巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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聖書のワード・スタディーをする際に注意すべき事:その④ 未知の、もしくはありそうもない意味に訴える(by D・A・カーソン)

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Θέλω δὲ ὑμᾶς εἰδέναι ὅτι παντὸς ἀνδρὸς ἡ κεφαλὴ ὁ Χριστός ἐστιν, κεφαλὴ δὲ γυναικὸς ὁ ἀνήρ, κεφαλὴ δὲ τοῦ Χριστοῦ ὁ Θεός. (1コリント11:3)

 

D.A.Carson, Exegetical Fallacies, Chapter 1. Word-Study Fallacies, p.25-66(拙訳)

 

小見出し

 

Κεφαλή=「源」説?

 

それでは前項で取り扱った「ケファレー=‟源”説」を引き続き見ていくことにしましょう。

 

ミッケルソンは『リーデル・スコット英語・古典ギリシャ語大辞典(LSJ)』に自らの論拠を訴えているだけでなく、彼らは、LSJ辞典が立証のために課している制限事項について記すのを怠っています。

 

ミッケルソンはhead of a riverを、川の "source"(源、水源)だと力説していますが、LSJ辞典の中に記載されているそういった用例は全て、複数形のκεφαλαίです。そして単数形のκεφαλήが川に適用される際には、それは川の河口を指し示しています。

 

LSJ辞典の中で唯一、単数形のκεφαλήが "source"(源)や "origin"(起源)を意味すると記載されている出典は、Fragmenta Orphicorumです。これは紀元前5世紀もしくはそれ以前に書かれた文献であるとされていますが、原典的にも不明瞭であり、一通り以上の訳の余地がある文献です。*1

 

たしかに新約聖書でのκεφαλήの隠喩的な諸使用は、"source"(源)ともあるいは解釈され得るかもしれません。しかし、そういったどの事例においても、それが必須の意味であるというケースは皆無であり、尚且つ、全ての事例において、権威を包含する「かしら性(headship)」の概念が、同等に(もしくはそれ以上に)この語に適合しています。

 

関連するその他もろもろの辞典はそういった用例で溢れており、その全てにおいて古典テキストから抜粋してあり、いずれの場合も、κεφαλήは「権威」を含意しています

 

ミッケルソンおよび、彼らの主張に同調するその他多くの人々はおそらく、S・ビデールの論文に依拠していると思われます。*2

 

しかし、とにかく、彼らの依拠がどこにあろうとも、ミッケルソンが未知の、あるいはありそうもない意味に訴えようとしているという事実は動きません。そしてなぜそのような意味が1コリント11:2-16の文脈に適合しないのかについての健全な釈義的理由が確実に存在します。*3

 

この種の誤謬の事例には枚挙にいとまがありません。そういった誤りのあるものは、貧弱なリサーチが元凶となっており、おそらくそういった人々は一次資料を自分で調べることなしに、他の誰かの意見に依拠してしまったために誤謬に陥ったと思われます。

 

またその他の誤りは、ある種の解釈をなんとか捻出したいという願望から生み出されており、その際、解釈者は公明正大さを失ってしまっています。

 

1コリント14:34-35のνόμοςはモーセ律法のことを言っているのではない??

 

あるケースにおいては、本質的にありそうもなく、裏付けもない意味が細目にわたり弁護された上で、ひどい場合には、それがすでに教会内に浸食しています。

 

例えば、パウロ研究者であるC・E・B・クランフィールドは、νόμοςがある場合には、モーセの律法やモーセの律法契約ではなく、律法主義という意味を持つことがある(例:ローマ3:21)と主張していますが、*4この立場の主要弁護は、厳密なる言語学的立証の上にあるのではなく、旧約聖書と新約聖書の間の、ある種の関係構造への彼らの採択に依っています。*5

 

また、ウォルター・C・カイザー・Jrは、一度ならず数回に渡り、「1コリント14:34-35で用いられているνόμοςは、モーセ律法のことを言っているのではなく、ーーパウロが拒絶するに至ったーーラビ的解釈のことを言っているのである」と主張しています。*6

 

カイザーは言います。

 

 「『婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。νόμοςも言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。』しかし、旧約聖書はそのような事を言っていません。ですから、ここでパウロはラビの諸規則のことを言及していたに違いありません。

