巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

聖書のワード・スタディーをする際に注意すべき事:【目次】と【プロローグ】(by D・A・カーソン)

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D・A・カーソン、トリニティー神学校、新約学

 

D.A.Carson, Exegetical Fallacies, Chapter 1. Word-Study Fallacies, p.25-66(拙訳)

 

 

目次

 

1章 ワード・スタディーの際の誤り(Word-Study Fallacies)

はじめに

 

意味論の領域における、よくある誤謬

その① 語根にかかわる誤謬

その② 意味のアナクロニズム

その③ 意味の廃用

その④ 未知の、もしくはありそうもない意味に訴える

その⑤ 背景資料への不注意な依拠

その⑥ 動詞のパラレル化マニア

その⑦ 言語と精神構造(メンタリティー)を連関させようとする

その⑧ 専門的な意味に関する誤った諸前提

その⑨ シノニム(同義語)と成分分析に関する諸問題

その⑩ えり好み的、かつ偏向した立証資料の使用

その⑪ 「あれかこれか?」:根拠なき意味の選言/分離および制限

その⑫ 意味領域に対する根拠なき制限

その⑬ 拡大された意味領域を、根拠なく採用する

その⑭ ギリシャ語新約聖書のセム語的背景に関する諸問題

その⑮ 言語資料の際立った特徴点を、根拠なく軽視する

その⑯ 意味と指示(reference)との間の根拠なき連結

事の核心点:文脈に対処する

 

プロローグ

(*冒頭部分を訳しました。)

 

釈義的誤謬の蔓延

 

この学びは重要です。なぜなら、釈義的誤謬は、現在、私たちの間に、痛ましいほど蔓延しているからです。ーーそうです、神のみことばを忠実に取り次ぎ宣布するよう、主により恵みと責務を与えられた私たちの間にあって、です。

 

シェークスピアの戯曲作品の解釈を誤った、スペンサー・ソネットの韻律を誤解析してしまった等の誤りは、少なくとも永遠の行き先に関わる次元の致命性は持っていないと思います。

 

しかし聖書解釈においては話が違います。私たちには、そのような生ぬるい受け取り方をすることは許されていません。なぜなら、私たちは〔人ではなく〕神の御思いおよび御思想を取り扱っているからです。

 

それゆえに、私たちは大いに骨折りつつ、なんとかみことばを正しく理解し、それを明確に説明することができるよう最善を尽くさなければなりません。

 

そうであるから尚更のこと、(公には聖書が重んじられているはずの)福音主義教会の講壇上で、あまりにも頻繁に、弁解の余地なき釈義のずさんさが露見しているのは本当にショックなことだと言わざるを得ません。

 

もちろん、私たちは皆、なんらかの形で釈義的誤りを犯すでしょう。私自身もそれを痛切に自覚していますし、歳月の経過、熱心な研究、そして同僚たちからの愛ある警告により、そういった自分自身の誤解釈に、より敏感になっていきました。

 

しかし悲劇は、説教者や聖書教師たちが、自らの言っているあからさまなナンセンスに相も変わらず盲目であり、盲目であり続け、その結果として、彼が神の教会にダメージを与えているという事実に在ります。

 

また、これは(自分の所属するグループよりも解釈スキルにおいてやや劣っている)他の教派を批判することによって、自らご満悦にひたればそれで良しとされるような問題でもありません。私たちは何よりもまず、自分たちの裏庭の清掃から始めなければなりません。

 

批判的釈義(critical exegesis)の大切さ

 

あらゆる批判的精神の要(かなめ)は、ーーやや不当な表現における最善の意味として言うならーー、見解の正当化に在ります。批判精神をもった聖書解釈は、そこにーー語彙的、文法的、文化的、神学的、歴史的、地理的根拠という適切な正当性を持っています。

 

換言すると、この意味における批判的釈義(critical exegesis)というのは、それが採っている選択肢、そしてそれが採択している立場を正当化するための、妥当かつ理に適った理由を提供するような釈義であるということです。

 

批判的釈義は、ただ単なる個人的見解や、盲目的なる権威への依拠、恣意的解釈、推論的諸見解に反対しています。

 

しかしそうだからといって、「御霊のことは御霊によってわきまえる」ということを否定したり、信心や敬虔が大切でないと言っているのではありません。ここで私が申し上げたいのは、敬虔さや、聖霊の賜物であってさえも、無誤なる諸解釈を保証するものにはならないということです。

 

例えば、ここに二人の非常に敬虔な解釈者がいます。そしてある聖句に関し、この二人が互いに両立不可能な相反した解釈をしています。その際、明らかなのは、二人ともが正しいという事はあり得ないということです。*1

