巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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「私の視点」と「もう一つの別の視点」ーーギリシャ正教会の国で生きる少数派プロテスタント教徒として

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巨大な岩の上に建つメテオラ修道院群

 

2015年の国勢調査によると、ギリシャ共和国に占める正教徒(greek orthodox)の割合は90%です。ウィキの統計によると、ギリシャ国内の福音派は3万人、聖霊派も3万人位だとされていますので、全人口比(1080万人)でみますと、プロテスタント教徒の割合は約0.6%だということになります。

 

この国では、ギリシャ正教徒が、正教会で結婚すると、「教会婚」と法律で認められます。他方、私たちのようなプロテスタント教徒が、プロテスタント教会で結婚しても、それは「教会婚」とは認められず、あくまで「民事婚」止まりです。

 

また、圧倒的少数派の持つ宿命でしょうが、「非オーソドックス=異端=エホバの証人」と十把ひとからげに括られることもままあります。

 

(しかし、こういった現象はある意味、仕方がないと思います。例えば、北東イラクや西部イランには、Alī-Allāhī〔アリー・アッラーヒー〕というイスラム教の少数派が存在します。彼らの信仰の特徴の一つは第4代正統カリフでシーア派の初代イマームであるアリー(656-661)の内に神性を認め、彼に追従していこうとしている点にあります。(シーア派正統派神学の中における「アリー・アッラーヒー」の位置づけは、福音主義正統派神学の中における「ワンネス・ペンテコステ派」の位置づけに少し似ているかもしれません。)

 彼らはおそらく『私たちは多数派イスラム教シーア派内にあって自分たちこそ真の正統派だ』と確信していると思いますが、イスラム教に余り詳しくない外部者の目からみたら、スンニ派も、シーア派も、アリー・アッラーヒーも、所詮、皆『イスラム教じゃない?』と十把ひとからげに括ってしまう場合が多いと思います。

 ですから、圧倒的多数派であるギリシャ正教徒のみなさんの目から見て、プロテスタントもエホバの証人も、所詮、皆『使徒的継承を持たない非正統派グループじゃない?』と十把ひとからげに括られるのはある意味、十分に理解できることです。)

 

また近年、西方のカトリック教会は教皇を中心に組織的エキュメニカル運動を推進していますが、東方ギリシャ正教会の大勢は、こういった動きに非常に懐疑的です。

 

この前、エジプトのプロテスタント教会の牧師さんとお話する機会がありましたが、エジプトでは、プロテスタント教会とコプト教会の間で地域的つながりがあったり、指導者間の親交や協力関係があると聞き、驚きました。

 

どんなに想像力を膨らませても、ギリシャ正教会が、プロテスタント教会と何か合同のプログラムを企画したり、協働したりする姿を思い浮かべることができません。それは、主流プロテスタント教会が、エホバの証人や統一教会の人々とジョイント礼拝を企画したり、協働したりする姿を思い浮かべることができないのとちょうど同じような感じです。

 

(エジプトではクリスチャンが少数派であるという宗教的ポジションが、両派の親交や部分的歩み寄りに影響をもたらしているのではないかと想像します。)

 

それでは、このような位置に置かれている少数派プロテスタントの状況というのは、嘆かわしいものなのでしょうか?人により意見はさまざまだと思いますが、私はこの状況を比較的明るくポジティブに捉えています。そしてこの記事では、主として、少数派に与えられている積極面をお分かち合いできたらと思います。

 

常に「もう一つの別の視点」を意識することができる

 

教理を調べる際、ほとんど無意識にと言っていいほど、自分たちプロテスタントの方をぎっと睨み付けている(笑)「正教会の視点」を私は意識します。

 

また、正教会は、メテオラのあの壮大な岩山の如き威厳と確信をもって、「私たちこそ、使徒的継承(apostolic succession, Αποστολική διαδοχή)を持つ正統かつ歴史的キリスト教会である」と堅く信じており、そのため、教理における「使徒的歴史性」という点を非常に重要視しています。

 

また、いい意味でも悪い意味でも、正教会の神学は「安定」しており、基本的に、中世も今日も彼らの神学に真新しい変化はなく、真新しい教えもありません。

 

(真新しい教えは入ってこれません!ですから例えば、正教会の門はプロテスタント神学に対してだけでなく、フェミニズム神学やリベラル神学に対しても堅く閉ざされており、入らせる隙を見せていません。事の善悪は別としてですが、アトス山修道院群は中世も今も、「女性禁山」のポリシーを貫いており、最も強靭なフェミニストが千人がかりで押しかけても彼らは全く動じないだろうと予測されます。)

 

ですから、(私の視点から見て)正教会は、よく言えば堅実、悪く言えば、頑固なのかもしれません。ところでみなさんは、《頑固な人》、好きですか?私は、案外、頑固な人を好ましく思っています。頑固な人は岩のような人です。強靭な意志と意見を持ち、少々の事では変節したりギブアップしたりしません。

 

こういう人は《ポストモダン的紳士》ではなく、また、多くの場合において、「相対主義」から最も離れたポジションに立ちはだかっている武人であり豪士です。その凄みゆえに、大多数の人からは丁重に敬遠されますが、それが彼が彼である所以であり、如何ともしがたい宿命であり、こうして今日も彼は一人そこに立っています。

 

しかしまた、《頑固な人》は潔く方向転換する謙遜さをも持っていると思います。そういった意味でも、ギリシャ人の福音派・聖霊派の牧師たちの多くは、「この国に宗教改革のリバイバルが興るとしたら、それは、新生した正教会のしもべたちを通してであろう」と予測しています。

