巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

Regulative Principle of Worshipという16世紀の〈窓〉から遥かにひろがりゆく教会の公同性と普遍性

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 この先に何があるのだろう?

 

「ウィクリフは著述全体を通し、『新しい企画・手法(innovation)や真新しいものへの愛着が、キリスト教および教会の一致と統合を脅かしている』と訴えています。」*1

 

礼拝における規制原理(Regulative Principle of Worship, 略称RP)というのは、宗教改革の先駆者であるジョン・ウィクリフ(1320s-1384)などを筆頭に、「(人ではなく)神様ご自身が礼拝をお受けになりたい仕方で、この御方に礼拝を捧げたい」と願う改革者たちによって練られ、16世紀の改革期にプロテスタント礼拝の礎となった大切な原理です。

 

この原則については以前にいくつか記事を書きましたので、詳細は以下をごらんください。

 

 

それにしても、、、礼拝における「規制」?ーー私たちは御霊によって「自由」に礼拝すべきではないのでしょうか?それが神様が私たち礼拝者に望んでおられることではないでしょうか?礼拝において「こうしてはいけない。ああしてはいけない」と指示されるのは、律法主義の始まりではないでしょうか?・・・・

 

しかしながらケビン・デヤング師が「RPの核心は、制限や制約にあるのではありません。その核心は、自由にあります」と言っているように、実際、この宗教改革原理は本当に、私たちの信仰の良心に自由をもたらし、神礼拝の中で私たちの霊をのびのびと飛翔させるものであることを、自分自身、深く実感しつつあります。

 

まず、RPの文字(もんじ)ではなくその精神に理解が及ぶようになると、人は神の御心だけでなく、隣人の良心に対しても、より繊細でやさしい心を持つようになります。

 

宗教改革者たちは、兄弟姉妹の信仰の良心を蹂躙するものを「tyranny(専制、暴政)」と表現していますが、RPが神への愛、隣人への愛の精神の内に適用されるとき、教会的専制の危険性が未然に防がれることになります。グレッグ・プライス牧師はそのことに関し、次のように述べています。

 

 「親愛なるみなさん、イエス・キリストのしもべである私たちもまた、神の御言葉によって権威付けられていない礼拝行為、儀式、パフォーマンスを神礼拝の中に導入する時、かつての英国議会が犯したような誤りに陥ってしまうのです。

 

 こうして私たち牧会者は、そういった人造の礼拝形態を人々に押し付けることになります。そしてその時点で、もしも、教会の信徒さんたちが正当にも礼拝参加を拒むような状況が発生した場合、その時、彼らの良心の上に君臨しようとする私たちの熱心により、彼らは礼拝から締め出されてしまうことになります。そしてその時、私たちは彼らの真正なる『キリスト者としての自由』を否定することになり、実質上、教会的〈専制君主(tyrant)〉になってしまうのです。」(引用元

 

RPがもたらす祝福はそれだけにとどまりません。この原則に教会が立つ時、(ロゴスではない)人間的イノベーション行為に健全なフィルタリングがかかり、こうして、一時的ではかない「新奇性」「浅薄性」「流行性」という現代プロテスタントの病理菌の侵入を未然に防ぐことが可能になります。

 

新奇性は、人間の目に「自由」で「オープン」に見えるかもしれませんが、実際には、これにより信仰者はますます「檻(おり)」の中に閉じ込められていくことになります。時系列でみた時、プロテスタント的「新奇性」は、ちょうどテレフォン・ボックスのようなものではないかと思います。

 

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一つのブースと隣のブースの〈仕切り壁〉は、世代間の隔たり・断絶・非連続性を表象しています。礼拝の中で新奇性が幅を利かせれば利かせるほど、このボックスは狭く、奥行きのないものになってゆき、中にいる人はその檻の中にぎゅうぎゅうに押し込められていくことになります。

 

また、この仕切り壁により、クリスチャンの世代Cは、一つ前の世代Bの姿をもはや見ることも想像することもできず、そこには悲しいまでの断絶と亀裂があります。一つのワーシップの流行が来、去り、一つの歌のスタイルが流行し、去り、一つの踊りの流行が来、去り、、、こうして私たちはこの狭い檻の中で前も後ろも見ることができないまま、後の世代に何かを伝承することもできないままボックスの中で朽ち果てていきます。

 

しかし、RPの原則が永遠のみことばへの愛の内に適用されるとき、時系列上のこの〈仕切り壁〉が軋りはじめます。

 

一例を挙げますと、RPの探求から私は詩篇歌の世界に導かれました。そしてこの実践を通し、私の中でーー不完全な形ながらもーー時系列上の「解き放ち」が起されつつあります。

 

私たちは「詩篇を歌う」というこの礼拝行為が、1世紀のカルタゴのクリスチャンと共有され、旧約時代のダビデと共有され、19世紀のスコットランドのロバート・マクチェーンと共有され、中世ビザンツ期のクリスチャンと共有され、ニューイングランドのピューリタンと共有され、16世紀のジュネーブの兄弟姉妹と共有され、3世紀のシナイ半島の洞窟で祈り歌う隠遁士と共有され、新約期の教会の信者と共有され、使徒たちと共有され、イエスさまと共有されているということを知っています。

 

そこに移り変わりや一時性はなく、神礼拝という永遠の行為の中で、私たちは互いを隔てていた時空の壁の上に飛翔し、公同なる普遍の教会というひろがりの中で、「あらゆる国民、部族、民族、、だれにも数えきれるほどの大ぜいの群衆」と共に「白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立つ」黙示録7章のあの待望の日を「今ここで」予感することができます。予感することが可能とされていきます。

 

彼らは大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」(黙7:10)

 

 「すべての時代の、すべての贖われた人々が、その血によって彼らを集めてくださったお方の御前に集まる日は、なんという栄光の日でしょうか!肉が永久に捨てられてしまったために、その調和した立派な音楽に不協音が一つも混じらずに、永遠の神に礼拝の大合唱がのぼる!人間が勝手に設けたさまざまな小さい囲いなどでひとりひとりが隔てられることはもはやないのです。

 

 こうして神の民は、一切の宗派による区別をもたず、『ついに一つの群れ、ひとりの羊飼いとなるであろう』(ヨハネ10:16)との、主の御言葉が完全に実現するでしょう。そしてヨハネ17章の祈りの中でキリストが言われた、『父よ。それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります』との願いがついに成就をみるでしょう!このようにして地上ではじまる礼拝は、私たちの永遠の任務の序曲でしかありません。」(A・P・ギブス)

 

信仰の先駆者たちが殉教の血の代価を払い、切り拓いてくれた道に私たちは今います。そして彼らが築いてくれたRPという「窓」から、私たちはキリスト教会の普遍性、公同性という永遠にして果てしのない丘(創49:26)を眺望することが許されています。なんという幸いでしょうか!

 

*1:Stephen Lahey, John Wyclif, Oxford University Press (2009), p.154.