巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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論理実証主義とその亡霊たちーー類比的な言語の使用について(by R・C・スプロール)

目次

 

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R・C・スプロール(1939年-2017年12月14日 召天)

 

「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」ヘブル13:7

 

R.C. Sproul, Defending Your Faith: An Introduction to Apologetics, Sec.II. 8. Logical Positivism and Its Ghosts Today: Analogical Use of Language, 2009(拙訳)

 

「類比的な言語の使用」ーー有神論を否定する人々によって攻撃にさらされている原則

 

これまで考察してきました人間の認識に関する第4番目にして最後の原則は、「類比的な言語の使用 "analogical use of language"」です。

 

キリスト教弁証の働きに携わっている信徒の方々にとって、この原則は、なにかしら謎めき難解に感じられるかもしれませんが、これは私たち皆が前提している根本的事項であり、そうでなければ、私たちは荒唐無稽さを受け入れる羽目に陥ってしまいます。

 

だからこそ多くの場合において無神論者たちはこの4つの形式諸原則を否定してかかろうとするのです。

 

そしてこの原則が、古典的有神論を拒絶している人々の攻撃にさらされている事実もそれゆえ全く驚くに値しません。彼らの争点は言語それ自体にあり、「言語というのがはたして神存在のリアリティーについて意思伝達する適切な手段であるのか?」と彼らは挑戦してきています。

 

神を知り、神について何かを言明することは可能なのか?

 

1920年から30年にかけ、欧州および米国の諸大学にて哲学者たちが、人間の言語について非常な関心を注ぎ始めました。この哲学的シフトのさなかに、「神に関する語りの論争("God-talk controversy")」というアカデミック論争が起り、そこから「神の死の神学」という神学運動が生じました。

 

こういった一連の論争の背後には、「形而上学」から「言語」へという哲学史における変遷があったのです。このシフトの波が英国に及ぶや、それは「論理実証主義」という名を名乗るようになり、その中心的教義の一つが、「検証可能性の原理  "the principle of verification"」として知られるようになりました。

 

この原則は簡潔に言うと、「(科学的メソッド等)経験的に実証され得る言明だけが意味を持っている」というものです。

 

つまり、ここで論理実証主義者たちが言っているのは、人間の言語によって為される主張は、それらが感覚的経験(見る、聞く、触る等)を通して立証される場合に限って真であるということです。

 

それ故、彼らの見解によると、それ以外のすべての主張は、感情的かつ根拠のないものなのです。

 

例えば、誰かが「アラスカにはゴールドがあるぞ!」と宣言したとします。その際、この言明が経験的に立証され得る唯一の方法は、その人がアラスカに直に足を運び、地を掘り、いくばくかの金を探し当て、それを実際に見、触ることのできる他人に見せることです。

 

論理実証主義は、哲学界に熱く迎え入れられ、アカデミズムに相当の影響力を及ぼしていましたが、その最中に、一つの小さな声が挙がりました。

 

その声は、本来なら当初より自明の理であるところの問題点をズバリ言い当て、次のように述べました。

 

「もしも、人間の言語によって為される主張が感覚的経験を通して立証される場合に限って真であるということが正しいのなら、『検証可能性の原理』自体、その審査に耐えられず、落伍してしまいます。なぜなら、この原理の『経験的に立証され得る言明だけが意味を持っている』という前提自体が、経験的に立証され得ないからです。」

 

こうして論理実証主義は、すごすごとアカデミック界の隅っこに退却せざるを得なくなりました。

 

こうした敗北にも拘らず、『検証可能性の原理』は今日でも、多くの非キリスト者たちによって用いられており、彼らはこの原理を道具に、古典的有神論批判を繰り広げています。

 

また無神論者は往々にして、「そのような言語は科学的に立証され得ない」という理由で、神に関する言明をしている言語を否定しています。そして、これは私たちがキリスト教弁証に携わる際、ぜひとも覚えておかなければならない肝要点です。

