巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

あゝ教会の公同性!

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広く、どこまでも広く、

遠く、そこには果てがない。

 

「我は、、聖なる公同の教会、、を信ず。」

Πιστεύω εις,, αγίαν καθολικην εκκλησίαν.

Credo in,,sanctam Ecclesiam catholicam.

ーー使徒信条

 

「わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。」

Πιστεύω..είς μίαν, αγίαν, καθολικήν καί αποστολικήν Έκκλησίαν.

Credo..et unam, sanctam, catholicam et apostolicam Ecclesiam.

ーーニケヤ・コンスタンティノープル信条(381年)

 

目次

 

はじめに

 

公同の教会(καθολική εκκλησία)という表現を初めて記したクリスチャンは、アンティオケの牧会者で紀元110年にローマで殉教死したイグナティオスであると言われています参照。このブログでは現在、イグナティオスによる「ローマのキリスト者への手紙」が翻訳進行中ですが、この手紙以外にも、6つの書簡が残存しており、「公同の教会」というフレーズは、「スミルナのキリスト者への手紙」の8章の半ばに登場してきます。

 

この書簡は、トロアスから送付されており、イグナティオスは、(以前スミルナ滞在中に)自分を手厚くもてなし歓迎してくれたスミルナ教会の兄弟姉妹に対し感謝の気持ちを述べています。ですが、イグナティオスの心は、当時スミルナに蔓延していた異端の教え(キリスト化現説)への懸念で一杯でした。また、こういった異端者たちの侵入により、教会内に今や分離主義の毒が注入されようとしていました。*1

 

キリスト化現説というのは、通常、「イエスの身体性を否定する教説」のことを言い、「イエスの人としての誕生・行動や死はみな、人間の目にそのように見えただけであった」という異端見解を持っています。仮現説とグノーシス主義は同義ではありませんが、両者はしばし互いに結び付いており、イグナティオスやエイレナイオス(130年頃-202年)等の使徒教父たちは、これらの異端と徹底的に闘いました参照

 

それでは、そういった背景を知った上で、「スミルナのキリスト者への手紙」8章の例の箇所を読んでみたいと思います。

 

 「あらゆる党派・分派を避けなさい。それが諸悪のはじまりだからです。イエス・キリストが御父に従ったように、あなたがた一人一人も、自分の上に立てられた監督に従ってください。そして使徒たちにそうするように、あなたがたの牧者にも従ってください。また、神の掟に敬意を払うが如く、あなたがたの長老たちにも同じ敬意を払ってください。

 

 監督の認可を得ずに、誰かが教会に影響を及ぼすような措置を取り始めることのないよう注意してください。あなたがたにとって妥当な聖餐は、監督自身によってとりなされたものか、もしくは監督によって認可された人々によって執り行われたものに限ります。監督がいる所に、彼の牧会する群れもいるようにしてください。それは、イエス・キリストが臨在される所にはどこでも、公同の教会があるのと同様です。」(私訳)

 

原文

..τοὺς δὲ μερισμοὺς φεύγετε ὡς ἀρχὴν κακῶν. Πάντες τῷ ἐπισκόπῳ ἀκολουθεῖτε, ὡς Ἰησοῦς Χριστὸς τῷ πατρί, καὶ τῷ πρεσβυτερἰῳ ὡς τοῖς ἀποστόλοις. τοὺς δὲ διακόνους ἐντρέπεσθε ὡς θεοῦ ἐντολήν. μηδεὶς χωρὶς τοῦ ἐπισκόπου τι πρασσέτω τῶν ἀνηκόντων εἰς τὴν ἐκκλησίαν. ἐκείνη βεβαία εὐχαριστία ἡγείσθω, ἡ ὑπὸ ἐπίσοπον οὖσα ἢ ᾧ ἂν αὐτὸς ἐπιτρέψῃ. 2. ὅπου ἂν φανῇ ὁ ἐπίσκοπος, ἐκεῖ τὸ πλῆθος ἤτω, ὥσπερ ὅπου ἂν ῇ Ἰησοῦς Χριστός, ἐκεῖ καθολικὴ ἐκκλησία.

