巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

オスカー・クルマン(Oscar Cullmann)について(『ベイカー福音主義神学事典(Evangelical Dictionary of Theology)』他)

目次

 

オスカー・クルマン(『ベイカー福音主義神学事典』)

 

Walter A. Elwell, ed., Evangelical Dictionary of Theology, Second Edition, 1984("Cullmann, Oscar"の項を全訳)

 

(執筆担当者:ロバート・W・ヤーブロー、カベナント神学校新約学)

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Robert.W. Yarbrough, Covenant Theological Seminary in St. Louis

 

オスカー・クルマン(Oscar Cullmann, 1902-1999)

 

クルマンは、フランスとドイツの国境沿いのバイリンガル地帯で生まれ育ちました。1920年代、フランスにて、リベラル派の影響下に教育を受けますが、歴史学を学んでいく過程で、彼は、主流の神学界が、聖書資料の証言を抑圧しているという事実に気づくようになりました。

 

そして古代文献に対する彼の歴史的考証が、モダニストである彼の神学教師たちによって支持されている、見せ掛けの「聖書的主張」と適合し得ないことを知ったクルマンは、「次第に、新約聖書の語っている(当時自分にはまだなじみのなかった)より深い神学的理解に至るようになりました。」

 

クルマンの神学的貢献はまず何といっても、「新約記者および彼らの執筆した聖書資料の歴史的配向性(historical orientation)」に対する彼の長年に渡る主張にあります。

 

歴史的に条件づけられた救済の出来事は、新約聖書の使信における根幹に属するということを彼は見い出したのです。そしてここにおいて彼は二つの前線と闘いました。

 

一方の前線にはカール・バルトがおり、最初のうち、クルマンはバルトと同盟し、共に老いぼれたリベラリズム打倒のために闘いました。

 

しかしながら、アドルフ・シュラッターと同様、クルマンはすぐさま気づきました。ーーバルト(特に初期のバルト)は、歴史的・聖書的実在論者というよりは、新カント主義的観念論者であるということを。そのため、後に、二人は同じバーゼル大学で教鞭をとることになった際にも、神学的にはほとんど互いに疎遠の関係にありました。

 

さてもう一方の前線において、クルマンはより強健に、ルドルフ・ブルトマンを非神話化することに尽力しました。1948年に、主著『キリストと時ーー原始キリスト教の時間観及び歴史観(Christ and Time:The Primitive Christian Conception of Time*1』が出版されましたが、当時のドイツの聖書学会の大勢は、クルマンのブルトマン批判にほとんど耳を傾けることをしていませんでした。

 

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それにも拘らず、彼は、「福音というのは、実存主義的思想のごとき ‟真正なる自己理解”というもの以上にずっと深遠ななにかである」という事実を確立しようとの努力を放棄しませんでした。

 

ブルトマンが、奇蹟や、キリストの肉体的復活でさえも否定しつつ、尚かつ「自分は新約聖書の証言を拒絶しているのではなく、ただ単に現代人のためにそれを再解釈しているだけだ」と主張できていた一方、クルマンは、「いや、ブルトマンの聖書解釈は事実上、神学的不信心であり、経験的にも貧弱な歴史的根拠づけである」という使信を含ませつつ、尚も緻密な研究を続行しました。

 

バルトのような弁証法的(dialectic)・神学的新約聖書の読みでもなく、ブルトマンのような実存主義的アプローチによる読みでもなく、「救済的・歴史的読み」をクルマンは主張し、信頼性の高い論証をしました。

 

そしてそれと並行し、彼は、ナザレのイエスの地上での働きこそが、新約記者たちの述べているキリスト論的見解の基盤を成していると論じました。いわゆるこの機能的キリスト論を提示するに当たり、クルマンは、自分が後期三位一体形成に関する本体論的カテゴリーを攻撃しているわけではないことも明示しています。

 

それにより彼は、イエスに関する新約聖書の諸言明は、単なるtheologoumena(恣意的な教義概念)ではなく、そういった諸言明に内在し続けているところの、神与の歴史的現象に根付いているということを示そうとしたのです。

 

彼のその他の著述も関心を集めています。その一つは、「歴史の中の救済(Salvation in History)」です。この著述の中で、(倫理に対するその重要性も含めた)新約の救済・歴史的使信に関する彼の成熟した理解が打ち出されています。

 

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またここにおいて、新約聖書の終末論における「すでに/まだ("already-not yet")」という性質が織りだされています。(もっとも、クルマン自身は、「すでに/まだ」というこの創造的緊張関係をこの書以前に言述していました。)

 

一方、彼の『新約聖書における祈り(Prayer in the New Testament*2』は、20世紀の新約学者によって書かれた主題別研究における高峰の一つに値するでしょう。