 

また、ある言明(例:「神は存在する。」)を立証するよりも、反証(falsify)することの方が遥かに困難だということもぜひ覚えておきましょう。

 

再びアラスカの例に戻ります。もしも誰かが、「アラスカにゴールドがあり、自分はそれを立証することができる」と主張したとします。その際、彼がすべきことは、アラスカに行き、いくばくかのゴールドを採掘し、それを私たちに見せることです。

 

さあ、それでは逆のケースを考えてみましょう。もしも誰かが「アラスカにはゴールドが存在しない」と主張したとします。

 

その際、彼はアラスカに行き、州内の土地を余すところなく採掘し、確かにアラスカにはゴールドが皆無であるということを私たちに示すことができなければなりません。

 

しかし採掘作業のさなかに、もしかしたらゴールドの小片がすべり落ち、彼はそれに気づかなかったかもしれないではありませんか!彼はそういった事に関しどのように確信を持つことができるというのでしょう。

 

それで念には念を入れということで、彼は再びスタート地点に戻り、採掘作業を再開し、また再開し、また再開し、、、とこのプロセスは際限なく続いていくことでしょう。

 

言い換えると、経験的に反証することは、経験的に立証することよりもずっと難しいということです。

 

これを聞いて、多くのクリスチャンはほっと胸をなでおろすことでしょう。しかし同時に留意しておかねばならないのは、たとい神が偽であるということを立証することは不可能であるとしても、それによって自動的に、神の真が立証されたということにはならないという事です。

 

論理学においては、反証(falsification)というのは、完全に別問題です。(そしてある意味、よりシンプルな問題であるかもしれません。)

 

もしもある人が何かの主張をしていて、結局それが無矛盾律(Law of noncontradiction)を侵していることが示されるのなら、その主張が偽であることが立証されます。*1

 

しかしもちろん、私たちが神および神の存在について語り始める時、困難は増してきます。

 

なぜなら、今日においては誰も神を実際に見た者や聞いた者はなく、神の存在を立証するような経験的証拠を持っている人もいないからです。

 

しかしそうではあっても、クリスチャンとして、神に対する私たちの信仰は、創造(creation)等、私たち皆が見ることのできるものから引き出された推論(inferences)に基づいた合理的議論によって強化されます

 

私たちは宇宙を見、そこから、その上に、そしてそれを超えたところにおられ、宇宙を造り保っておられる創造主が存在することを演繹します。(例:使徒17:28;コロサイ1:17)。

 

20世紀中盤の懐疑論者たちは、「神の存在に関する物理的証拠が存在しないのである以上、神に関する言明は、所詮、無意味(nonsensical)、感情的であるに過ぎない」と主張しました。

 

つまり、誰かが「私は神は信じる」と主張した場合、論理実証主義者たちは、「彼は客観的神(創造から隔たったところに存在する神)について何ら意味あることを言っておらず、ただ単に彼自身の感情を他人に吐露しているに過ぎない」と反論するわけです。

 

そして彼らは続けます。「神は経験的に立証され得ないわけであるから、信者たちは自らでっち上げた嘘を信じているに過ぎないのである。」

 

この線上の論法から、最終的に、宗教相対主義が発生し、その言い分は大概の場合、次のようになります。「神はあなたにとっては『存在する神』なのかもしれない。しかし私にとってはそうではない」と。

 

しかしこのプロセスの中でクリスチャンは、ーー私たちが「存在している」と主張しているところのーーその神がどのような種類の神であるのかを明確に言明し損なっています。

 

正統派信者が神存在を主張する時、彼らは、「自分たちの外側にいる至高者が存在しており、この至高存在は自分たちの思考や感情の一部分ではなく、人間の手によって引き起こされるどんな行為によっても造られることなく、また変化させられることもない御方である」ということを述べています。

 

