巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

神を知り、人を知るという営みについて

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神を知り、人を知るという営みは〈自然的に〉為され得るものなのでしょうか。また、この現代社会の中で、神と人を〈自然的に〉知っていくことはそもそも可能なのでしょうか。そしてもしもそれが可能であるならば、それはどこで、どのようにして可能とされるのでしょうか。

  

「自然」という用語はいろいろと問題性を持つ多義語であり(*)、特にそれが汎神論的、自然宗教的な意味合いを帯び用いられる時、私たちはそれを十分に警戒しなければならないと思います。また聖書外での「自然/不自然」の観念は、恒常的なものではなく、従って両者の境界線も、時代と共に変化していく暫定的なものであることを承知しています。(例えば、道を歩きながらものを食べること/音楽を聴くこと等は昔は「不自然」な行為でしたが、今それはむしろ「自然」なこと、あるいは、半ば当たり前のこととみなされています。)

 

そのため、誤解を生じさせないためにも、本来はこういう複雑な語は避けた方がよいのでしょう。ですが、どうしたものでしょう、今回に限って〈自然的に〉という表現がなぜか心から離れないのです。ーー〈不自然〉〈人為的〉〈人工的〉等の対義語としてのこの言葉が。

 

不自然さは、いびつな形をしています。それはある部分が剛丈に高く長いかと思いきや、別の部分はその姿が全く見えないほど底の方に埋没したりしています。

 

またそれは大概、「斜め」の角度からしか見ることができず、また、高度に「分室的(compartmental)」です。医学の専門分業化が進み、眼科の医者は内科系の内容にはノータッチといった具合に(そしてかつて人間も家畜も治療していた『村のお医者さん』像がどんどん消滅していっているように)、私たちの人間関係も、テクニカルに区分けされ専門分業化されていっています。

 

たくさんの分室の鍵を渡され、私たちは用途に合わせ、否が応でもそれを器用に使いこなしていかなければなりません。「でも、そもそもどうしてこんなに仕切られていなければならないのかが分からない。私は鍵は欲しくない。私はただ長屋に住みたい。」などと不適応反応を起こす人は、どんどんはずれ、はずされていきます。

 

何が〈不自然〉であるかは知っています。しかし悲しいかな、いったい何が神の目に〈自然的〉であるのかを知ることのなんという難しさ!内にも外にも〈不自然さ〉に囲まれながら、尚且つ自然的に生きようとすることのなんという難しさ!険しさ!ああ主よ、汝を汝として知ることのできない世界は、それが内的なものであれ、外的なものであれ、生ける墓場であり乾いた骨です。

 

神・人・被造世界に対する自分の態度が、物理的にも霊的にも白粉(おしろい)なしの〈素顔〉であることを望みます。

 

神が全的(whole)であるように、人もまた全的な存在として造られました。そして全的な存在は、その性質ゆえに、神との、そして人との全的・人格的交わりを切望せずにはいられないのです。

 

そこには量的増産と質の空洞化という〈不自然さ〉がなく、人の部位("it")が相手の部位("it")とそれ("it")について延々語ることが「交わり」であるという〈不自然さ〉やものうさがなく、神と人間、人と人がそれぞれ、われと汝として、全人格的呼びかけと交わりの内に生きています。生きようとしています。

 

どうか御子キリストの復活のいのちの力により、ーーたといこの捕囚の地にあっては人為的な仕切りや凝固した分室に閉じ込められていたとしてもーー、雪どけをひた待ち、やがてそこ一帯を豊かに潤すようになる永遠の春の川を待望する者とさせてください。アーメン。