 

もしもこの二人の解釈者が霊的であるだけでなく、成熟した信仰者であるのなら、おそらく、彼らはそれぞれがいかにして異なる結論に行きつくに至ったのか、その根拠や理由を説明するだろうと思います。

 

注意深く、礼儀正しく、また正直な吟味・検証の結果、彼らは時として、相反する釈義的見解をそのまま保持するに至ることになるかもしれません。

 

その際、一方が正しく、他方が間違っているかもしれませんし、あるいは、どっちもどっち(つまり、両者共に、ある部分正しく、ある部分間違っている)、そのため、両者共に、それぞれ自分の立場に修正を加えなければならないかもしれません。

 

あるいは、彼らが互いに同意していないというまさにその理由ゆえに、議題に的を絞ることができない状態も発生し得るでしょう。その場合、彼らは引き続き、釈義的・解釈学的問題を詰めることができず、従って、解決に至ることもないでしょう。

 

いずれにせよ、です。ーー大切なのは、二人の解釈者がそれぞれ批判的釈義(critical exegesis)を実践しており、自らの達したあらゆる結論を適切に正当化する釈義をしているということです。

 

その際、もしも批判的釈義が妥当な理由を提供しているなら、私たちはそれと同時進行で、非妥当な理由を拒絶していくことを学んでいかなければなりません。

 

だからこそ、この学び(釈義的誤謬)が大切なのです。自分たちの釈義的誤謬を明らかにしていく過程を通し、私たちはより良い批判的釈義の実践者になっていくことでしょう。

 

よく「聞く」

 

聖書に対する、より慎重な取り扱いを学んでいくことで、私たちはもう少し良く「聞く」ことができるようになっていくと思います。

 

私たちは多くの場合、他の人々から受け取った従来の解釈でもって、聖書のテキストを読んでいます。そうして私たちは往々にして無意識のうちに、聖書の権威を、自分たちの伝統的解釈に移し替え、そこに虚偽の、いや場合によってはほとんど偶像礼拝的と言っていいほどの『確実性』を注ぎ込んでいます。

 

さらに、伝統というのは世代から次世代へと受け継がれていく間に再形成されていきますので、しばらく経つうちに、私たちは神の言葉からかなり逸れ、偏流するようになります。(それなのに相変わらず私たちは、自分の神学的見解に限っては、それはことごとく『聖書的』であり、それゆえに正しいと声高に主張しているのです!)

 

もしもそういうモードにあるのなら、私たちは無批判に聖書研究をしているということであり、それがゆえに、私たちの解釈的誤りは今後さらに強化・悪化されていくようになります。

 

聖書というものが、永続した形での現在進行形の《宗教改革》ーー私たちの人生および教理における改革ーーを成し遂げる書物であるのなら、私たちはそれこそ心血を注いで、それを常に新鮮に聞く必要があり、また、自分の手に入れることのできる最良の資料を用い、聖書を学んでいこうとする姿勢が必要です。

 

そしてもしも、今日に至るまで私たちを仲たがいさせ、分裂させているそういった一連の解釈問題になんとか意見の合意を見い出し、互いに歩み寄っていこうとする意思があるのであれば尚更、こういった種類の学びの重要性は増していくことでしょう。

 

なぜ私たちの間にこれほどまで多くの相違があるのか? 

 

私は聖書の権威に敬意を払っている方々に向かってこの事を申し上げています。「聖書が実際に何を言っているのか」という事に関し、私たちの間でかくも多くの相違があるという事実をみつめる時、私の心は非常に苦悶します。

 

根幹となる統一的諸真理はもちろん軽視されてはなりません。しかしながら、聖書66巻を偽りのなき神のことばと信じている人々の間で、互いに相入れず、相反・矛盾する神学的見解がこれでもかこれでもかという程たくさんあるという悲痛な事実は依然として私たちの目の前にあります。この事に関し、ロバート・K・ジョンストンは的を射たことを言っています。

 

 「異口同音に、聖書的基準を公言してはばからない福音主義クリスチャンたちが、主要な主題の多くにおいて互いに相反する神学的形成(見解)に達しているという事実は何を物語っているのでしょうか?