相対主義的未信者は、もしもこの永遠なる神が存在するなら、彼らの不信をすべてかき集めたとしても、結局自分たちは、この神を亡きものにする力を欠いているという事実を見ることができずにいます。

 

神の存在を語る時、私たちは、信じる主体としての自分たち人間からは区別され存在している神の、客観的存在を主張しているのです。もしも神が客観的に存在していないのなら、私たちの信仰や感情は何であれ、神を呼び起こす力を持ちません。

 

しかし論理実証主義者および、「神の死の神学」を受容する神学者たちは、神に関する語り(God-talk)はすべて人間の感情に還元されるーーつまり、外的リアリティーではなくただ単に内的感情を表す言明に過ぎないと主張しています。

 

それでは今から少しの間、このラディカルな懐疑主義が形成されるに至った思想的背景を辿ってみることにしましょう。

 

いかにしてラディカルな懐疑主義が形成されるに至ったのか?

 

18世紀の啓蒙期以降、多くの神学者たちは、正統派キリスト教と、最新の科学的発見を統合させようと試みました。そしてそれにより、多くの超自然的奥義を含んだ信仰が空虚化される結果が生じました。

 

時を置かずして、リベラル派神学者たちは、自然的秩序を超越したいかなるものも拒絶するようになりました。

 

「古代の聖書預言は後に起こった出来事を実際には予言していなかった」と彼らは言いました。曰く、「そういった箇所が未来のことを語っているかのように演出すべく、後期編纂者たちが写本に手を加えたのだ」と。

 

マリアの処女懐胎も自然的に不可能であるとして拒絶されました。また世界的・宇宙的出来事には到底思われない、十字架上でのイエスの贖罪も、「一人の男の妄想的自己犠牲行為」として片付けられるようになりました。

 

実際、すべての奇蹟は、聖書の(名目上の)歴史性にフィクション的に付加されたものに過ぎないとされました。「そうなると、残存するに値するキリスト教信仰の側面とは一体何だろう?」リベラル主義者たちは考えました。「うん、そうだ。それはイエスの倫理的掟である。」

 

こうして福音メッセージ全体が、「あなたの隣人を愛せよ」という一処世訓の内に見い出されるということになり、リベラル主義者たちはこれを、(超自然的な要素を全く排除したところの)地上における進歩的人道主義を意味していると解釈しました。

 

神の超越性と内在性

 

リベラル主義者たちによって推進されたこの「自然」宗教は、19世紀後半の世俗主義者の進化論に基づいた哲学と結合していました。

 

歴史的に言って、クリスチャンは、神の創造に関し、神の超越性と内在性の両方を認めてきました。

 

一言でいうと、神の「超越性(transcendence)」とは、創造の秩序を超え、それを統治し、さらにあらゆる仕方でそれに優位しているところの神の存在のことを指しています。

 

一方の神の「内在性(immanence)」は、創造の秩序内における神の継続した御行為のことを指しています。

 

さて、リベラル主義神学者たちと進化論的哲学の合体により、ーー「汎神論」という名でも知られているーー異端的に過度に神の内在性を強調する動きが起りました。

 

汎神論的神学の中では、「神の優位性及び他者性」、および「神の継続した摂理」との間に存在するバランスが完全に失われています。この見解によると、もしも神が存在するなら、その神は、宇宙それ自体の一部ないしは内包として存在しているーーそれゆえ、神はすべての事物であり、すべての事物は神である、とされています。

 

しかしもしも神が宇宙を包含しているのなら、Godという言葉は、個別における(in particular)何をも言及できないということになります。なぜなら、それは一般において(in general)すべてを言及することになるからです。

 

このようにして、この極端な内在性推進の動きと共に、ーー神について意味ある語りをしようとする者に対しては誰であれ挑戦をしかけるというーー言語における危機が到来したのです。

 

振り子が振り切れる

 

そうして今度は、振り子が反対側に振り切れてしまいました。20世紀初頭、ヨーロッパの神学者たちはリベラリズムへの迎合に対する反動を起こし、神の超越性の側面を蘇生させようとしたのです。