 

 

批判的釈義(critical exegesis)の言語の枠組み及び、何十年に渡る研究と省察に裏打ちされ、老齢のクルマンは、人間の罪、弱さ、神の愛、聖霊、神の荘厳さにより求められる恭順、主との個人的交わりという栄光、神のご計画がキリストの内に完成される過程に当たり、祈りを通し聖徒たちがそれに参入するという奥義について等、率直に筆を走らせています。

 

20世紀当時、少なくはない神学者たちが、伝統的キリスト教神学を解体し、バラバラにすることで名声を挙げていました。

 

長い目でみると、クルマンに関する評価は、①解釈カテゴリーは、聖書テキストそれ自体から生じる必要があり、また②(バルトやブルトマンと比較した場合)新約の記述の中における、啓示と歴史の間には肯定的関係があるという彼の頑強なる主張が正しいか否かにかかっていると言っていいでしょう。

 

(執筆者:ロバート・W・ヤーブロー、カベナント神学校)

 

〔文献案内〕

Cullmann, Christ and Time; Christology of the New Testament; Prayer in the New Testament; Salvation in History; T. Dorman, Hermeneutics of Oscar Cullmann.

 

オスカー・クルマン(『ティーセルトンのキリスト教神学事典』)

 

Anthony C. Thiselton, The Thiselton Companion to Christian Theology, 2015 ("Cullmann, Oscar" の項全訳)

 

オスカー・クルマン(1902-1999)は、ストラスブルグに生まれ、当地の神学校で教鞭をとり始めました。彼はまたパリでも教え、1938年以降は、バーゼル大学の教授になりました。

 

彼はルーテル派であり、聖書記述の純粋に記述的・歴史的出来事というよりはむしろ、「聖書神学」という語と結び付けて考えられる場合が多いでしょう。

 

彼の著述は膨大ですが、その中でも最も影響力の大きい著作は次にあげる三つだと思います。

①『キリストと時ーー原始キリスト教の時間観及び歴史観(Christ and Time)』 (Eng. London: SCM, 1951)、

②「新約聖書のキリスト論(The Christology of the New Testament)」(London: SCM, 1963; Ger. 1956);

③「歴史における救済(Salvation in History)」 (London: SCM, 1967)です。

 

救済史、贖罪史というのは、Heilsgeschichteというドイツ語の訳であり、これは、ただ単に世俗の史家や科学的調査によって観察されるものとしての歴史を意味しているのではなく、イスラエル、イエス、そして初代教会における神の自己啓示の歴史をも意味しています。それゆえ、彼は聖書「神学」を書くことを目ざしていたのです。

 

『キリストと時』の中で、クルマンは、時を表す二つのギリシャ語カイロス(καιρός)とクロノス(χρόνος)を区別しました。カイロスというのは、「時間の中において、何かに取り掛かるのに特に好都合な〈時〉」(39)を指します。それに対し、クロノスというのは通常、継続するものとしての〈時間〉を指します。

 

聖書の中に、timelessnessという概念はなく、それはプラトン思想によるものです。キュンメルが論じているように、現在と未来の間には、「今 "now"」と「今まだ "not yet"」との間の緊張期間が在ります。

 

そして聖霊は、未来の中で人をーー彼がそうなるところのものにすべくーー、現在の中で働いておられます。クルマンは次のように書いています。「聖霊に基づくと、、人は、未来においてのみ彼がそうなるところのものである。("man is that which he will become only in the future")」

 

それゆえ、クルマンは、次のようなメタファーを用いて説明しています。「戦争における決定的戦いはすでに為されています・・・にも拘らず、戦争はまだ続行しているのです」(84)。そして、それを、第二次世界大戦におけるD-Day(ノルマンディー上陸作戦;フランスへの決定的上陸の日)と、V-Day(ヨーロッパ戦勝記念日;連合国の最終的勝利の日)に譬えています。つまり、十字架と復活は、D-Dayに相当し、究極的成就は、V-Dayに相当するのです。*3 

それから、「新約聖書のキリスト論(The Christology of the New Testament)」も軽視することはできません。なぜなら、現在、イエス・キリストの「称号("the titles")」にフォーカスを置くことはもはや「今日流儀ではない」とされているからです。

 

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そんな中、クルマンは、「称号」について議論・引照する以上のことをしています。「キリストとは誰か?」という問いに答えるべく、彼は「キリストは何をされたのか?」という問いを引き出し、それに答えています。

 

彼はまず、初期キリスト教徒にとっての、キリスト論の持つ役割について言及し、彼ら初期キリスト教徒は、キリストというご人格を、「キリストの御業を語ることなく」両者を互いに隔絶させるようなことは決してしていなかったと述べています(3)。