 そして36節で、パウロは反論に出ています。『神のことばを、あなたがたのところから出たのでしょうか。あるいはまた、あなたがたにだけ(μόναςではなくμόνους)伝わったのでしょうか。』

 換言すると、パウロは、この書簡の他の場所でもそうしているように(例:1コリ6:12;7:1-2)、一旦反対論者の議論の要点を挙げた上で、しかる後、自論により相手の見解に修正を加えているのです。従って、『女性の恭順』についてのこの箇所は、パウロが論駁しようと試みていた誤った諸見解の要点だということになります。」

 

こういった解釈はそれなりに受けがいいでしょうが、緻密な聖句検証に耐え得るだけの資質は持っていません。

 

この書簡の別の箇所で、パウロが誤った見解に反論したり、それに修正を加えたりしている際、彼はそれを単なる修辞的な質問では決して行ないませんでした。ーーそうです、パウロは、自らの論拠を述べ、理解のためのもう一つ別の枠組みの中でそれを素描していたのです。

 

それゆえ、「1コリント14:34-35の全ては、14:36の問いかけによって棄却され得る」という提案は疑わしいものとなっていきます。

 

繰り返しのパターン自体は、「14:34-35が異なった枠組みを導入することができない」という事を立証してはいません。ですが、こういったオールターナティブに関するその他の明確な事例が皆無である以上、〔カイザーの提案に対しての〕疑いは、軽々しく棄却されたり、無視されたりすることはできないはずです。

 

14章36節で男性形μόνουςが使われていますが、そうだからといって、パウロが「男性会衆だけに向かって語っていた」とか、パウロが彼ら男性会衆に対し「男性たちよ。神のことばが伝わったのはーー女性たちにではなくーーただあなたがた男性たちにだけであるとでも思っているのですか?」と言わんとしていたという事はこの用法からは立証されません。

 

そうではなく、この箇所は、教会を構成する男性、女性、その両方を言及しています。なぜなら、ギリシャ語は普通、(性別を問わない)人々のことを指す時には、複数形の男性形を使うのが慣例だからです。

 

つまり、ここでパウロは、レトリックな質問を投げかけることにより、目前にあるこの問題に対する、教会の怠慢な態度に対し、全教会〔の人々〕を叱責しているのです。

 

ーー彼は、ありとあらゆる種類の問題に対する教会員たちの独断的で高圧な態度を叱責し、彼ら教会員をして、他の諸教会の慣習を破棄せしめ、果てはパウロの権威にまでも疑問を差し挟もうとする彼らの独断的な態度を叱責していました。

 

μόνουςに関するこの解釈は、次の三点によって確証されます。

 

第一番目ですが、この解釈により、14:33b「聖徒たちのすべての教会で行われているように」との間に整合性をみることができます。つまり、パウロは、コリント教会をその他の諸教会から離脱させている行ない(practice)の事を叱責しているわけです。

 

(14:33bが14:33aと共に読まれるということは構文論的にありそうもない事であり、むしろ、こでは目下議論されている聖句の口火を切っていると捉えるべきでしょう。)

 

二番目に、この解釈は、14:37-38とも適合しています。明らかにコリントの信者たちは非常に高ぶっており、自分たちに与えられた霊的賜物の存在に得意満々になっていたため、彼らは使徒的権威をないがしろにしかねない危険な状態にありました。

 

預言の賜物を持っていると考えているのは果して彼らだけなのでしょうか?真の霊的賜物性は、パウロが書き送ったことが主の命令に他ならないことを認識するはずです。

 

ですから、(37-38節に引き継がれている)36節における対比は、《コリントの男性信者》vs《コリントの女性信者》という対比ではなく、他の諸教会と歩調を合わせようとせず(14:33b)、使徒的権威にも逆らおうしている(14:37-38)《男女両方を含めたコリントの信者たち》の間における対比です。

 

コリントの人々は、神のことばが伝わったのは、彼らに対してだけ(μόνους)ではないということをしかと知る必要がありました。

 

そして三番目ですが、この解釈は、同書簡の中で、同じ種類の議論が構築されているその他の諸聖句によっても確証されます(特に7:40b;11:16を参照)。

 

もしも36節が、ラビ的伝統における棄却ではないとするのなら、νόμος(34節;καθὼς καὶ ὁ νόμος λέγει.「律法も言うように」)が、そういったラビ的伝統を指し示しているという見解は不可能になります。そしてここにおいて私たちは、本項で考察している釈義的誤謬④の核心部分に行き当たることになります。