 

不幸なことに、彼らは問題を修正「し過ぎて」しまい、神は「絶対他者("wholly other")」であると主張し始めました。

 

言い換えると、(神は)あまりにも宇宙から分離・隔絶されているため、この御方は創造の秩序を上より統治し、そこから自らを切り離しておられるだけでなく、完全に上におられ、自然を超越しておられるため、もはや被造物には神のことを知る知識を得るいかなる希望も残されていないとされたのです。

 

そしてドイツの哲学者ルドルフ・オットーが言ったように、神は、ganze andere(完全に異なる)存在だとされました。

 

こういった神学者たちは(良い意図からだとは思いますが)前の世代のラディカルな内在性推進を打倒すべく、言語および、神についての妥当な伝達形態としての言語使用に関し、〔内在性を極端に推進した前世代と〕同じくらい有害な危機をもたらしました。

 

神についての類比的認識

 

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カール・バルト

 

カール・バルト(1886-1968)は、著書『教会教義学』の中で、神の超越性に対するこの過度なる強調を普及させました。

 

彼は弁証学における、自然神学の使用、及び、自然から引き出される演繹により生ける神のことを学ぼうとする自然神学の試みを猛攻撃しました。なぜかというと、神学に従事するに当たり彼は、リベラル主義神学者たちの理性に対する思想に関わることを拒否していたからです。

 

理性や自然神学に対するバルトの嫌悪は、同時代のリベラル主義者たちだけに向けられていたのではなく、歴史的キリスト教の中で深く根を下ろしてきた原則ーーアナロギア・エンティス(存在の類比;analogia entis)ーーに対しても向けられていました。

 

アナロギア・エンティスというのは、パリ大学時代のトマス・アクィナス(1225-1274)によって最も良く言明されていると思います。

 

これは、平たく言うと、神と(神のかたちに似せて造られた存在としての)人間は関係性を共有している。そしてそれは有限なる人間が無限なる神について語る上での「アナロジー(類比)」の使用を確立している、ということです。

 

そしてこの点をまさに、バルトやその他の新正統主義神学者たちは攻撃したのです。そして「なぜなら、神は完全に創造の秩序を超越しておられるため、神は被造物とは完全に異なっており、それゆえ、創造主と被造物との間の『存在の類比』は不可能だ」と彼らは主張しました。

 

バルトおよびその他の新正統主義神学者たちは、リベラル派による過激な神の再定義に対し防衛線を張ったのですが、そうこうするうちに、意図せずして今度は、創造主でさえ人類の領域側に渡ってくることができないほど甚大なる亀裂を〔神と人間の間に〕作り出してしまったのです。

 

そのため神についての議論は全く意味をなさなくなりました。神のことを「絶対他者("wholly other")」と描写し始めるや、私たちは、自分たちのことを嘲笑う懐疑論者たちにつけ入る隙を与えてしまうことになります。

 

なぜなら、もしも創造主と被造物の間に、なんら類似性がないのだとしたら、神に関する伝達の方法は不可能になるということを懐疑論者たちは理解しているからです。

 

それでは例を挙げてみることにします。chair(椅子)という語の意味について考えてみてください。何が頭に浮かびますか?もちろん、私たちは皆、それぞれ違った椅子を頭に思い浮かべることでしょう。しかし私たちは皆、一般的なchairs(椅子)に関する共通した理解を持っています。

 

私たちはこれまで生きてくる中で何千何万というさまざまな椅子を見てきました。そして椅子のように見える物体を見る度に、私たちは物体とその機能(つまり座っている私たちを支える機能)との間を関連づけます。

 

そして物体とその機能を認識するのと並行して、私たちは椅子という語と、物体それ自体を結びつけて考えます。そして(椅子に関する)さまざまにして何度となく繰り返されるこういった経験により、椅子という語に対する理解が与えられるようになります。

 

