巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

真理の探究はむずかしい(by アウグスティヌス)

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いったい時間とは何でしょうか。だれも私にたずねないとき、私は知っています。たずねられて説明しようと思うと、知らないのです。ーーアウグスティヌス

 

目次

 

真理の探究はむずかしい

 

主よ、この世の貧しい生活をいとなんでいる私の心の戸が、聖書のみことばに叩かれたとき、私はまったく当惑してしまいました。

 

多くの場合、ことばだくさんのうちに、かえって人間知性の貧困があらわれるものですが、それはなぜかというに、発見よりも探求のために多く語らねばならず、獲得よりもむしろ要求のほうに長い時間がかかり、手にうけとるよりむしろ、手で戸を叩くほうに多くの労力を要するからです。

 

しかし私たちは、もうあなたの約束を手にいれています。だれがその約束を廃棄することができるでしょうか。もし神が味方であるならば、だれが私たちにさからうことができるでしょうか*1。もとめよ、さらばうけん*2。たずねよ、さらば見いださん。叩けよ、さらば汝らに開かれん。まこと、もとめる者はすべてうけ、たずねる者は見いだし、叩く者には開かれるでありましょう*3。『告白 II』第12巻第1章

 

おお、自分が何を知らないかさえも知らないとは!ーー嘆きと嘆願の祈り

 

主よ、御身に告白したてまつる。私はまだ「時間とは何か」を知らないのです。しかし主よ、さらに告白したてまつる*4。私はこれらのことを時間においてかたっている、もうすでに長く時間について語っている、しかもこの「長く」とは、時の間(ま)が長いということにほかならないーーこういうことを私は知っているのです。

 

ではいったい、どのようにして知るのでしょう。「時間とは何か」を知らないのに。それとも私は、自分の知っていることを、どのように表現したらよいかを知らないのでしょうか。ああ、何というあわれな人間だ、この自分は。自分が何を知らないかさえも知らないとは!

 

神よ、ごらんください。私がうそをついていないことは、御前にあきらかです*5。私の心は、私が語るそのとおりなのです。主よ、わが神よ。わがともしびをともしたまえ。わが闇を照らしたまえ*6。『告白 II』第11巻第25章

 

この問題の解明を神に乞いもとめる

 

私の魂は、まことにこみいったこの謎をときたい願いに燃えています。閉ざしたもうな、主よ。神よ。善き父よ。キリストによりて願いたてまつる。閉ざしたもうな。わが熱望にたいし、この身近に、しかも深くかくれた謎を。この謎のうちに深くはいりゆき、おんあわれみの光のもとに、照らしだされるようになしたまえ、

 

主よ。この問題について、誰にたずねたらよいでしょう。あなた以外の誰に自分の無知を告白し、あなたに告白する場合に得られる以上の成果を得ることができるでしょうか。

 

私の心はあなたの聖書の意味を知ろうとはげしく燃えていますが、その熱心をあなたはいとわれません。わが愛するものを与えたまえ。じっさい、私は愛しています。この愛をくださったのはあなたです。与えたまえ。善き賜物をその子らに与えることを真にご存じの父よ、与えたまえ*7。じっさい、私はもうそれを知ろうとする企てにとりかかりました。しかしあなたが開示してくださるまでは、私の前にはただ労苦あるのみなのです*8

 

キリストによりて願いたてまつる。この聖の聖なる方の名において、だれも私のじゃまだてをしないでくれ*9。私は信じました。だからこそ、また語るのです*10。私の望み。そこに生きがいを感じるもの、それは「主のよろこびを見る」ことです*11。『告白 II』第11巻第25章

 

時間的なものにむかって分散している自己が、神にむかって集められ、一つにされんことを願う

 

しかしあなたのあわれみは、多くの生命にもまさる*12。どうです。いくつかの方向への分散状態が私の生命なのです*13。しかしあなたの右の手は、一なるあなたと多なる私たちーーじっさい私たちは多くのものにより、多くのものにおいて多になっていますーーとの仲介者である人の子、わが主において、私をうけとってくださいました*14

 

それは、この仲介者をとおしてあの方を、そのうちに私がもうとらえられてしまっているあの方を、自分自身とらえるためです。また、古い日々のうちに分散されていた自分が一つに集められ、一なる方に従うためです。

 