 

この手紙が書かれた紀元110年には、もちろん、教会教義学というものは存在しておらず、catholic(καθολικὴ)という語も、まだ神学的「術語」にはなっていなかったと思います。

 

異端侵入による痛ましい分派や分裂の危機からスミルナの教会が守られ、兄弟姉妹が、キリストにある一つのからだとしての catholic (公同の、普遍の)教会に目を向け続けてほしいーーもしかしたら、イグナティオスはそのような牧会的配慮と愛の内に、この表現を用いたのかもしれません。みなさんは、どう思いますか?

 

教会の「公同性」について(R・B・カイパー)

 

R・B・カイパー著、山崎順治訳『聖書の教会観―キリストの栄光のからだ―』第9章より一部抜粋、The Glorious Body of Christ: chap.9. "Catholicity," by R. B. Kuiper (1886-1966)

 

ある辞書によると、公同性は「世界的な普及・採用・普遍性」と定義されています。キリスト教会は真実、普遍的であり、その普遍性はキリスト教会の栄光の顕著な一面です。

 

流布している誤解

 

教会の公同性がしばしば誤解されているのは残念なことです。特に二つの誤解が流布しています。それを余りにも狭く考える者が一方におれば、他方には余りにも広く考える者がいます。

 

ローマ教会は、自らカトリック(公同的)教会と称しています。自らに公同性を要求することによって、他のすべての教会を普遍的教会から締め出しています。この見解によると、教会の普遍性はローマ教会の外には広がらないことになります。それは全く制限された普遍性となります。

 

反対に、多くのプロテスタントは、キリスト教会の公同性について余りにも締まりのない見解をとります。彼らは、教会と自称するいかなる団体をも、ことごとく普遍的な教会の肢体であると認めます。それはローマ教会とは正反対の極端であり、まさるとも劣らぬ誤りです。

 

教会員の中に、そして多分、牧師の中にも、三位一体の神を否定したり、キリストの神性を否定する者を容認している群れは、明らかにキリスト教会に数えられる栄誉を失っています。それは偽教会です。この事実は、自由主義的なエキュメニカル運動の指導者たちによって看過されたり、否定されたりしています。

 

それからまた、実際には単なる分派に過ぎない自己流の教会があります。教会と分派は区別しにくいことかもしれませんが、聖書の光に照らして考えれば取るに足らない理由で新しい教派が作られるとき、分派の罪が犯され、そこに生まれたものは教会ではなく分派です。ベルギー信条の警告は、今日も生きています。

 

「われらは、つとめてまた周到に真の教会はなんであるかを、神の言から認識しなければならないと信じる。というのは、今日、世界にあるすべての分派はこの教会の名をもっているからである。」*2

 

旧約における予表

 

キリスト教会の公同性に正しくおもむかせるためには、人は、旧約時代の教会と新約時代の教会とを比較しなければなりません*3。旧約時代の教会は、イスラエルの民に限定され、その範囲は民族的であって普遍的ではないと、よく言われます。

 

大体のところ、それが真実であることは否定できません。神は、アブラハムとその子孫とに、恩恵の契約をたてられました。「主はその御言葉をヤコブの示し、そのもろもろの定めと、おきてとをイスラエルの示される。主はいずれの国民をも、このようにあしらわれなかった。彼らは主のもろもろのおきてを知らない。主をほめたたえよ」(詩篇147:19-20)。

 

しかしながら、それは決して事のすべてではありませんでした。旧約聖書は、来るべき万国性、普遍性の預言と約束だけでなく、その成就の予表で満ち満ちています。アブラハムが特選の民の父となるために、神が彼を異教的環境から召し出されたそのときに、神は言われました。「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」と(創12:3)。

 

