巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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聖書のワード・スタディーをする際に注意すべき事:その③ 意味の廃用(by D・A・カーソン)

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D.A.Carson, Exegetical Fallacies, Chapter 1. Word-Study Fallacies, p.25-66(拙訳)

 

小見出し

 

意味の廃用(Semantic obsolescence)とは?

 

この誤謬は、前項の「意味のアナクロニズム」を鏡で反射したような像であると言えます。

 

解釈者は、聖句の中のある単語に、ある意味を当てがいます。ですが、その意味は、以前の時代には存在していたのですが、今となってはその語の生きた意味領域にもはや見い出されないのです。換言すると、その意味はすでに、意味論的に廃物化(obsolete)されています。

 

私の書棚にはDictionary of Obsolete English(「廃語事典」)というおもしろい語彙関係の書物があります。*1

 

ある単語は、いつしかその有用性を失い、廃用化していきました。(例:"chaffer"という語にはかつて「~を商う、~を交換する」という意味がありました。)しかしこういった語よりもずっと厄介なのは、今もその言語の中に残存しているけれども、語の意味が変遷してしまっている場合です。*2

 

同じことが聖書の諸言語に対しても言えます。例えば、七十人訳聖書や新約聖書の中にもはや見い出すことのできないホメロス期のギリシャ語などは、聖書学者たちにとって比較的関心の薄い分野だと思います。

 

しかし、成文言語としての初期段階においてある意味を持っていたにも関わらず、後期の段階では別の意味を持つようになったヘブライ語の単語や、もしくは、古典期ギリシャ語ではある事を意味していたにも関わらず、新約聖書では別の事を意味するようになったギリシャ語の単語などは、ややもすると、軽率な人々を、「意味の廃用の誤謬」というこの落とし穴に落とし込ませないとも限りません。

 

μάρτυς の意味の変遷

 

そういった変遷の中にはかなり経緯が分かりやすいものもあります。例えば、ギリシャ語のμάρτυςですが、英語のmartyr(殉教者)はこのギリシャ語に由来しています。μάρτυςというこのギリシャ語名詞およびその同根動詞の発展は次のような経緯を辿っているとされています。*3

 

段階a. 裁判所の内外で、証言をする人

段階b. 厳粛な証言や確約をする人(例:その人の信仰)

段階c. 死の脅威に直面しながらも尚、自らの信仰を証言する人

段階d. 死を受け入れ、自らの信仰を証言する人

段階e. 何かの大義ために命を投げ出す人("martyr" 殉教者)

 

この発展経路はもちろん平坦ではありません。ある時期においては、Aさんはμάρτυςという語をかように用い、他方、Bさんは別の仕方で用いていたかもしれません。あるいは、同じ人であっても、文脈により、一通り以上の用い方をしていたかもしれません。

 

この事例では、段階Cでの証言行為が多くの場合ーー段階Aを髣髴させるーー裁判所でなされていたという事情により、発展経緯は遅延したに違いありません。

 

ですが、『ポリュカルポスの殉教』(1:1; 19:1、2世紀中盤)が執筆された頃までには、最終段階であるEまで行っていたでしょう。標準的古典ギリシャ語辞典は、「ヨハネの黙示録が執筆された頃までには段階Eまで到達していた」と力説しています。

 

ペルガモにある教会は、キリストへの信仰を否まず、「わたしの忠実なμάρτυς〔証人?殉教者?〕アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも(黙2:13)」信仰を捨てませんでした。

 

ここで結論を急ぐのは早計かもしれません。後に出てくる「二人の証人」の箇所をみますと、殺される前に彼らはあかしを終えています(黙11:7参)。それゆえ、ここから提示されるのは、段階C以上には進んでいなかったということです。

 

ですから、おそらく、黙示録2:13で用いられているμάρτυςは、単に「証人」と言及されるべきなのかもしれません。あるいは、ヨハネの使用法の中では、この語はいくつかの異なる諸段階を包含する意味領域を持っていたのかもしれません。*4

 

要するに、言葉というのは時間と共に意味が変わっていくということです。例えば、新約聖書が書かれた時期までにはすでに、指小辞は大部分においてその効力を失っていたことが分かっています。ですから、年齢においても寸法においても、ὁ παῖςτὸ παιδίονと区別することは難しくなっていました。また、完了相の接頭辞の多くは、いくつかの、あるいはそのほとんど全ての効力を失っていました。

 

Κεφαλή(ケファレー)=源?? 

