巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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聖書のワード・スタディーをする際に注意すべき事:その② 意味のアナクロニズム(by D・A・カーソン)

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οὐ γὰρ ἐπαισχύνομαι τὸ εὐαγγέλιον· δύναμις γὰρ Θεοῦ ἐστιν εἰς σωτηρίαν παντὶ τῷ πιστεύοντι...(ローマ1:16a)

 

D.A.Carson, Exegetical Fallacies, Chapter 1. Word-Study Fallacies, p.25-66(拙訳)

 

小見出し

 

意味のアナクロニズムとは?

 

この誤謬は、ある語の後期における用法でもって、それよりも古い時代の文献を読み込もうとする時に発生します。

 

最もシンプルな次元でいうと、それは同じ言語内で起こります。ギリシャの後期教父たちは、ある単語を、新約記者たちがはっきりとは描写していなかったような仕方で使っている場合がみられます。

 

例えば、「いくつかの地域教会を監督する一人の教会指導者」ということを示す、彼らのἐπίσκοπος(監督)という用法が、果たして新約聖書にその論拠を持っているかどうかは明白ではありません。

 

神のδύναμιςは神のダイナマイト?

 

しかし私たちがそれに言語の変化を加えるなら、問題は第二の様相を帯びてきます。ダイナマイト(dynamite)という語は、語源的に、δύναμις(力、もしくは奇跡)に由来しています。

 

そしてこの点に関し、私はこれまでどれほど多くの場で、ローマ1:16に言及しつつ、説教者たちが次のようにメッセージしているのを聞いてきたことでしょうか。

 

「みなさん、そうです。『私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神のダイナマイトなんです!』」

 

ーーその際、ある説教者などは、「神のダイナマイト」という語を発声する際、意味深に頭をかしげつつ、あたかも今、なにかとてつもなく深遠にして秘伝的なことが語られたかのような仕草までしています。

 

この種の誤りは、単なる昔の「語根における誤謬」の再訪ではなく、それ以上にたちの悪い誤りです。つまり、これは逆向きの語源学に訴えておりーーアナクロニズム(時代錯誤)によって事態がさらに悪化させられた形でのーー語根における誤謬です。

 

パウロがこの言葉を記した時、彼はダイナマイトのことを頭に思い浮かべていたのでしょうか?

 

それに、ダイナマイトを単に一種の類比表現として用いただけにしても、それはそれで著しく不適切です。ダイナマイトというのは何かを炸裂させ、解体し、岩を爆破させ、穴をえぐり出し、物体を破壊するものです。

 

他方、パウロが語っている神の力というのは、彼がしばし、イエスを死者から蘇らせた力と同一視しているところのものです(例:エペソ1:18-20)。

 

そして、その神の力が私たちの内で働く時、その目的とは、εἰς σωτηρίαν(「救いを得させ」ローマ1:16)、私たちの救いの完成のうちに内在している全体性や成就を目指すところのものです。

 

ですから、意味のアナクロニズムという問題を差し置いたにしても、ダイナマイトというものは、イエスを死者から蘇らせる手段として、そしてキリストの似姿に私たちを造り変えていく手段として不適切なもののように思われます。

 

もちろん、説教者たちの真意は、ダイナマイトという言葉を使うことにより、(神の)力の偉大さを示したいということは理解できます。しかし仮にそうであったとしても、パウロの手段はダイナマイトではなく、「空(から)になった墓」でした。

 

それと全く同様の、意味のアナクロニズムの誤りが「神を喜んで与える人を愛してくださいます」(2コリ9:7)の「喜んで」の語解釈においても起こっています。

 

彼らは言います。「『喜んで("cheerful")』のギリシャ語は、ἱλαρόν(hilaron)です。ですから、神さまが実際に好ましく思っておられるのは、"hilarious"(大笑い、陽気な、楽しい、浮かれ騒ぐ)に与える人なのです。」それが本当なら、私たちは献金袋が回される間、laugh-track(番組用に録音された笑い声)をオンにしなければならないでしょう!!

 

イエスの血潮

 

また、同じ問題が、最近Christianity Today誌の中に連載された血に関する3つの記事の中に痛ましく表出しています。*1

 

執筆者たちは、血の働きに関する科学の発見を詳しく取り上げ、いかに血行が、細胞内の不純物を洗い流し、体の隅々にまで栄養を運んでいくのかについて解説しています。そして彼らは言います。「これは、イエス・キリストの血がどれほどすべての罪から私たちを清めるのかを表す、なんとすばらしい像でしょうか!(1ヨハネ1:7)」

 

しかし、実際のところ、それとこれとは全く無関係の事柄です。いや、関係がないだけでなく、こういった解釈の仕方は、無責任に神秘主義的であり、神学的に人を誤らせる種類のものです。「イエスの血」というフレーズは、イエスの惨たらしい、犠牲的な死を言及するものです。*2

 

また一般的に言って、イエスの血潮によって成し遂げられたと聖書が示している祝福は、同じく、イエスの死によって成し遂げられたと言われています(例:義認、ローマ3:21-26;5:6-9;贖罪、ローマ3:24;エペソ1:7;黙5:9)

 

ですから、ヨハネが、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」と言う時、彼が言わんとしているのは、それ以後も継続していく洗いや赦しに対する私たちの希望は、自らの善行への主張に依拠しているのではなく(1ヨハネ1:6、おそらく原始グノーシス主義にダイレクトに向けられたものだったと考えられます)、光の中を引き続き歩み続け、十字架ですでに為されたキリストの完成された御業に寄り頼むことに依っているという事です。

*1:Paul Brand and Philip Yancy, "Blood: The Miracle of Cleansing," CT 27/4 (Feb.18, 1983): 12-15; "Blood: The Miracle of Life," CT 27/5 (Mar.4, 1983): 38-42; "Life in the Blood," CT 27/6 (Mar.18, 1983): 18-21.

*2:Alan Stibbs, The Meaning of the Word 'Blood' in the Scripture (London: Tyndale, 1954)を参照。