私は過去のことを忘れ、来たりまた去りゆく未来のことに注意を分散させずに、まのあたり見るものにひたすら精神を集中し*15、分散ではなく緊張によって追求し*16、天上に召してくださる神の賞与をわがものとする日までつづけます*17。その日、私は讃美の声を聞き*18、来ることも去ることもないあなたのよろこびをながめることでしょう*19。『告白 II』第11巻第29章

 

おお、光まばゆいうるわしい家よ

 

おお、光まばゆいうるわしい家よ。私は汝の美しさと、わが主の栄光の住処(すみか)、汝を造り、汝を所有する方の住処を愛した*20。遍歴の道にある私は、汝をあこがれ*21、汝を造りたもうた方にむかって、汝においてこの私をも所有してくださるように乞い願う。

 

なぜならその方は、この私をも造りたもうたのだから。私はかの失われた羊のように迷っていた*22。しかしいま私は、汝を建てし者、わが牧者なる者の肩に負わされて*23、汝のもとにつれもどされることをのぞむ。『告白 II』第12巻第15章

 

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*1:〔以下、山田昌注釈〕ローマ8:31

*2:ヨハネ16:24

*3:マタイ7:7-8

*4:詩篇9:2

*5:ガラ1:20

*6:詩篇17:29

*7:マタイ7:11

*8:詩篇72:16

*9:旧約時代には、聖の聖なる待幕屋(至聖所)には、年に一度、大祭司が入りうるだけだったが、完全な大祭司としてのキリストは、この至聖所においてみずからの血をいけにえにささげ、これによって彼を信じるすべての人間に至聖所への通路をひらいた。(ヘブル9:1-15、10:11-19)。今アウグスティヌスは、このキリストの名において、「時間の本質」という至聖所にまでみちびかれることを乞い願う。

*10:詩篇115:1

*11:詩篇26:4

*12:詩篇62:4

*13:distentioを「分散」と訳す。ここまで、時間が精神の「延長」distentioであると述べてきた。すなわち、過去、現在、未来の三つの方向に分かたれて気がくばられている状態が時間である。われわれの生命が時間的存在であるとすれば、生命そのものがdistentioである。このようにいわれるかぎり、このことばは人間存在のありかたを示すのみで、それが善いとか悪いとかという価値判断をふくまない。しかるにこの章で突然、このdistentioは、精神が神を忘れて時間的多様性のうちに分散している状態を意味するものとして、悪い意味にとられてくる。distentioは「延長」、「心のひろがり」の意味から「分散」の意味となる。前者はフッサール的時間、後者はハイデッガー的時間につながる。

*14:詩篇17:36,62:9

*15:ここでdistendereと extendereとが対比的に使いわけられている。前者が、分散した方向に心がむかうことであるのにたいし、extendereは、精神を一つのことに集中する意味に用いられている。しかし、本来この語にそのような意味はない。それは「外に」ex「むかう」tendereことであって、「のびる、ひろがる、延長する」の意味である。なぜアウグスティヌスはこの語を、この特殊な意味に用いるか?二つの理由があると思われる。

第一は、聖書との関連である。彼はここで「ピリピ人への手紙」3:13の「後ろのものを忘れ、前のものにむかってからだを伸ばしつつ」というパウロのことばを念頭においている。この「伸ばしつつ」がラテン語訳でextendereになっている。「前にむかって」をアウグスティヌスは、未来でなく「現在のもの」の意味にとった。心を過去や未来に散らすことなく、現在にextendereするという意味にとった。そこでパウロにおいて「伸ばす」の意味であったこの語が、アウグスティヌスにおいては「精神を集中する」の意味となった。第二の理由についてはp.83注133を参照。

*16:ここで「分散」distentioは、「緊張」intentioに対比される。これは、「あるものに」in「むける」tendereこと。すなわち、精神の注意力を一つのことに集中すること。

*17:ピリピ3:14

*18:詩篇25:7

*19:詩篇26:4

*20:詩篇25:8

*21:地上の生が永遠の都エルサレムへむかっての遍歴の道程であるという考えは、アウグスティヌスの人間観、さらにすべての人間をふくむ人類の歴史観の根底をなす(『告白』第9巻第13章37節、II, p.216注178、『神の国』19巻17章。)

*22:詩篇118:176

*23:ルカ15:5