巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「賛美フラ」の土台原理の正当性を問う(by サンディー・シンプソン)【土着の民の運動検証】

Sandy Simpson, Reasons to Reject the “World Christian Gathering on Indigenous People” Movement, 2006 (Apologetics Coordination Team)より抄訳

 

土着の民の運動(“World Christian Gathering on Indigenous People” Movement, 略称:IPM)の指導者たちは、「従来、他の神々への礼拝に用いられていた文化的メソッドを用い、クリスチャンは聖書の神を礼拝することができる」と人々に説いています。

 

ダニエル・キカワは、キリスト教礼拝の中のフラダンス使用を次のように擁護しています。

 

キカワ:

 「、、ええ、これもまた文化的な事がらです。フラダンスにおける腰のくねくねした振り方についてですが、ある著名なイスラム教徒が、『女性が歩く時、悪魔は彼女の腰を動かす』と言っています。確かに、ある女性が自分をセクシーに、そして肉感的に見せたいのなら、そういう風な歩き方をすることができますし、私自身もそういったものを見たことがあります。

 

 そしてフラについても同じことが言えます。ワイキキでなされているフラ等、確かにダンサーたちが自分をセクシーに官能的に見せたいのなら、そうすることもできます。他方、火山の神であるペレ神を礼拝するためにフラが用いられ、そこに神の臨在(*大文字のGodの意)を感じます。なぜなら、それこそ彼らの礼拝している対象なのですから。

 

 ですから、〔フラの是非は〕、そのフラを用いてあなたが誰を礼拝しているかーーそれ次第なのです。現在、ハワイでは、200グループ以上の人々が、フラで神(*大文字のGodの意)を礼拝しているのです。神は、ご自身の民の賛美の中に住まわれます。

 

 神(God)を礼拝するために、こういったダンスが用いられる時、神(God)の油注ぎが在ります。そしてそのダンスを見るハワイ人たちは直ちに気づくのです。「He's Hawaiian who loves the Hawaiian people(神は、ハワイの民を愛しておられるハワイ人である)」と。また、使徒の働きの中でも、土着民のダンスは禁じられていませんでした。

 

 サタンは創造主ではありませんよね。ある人は『賛美フラというのはNGです。なぜなら、サタンがそれを汚したからです』と言うかもしれません。

 

 そうなると、私たちは西洋のギターも、西洋のピアノも、(かつてサタンを礼拝するのに使われていたという理由で)キリスト教礼拝のために用いるべきではない、ということになりませんか。いや、それだけではありません。私たち自身の肉声だって使ってはいけないという事になります。肉声を使ってサタンを礼拝している人々がいるのですから。さらに、『私たちはもはや話すべきではない。なぜなら、罵る人もいるから』という事にもなっていくでしょう。

 

 要するに、サタンはあらゆるものを盗んでいます。そしてこれまであらゆるものが彼の元に献上されてきました。そうなると、近い将来、私たちの手元にはもう何も残らないという状況になるでしょう。ですから、私たちは、サタンが盗んだものを再び取り返す必要があり、それを元来、神(God)の礼拝のために造られた、その従来の位置に回復させる必要があるのです。」

 

ダニー・レーマン:

 「ええ、私たちだって同じロジックを使っているのに、ですよね?仮に、自宅をコカイン密売に使っていた誰かがイエス様を信じ、救われたとします。ですが、周りの人は誰も新生した彼に、『今や、あなたはクリスチャンになったのだから、その家を焼き払わなければなりません』とは言いませんよね?もちろん、否です!私たち西洋人は引き続き、その同じ家で、祈りを捧げ、バイブル・スタディーをし、それに関して何とも思っていません。

 

 それなのに、話がこと、フラや、ダンスや、先住インディアンのsmoke house(キセルの煙でもうもうとした宿)などに及ぶと、人々は『それは非キリスト教的文化タブーだ!』とこうなるわけです。」

 

上記の教えには、数多くの誤った、失行症的型の諸前提があります。

 

(1)キカワは、ペレ神に対してフラダンスがなされる時、「油注ぎ」を感じると言っていますが、その「油注ぎ」と、フラが聖書のヤーウェ神礼拝に用いられる際の油注ぎとの間にはどのような違いがあるのでしょうか?

