巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

和らげられた風(by ジョン・マクダフ)

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John MacDuff, The Wind Tempered, 1879(抄訳)

 

「これこそが安息である。疲れた者に安息を与えよ。これこそ憩いの場だ。」(イザヤ28:12)

「主は東風の日に、ご自身の激しい風を抑えて〔restrains〕彼らを移しやられた。」(イザヤ27:8、英訳からの直訳

 

この箇所は、比喩的な意味で、焼けつく砂漠の強風に襲われ苦しんでいる人々をかくまう、避難所のような聖句です。

 

こうして、神ご自身が植えてくださった棕櫚(しゅろ)の木の下に私たちは腰を下ろし、静けさの内に、祝福された御約束を黙想することができます。この聖句の中の表現豊かな像(imagery)から、私たちは、神がこの試練や懲らしめの暴走を決してお許しにならないことを知ります。

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「人は生まれると苦しみに会う」(ヨブ5:7)。痛み苦しむこの世界の中にあって、悲しみというのは万人に与えられている遺産です。

 

そして「激しい風」や「東風」が時折吹きすさぶだけでなく、それらを送っているのが他ならぬ神ご自身であることを、主は隠しておられないのです。それは「His rough wind(主の激しい風)」という表現の中にもはっきりと示されています。

 

ヨナのとうごまが枯れた際にも、「神が焼けつくような東風を備えられました」(ヨナ4:8参)。そして詩篇記者の大胆かつ崇高なる言葉の中で、主は「風の翼に乗って行き巡る」(詩104:3)御方であると表現されています。そしてそれは倫理的嵐の中にあっても同様です。「これらすべてのもののうち、主の御手がこれをなさったことを、知らないものがあろうか。」(ヨブ12:9)

 

しかし(みなさん、この点にぜひ心を留めてください)、東風が吹く時にも、主はそれが度を越した暴風と化することをお許しにはならないのです。主は困難を加減し抑えてくださいます!

 

「主は私たちの状態をご存知であられます」。古のことわざが言うように、「神は、毛を刈りとられたばかりの小さな羊が寒さで凍えないよう、風を和らげてくださる」御方です。

 

神は、イスラエルの民が同時期に、パンにも水にも欠乏するようには采配されませんでした。民が、尊い恩恵である「水」の欠乏に苦しんでいた時、すでにマナは与えられていました。

 

少し謎めいても見える、イザヤ27:8の初めの節をみてください。「慎重に調整する中で("in measure")、汝はそれと争われます」(英訳からの直訳)。「慎重に調節する中で」!また他の聖句には次のように書いてあります。「公義によって(in measure)、あなたを懲らしめ」(エレ30:11)。

 

神は決して気まぐれなお取扱いはされません。万事は、細心のご配慮の内に、主の知恵と忠実さとの均衡の中で量られています。主は苦境にある魂にみこころをとめていてくださいます(詩31:7参)。

 

マシュー・ヘンリーは言います。「風を送られる時、主はもみ殻だけが吹き飛ばされ、麦がそれに巻き込まれないよう繊細な風を送ってくださいます。」

 

こうしたご配慮の下、私たちは裁きの只中にあっても慈しみと憐みの歌を歌うことができ、主ご自身の御約束がこのようにして成就されます。「あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように」(申33:25)。

 

慈しみ深きエリムのなつめやしの木の下に腰かけ、この真理のまことをかつて経験しなかった人があるでしょうか?

 

友よ、あなたは今、喪失の苦しみの中にいますか。ーー東風が、初春のつぼみをもぎ取り、繊細な花を枯らし、あるいは秋の木の葉をまき散らしてしまっています。

 

しかしご覧なさい。やさしい慰めがあなたの元にかけより、ハリケーンを抑え、残酷な打撃を食い止め、試練のその苛酷な部分を和らげてくださっています。暗闇の中に、ほのかな光が顕れてきています。嵐で渦巻く暗黒の空の向こうに、ぼんやりと水色が遠望され、それが少しずつ広がってきています。

 

またそれは病と長引く苦しみの時でしょうか。ええ。見間違えのないほどはっきりとそこに東風が在ります。ーー慢性的な鈍痛、いつ果てるとも知れない痛みの日々、休息できない重苦しい夜、そしてああ、体全体が苦悶に呻いているのです。

 

しかしここにもわずかな光が見えます。彼はもしかしたらたった一人外国の地に放り出されていたかもしれませんーーそして、友もなく、家もなく、やさしい同情者もなく、言語を絶する全き孤独の中、彼は息絶えようとしていたかもしれないのです。

 

しかし、苛酷な肉体の痛みがありながらも、彼は周囲をみわたし、そこに彼のことをいたわる優しい顔が彼を見つめているのに気づきます。「ああ、どうか彼の痛みが和らげられますように!」これが彼のことを愛おしむ人々の切なる願いです。

 

そして彼は静かに思います。「場合によっては事態はもっとひどいものになっていたかもしれない。東風の吹きすさぶ日に、その激しい風を抑えてくださる、慈しみ深く配慮に富んだ主に感謝しよう。」

 

すべての事はこういった優しい「和らぎ」の御業にその跡を辿ることができると私たちは信じています。ーーそこには、二つの風が同時期にあなたに吹きつけることがないよう主のご配慮と統制があるのです。

 

神は、いたんだ葦が折れることをお許しにはなりません。なぜでしょう?なぜなら、それはいたんでいるからです!一方の御手で試練を置かれますが、もう片方の御手で慰め、統制しておられます。

 

そして必要とされる激しい風を送り、それによってご自身の望まれる港に私たちをお届けになります。そしてその際にも、主は必要とされているもの以外の一切の突風をお許しにはなりません。

 

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」(1コリント10:13)。

 

そして死の時ーー、エリムのなつめやしの木の下に腰かけるのもこれが最後であり、さらに奥深く未知なる旅路を求めるべく容赦なき「東風」の一撃によって、地上の幕屋が今まさにこわれようとしているその時にも、「激しい風」は抑制されるのです。

 

信仰者は最後のハリケーンの猛攻を感じるでしょう。しかし、彼は、その瞬間、彼に与えられる栄光ある支えの力と慰めと共に、猛風を超え、その上に飛翔します。

 

彼の目が霞み、もはや人間の笑顔を見ることができなくなりつつあるその時、彼の傍には、それ以上に力強い「ご臨在」が輝き、暗闇が彼の周りに集結せんとも、主のご臨在はそれにより一層輝くのみです。

 

そして彼は言うでしょう。「恐れよ静まれ!たとい死の陰の谷を歩まんとも、死にゆくこの時のために主は私に、死のための恩寵を与えてくださっているのだ」と。「主は東風の日に、ご自身の激しい風を抑えられた。」

 

「厚雲立ち上り、

天、覆われ、

怒り狂う突風の下

憔悴したわが心は低く沈んでいた。」

 

「しかし、いと高き所を治めておられる主は、

力強い御手で嵐を支配したもう。

そして主は、恩寵の夕立を

干からびた荒涼の地へと導かれる。」

 

「見よ。ついに雲は裂け、

暴雨はむだに通過しなかった。

それにより、魂は蘇生し、呼び醒まされ、

結実と、開花をみたのだ。」

 

「上よりの愛は、

地に落ちなければならない涙の数をも

知り、数えておられる。

そしてその中にあって、愛の聖定された嵐こそ、

最高の贈物であったのだ。」

 -Jane Borthwick, Hymns from the Land of Luther, 1858

 

「あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹きつけるあらしのようだからです。」(イザヤ25:4)