 

従って、ある釈義が、ヘレニズム期ギリシャ語の語用ではなく、古典期ギリシャ語の語用に主要な根拠を置いた上で、語の意味を打ち建てようとしている際には、私たちは「なにか疑わしいぞ」と若干、警戒の念を持つべきでしょう。*5

 

例えば、Christianity Todayの記事の中で、バークレーとアルヴェラ・ミッケルソンは、「1コリント11:2-16で用いられている『かしら("head")』は『源("source")』もしくは『起源("origin")』という意味である」と主張しています。*6

 

しかしながら、彼らは、その論拠を、標準的新約聖書およびヘレニズム期のギリシャ語辞典(Bauer)ではなく、標準的古典期ギリシャ語の辞典(LSJ;但し、このリーデル・スコット大辞典はもちろんヘレニズム期の資料をも網羅してはいます)に訴え出ています。

 

そして前者の新約聖書ギリシャ語辞典の項目においては、新約期のκεφαλή(ケファレー;head, かしら)に対する "source"と"origin"の意味は皆無です*7 

*1:R.C. Trench, Dictionary of Obsolete English (reprint; New York: Philosphical Library, 1958).

*2:例えば、"nephew"はかつて、孫や、より離れた直系の子孫などをも言及していました。また、"pomp"はかつて、けばけばしい誇示というニュアンスなど全くない普通の「行進」を意味していました。単語における意味の変遷の問題に関しての優れた論考:Ullmann, Semantics, 193-235.

*3:Caird, Language and Imagery, 65-66. Alison A. Trites, The New Testament Concept of Witness (Cambridge: At the University Press, 1977).

*4:英語のmartyrは、さらに変化が進み、現在では段階Fといえるような表現(例:Oh, stop being a martyr!)も見い出されます。(例:Oh, stop being a martyr! これは、「自己憐憫はやめなさいよ!」位の意味です。)

*5:訳者注:古典期ギリシャ語、ヘレニズム期ギリシャ語それぞれの特徴については以下の記事をご参照ください。

*6:Berkeley and Alvera Mickelsen, "The 'Head' of the Epistles," CT 25/4 (Feb. 20. 1981): 20-23.

*7:訳者注:1997年初め、ウェイン・グルーデム師は、1990年に書いた「ケファレー問題」に関するご自身の論文を、オックスフォードのリーデル・スコット大辞典編集委員会に送り、この問題についてのリーデル・スコット側の意見と立場を直接、問い合わせました。以下は、編集委員のP.G.W.Glare氏からグルーデム氏に送られた書簡の一部です。

 

日付:1997年4月14日

親愛なるグルーデム教授、

 

、、現在、個々の事例をすべて取り上げ、話し合う時間的余裕がないのですが、いずれにせよ、私はあなたの結論に概ね同意しております。ケファレーという語は、一般に、ヘブライ語ローシュ(rosh: רֹאשׁ)の訳語として用いられていますが、たしかにこの語はー元来の「頭」という身体構造上のものを指し示す以上に、多くの場合、指導者ないしは長を意味しているように見受けられます。

 

そしてそれは「権威を否定している」という彼ら〔対等主義者〕の主張とは裏腹のものであるように思えます。彼らの想定している「源」という意味についてですが、もちろん、そういったものは存在せず、リーデル・スコット大辞典のケファレーの項に、source(源)という語を挿入したことは少なくとも賢明ではなかった言えます。そしてたとい言及したにせよ、「潮流の位置に関する、川の源に適用されるもの」と書くべきだったでしょう。

 

また付け加えておきたいのは、ほとんどの場合において、治める主体(the controlling agent)としての「かしら」という意味こそここで求められているものであり、[彼らの主張している]preeminence(卓越)という考えは、その意味で、かなり不適切であるように思われます。重ね重ね、論文を送ってくださりありがとうございました。今後、さらに徹底した大辞典の改訂作業に、ご一緒に取り組んでいけたらと望みます。

 

敬具

Peter Glare