私たちは椅子がどんなものであるかを知っています。なぜなら、それに座るという行為をこれまで何度も何度も経験してきたからです。椅子のスタイルはいろいろ異なっているでしょうし、個々の経験もさまざまでしょう。

 

にもかかわらず、椅子に関する私たちの経験は、驚異的なほど似通っているため、椅子という語の理解における相違点は重要ではありません。つまり、読者は、「椅子」という語を目にした時、それが何を意味しているのか知っているのです。

 

意味ある会話をするためには、私たちは最低限、そこで使われている個々の単語をおおむね理解していなければなりません。

 

同じ原則が神学にも当てはまります。それも、弁証の働きにおいては尚更です。もしも人間と神の間になんら共通した基盤がないのだとしたら、その時、神が被造物に語ることは完全に理解不可能ということになります

 

しかし実際にはそうではありません。例えば、正統派信者が、(聖書から)「神は全能です」と主張する際、私たちはーーこの地上で完全に全能なる存在に遭遇したことは一度もないにも拘らずーー「全能性」について何かを知ることができています。

 

この語には "all-powerful" という意味があり、"power" は、皆が理解している語です。なぜなら、私たちは皆、人生のどこかで、何か別のものに power を行使した経験があるからです。

 

私たちの power はたかが知れているかもしれません。しかしそれでも、無制限なる power というものが一体どのようなものなのか、私たちは漠然と想像することができます。それはおそらく、この世に存在し、自分たちを取り巻いている power の各種度合いを目の当たりにしているからかもしれません。(例:あるものは他のものよりも powerful であるということを私たちは目撃しています。)

 

それゆえ、神が聖書の中で、ご自身を全能の神として啓示される際、私たちの内には少なくとも power に関するいくらかの概念があり、この語の意味理解を可能にしています。

 

接点に関するこの論点は、神と私たちとの間になんらかの類似性がある場合においてのみ可能となります。ーーつまり、神と私たちの間に、「存在の類比」がある場合においてのみ可能となるのです。

 

一義的、多義的、類比的

 

神に関する語り(God-talk)の有意味性と適切性についての問題は何も今に始まったことではありません。

 

トマス・アクィナスもまた、13世紀当時、同じ問題に直面していました。イスラム教徒の相対主義者たちに対してキリスト教信仰を擁護すべく、アクィナスは言語に関し、これを三種類(or 三用法)に区別しました。

 

「一義的(univocal)」、「多義的(equivocal)」、そしてその中間にあたる「類比的(analogical)」です。

 

これに関し、goodという言葉を例に挙げて分かりやすく説明したいと思います。

 

①Good work on the painting.(絵画における良い作品)

②Good work on the cutting.(〔園芸の〕挿し木における良い作品)

 

①と②で使われている good という語は、一義的に使われています。つまり、同一の意味で使われているということです。他方、ある語が多義的に使われているという時、それはその語が二つの全く異なる意味で使われていることを指します。例えば、

 

①That sermon was good.(あの説教は良かった。)

②Good grief, Charlie Brown!(なんてこった、チャーリー・ブラウン!)

 

この場合、①と②のgoodに類似性は全くありません

 

言葉や事物が「類比的な」関係にあるというのは、それらが部分的に似ていて、部分的に異なっているーーつまり、一義的でも、多義的でもない場合に用いられます。

 

それらは類似性の関係を共有しています。しかし、(1)ある語の意味が一つの主体に帰される場合("This chili is good")と、(2)その語の意味が、別の主体に帰される場合("God is good")、(1)と(2)に同一性の関係はありません

 

今、一匹の犬と飼い主が公園で遊んでいます。飼い主は言います。「タロー。お前はいい犬だ(good dog)」さて、同じ公園に、飼い主の友人二人がばったり居合わせたとしましょう。

 

そして今、この二人の友人は遠くから彼(=犬の飼い主)を見ています。そして、「彼はいい人だよ("He's a good guy.")」と一人がもう片方に話しています。

 

さて、この場合ですが、犬に対して用いられている good は、飼い主に対して用いられている good と全く同じ意味でしょうか?つまり、犬は、飼い主がおそらくそうであるように、高度に発達した良心と倫理的責務感を持っているのでしょうか?

