巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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認識論の必要性ーーマイケル・ポランニーについて(by フランシス・シェーファー)

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フランシス・A・シェーファー(1912 –1984)

 

Francis A. Schaeffer, He is there and He is not silent in Trilogy (Wheaton, 1990), chap.3. The Epistemological Necessity: The Problem, 311-313(抄訳)

 

さて、我々はまた、「階下」にある実証主義に注意を向けなければならない。この哲学はかつて合理主義的な人間にとっての偉大なる希望であったが、今や次第に息絶えつつある。

 

最初に私がオックスフォードとケンブリッジで講義をした頃のことを今でも覚えているが、あの当時、この二大大学の間にあって、我々はギアチェンジをしなければならなかった。なぜならオックスフォード大では依然として論理実証主義の講義が続けられていた一方、ケンブリッジではもう言語分析一色だったからである。しかしとにかく、次第しだいに実証主義は死に絶えていきつつあった。*1

 

なぜそのような事が起こったのか?それについての詳しい研究をしたい人のために、私はマイケル・ポランニーの著書『個人的知識 - 脱批判哲学をめざして』(Personal Knowledge, an Introduction to Post-critical Philosophy)を推薦したい。*2

 

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ポランニーは一般メディアや出版界ではほとんど取り上げられていないが、思想界では彼は相当に影響力のある人物である。彼の著書は、なぜ実証主義が不十分な認識論であり、なぜ確実な知識を得ようとの現代科学の希望が初めから破綻の運命にあるかを示している。

 

マイケル・ポランニーMichael Polanyi,  ハンガリー語: Polányi Mihály, 1891-1976)ハンガリー出身の物理化学者・社会科学者・科学哲学者。暗黙知・層の理論・創発・境界条件と境界制御・諸細目の統合と包括的全体等の概念を1950年代に提示。アインシュタインとも交流があった。

 

そして実際、今日、世界の主要な哲学科で、実証主義を教えている所はほぼ皆無になっている。しかしそれは今も尚、うぶな科学者たちによって信奉されており、彼らは幸せそうに笑みを浮かべながら、もはや存在しない無の上に土台を築こうとしているのである。

 

さて、我々は、今自分たちがどういう地点に来ているのかを確かめる必要があるだろう。近代の科学者たち(コペルニクス、ガリレオからニュートン、ファラデーに至るまで)は、宇宙が合理性をもつ神によって創造され、それゆえ理性により宇宙に関する真が何であるかを突き止めることが可能であるという事を信じていたため、近代科学を形成しようとの勇気をもっていた。

 

しかし自然主義的な科学になると、それらはすべて崩壊する。--実証主義は、初期の近代科学者たちによって信奉されていた認識論の基礎に取って代わることとなった。しかし今や実証主義それ自体が崩壊してしまっている。

 

ポランニーは、実証主義は不十分である、と言う。なぜか?それは、実証主義が、認識されるものの認識者(knower)を考慮していないからだという。ーー実証主義はあたかも認識者が見過ごされているかのように振る舞っている。そう、実際そこに不在でありながらあたかも認識者が認識できているかのように振る舞っているのだ。

 

あるいはあなたはこう言うかもしれない。実証主義は、認識者の諸理論ないしは諸前提を考慮に入れていないと。つまり、実証主義は次のように思い込んでいるのである。認識者はなんら諸前提を持つことなしに万事にアプローチしており、(認識者がそれを介して彼の知識を供給するところの)グリッドなしに万事にアプローチしているのだと。

 

「しかしここにジレンマがある」とポランニーは指摘する。「なぜなら、端的に言ってそれは真でないからだ。」実証主義的立場を採っている科学者の中で、グリッド(格子)を介し知識を供給していないような人は誰もいない。グリッドーーつまり、なにがしかの理論や(それを通し彼が見、見い出しているところの)世界観である。

 

「全く純粋にして客観的な観察者」という概念は、徹頭徹尾うぶでナイーブな考えである。そして実際、科学は観察者なしに存在し得ないのである。

 

若かった時分、人々はいつも言っていた。「科学というのは完全に客観的である」と。ところが、数年前からオックスフォードで、「いや、それは違う。それは真ではない。観察者抜きの科学なるものはあり得ない」と人々は言い始めた。観察者が実験を設定し、観察者がそれを観察し、そうして後、観察者が結論を引き出す。

 

「観察者というのは決してニュートラルではない」とポランニーは言う。彼にはグリッド(格子)がある。彼には諸前提がある。そしてそれらを通し、彼は自らの見い出したものを養っていくのである。

 

さらに踏み込んで言おう。実証主義はそれ以上に基本的問題を抱えていると私はこれまでずっと主張してきた。人はそれ自身の全体構造の中である体系を裁断しなければならない。全体構造としての実証主義内にあって、人は、「なにかが存在している」ということを、確信を持って言うすべを何ら持っていない。

 

実証主義体系それ自体の中においては、事実のまさにその本質により、あなたは裸のまま、「そこに何も無い」というところから始めなければならない。この体系内にあって、あなたはデータがデータであり、もしくは今あなたの元に到達しつつあるものがデータであるのかを知り、認識するいかなる根拠も持っていない。

 

つまり、今あなたの元に到達しつつあるものがデータであるのかについてあなたが確信を持つ権利を与える〈普遍〉ーーこれが、実証主義体系の中には存在しないのである。この体系それ自体、そこに何かが存在し、あるいはまずもって現実と空想の間に本当に何か相違があるのかといったことに関する確実性をあなたに与えはしない。

 

問題はそれだけにとどまらない。実証主義者はなにかがそこに存在するということを確実に知ることができないだけでなく、仮にそこに何かが在るとしたところで、彼は果して自分が何かを本当に(あるいはほぼ本当に)知っていると考える根拠を何ら持ち得ないのである。

 

そしてこの体系内では、観察者(つまり主体)と事物(つまり客体)の間に相関性があるのかについて確信するいかなる根拠も存在しないのである。*3

 

ー終わりー

 

*1:〔関連記事〕

*2:『個人的知識 - 脱批判哲学をめざして』長尾史郎訳、ハーベスト社、1985年

*3:〔関連記事〕

Charles R. Biggs, Epistemology According to Michael Polanyi, Cornelius Van Til, and John Calvin. PDF