巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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聖書のワード・スタディーをする際に注意すべき事:その⑪ 「あれかこれか?」:根拠なき意味の選言/分離および制限(by D・A・カーソン)

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あれか、これか

 

D.A.Carson, Exegetical Fallacies, Chapter 1. Word-Study Fallacies, p.25-66(拙訳)

 

小見出し

 

意味の選言/分離(semantic disjunction)とは

 

多くのワード・スタディーが読者に「あれかこれか」の二択を提示した上で、二者択一的決断を強要しています。換言すると、彼らは、相補性が可能である場面で、強いて意味の選言/分離(semantic disjunction)を要求しているのです。選言的〔disjunctive〕というのは、命題において、二つ以上の選言肢が含まれ、少なくともそのうちの一つが選択されるべきことを示します。訳註)

 

前項のグルームの例で私たちのそういった実例を目の当たりにしました。そしてここにまた類似の人がいます。ーーキリスト教教育の分野におけるグルームの同僚ローレンス・O・リチャーズです。

 

彼は「新約聖書のかしら性(headship)は権威とは何ら関係がない」と主張しつつ(彼の著述はこうして誤謬その⑤を具現する恐ろしい実例を作り上げています)、ついには教会に対するイエスのかしら性に関し次のような事を述べています。

 

 「統制への権利および従順への要求を伴う権威は、ここで提示されていません。教会の生けるかしらであるイエスが至高の権威をもったご人格であることは、〔イエスが〕教会のニーズを満たしてあげるというご自身の能力により教会を慰め、保証することによって提示されています、、、

 

 かしらとして、イエスは私たちの命の源であり起源です。かしらとして、イエスは、からだ全身を支え、成長のために私たちが必要としている全てを供給してくださる方です。かしらとしてイエスは、私たちに仕える道を選ばれ、私たちの人格に救いに至る変化をもたらしてくださいました。主は私たちを引き上げるために、ご自分を卑しくされ屈(かが)まれたのです。」*1

 

ここに正真正銘の、恐ろしき選言/分離(disjunction)が在ります!つまり、①かしらとしてのイエスは、「権威的で、統制する権威を持ち、従順を要求する御方」か、もしくは、②かしらとしてイエスは、「私たちを引き上げるために、ご自分を卑しくされ屈まれる御方」かのどちらか二者択一なのです。

 

しかし真実はどうかと言いますと、永遠の御子はご自分を卑しくし、人間と同じようになられ、私たちを引き上げるために屈まれ、尚且つ、主イエスは権威的で、統制する権威を持ち、従順を要求する御方であられます。全ての権威は主のものです(マタイ28:18)。

 

そして私たちの主との友情でさえも、主に対する私たちの従順にその基礎を置いているのです(ヨハネ15:14、その意味において、この友情は、双務的・相互的〔reciprocal〕ではありません)。そしてこういった権威に関する主題は、イエスのかしら性にダイレクトに関連しています。*2

 

リチャーズは繰り返し繰り返し、この種の選言的誤りに陥っており、結果として、御言葉に耳を傾けていません。

 

ヨハネ17:11のκαθώςについて

 

次にC・H・レンスキーのヨハネ17:11(イエスの祈り)の取扱いについて考察します。「それはわたしたちと同様にκαθώς, just as)、彼らが一つとなるためです」(11節)。*3

 

まず、レンスキーは正当にも三位一体の神の内に存在する区別を伴う一致を保持したいと考えており、そのため、「καθώς(just as、~と同様に)という表現により、信者たちが享受している一致(oneness)は、三位一体のそれとアナロジーの関係にある」と主張しています。

 

ここで注意していただきたいのは彼の議論の形態です。ーー彼によれば、①私たちの一致は類比的(analogical)であるか、それとも②同一的(identical)であるかのどちらかだとされています。そして(彼の見解によれば)καθώςという語の存在が、①の正当性を立証しているのです。

 

私は教義的にレンスキーに同意しています。信者は、神格内の各ペルソナ間に存在する一致をそっくりそのまま複写することはできませんが、ある点において、私たちはそれに倣うことができます。しかしながら、こういった結論に至るべくレンスキーが取っている手順は妥当ではありません。

 

まず第一に、ある言明は形式的に類比的でありつつも(例:"A is just as B"という形式の中で構築されるかもしれません)関係における同一性を確立しているかもしれません。

 

例えば、「犬が動物であるのと同様にネコもまた動物である。A cat is an animal just as a dog is an animal.」

 

これは「御父と御子が一つであるのと同様にクリスチャンたちは一つである」というのと形式的に等価性を持っています。しかし動物に関する言明の中には、関係における同一性が存在しています

 

しかし二番目に、レンスキーは、καθώςの意味領域を制限することにより、それがただ、(形式的にも本体論的にも)類比的である言明しか為すことができないとしている点で、誤りを犯しています。

 

ここでの誤謬は、彼がκαθώςという語のフルな意味領域を把握できていない点にあります。実際、新約聖書におけるκαθώςのフルな意味領域は十分に広大であるため、どちらの文の中でも機能することができきるのです。*4

 

この誤りにより、レンスキーは、καθώςという語の存在そのものにより、彼の神学的結論が正当化されるだろうという間違った信念に導かれています。彼の神学的結論自体は正しく耐久するでしょう。しかし、それを正当化する手立ては、どこか他に見い出されなければなりません。

 

*1:Lawrence O. Richards and Clyde Hoeldtke, A Theology of Church Leadership (Grand Rapids: Zondervan, 1980), 21.

*2:特にHurley, Man and Woman in Biblical Perspective, 163-68を参照。

*3:R.C.H. Lenski, The Interpretation of St.John's Gospel (Minneapolis: Augsburg, 1936), 1138.

*4:例えば、ヨハネ15:4のような箇所で、私たちは、類比における非連続性があるにも拘らず、そこに関係の同一性を見い出します。