 

そこに「油注ぎ」があると感じ、それが神(God)から来ているものであるという考えは、あくまで主観的なものであり、それが聖霊の御働きであることを立証する証拠はどこにもありません。

 

聖書によれば、存在する油注ぎとはただ一つであり(1ヨハネ2:20)、その油注ぎとは、私たちが神の油注がれし者である「キリストの内に」ある時、与ることができます(詩2:2、使4:2)。そしてこの方は王の王であられます。油注ぎを与える方は〔人ではなく〕神です(2コリ1:21-22)。

 

人が新生する時、彼は聖霊によって油注ぎを受けます(2コリ1:21-22、エペソ1:13)、そして神は、あらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになります(ローマ8:29-30)。

 

誰も、聖霊を他の人に譲移することはできないし、そうすべきではありません。なぜなら、真の油注ぎは、聖霊というご人格だからです(ルカ4:18、テトス3:5)。真の油注ぎは、内住される聖霊であり、この御方が私たちにさまざまな賜物をくださいます(1コリ12:4)。それにより、私たちは教会の中で奉仕し、福音宣教の働きに与ることができるのです。神には、恍惚体験や、ぞくぞくする霊的スリル体験などを私たちに提供しようというご意図はありません。

 

そして主は、ご自身の民が、こういった事柄をこねくり廻し、「自分たちは、超自然的、高次元の啓示を受けた者である」と自任したり、振る舞ったりすることを望んでおられず、また、聖書が言っていない仕方で、「ほらここに『油注ぎ』がある」とか「こういった事柄に『油注ぎ』が臨んでいる」といった事を吹聴することを望んでおられません。主は、私たちが、聖徒たちの集会の中で秩序をもった言動をするよう望んでおられます(1コリ14:33)。

 

こう申し上げては現代のハワイの方々に失礼かと存じますが、それでもあえて述べさせてください。従来のハワイの民は、教会の中でのフラ踊りを拒絶していました。そして彼らがそれを拒絶していた理由は、①人(特に男性たち)に情欲を抱かせる、そして、②フラダンスが、回心前に信じていた自分たちの異教の神々に捧げられていた踊りであるから、という二つの理由ゆえでした。

 

ダニエル・キカワのような教師たちは、なぜこの点を理解することができずにいるのでしょうか?ハワイ島の宣教史が収録されている歴史資料をお読みになってください。(ハワイの現地人クリスチャンによる書物、そして西洋の宣教師たちによる書物、その両方をご参照ください。)

 

それらを読むと、〔ハワイ人である〕キカワ師が現在推進しているこういった教えは、「クリスチャン」としての彼自身の文化に対する侮辱以外の何物でもないことに、皆さんお気づきになると思います。

 

(2)神は、ハワイ人の神(a Hawaiian god)なのでしょうか?いいえ、神は神です。この御方こそ、宇宙を統べ治める唯一の神であり、「『わたしはある』という者である」(出3:14)偉大なる神です。

 

(3)「使徒の働きの中でも、土着民のダンスは禁じられていませんでした。」と彼は言っていますが、これは聖書が沈黙している事柄から掘り起こしている議論です。例えば、聖書は、トランス・セクシュアリティーのことも「禁止する」とは書いていません。「禁止する」と書いていないからといって、それではクリスチャンはトランス・セクシュアリティーを是認してもいいのでしょうか?

