巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「使徒的」であることについて

File:Duccio di Buoninsegna 016.jpg

 

「わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。」

Πιστεύω..είς μίαν, αγίαν, καθολικήν καί αποστολικήν Έκκλησίαν.

Credo..et unam, sanctam, catholicam et apostolicam Ecclesiam.

ーーニケヤ・コンスタンティノープル信条(381年)

  

私がプロテスタント教徒として正直、現在も葛藤している課題の一つがこの「使徒性」です。

  

第1回コンスタンティノープル公会議(381年)で定められた信条には、上記のように「聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会」という信仰告白文が出てきます。カトリックのサイトを見ましたら、この「使徒的」という部分に関して、次のような解説がなされていました。

 

3.使徒的

最初からキリストとしての信仰を教えたことは、今でもその教会で教えられている事です。

この二千年の間、色々なことが変わりましたが、その変化は最初の考えに基づいたものだったのです。もう一つの意味は、十二人の使徒達を頭(かしら)として創った教会はその後継者が、途切れなく続いた教会です。カトリックの考え方として、プロテスタントの諸教会がその点について欠けていると思っています13.教会(三) 四つの特徴

 

プロテスタントの神学者であるR・B・カイパーは、『聖書の教会観』の第10章「使徒性」の箇所で、宗教改革者たちが、「人や場所の継承」よりも「教理の継承」が真の教会のしるしであると主張していたと記しています。*1

 

また、真の教会とは、そういった教理的使徒性とともに、組織的使徒性をも有しているとカイパーは述べ、次のように解説しています。

 

 「それにもかかわらず、真の教会は、いつ、どこにあるにしても、教理的使徒性とともに、組織的使徒性をも有していると言わねばなりません。使徒たち自身、新約時代の組織された教会の中核を成していましたし、その教会を彼らは生涯を賭して建てました。

 

 かれらが組織したその教会は、消滅しなかったし、また決してなくなりはしませんでした。教会の神的かしらが、そのことを約束されました。確かに教会は多くの変動を経て来ました。しかし、教会が消滅するような変動はありませんでした。教会は、プロテスタント宗教改革という大変革をも経験しました。その変動から現われたプロテスタント教会が、使徒的教会の継承だったことは、明白な事実です。」(カイパー『聖書の教会観』p.56-57)

 

「使徒的教会の継承だったことは、明白な事実、、、、」うーん、きっとそうなんだろう、そうであるに違いないし、そうであってほしいし、そう信じたい。「教理的継承をぬきにした組織的継承は無価値」であり、「組織を持っているが教理を失ってしまった教会は、もはやイエス・キリストの教会ではない」(同著 p.56)というカイパー師の言明もその通りだと思います。

 

しかし実感レベルで言いますと、私は、自分の属するプロテスタント派が「使徒的」であり「使徒性」を有しているという公的主張が、(頭の知識としてはあっても)未だに自分の魂に彫り込まれておらず、なにか今も現実から乖離した「一理論」としてぷかぷか宙に浮いているような、そんな状態にあります。

 

例えば、私はプロテスタントの一般的文脈の中で使われる「使徒的(apostolic)」という語と、自分の暮らすギリシャ正教会圏の文脈の中で使われる「αποστολική(使徒的)」という語のニュアンスの違いにとまどいを覚えています。何というか、この一語に込められた「重量感」がこの二つの世界では全然違うように感じるのです。

 

私たちの現代プロテスタント界は、「十二使徒に特別な権威はありませんでした。」といった見解が恥じらいも恐れもなく堂々と主張されても 基本的にOK な世界です。

 

 

また、自分が新使徒であると自称する人々が堂々と生き、ミニストリーできる場所も、キリスト教界の中ではやはりプロテスタントと相場が決まっています。

 

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自称使徒のトッド・ベントレー(新使徒運動)

 

なぜなのでしょう?なぜ、こういった荒唐無稽な事がポッシブルなのはほぼプロテスタント界に限られており、他ではあり得ないのでしょうか。こういった疑問から、私たちの内のある人々は、ローマ・カトリック教会、聖公会、ギリシャ正教会等の主張している「使徒継承(apostolic succession)」がもしかしたらやはり何か意味や正当性を持っているのではないかと再考し始めます。*2

 

しかしそれらの教会の主張する使徒継承の考えは誤っているとカイパーは言います。「このような使徒継承の主張の重大な一つの誤りは、組織の継承が教理の継承を保証しないということを見落としていることです。」「ローマ・カトリックは使徒的教理から遠くかけ離れてしまいました。かれらは、使徒の教えの核心的な教理、信仰義認の教理を否定しているではありませんか?他にもありますが、その理由で16世紀の改革者たちは、ローマ教会を偽教会と呼ぶことをためらいませんでした。」(同著 p.56)

 

そうなのですが、しかし私の抱えている葛藤は、伝統諸教会の主張する「使徒継承」が誤っているという事が明らかになったところで消えるような性質のものではないのです。

 

他者の見解の「偽」を証明できたところで、それが自動的に自分の立場の「正」を確立するわけでも保証するわけでもありません。事実、エホバの証人であれ、モルモン教であれ、その他どんな奇妙なセクトであれ、なにがしかの理由をつけて自らの宗派の「使徒性」を懸命に主張しているではありませんか!皆、新約や使徒教父文書を(文脈を無視して)あちこちコピペし、自らの派の教理の使徒的継承を裏付けようとしているではありませんか!