 

 それは、自らの神学的解釈に対する彼らの問題ある理解です。『聖書には権威がある』と主張し、同じ福音主義信仰を共有しつつも、その聖書が言っていることに関し実際には何ら互いに意見の一致に立てないという事実は、それ自体で自滅的です。」*2

 

上記の引用文は必ずしも慎重な表現を使ってはいないかもしれません。「自滅的」という表現で、ジョンストンが言い表したかったのは、解釈学的、釈義的な「自滅」であって、それが聖書の権威と関連づけられて言明されたわけではないと思います。しかしそれはともあれ、彼は、私たちが当面している気恥ずかしい混沌・無秩序状態*3の実態をよく言い当てていると思います。

 

なぜ等しく、聖書の権威に敬意を払っている人々の間に、異言は聖霊のバプテスマに必ず伴うものであると考える人がいるかと思えば、「いや、異言の賜物はオプショナルなものです」と考える人もおり、さらには、「いいえ、異言というのは真正なる賜物としては今日もはや存在しません」と考える人がいるのでしょうか?

 

なぜ、聖書に対しディスペンセーション主義のアプローチを採る人々がいるかと思えば、契約主義のアプローチを採る人々もいるのでしょうか?

 

なぜ、カルヴァン主義、アルミニウス主義、バプテスト、幼児洗礼論者の違いが存在し、それぞれの中にさらに細分化した違いが存在するのでしょうか?また、教会政治の形態に関し、なぜ、ある人々は強靭に長老制を支持し、別の人々は会衆制を強く推進し、また他の人々は、(後期使徒教父以降、1500年以上に渡って西洋教会を支配してきた)三職階およびヒエラルキー構造を支持しているのでしょうか?

 

あるいは「主の晩餐の意味とは何ですか?」と口火を切って、あえて今、ガソリンに火をつけましょうか?なぜ終末論に関し、かくまで多くの諸見解が乱立しているのでしょうか?

 

もちろん、ある意味において、こういった混乱状態を引き起こしている理由は、必ずしも合理的なものではなく、また、改良された釈義的厳密さだけによって修正されるわけでもありません。

 

事実、地域教会で奉仕している多くの聖書教師や説教者たちは、自分の教団の公式解釈以外の諸解釈にまともに触れる機会を持たず、またそういった別の諸解釈から一度も挑戦を受けることなくきています。

 

また、彼らは聖書を自分で研究する中で、内心、自グループの解釈に対し疑問を抱いたりしているのですが、それが表面化することを自らに許すとなると、心理的安定ゾーンが侵されてしまいかねません。そのため、これまで受け入れてきた自教団の解釈をあえて捨てるようなことを彼らは今後もしないでしょう。

 

どのようにしたら互いに歩み寄っていくことができるのか?

 

しかし私が本書で対象にしているのはそういった人々ではありません。本稿で取り扱っている議論の性質上、私はそれぞれの立場に立つ最も賢明にして、成熟し、且つ、よく訓練され、敬虔である指導者たちに焦点を絞って書いています。

 

こういったありとあらゆる教義的最前線の現場において、どうして私たちはもう少し互いに合意をみることができないのでしょうか?

 

表面的にはもちろん、純粋にプラクティカルな次元で、克服しなければならないいくつかのハードルがあるでしょう。

 

ある指導者たちは、行き詰まりの突破口となるような質の高い議論をする時間的余裕が自分にはないと感じているかもしれません。そしておそらく彼らのほとんどは、「彼/彼女は自らの道にまっしぐらなので、そういう人と対話をしようと試みてもほとんど益を得ることがないだろう」と考えていると思います。

 

しかしその実、彼らは内心ひそかに、〈何かの動きがあるとすれば、それは《向こう側》の人たちからなされなければならない。そう、そうして彼らはついに自らの立場の誤りを認め、〔我々の〕正統的立場を受け入れるだろう!〉と確信しているのです。

 

また別の人々は、自分の立場に自信を持っていないために、そういう議論に参与することを怖がっているのかもしれません。

 

しかし仮にこういった種類の障害物をことごとく払いのけることができたとします。

 

その場合ですが、痛ましい分裂の傷をなんとか癒そうとへりくだりの心を持ち、且つ綿密な議論をしようと(今、この紙面上に集まってきている)指導者たちの間に横たわる教義的分裂の主要原因は結局、「この聖句やあの聖句が実際には何と言っているのか」もしくは「この聖句やあの聖句が互いにどのように関連しているのか」という事に関する意見の相違であるということが明らかになってくると思います。

 

でも最初のうち、そういった率直な対話や議論は、相違の性質を明らかにし、そういった相違がいかにその他の諸問題に絡み合っているのかという点の指摘に終始するかもしれません。

 

しかし、そういった事項が一旦、注意深く、へりくだりの精神の内に吟味され、そして、それぞれの陣営が、自分たち自身の持つ釈義的困難点を提示した後に、私たちに残される議題は、結局、「釈義的なもの、解釈学的なもの」ーー、これに尽きます。