 

(4)サタンはフラを盗んだわけではありません。フラというのは、ペレ神およびその他のハワイ土着のサタニックな異教神を礼拝すべく、人々によりこしらえられたものです。初期のハワイ宣教史における最も偉大なる宣教師の一人であったテトス・コアン(Titus Coan)は、(ハワイ文化を含む)ポリネシア文化に関し、次のように言っています。

 

「フラダンスに関して。フラの踊り手たちは、長い練習期間を経、その期間中に、彼女たち自身、神々に奉献されます。」*1

 

ハワイの異教神は、その他、人々にどのような事を要求していたのでしょうか?テトス・コアンは続けて次のように言っています。

 

「カワイハール沿岸で、私は有名なカメハメハ1世の最後にして壮大なる異教宮(heiau)を目の当たりにしました。そして、そこで、異教神に対し人間の生贄(人身御供)が捧げられているのを目撃しました。私はまた、モロカイ島やその他の場所(コナ、プナ、ヒロ等)にある異教の神殿を複数、訪問しました。」*2

 

フラというのは、偽りの神々に捧げられている踊りです。フラを踊っている女性たちの腰の部分の動きは、ハワイの島の人々にとり非常に〔性的に〕挑発的で、彼らが情欲の罪から逃れることを困難にし、敵に足掛かりを与えてしまっています。

 

フラがいかなる理由で上演されているのであれーーキカワがフラダンスから油注ぎを「感じる」というまさにこの事実が、フラが島の人々に与えている影響の「仕方」に関するヒントを私たちに提供していると思います。

 

偽りの神々に捧げられてきたなにかを消毒することはできません。ある種の実践は中立的でありニュートラルです。しかしフラの事例で言いますと、これはニュートラルではありません。

 

それでは、フラをキリスト教礼拝に取り入れることのできる何らかの方策はあるのでしょうか。これに関し、3つの提言をさせてください。

 

①「ロー」とか「ペレ」とかいうハワイの偽りの神々に対する宗教的言及・含みを取り除く。

②ハワイを訪れる男性観光客や現地の男性たちが非常に愛好している、あの性的に挑発的な腰の動きを踊りの中から取り除く。

③「フラ」という名前を何か別の名称に変える。

 

この3点をクリアーするならば、現地の文化的形態の中で、福音のストーリーを語る一つの方法として、あるいは有益なものとされるかもしれません。

 

(5)レーマンは、フラ問題と、〔コカイン売買の〕家の使用を同一視しようとする試みにより、一連の悪質な類比をこしらえてしまっています。

 

もちろん、クリスチャンは、以前、ドラッグや(先住民の場合で言ったらpot smoking〔マリファナ〕)が使用されていた家を、回心後も引き続き用いることができます。しかしここで忘れてはならない点は、彼らはもはやその家でドラッグやマリファナをやらないという事です!そしてこの点をレーマンは見落としています。

 

フラは家ではありません。フラは、何世紀にも渡り、偽りの神々に捧げられてきた霊的踊りです。その踊りを取り上げ、「ハワイのクリスチャン体験」の主要部分として仕立て上げることは、過去においてなされてきたおぞましくまた恥辱的なフラ使用の事実を否定することに他なりません。

 

ハワイには、そういったデモニックな礼拝とはつながりを持っていないその他の文化的活動がいろいろあるのですから、そういった別のものを善用してはいかがですか?そして、それこそが、「イエス・キリストを救い主として受け入れる時に、私たちは自分の過去ときっぱり縁を切る」という聖書の教えに適合するのではないでしょうか?

 

ピリピ3:7-9

「7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

8  それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、

9  キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」

 

もしパウロが、キリストゆえに、自分のユダヤ文化やその諸活動を「ちりあくた」(ピリピ3:8)とみなしていたのだとするなら、異邦人である私たちは尚さらのこと、自分たちの文化を「ちりあくた」とみなすべきではないでしょうか?

 

キカワやレーマン等の教師たちが現在推進している上記のような教えは、文化に関し使徒パウロが信じ、生き、教えてきた内容とまるきり180度方向性の違う教えです。

 

ー終わりー

*1:Titus Coan, “Hawaii’s Greatest Evangelist, Titus Coan ... his life 1835-1882”, Published 1882, pg. 188.

*2:同著、p.225.