巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

宗教言語にナショナリズムが結びつく時

目次

 

「特別な」言語

 

ギリシャ語学者クリス・カラグーニスの著書『The Development of Greek and the New Testament: Morphology, Syntax, Phonology, and Textual Transmission』(2004)に対するモイセス・シルヴァの書評論文を読みました。

 

Moisés Silva, Biblical Greek And Modern Greek: A Review Article, Westminster Theological Journal, WTJ 67:2 (Fall 2005)

 

カラグーニス教授は、現代ギリシャ語を母語とするギリシャ人聖書学者であり、スウェーデンのルンド大学で新約解釈学を教えておられます。

 

シルヴァは書評の前半部分で、カラグーニスのその他の研究諸論文や、本著書の中に収録されているさまざまな有益な資料*1を評価しつつも、全体としては本書の内容に対し否定的な批評をしています。

 

その中の一つが、本書の至る所に散見される「ギリシャ語」に対する美化("romanticized conception")です。

 

その〈美化〉の具体的内容についてお知りになりたい方は、書評の1.Overstatementsの項を読んでいただきたいと思いますが、とりあえず、とても平たく言ってしまえば、「私たちのギリシャ語は、他に類を見ないすっごく『特別な』言語なんです!」という隠れた威信(誇り、優越感)から生み出される数々の言語学的ナンセンスにシルヴァが鋭いメスを入れているーー、というのがこの書評の基本的構図です。

 

〈唐芋〉標準語

 

言語というのがとかく、プライド・矜持(きょうじ)・威信・優越心といったものと粘着しやすいという事実を、私は幼い時から敏感に感じ取っていました。

 

前に記事の中で触れましたが、私の生まれ育った南九州の地域には方言コンプレックスがあり、そこから「〈唐芋〉標準語」という不思議な言語現象が生み出されました。

 

これは音声学的に言って、ちょっとした国内版「クレオール語」「ピジン語」と言っていいかもしれません。

 

とは言え、〈唐芋〉標準語が、生粋のクレオール、ピジンと違う点は、それを使う話者の大部分が、そのピジン(混合)性に気づいておらず、あくまで自分たちは、標準的かつ、田舎臭くない、高級で洗練された純正「東京語」を使っていると思い込んでいる(or自負している)点にあります。

 

〈唐芋〉標準語は、人工的に鋳造された一つの「ステイタス」であり、劣等感と優越感が微妙に交差する「差異化」の心理的窓口です。

 

ですが、洗練された東京語を使っていると「思い込んでいる」彼らは、実のところ、そう「思い込まされている」のであり、それは突き詰めていくと、国民国家を形成していく過程における、明治政府の「国語政策」以来の国民思想教育ーーこれが生み出した具体的「実」の一つであると言えるのではないかと思います。*2

 

幼いながらも私は、頑なに自分たちのローカル言葉を拒み(それをはしたないものとして軽蔑・卑下している)同郷のともだちのそういった〈カライモ志向〉の中に、言語に癒着したプライドとsnobbish性を見て取っていました。そして子ども心にそれが非常に不自然であると感じていました。

 

しかし成長していくにつれ、私の田舎で起こっているこの小さな〈カライモ現象〉は、実は結構、至る所に存在しているという事実に気づくようになりました。

 

特に、マクロなレベルで、〈カライモ〉が国家的ナショナリズムと結びつく時、言語の誇りは、今や集合的要素を帯びた「国家的プライド」へと拡大し、それに付随する諸問題の規模も桁違いに大きくなっていくことを知りました。*3

 

国民国家形成と「言語」

 

例えば、前述のカラグーニスは、著書の中で、アッティカ方言が「言語的『美人コンテスト』で最優秀賞に選ばれるだろう」「神々でさえもそれを用いて話そうとした程〔美しい〕言語である」といった引用句を載せつつ、「(BC3000年から)今日に至るまで、変遷を経てきたにも拘らず、(他の諸言語とは違って)ギリシャ語は常に同じ言語であり続けた」と述べ、類まれなきギリシャ語の"unique"性および優位性を言外に匂わせています。

