巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

組織神学で使われている「術語」は、ほとんど常に一通り以上の定義づけが可能であり、各術語は、それを含む素性の中で「選択的」である。(by ヴェルン・ポイスレス)

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目次

 

Vern Sheridan Poythress, Symphonic Theology: The Validity of Multiple Perspectives in Theology, chap.7(抄訳)

 

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ヴェルン・ポイスレス(ウェストミンスター神学大、新約解釈学)

 

「術語」

 

「術語」と言う時、私は主として「三位一体」「帰与/帰負(“imputation”)」「契約」「新生」「魂(“soul”)」など、通常、定義づけによって導入される用語のことを指しています。

 

しかしその他、哲学の中で用いられている多くの抽象用語も、言語の一般的使用から外れた仕方でキーワードとして用いられる際には、術語的になり得ます。

 

そういった用語はその特徴として、意味に溢れるようになります。(つまり、その意図において濃厚になるということです。)

 

どのようにしてそうなるかと言いますと、

①(そういった用語を明確にしようとの意図によりなされた)明白なる定義とそれらの用語が互いに関連付けられることによって、あるいは、

②鍵となる諸文脈や、議論のターニングポイントの中で繰り返しそれらの用語が用いられることによって、です。

 

そして多くの場合、「その用語が登場してくるたびに全く同じ意味を持った術語として用いよう」というのがその目的としてあります。

 

術語というのは、最高に本領を発揮するなら、いわゆる「自然類(“natural classes”)」を識別し、特定します。つまり、さまざまな種類の興味深い類似性を共有している一群を特定するということです。

 

術語としての "faith"の例

 

ここで再び “faith” を例に挙げることにしましょう。私たちはいかにして術語としての “faith” を用いるに至っているのでしょうか?つまり、「救いに導く信仰 “saving faith,”」「とこしえの救いへと導くキリストへの信仰」といった意味においての “faith” です。

 

そうです。私たちは、使徒の働き、パウロ書簡、そして旧約聖書の中にみられる一貫したパターンを認識することによってそうするに至っています。

 

例えば、人々のキリスト教への回心に関する諸聖句(使徒の働きやその他の箇所)が共有している多くの興味深い特徴を私たちは見い出します。そういった箇所では、キリストの御業についての使信や悔い改めへの呼びかけに対する認知的、信頼に満ちた人々の応答のことが言及されています。

 

そしてそういった聖句のかなり多くが、pistis もしくは pisteuoという語を用いています。(但し、幾つかの聖句ではpeithoといった他の語が用いられています。)それゆえ、こういった諸聖句に共通してみられる幾つかの特徴を指し示すべく “saving faith”(救いに導く信仰)という術語を作り出すことは有益です。

 

しかしながらそれと同時に、それぞれの関心に合わせ、一つのグループにまとめることにより、私たちは、その他の特徴をも抜き出し、選り分けることができると思います。

 

例えば、pisteuoやそれに関連する語の用例を、偶像や偽りの神々に対する belief という文脈の中で研究することも可能でしょう。また、誰かが何かを他の誰かに委託(entrust)している事を言及している聖書の諸文脈を研究することもできるはずです。

 

そうした上で、そういった一群の諸聖句に共通した特徴を捉えるべく “idolatrous faith”(偶像礼拝に導く信仰/偶像礼拝的信仰)、“entrustment”(委託/信託)といった術語を考案することも可能でしょう。

 

それだけではありません。先ほどの使徒の働きの中の同じ諸聖句を抽出した上で、異なったアスペクトを抜き出すこともできると思います。

 

例えばですが、〔使徒の働きの中の〕ペンテコステ以後の文脈における人々の反応と、それからペンテコステ以前のそれとの相違点に力点を置くという選択もできるでしょう。

 

そうしますと、人々の信心に関する認知的内容は一般に、ペンテコステ以後の方がより豊かであるということが分かってきます。そして福音宣教において聖霊が新しい方法で臨在しておられるという事実は、そういった人々の反応に微妙に影響を与えています。

 

あるいはまた、ペンテコステ「以前」と「以後」の間の連続性に力点を置くという選択もできるでしょう。改革派神学における “faith” という術語は、通常、後者の方向性を選んでいます。

 

さらに、人々の反応に、驚くほど共通してみられる認知的特性に的を絞り、そこに焦点を当てるという選択をすることも可能です。つまり、真理に対する人々の共通した「受諾」という面にフォーカスを当てるのです。

 

それからまた、信頼をもって反応するという行為全般(ラテン語ではfiducia)を指し示すべく、何か新しい術語を作り出すという選択も可能ですし、人生の方向性の抜本的変化(“conversion”や、洗礼も含めた“conversion-initiation”)を網羅するような用語を作り出すことも可能でしょう。

 

つまり、私が申し上げたいのは、選択は私たちの内にあるということです。「ただ一つ、この唯一『正しい』術語を使え!」と私たちに強要してくる聖句は一つだにありません。

 

もちろん、そういった定義形成の中には、いくつか不適切なやり方もあるかもしれません。つまり、虚偽であるなにかを前提しているようなまことしやかな定義も存在するだろうということです。そして、そういった定義は人を誤らせます。

 

しかし、その意味において、人を誤らせるようなそういった定義を拒絶したにしても、それでも尚、私たちに一つ以上の選択肢が与えられているという事実は依然として動きません。

 

一つの錯覚

 

神学的テキストは時として、唯一の「正しい」定義を提示してきます。そういったアプローチの根底にあるのは、「術語というのは、解釈されていない聖書の語彙項目にマッチすべきであるし、マッチすることは可能である」という錯覚です。

 

そしてこういった錯覚に基づいて事を進めていくことにより、私たちは困難を招くことになります。そしてそうすることにより、自分自身の関心事やさまざまな偏見、自分の使っている術語の種類に関するえり好みといったものの影響を、自らに隠蔽するという事態が発生してきます。

 

そして、検証されていないありとあらゆる前提を、自らの聖書解釈に導入する道を開いてしまう結果を生じさせます。

 

どのような方法で私たちが術語を定義しようとも(あるいは使用しようとも)、それは全てを把握するものにはなりません。

 

もしも私たちが、ペンテコステ以後の状況のみに適用するものとせしめるべく、“faith”という術語を狭く定義するなら、「使徒行伝での出来事」と、「ルカの福音書での出来事」そして「旧約での出来事」の間に存在する類似点を見い出し特定することができなくなってしまいます。

 

他方、アブラハムの信仰を含めるべく、“faith”という語を定義しようとするなら、今度は、ペンテコステ以後の人々の反応をユニークにし固有なものとしている特徴や諸文脈を抜き出すことができなくなってしまいます。

 

ですから、新しい用語の中で、私たちがギリシャ語やヘブライ語の全領域を把握する唯一の方法は、異なる諸文脈の中での異なる意味や含みといったものを付随させつつ、自分自身の用語をあえて「厳密にしないこと "imprecise"」ではないかと思います。

 

そうした上で私たちは、「術語をフツーの意味として作り出すことができる(the idea of making the word a technical term in any normal sense)」という思想を打ち捨てなければならないと思います。