 

答えは「否」です。その犬は呼ばれたら来ますし、よくしつけられており、郵便屋の足に噛みつくこともしません。

 

しかし飼い主が「いい人だ」と言及される際、私たちは彼が、「呼ばれたら来、よくしつけられており、郵便屋の足に噛みつくこともしない」ということ以上のなにかを意味しています。

 

飼い主の goodness(良さ)は、彼が人間であることにダイレクトに比例したものである一方、犬の "goodness" は、この犬が動物であることに比例したものです。ですから、この二つの "good" は、同一的ではなく、類比的です。

 

同じ原則が、神の goodness について語る際にも適用されます。私たちの goodness はある意味において、神のそれと類似していますが、依然として一つの非類似性は残ります。ーーそれは、神の goodness は、私たちのそれに遥かにまさるということです。

 

正統派クリスチャンが神の goodness について語る時、彼らは good という語を、一義的(univocal)な意味では用いていません。彼らはむしろ、それを類比的に用いているのです。

 

そして類比的言語は有意性を持しています。なぜなら、神は人をご自身のかたちに似せて造られ(創1:27)、それゆえ、創造のみわざの中で、私たち人間に「存在の類比(analogy of being)」を賜わってくださったからです。

 

存在の類比ーーこれこそが私たち人間に対する神の伝達を意味あるものにし、また認識可能なものとする土台なのです。

 

創造の秩序の中で、人間には特有の性質と位置が与えられ(創5:3;1コリ15:39)、「神の似姿であり、神の栄光の現われ」(1コリ11:7)とされ、それには、地のすべてのものを支配させることも含まれていました(創1:26、28)。

 

神のかたちに造られるというのはまた、いくばくか神に似た者とされていることをも意味しています。例えば、私たちも、神と同様、安息することができ(創2:2)、話すことができ(出6:10-11)、論ずることができます(イザヤ1:18)。私たちが神の家令として、被造物を統治するということも、神ご自身の主権的ご統治(詩95:3-6)を反映したものといえましょう。

 

この結びつきなしには、私たちは被造世界を理解することも、創造主の御手の偉大さを讃える被造物の証しを理解することも全くできなかったでしょう。さらに、(書かれ、また御子イエス・キリストの内に受肉した)御言葉を通した神の特別啓示を理解することも不可能となっていたでしょう。

 

まとめ

 

有神論に対する攻撃のほとんど全ては、人間の認識に関する四大原則の内の一つかそれ以上の原則を否定することに起因しています。その四大法則とは次のものです。

 

①無矛盾律(Law of noncontradiction)

②因果律(Law of causality)

③感覚認識に対する基本的信頼性(the basic reliability of sense perception)

④伝達するための人間言語の十分性(the adequacy of human language to communicate)

 

この四つの原則は、聖書全体を通して前提されています。またこれらは皆、科学的メソッドの中でも前提されています。そうです、これらは全て、認識のために必要な手段であり、ーーすべての科学のために必要な手段です。

 

これらの基本原則に対する否定は例外なく、無理強いされたものであり、しかも一時的なものに過ぎません。人々がこれらを否定するのは、彼らがその否定に対し既得の関心を持っている時だけに限ります。

 

しかしそういった否定行為は永続しません。いや、永続し得ないのです。なぜなら、これらの原則は、生きとし生ける被造物としての人間生存に不可欠なものだからです

 

ー終わりー

*1:〔訳者注〕無矛盾律(むむじゅんりつ、英: Law of noncontradiction)は、論理学の法則であり、アリストテレスによれば「ある事物について同じ観点でかつ同時に、それを肯定しつつ否定することはできない」こと。