 

しかし、彼の言う「ギリシャ語」とはそもそも何を指しているのでしょうか?古代ギリシャの都市国家(ポリス)で話されていたイオニア方言やアッティカ方言といったdialectsを含めた総体としての「ギリシャ語(Greek "Language")」なのでしょうか?この問題に関し、シルヴァは次のように指摘しています。

 

 「あるコミュニケーション形態に、果たして『言語』という地位を授けるべきなのか否かという試みの中で用いられるほとんどの基準(例:その形態とその他の形態が互いに意思疎通可能なのか否か等)は不十分であり、実際には、『国家的アイデンティティーに関する歴史的現実や民族的統一性の感覚』といったものが決定要因となる場合が多いのです。

 

 ですから、例えば、厳密に言語学的特性でいうなら、現代のスカンディナビア『言語 "languages"』(デンマーク語、ノルウェー語、スウェーデン語)は、ある意味、古代ギリシャの『方言 "dialects"』間に存在していた相違に相当するといっても過言ではありません。

 

 あるいは、"Questo non funziona bene"(イタリア語で"This isn't working well"の意)は、スペイン語では"Esto no funciona bien"と表現されますが、そうであるなら、この二つのロマンス諸語("languages")はむしろ、方言("dialects")と捉えられるべきなのでしょうか?」(同書評)

 

さらにこの問題は、「ギリシャ」と呼ばれている国民国家を構成する「ギリシャ人」の、古代ギリシャ世界とのつながりが、実は一般に考えられているほど絶対的なものではないという事実によっても、より複雑化していきます。ギリシャ史の研究者である村田教授は次のように述べています。

 

 「では、今日のギリシャ人は、古代ギリシャ世界や中世ビザンツ帝国の歴史を、『自分たちの歴史』と主張することはできないのだろうか。今日のギリシャ人は、19世紀にギリシャが独立国家を形成してから今日までの、わずか200年の歴史を、ギリシャ民族の歴史として語るしかないのだろうか。

 

 そのようなことは現実には起きていない。ギリシャの学校教育では、古代ギリシャから現代までの歴史を、自国史として教えている。ギリシャ人は、古代ーー中世ビザンツーー近現代を通じて同質であり、その歴史は途切れることなく継続しているという歴史観に基づいて、教育がなされている。この歴史観は、ギリシャ一般に広く受け入れられている。

 

 ただし、古代から中世ビザンツを経て、近現代にいたる一直線の歩みとして、自分たちの過去を解釈する姿勢が、ギリシャ人に最初から備わっていたわけではない。

 

 先に述べたように、オスマン帝国時代の市井のギリシャ人にとって、古代ギリシャは異教の別世界であった。古代ギリシャに生きた人々が、自分たちの先祖であるという歴史意識を、彼らは持ち合わせていなかった。彼らが自分たちの先祖として、過去にさかのぼって想像できる範囲は、ビザンツ皇帝が君臨した時代までだった。

 

 正教徒としてのアイデンティティーを持ち、自らをロミイと意識していた彼らにとって、それがごく自然の、過去に対する見方であったといえよう。何よりもそれは、正教会が信徒に与えた世界観そのものだった。

 

 、、ギリシャ人が、古代ギリシャ人を自分たちの直接的な先祖であると考えるようになるには、啓蒙思想の浸透を待たなくてはならない。」*4

 

ですから、前述の「(BC3000年から)今日に至るまで、変遷を経てきたにも拘らず、ギリシャ語は常に同じ言語であり続けた」という言明は、フランス革命、啓蒙思想、ギリシャ独立戦争(1821年)、ロンドン議定書にて独立宣言(1830年)といった一連の流れ、及び、ナショナリズムと「国民」意識の形成という枠組みの中で捉え、その観点でみた時にはじめて「理に適った」ものとなるのではないかと思います。

 