 

そして仮に私たちの論争相手が、「確実なる決断に至るには釈義的証拠が不十分である」という地点までしか来れなかったとしても、それはそれで彼らは何か有益なものを得ることでしょう。というのも、正直に両サイドを保持しているこういった立場の存在が意味しているのは、どちらの陣営も、聖書的理由を根拠に、他を排除する権利を持っていないということだからです。

 

これまで私はそのような対話や議論の場に参与してきました。そして時には、自分の方から対話の機会を求め、彼らを探し出しました。

 

ある時には、対話が表層的なレベル以上に深まることは不可能でした。ーー感情的ハードルが高すぎたり、意見の合意に至るまでの時間があまりに膨大なもののように思えました。

 

しかし非常に有益な会話がなされる時もありました。そしてそのような時にはいつでも、「何が質の高い議論で、何が質の低い議論なのか」「何が強固な議論で、何が脆弱な議論なのか」を識別する力において、私たちは両サイド共に成長していくことができました。

 

それゆえに、釈義的誤謬に関する学びは重要となってきます。パウロが幾度となく、ピリピの信者たちに「同じ事を考えるよう, like-minded, to think the same thing, τὸ αὐτὸ φρονῆτε(ピリピ2:2)」奨励していたことを思う時、尚さらのこと、こういった学びをしようと私たちの心は鼓舞されるでしょう。

 

実に、ここでパウロが言っている勧告は、互いに忍び合いなさいという単なる「励まし」の次元を超え、神の御思いを考察する非常に重要な働きにおいて、私たちが合意と一致に向け互いに歩み寄っていくことを学んでいくようにとの要求なのです。

 

そしてこれが、知力を尽くし神を愛していくキリスト者の訓練の一環であることは言うまでもありません。

 ーーーーー

*1:時として、驚くべき盲点により、人はこの点を見ることができなくなっています。かれこれ20年ほど前になりますが、車の中に同乗していたある同胞の兄弟の方が、「今朝のデボーションで主が『語って』くださったこと」について私に語ってくれました。

 

彼は欽定訳でマタイの福音書を読んでいました。しかし私が察知したのは、彼はその聖句で使われているKJVの古英語を誤解しているだけでなく、KJVのその箇所における訳の仕方はギリシャ語原典をやや不正確に伝えているという事でした。

 

そのため私は丁寧に、その聖句を理解する別の受け取り方があることを述べ、その釈義の要旨を彼に伝えました。しかし彼は、「あなたの見解を受け取ることは不可能です」と言い、その理由として、「聖霊様は偽ることのできない方です。そしてその聖霊様がこの事項に関し私に真理を語ってくださったからです」と言いました。

 

当時まだ勢い盛んな若者だった私は、さらに大胆に話を進め、文法、文脈、そして翻訳の観点から彼に説明を試みました。しかし私のそういった説明は、1コリント2:10bー15(「御霊のことは御霊によってわきまえる」)への言及によってあっさりはねのけられ拒絶されてしまいました。

 

そこで私は純粋な探求心から彼に訊ねてみました。「兄弟。もしも私が、文法や聖句本文をベースにしてではなく、『私が推進しているこの解釈は、主ご自身が私に与えてくださったものです』という理由をベースにあなたに先ほどの釈義を提示していたら、あなたはどう応答していたと思いますか?」すると、彼は長い間、じっと考え込んだ末、次のように答えました。「その場合、私は、『聖書は、異なる人々にさまざまな異なる事を語る書である』ということを聖霊様が言っておられるという風に受け取ると思います。」

*2:Robert K. Johnston, Evangelicals at an Impasse: Biblical Authority in Practice (Atlanta: John Knox, 1979), vii-viii.

*3:訳者注:著者の言う、福音主義教会内の「気恥ずかしい混沌・無秩序状態」というのが、たしかに、外部の人々に対しても良い証になっていない事は、以下のような文章からも痛切に感じられます。「信徒に聖書を読ませず、ただ教会のいうなりにされていたことに対して、〔プロテスタント〕宗教改革者たちは正しくも反論したのですが、ふりこの錘と同じで、反対し過ぎてしまい、中庸を保てませんでした、、、一口でいえば、『自由』がプロテスタントの本質です。だからこそ、様々な主義主張がなされ、対立し、多くの派に分かれています。まるで細胞分裂するかのように分派し、今では数百から数千もの教派があると言われています。つまり『プロテスタント』という一つの教会があるのではなく、色々な教派の教会をひっくるめてそう呼ばれているのです。」(「正教会の歴史」より)