 

輪郭のはっきりした隣人を持つことのチャレンジと利点

 

「あなたにはあなたの信仰のあり方があっていい。神さまは心の広い方だから、いろんな宗派のいろんな信仰のあり方を受け入れてくださる。」という《寛容な》人を隣人に持つか、それとも、「はっきり言って、あなたの信仰のあり方は間違っています。私の信仰のあり方こそが使徒的・歴史的・正統的なのです」と喝破する強烈な人を隣人に持つかは、全能なる神の采配の下にあります。

 

そして神の采配の下、私の人生には、後者の《強烈なる隣人》が与えられました。こういう隣人は輪郭がはっきりしているので、自然、こちらもまた、自分自身の輪郭を確かめ、それをはっきりさせなければならない緊迫した状況に置かれます。

 

ここで架空の話をします。例えば、みなさんの家の隣人が、何を思ったのか、ある日、「私はベジタリアンです」と書いた巨大な立て看板を彼の家の玄関口に立てたと想像してみてください。「ふーん、彼は菜食主義者なんだぁー」とみなさんは思うことでしょう。

 

しかし翌日、看板を見てみると「私はベジタリアンです。そしてこれだけがキリスト者として唯一正しい食生活のあり方です」と書き足してあるではありませんか!さあ、そうなると話は違ってきます。彼はその言明によって、彼自分のポリシーを表明しているだけでなく、(ベジタリアンではない)キリスト者としての私やあなたのあり方が『間違っている』ということを暗に宣言しているのです。

 

そうなると私はもう《寛容》ではいられなくなります。彼が彼自身の見解の正当性を主張しているのと同じ強さで、私は自分の非ベジタリアン性が、「聖書的に何ら問題ではない」いや、それどころか、「『肉を絶て、結婚するな』という教えこそ、パウロが1テモテ4章であれほど強く批判していた異端の教えだ」という事を意識せざるを得なくなります。

 

私はそそくさと家に戻り、1テモテ4章を詳しく調べ始めます。そしてグノーシス主義の危険性を説いた論文なども参照するかもしれません。

 

しかし、、、彼の看板は立ったままです。彼にそれを取りはずす気配は全くありません。彼は岩です。頑固者です。そしてくる日もくる日もあなたはその看板文字の(理に適わない!)「裁き」のメッセージを背に受け止めつつ、家路に着かねばなりません。

 

それでは彼は私やあなたにとって「迷惑で」「嫌な」隣人なのでしょうか。彼が「善い」隣人であるかは分かりません。でも少なくとも彼のその強烈さのおかげで、私は1テモテの手紙を以前よりもずっと真剣に読むようになりました。

 

彼のおかげで、私は使徒教父の文献をひもとき、教父たちがグノーシス主義の二元論に対しどのように論駁していたのかを調べるようになりました。さらに、彼のその主張をきっかけに、旧約聖書の食物規定の箇所なども、以前以上に注意して読むようになり、なぜ新契約の下ではそれが無効になったのか、その根本理由を探求するようになりました。

 

そうなるとどうでしょう?彼自身の意図やあり方がどうであれ、全能の神のご計画の中で、彼のその存在、そしてその主張そのものまでが、究極的には私の信仰の成長を助け、神を知る知識を豊かにする媒介となったわけです。その意味で、彼は私にとって「善い」隣人なのかもしれません。(きっとそうだと思います。)

 

おわりに

 

数年前に、正教会のある神学生の方が、私に向かい「あなたがたプロテスタント教徒は、教父の著作を読みませんよね。なぜですか?」と批判して来られました。

 

その時、私は心の中で、「私たちはそういった人間の書物や伝統に依拠しているのではなく、『聖書のみ』の真理に立っている。そういうあなたたちこそ、教父や伝統に依拠してばかりいて、聖書の真理に立てていないと思う。」とこの方を批判する思いになりました。

 

しかし歳月の経過と共に、私のその初期の見解は修正されるようになりました。そして、「私たちプロテスタント教徒は、聖書のみに依拠し、聖書を帰納的に『素直に』『偏見眼なく』読んでいるけれども、その他の宗派の人々は何らかの形で『伝統』や宗派的『偏見』に縛られている」と考えるのは、あまりにも「井の中の蛙」的、近視眼的見方だったと反省するに至りました。

 

正教徒の人々は確かに大バシレイオスといった教父や全地公会議(First seven Ecumenical Councils)に大いに依拠していることでしょう。

 

それでは私たちプロテスタント界には、「教父」はいないのでしょうか?私たちの内には、人間的「伝統」は皆無なのでしょうか?

 

私たちの内輪では、あるいは「そんなものはない。私たちには聖書の権威だけがある。」と答えることができるかもしれません。でも外部の厳しい目からみるなら、私たちにもまたルターや、カルヴァン、アウグスティヌスといった大御所、プロテスタント版の「教父たち」がいると指摘(批判)されても仕方がない部分があると思います。

 

ですから、問われるのは結局、私たちの立つ宗教改革神学の基盤、それがはたして使徒性・歴史性・正統性を持つのか否かという点なのだと認識するに至りました。

 

そして事実、「プロテスタント教は、使徒的キリスト教ではない」という見解を持つ強烈な隣人を持てたおかげで、私は真剣に使徒教父の文献を読むようになりました。「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。」(箴言27:17)

 

私たち一人一人の人生に最善のものを提供してくださる全能なる主の御計らいに感謝します。読んでくださってありがとうございました。