そして、「言語」の誇りは、ここにおいて、重要な意味を持ってくるでしょう。ファシズムという国家主義が一つの「世界観」であると論じるエドワード・ヴェイス師は、この世界観が、ダーウィニズムや実存主義だけでなく、「ロマン主義」からの影響も強く受けていると指摘していますが、*5国家主義の中で鋳造され、高らかに奏でられる特定言語の優位性・特異性という交響曲は、現在に至るまでさまざまな場所で鳴り響いています。

 

こうして〈カライモ〉は人間の個的・集団的罪性の下に生きながらえ、勢力拡大しつつ、さらに前進を続けていきます。

 

「聖なる」諸言語とナショナリズムが結びつく時

 

しかし、特定言語の「優位性」に「神的なもの」というお墨付きが加わった場合、事態は天文学的複雑性と深刻性を帯びていきます。

 

ギリシャ語、ヘブライ語、アラム語、アラビア語等は、いわゆる「聖典」の諸言語です。そしてこういった宗教諸言語が、何らかの形で(国家的・政治的)ナショナリズムと結び付く時、〈カライモ志向〉は、深層と表層という〈二つの顔〉を持つようになっていきます。

 

表層の部分において、それは、純朴な人々の宗教的熱意と敬虔さの内に自らの住み家を見い出していきます。そして神学的バックアップをも得つつ、今や無限大にその領域を押し拡げていきます。

 

この表層世界は、〈トンデモ本〉的見解が自信をもって生息できる世界でもあります。宗教的熱心と敬虔と善意が、政治的プロパガンダという大きな闇の機構の中で利用され、悪用されています。でも本人たちはそれに気づいていません。

 

なぜでしょう。なぜなら人々の動機や意図がどうであれ、そのルーツは深層部分の〈カライモ〉と切り離すことができないからです。〈カライモ〉はその規模の大小にかかわらず、その本質において根柢に、「プライド・威信」という罪を抱えており、その罪が、彼を盲目にしてしまっているからです。

 

こうして、あからさまな誤解釈が見破られることなく、かえって熱狂的に受け入れられ、支持されるという悲劇的状況が生じていきます。昔あったことが今も起こっています。「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない」(伝道者の書1章9節)。

 

そして、そういった盲目状態により、彼らは非常な熱心さと敬虔さの内に、「聖なる」言語および、それと紐帯する「地の国」を宗教的に高揚させ、そこに「高き所」を築き始めます。そして、ここにおいて私たちは「わたしの国はこの世のものではない」(ヨハネ18:36a)と仰せられたイエス様の御言葉が蹂躙されるのを目の当たりにします。

 

国際政治を含めたすべての地上的事象の上に神の主権があり、全能なる神の統治があります。そしてこの点において、キリスト教左翼運動の大部分は、神の主権を見落としていると思います。他方、私たちはもう片方の極へと向かわしめる「トロッコ列車」の存在にも気を付けなければならないと思います。

 

この宗教的「トロッコ列車」は今日も多くの善意なる追従者を従えつつ進んで行っています。最初はゆっくりと、そして徐々に加速しながらーー。

 

降りるのなら、「今」がその時です。

 

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*1:特に、最初の2章部分で、ギリシャ語通史が豊富なサンプル資料と共に提示されていることをシルヴァは高く評価しています。また、p125-36では、アッティカ文法学者のプリューニコス(Phrynichus)によって拒絶されたヘレニズム期ギリシャ語の単語リストがフルで満載されており、これも新約聖書ギリシャ語研究にとって有益な資料です。

*2:参:イ・ヨンスク「『国語』という思想――近代日本の言語認識」 岩波現代文庫

*3:参:ベネディクト アンダーソン著(白石隆・さや訳)「想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行」 (ネットワークの社会科学シリーズ) 、1997年

*4:村田奈々子著『物語近現代ギリシャの歴史』中公新書、p19-21

*5:Gene Edward Veith, Modern Fascism; The Threat to the Judeo-Christian Worldview, chapter 1