに有限にして不確かであるにしても、それでも私たちは人間認識について語る十分な知的スペースを持っています。

 

私が本書の中で提案しているような方法でキリストと文化について語ることが可能とされるためには、キリスト教に不可欠な特定の諸真理について語れることが必要であるだけでなく、聖書の筋、聖書のメタナラティブ、鳥瞰(big picture)についても私たちは語ることができなければなりません。*8

 

これを否定表現を使って言うなら、つまり、私たちは、「そこに鳥瞰、全体的眺望、総括的展望はない」という考え方に対し、最も強い語を用いてでも、それを断固として拒絶しなければならないということです。

 

ー終わりー

*1:

*2:Esther Lightcap Meek, Longing to Know: The Philosophy of Knowledge for Ordinary People (Grand Rapids: Brazos, 2003).

*3:Meek, Longing to Know, p.32.

*4:Meek, Longing to Know, p.26.

*5:Mark R. Talbot, "Can You Hear It? Esther Meek's Longing to Know as Skillful and Joyful Activity--A Review Essay," Christian Scholar's Review 34 (2005): p.367.

*6:Meek, Longing to Know, p.31.

*7:詳細は、D.A.Carson, Becoming Conversant with the Emerging Churchの第7章を参照。

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〔関連記事〕

後篇

その2その3その4

*8:聖書のメタナラティブについての関連記事