 

たしかに、「おおざっぱに言って、νόμοςが"Torah"のギリシャ語に相当し、"Torah"が、ラビ的用法の中で、書かれた聖句および口承伝統、その両方を包含し得る」と考える限りにおいて、(34節を理解する上での)ある種の妥当なア・プリオリの立証が立てられないこともありません。

 

しかしながら、ーーこの語自体、パウロ書簡の至るところ用いられているにも関わらずーー、パウロはその他どの箇所においても、νόμοςをそのようには決して用いていません。それゆえ、その他の脆弱点をも加えた、この箇所のカイザー解釈は、釈義的誤謬④のこの範疇に落ち込むことになります。

 

私たちがパウロ自身の使用法によって判断するなら、これは、パウロの語解釈としてはありそうもない意味に訴えています。

 

こういった高度に「ありそうもない」主張が正当化される唯一の場合は、この箇所に関するその他の諸解釈がどれも釈義的にあまりにも「ありそうもなく」、それゆえ、私たちが強いて何か新しい仮説を打ち立てなければならない必要性に迫られる時のみです。しかしそういった試みがなされる際に、肝に銘じておかねばならないのは、その種の説がいかに暫定的かつ、言語学的に不確かであるかということです。

 

しかし本項で扱っている事例の場合には、そういった「最後の手段」に訴える必要性はありません。なぜならここの聖句は、その文脈において、適切に説明が可能であり、またこれまで継続的にそのように説明されてきたからです。

 

旧約聖書を、引用ではなく原則とみる、このようなやり方には豊富な類例があります。(そして当該の『原則』というのは、もちろん、創世記2:20b-24であり、この箇所はパウロが1コリント11:8-9においても、1テモテ2:13においても言及しています。)

 

また、「女性たちが黙っていなければならない」という要求は、1コリント11:2-16と和解不可能な衝突をもたらしてはいません。(1コリント11:2-16においては、ある条件の下では、女性たちが祈ったり預言をしたりすることができることを言及しています。)

 

なぜなら、14:33b-36で述べられている沈黙は、文脈によって制限されているからです。

 

つまり、預言の解釈に関して女性たちは黙っていなければならないという事が、ここの文脈で述べられている内容であり、もしもその際に黙ることをしないのなら、彼女たちは、1テモテ2:11-15の聖句に反して、集会の中における教義的権威という役割を司ってしまうことになるからです。*7

 

本項で見てきたように、膨大な量の釈義的創意工夫を凝らすことにより、この4番目の誤謬には一見覆いがかかっているように見える場合があるかもしれません。しかし、外装がどうであれ、その内実は、他と全く同じ誤謬であることに変わりはありません。*8

 

*1:私の同僚であるウェイン・A・グルーデムの以下の論文を読み、この問題に注目することになりました。Trinity Journal 3 (1982):230.〔訳者注〕Fragmenta Orphicorum文書についての詳細は、以下のグルーデム論文〔英文〕をご参照ください。

*2:S. Bedale, "The Meaning of κεφαλή in the Pauline Epistles," JTS 5 (1954): 211-15.

*3:特に、James B. Hurley, Man and Woman in the Biblical Perspective (Grand Rapids: Zondervan, 1981), 163-68を参照のこと。

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*4:C.E.B. Cranfield, "St.Paul and the Law," SJT 17 (1964): 43-68.

*5:Douglas J. Moo, "'Law,' 'Works of the Law,' and Legalism in Paul," WTJ 45 (1983): 73-100を参照。また、これに関連する多くの事項については、以下の著作を参照。D.A. Carson, ed., From Sabbath to Lord's Day: A Biblical, Historical and Theological Investigation (Grand Rapids: Zondervan, 1982).

*6:Walter C. Kaiser, Jr., "Paul, Women, and the Church," Worldwide Challenge 3 (1976):9-12; Toward an Exegetical Theology: Biblical Exegesis for Preaching and Teaching (Grand Rapids: Baker, 1981, 76-77, 118-19).

*7:特に以下を参照のこと。Hurley, Man and Woman in Biblical Perspective, 185-94. それから、Wayne A . Grudem, The Gift of Prophecy in 1 Conrinthians (Washington, D.C.: University Press of America, 1982), 239-55; review in Trinity Journal 3 (1982): 226-32.

*8:関連記事