民族主義は、決してそれ自体が目標ではなく、初めから万国性、普遍性という目標に至る手段でした。詩篇72篇はメシアの普遍的支配を歌う多くの聖句の一つです。「彼は海から海まで治め、川から地の果てまで治めるように」(詩篇72:8)。

 

福音の預言者イザヤによって、神は普遍的な招きをしておられます。「地の異なるもろもろの人よ。わたしを仰ぎのぞめ。そうすれば救われる」(イザヤ45:22)。神の命令で、預言者ヨナは異教の都ニネベに向かって悔い改めの福音を宣べ伝えました。エリコの遊女ラハブとシリヤの将軍ナアマン、それにモアブの女性ルツは、異教からまことの生ける神に立ち帰りました。

 

新約における実現

 

しかし、キリスト教会の普遍性が十分な実現をみるのは新約においてです。主イエスの公生涯の終り近く、あるギリシャ人が主にお会いしたいと願った時、主イエスは深く感動して「わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引き寄せるであろう」と言われました(ヨハネ12:32)。主は、そのことを十字架の死と関係づけて言われたのです。

 

主はオリーブ山から天にかえられる時、弟子たちに命じられました。「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となるであろう」と(使1:8)。ペンテコステの日、「天下のあらゆる国々から」来た人々がエルサレムにいました。

 

多くの者が回宗し、バプテスマを受けてキリスト教会に加えられました。エチオピアの高官はピリポの教えによって回心し、ローマの百卒長はコルネリオはペテロの説教によって家族と共に回心しました。とりわけ重要なことは、パウロが異邦人世界にまで福音を伝える神の選びの器とせられたことです。使徒行伝は、ユダヤ人の都エルサレムから世界の都ローマに至るまでの、福音の勝利に輝く行進を物語っています。

 

いわば、新約時代において、キリスト教会は民族性の垣を完全に押し破って、全世界にあふれ出たのです。キリストの再臨のときまで、福音は世界中の民に宣べ伝えられるでしょう。天において、あがなわれた者は小羊の栄光をたたえます。「あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、、、」と(黙5:9)。*4

 

ー終わりー

 

教会のただ一つの土台

 

教会のただ一つの土台、それはイエス・キリスト。

水と御言葉によって新しく造られたエクレシア。

 

天より降りしキリストは、

ご自身の血潮によって彼女(教会)を買い取り、

彼女の命のために死なれた。

――ご自身の聖い花嫁とするために。

 

あらゆる国から選ばれし民。

全地に散らばりつつも一つのからだ。

主は一つ。信仰は一つ。バプテスマは一つ。

 

彼女はただ一つの聖なる御名をたたえ、

一つの聖なる糧に与り、

恵みの下に 一つの希望に向かって前進している。

 

圧迫され、

分裂と仲たがいによって裂かれ、

あらゆる異端により苦しめられる彼女をみて、

この世はあざ笑う。

 

しかし聖徒たちはたゆまず見張り、

「いつまでですか?」との彼らの叫びは

天に立ち昇っている。

――涙の夜は、やがて必ず

歌声に満ちた朝となることを信じて。

 

労苦と患難、

彼女の内外を襲う混乱のただ中で、

彼女はじっと待つ。

――やがて訪れる永遠なる平和の成就を。

 

勝利をおさめし偉大なる教会、

それが安息を得たエクレシアとなるのだから。

しかし地上にありてすでに、

彼女は三つ(みつ)にして一つなる神とひとつにされた。

 

そして安息をいただいた聖徒たちは

神秘の内に 主との甘美な交わりをいただいている。

おお、そのような聖徒はなんと幸いであろう!

 

主よ、どうか私たちを

柔和でへりくだった者、そして

永遠に生きる民とさせたまえ!

 

J. Stone, The church’s one foundation, 1866(私訳)

*1:参照 The Apostolic Fathers, Early Christian Writings, Penguin Books, p.100.

*2:第29条、新教出版社刊。キリスト教古典選書、信条集前篇p.350.

*3:関連記事

*4:関連記事