 

イエスは、洗礼者ヨハネ、旧約聖書、ユダヤ教との連続性の内に、預言的使信を宣布する終末論的預言者でした。しかしイエスはそれ以上のお方です。そうです、イエスは ebed Yahweh、苦難のしもべであり、イスラエルをも表象しているのです。

 

イエスはご自身の預言的使命の一部として苦難と死を考えておられたのでしょうか。それに対し、クルマンは、ーー多くのリベラル主義者やブルトマンの否定にも拘らずーー語気強く、断固して、「然り!」と答えています。

 

ピリポ・カイザリヤでのペテロの告白の後に、イエスは3回、ご自身の死を預言しておられます。マルコ8:31、9:31、10:33-34」(63)。「イエスは、多くの人の贖い(lutron)としてご自身の命を与えるために来られました。マルコ10:45」(65)。このようにして、彼は苦難のしもべと、「人の子」の主題を結合させています。

 

それに続く章で、クルマンは、「大祭司としてのイエス」「メシヤとしてのイエス」「人の子としてのイエス」「主としてのイエス」という各主題を詳述しています。彼は、ユダヤ教およびヘブル人への手紙における大祭司の概念を省察した上で、ヘブル人への手紙では「書簡全体がこの〔大祭司としての〕役割においてキリストを取り扱っている」(89)と述べています。

 

イエスは人類の人間性を完全に共有しておられましたが、今は「いつも生きていて」とりなしをしておられます(102)。ヨハネ17章もこの主題を取り扱っています。また、人の子としてのイエスの観念は、福音書だけでなく、ピリピ2:5-11およびパウロ書簡にも登場しています。

 

そして最後にクルマンは、「主」という語(そしてそのアラム語体である Maran もしくは Marana)、「救い主」、「神の子」「神のみことば」について省察しています。こういったものは、クルマンの著述の中において、単なる「称号」ではなく、救済史におけるイエスの役割と御働きを描写する方法となっています。

 

そしてそれは、「歴史の中の救済(ドイツ語;Heil als Geschichte〔歴史『としての』救済〕」の中でより一層明確に提示されています。クルマンは、聖書解釈の重要性および、「空っぽの頭の」アプローチがいかに幻覚であるかを指摘しています。こういった要求は「シンプルな聴解」(67)から始まります。しかし彼は、ブルトマンや「それは全て私にかかっている」的アプローチから自らを切り離しています。

 

また彼は、『原始キリスト教と礼拝(Early Christian Worship*4』(1953)および『原始教会の信仰告白(Earliest Christian Confessions)*5』(1949)の中で、"given" と "confessional" を結合させています。

 

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今日、彼の作品は、はなはだしく無視されています。それはおそらく、「聖書神学」運動の終焉のせいもあるでしょうし、それからまた、彼が不当にも、「過度の単純化」という批判を受けているからかもしれません。

 

しかし実際には、彼は、新約の専門家たちとキリスト教神学者たちの間に存在していた亀裂を塞ぐのに尽力し、結果として、双方の領域に意義深い貢献をしてきたのです。

 

【比較研究のための補足資料】ジェームズ・バー著『時を表す聖書用語(Biblical Words for Time)』目次

 

 

James Barr, Biblical Words for Time, 1962

 

1.序言

2.カイロス(καιρός)とクロノス(χρόνος)の区別ーーマーシュとロビンソン

3.カイロス(καιρός )とアイオーン(αἰών)の構造ーークルマンその他

4.時間と永遠を表すヘブライ語

5.「時間」及びその翻訳のための語彙ストック

6.哲学的・神学的問いのためのアプローチ 

7.聖書解釈のための一般的諸結論

追記と回想(1961)

1.神学的風潮の変遷

2.時間に関する議論についての進言

3.聖書の意味論に関するさらなる考察

4.翻訳に関する所見

5.哲学的背景について

ーーーーーー

それから以下の論文もご参照ください。

Robert W. Yarbrough, James Barr and the Future of Revelation in History in New Testament Theology, Bulletin for Biblical Research 14.1 (2004) 105-126 

Henri Blocher, YESTERDAY, TODAY, FOREVER: TIME, TIMES, ETERNITY IN BIBLICAL PERSPECTIVE, Tyndale Bulletin 52.2 (2001) 183-202.

*1:『キリストと時ーー原始キリスト教の時間観及び歴史観』(前田護郎訳、岩波書店、1954年)

*2:『新約聖書における祈り』川村輝典訳 教文館 聖書の研究シリーズ 1999

*3:

*4:『原始キリスト教と礼拝』由木康、佐竹明訳、新教出版社、聖書学叢書 1957

*5:『原始教会の信仰告白』由木康訳、新教出版社、聖書学叢書、1957