 

「新約の教会の基礎が使徒的であるとは、どういう意味でしょうか?」とカイパーは読者に問いかけ、次のように回答しています。

 

「それは、教会が使徒たちの『教え』の上に建てられるということです。このことは、先述のマタイ福音書の御言においても明らかに含意されています。ペテロが主イエスは神の子キリストであるという教理を、たまたま述べた時にというのではなくて、正確には、彼がこの教理を告白した『ゆえに』、主イエスは『わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう』と言われたわけです。その真理の告白者としての使徒たちが、教会の基礎なのです。」(同著p.54)

 

また、「教会の基礎が使徒的であるということは、『すでに据えられている土台以外のものを据えることは、だれにもできない。そしてこの土台はイエス・キリストである』(1コリ2:11)という、使徒パウロの強調的な言葉と矛盾しないだろうか?」という疑問に対してもカイパーは次のように答えています。

 

「しかし、教会は使徒たちの『教え』の上に建てられることを思い起こすなら、その問題はすぐ解決がつきます。使徒たちは、キリスト以外の何を教えたでしょうか。キリストが、彼らの教えの要点です。パウロは、イエス・キリスト、十字架につけられたキリストのほか何も知るまいと決心したと言わなかったでしょうか(1コリ2:2)。使徒たちの教えが教会の基礎であるというのは、キリストが教会の基礎であるというのと全く同じです。」(同著p.55)

 

こうして見てきますと、やはり、「使徒性」の問題も、「(聖書の)権威」の問題および「主イエスの至高の権威」(鞭木由行師)の問題につながっていくのではないかと思わされます*3。「聖書的」という表現と同様、何かが「使徒的」であるという状態や性質は、名詞の「使徒」が実際に何を意味しているのかということと切っても切れない関係にあると思います。

 

そしてイエスの権威が軽んじられ、聖書の権威が軽んじられる現代の霊的風潮にあって、十二使徒の権威や教えもまた軽んじられ、彼らの権威や属性を表象する「使徒性」や「使徒的」といった言葉が空文化されていくことは自然な流れであるように思われます。

 

しかし聖書は、使徒たちが「十二の位に座し、イスラエルの十二の部族をさばくようになり」(マタイ19:28参)、天の都の十二の土台には、「小羊の十二使徒の十二の名」(黙21:14)が記されることになると明記しています。

 

また、使徒たちの教えが「真理の柱また土台」(1テモテ3:15)としての教会の基礎であり、キリストが教会の基礎である(エペソ2:20参)という事実は、私たちに、空文ではない実質としての「使徒的」教理を追及することの大切さを示しているように思います。

 

「わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。」アーメン。主よ、迷い葛藤する弱きこの者を助け、また、汝が愛しご自分を捧げられた栄光の教会の真実を私に、そして同じ問題意識を持ち日々信仰の道を歩んでいるすべての兄弟姉妹にお示しください。

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*1:バヴィング著『改革派教義学』第4巻353頁参照。

*2:使徒継承についてですが、聖公会は、①ローマ教会、②ギリシャ正教会、③聖公会三者とも、使徒継承を持っているという見解を持っています。一方のローマ教会は、①ローマ教会と②ギリシャ正教会だけにそれを認め、聖公会には使徒継承はないとしています。他方、ギリシャ正教会はどうかというと、正教会は他の二者の使徒継承の所有を否定的に考えています。(参照:カイパー『聖書の聖書観』p.56)

それから以下が、ギリシャ正教会の視点から見たその他の教会観です。「正教会は中世西ヨーロッパの「スコラ神学」や近代の宗教改革とも無縁でした。キリスト教会は現在は多くの教派に分裂していますが、中世のある時期までは「一つの聖なる公なる使徒の教会」(ニケヤ・コンスタンティノープル信仰告白)としてほぼ一致していました。正教会はこの東西教会が一つにまとまっていた時代に、五世紀間にわたって合計七回開催された全教会の代表者たちによる会議(「全地公会議」325年~787年)で確認された教義や教会組織のあり方、教会規則、さらに使徒たちの時代にまでさかのぼることのできる様々な伝統を切れ目なく忠実に守り続けています。正教会と他の諸教会が「分裂」したのではなく、正教会から他の諸教会が離れていったというのが「教会分裂」の真相です。」(「キリスト教の土台」-日本正教会のサイトより)

*3: