目次
Daniel B. Wallace, The Basics of New Testament Syntax, 2000, p.17-23まで拙訳
聖書写本の研究にいそしむウォーレス博士、ダラス神学校新約学、News - CSNTM
はじめに
この章における私たちの目的は二つあります。①新約聖書ギリシャ語が、ギリシャ語の歴史の中のどこに位置しているのか(通時的学び)、そして②新約聖書ギリシャ語それ自体に関わるいくつかの事項をみていくことです(共時的学び)。
ギリシャ語の諸段階〔通時的〕
ギリシャ語には大きく分けて5つの大きな段階があります。
1.ホメロス以前(BC1000まで)
BC3000年頃までには、インド・ヨーロッパ語族に属する諸部族が、ギリシャに入り込んでいました。残念なことに、この時代の文献がほとんど残っていないため、この時期のギリシャ語についてはよく分かっていません。
2.諸方言の時代、ないしは古典期時代(BC1000~BC330)
地理的・政治的な要因(例:独立した都市国家など)により、ギリシャ語はいくつかの方言に別れました。その中でも次に挙げる4つが有力でした。アイオリス方言、ドーリス方言、イオニア方言、アッティカ方言。そしてさらにこの4つの中でもアッティカ方言が圧倒的に優勢でした。
ギリシャ語方言の分布図 (File:Greek-dialects-mod.jpg - Wikimedia Commons)
アッティカ方言は、実は、イオニア方言の子孫に当たり、古典期ギリシャ(BC5-4)の「黄金時代」、ギリシャの政治的・文芸的中心地であったアテネで話されていた方言でした。尚、アッティカ方言は、多くの場合、古典ギリシャ語と同一視されています。
3.コイネー・ギリシャ語(BC330-AD330)
コイネーは、アレクサンダー大王の征服により誕生した言語です。*1そもそもの起こりは、アテネやその他、ギリシャのさまざまな都市や地域から召集されていたアレクサンダー大王の軍隊の兵士たちが、互いに意思疎通を図らなければならなくなったことに始まります。
こうした相互の密接な接触により、「人種のるつぼ」的ギリシャ語が生じました。こうして訛りの強い幾つかの方言は不可避的に「やわらかく」され、その他の方言間の微妙な区別などが次第に喪失していったのです。
また、征服された諸都市や植民市の人々は、ギリシャ語を第二言語として学びました。こうして、AD1世紀までには、ギリシャ語は、地中海全域を超える広範囲な地域の世界共通語(lingua franca)となっていました。
ほとんどのギリシャ語話者がそれを第二言語として学んでいたことにより、さらに方言差が消失していき、明瞭さ・分かりやすさが増し加わっていきました。
上の地図は、ヘレニズム期(BC323-31)、ギリシャ語が話されていた地域を示しています。濃い青の部分⇒ギリシャ語話者が大多数を占めていたと考えられている地域。薄い青の部分⇒ヘレニズム化していた地域。(参照:Koine Greek - Wikipedia)
4.ビザンティン(もしくは中世)ギリシャ語(AD330-1453)
ローマ帝国が東西に分裂した際、ギリシャ語は国際語(Weltsprache)としての地位を喪失しました。こうして西側(ローマ)ではラテン語が、そして東側(コンスタンティノープル)ではギリシャ語が使われるようになりました。
5.現代ギリシャ語(1453年から現在まで)
1453年、コンスタンティノープル陥落
1453年にトルコ人たちがビザンティン帝国を侵略したことにより、ギリシャ語はもはや他から切り離された孤立語ではなくなりました。
戦火を逃れ、ビザンティン帝国を脱出した学者たちは腕にギリシャ古典作品を抱え、西側に亡命していきました。その結果、西側でルネサンスが興りました。
またその後、エラスムスやルターといったクリスチャンの学者たちが新約ギリシャ語聖書の写本の存在に気づいた事をきっかけとして、北ヨーロッパに宗教改革が起りました。
こうしてギリシャ語自体は東方世界の外に出て行ったのですが、ヨーロッパは東方世界に入ることはありませんでした。つまりどういう事かと言いますと、古典ギリシャ文学の写本がついにヨーロッパを暗黒時代から引き出した反面、ヨーロッパはその生ける言語に対し何らインパクトをもたらさなかったのです。
その結果、「現代ギリシャ口語は、実質的にビザンツ期の口語体と変わらず、それゆえ、現代ギリシャ語口語体は、口語コイネー語とダイレクトなつながりを持っています。*2」実にギリシャ語はこの3000年の間、英語の1000年間よりも変化の度合いが低いのです!
今日、ギリシャ語には二つの種類があります。カサレヴサ(καθαρεύουσα=‟文芸語”)とディモティキ(δημοτική=‟民衆語”)です。
前者のカサレヴサは、実のところ、言語の歴史的発展形ではなく、いわゆる「本のギリシャ語」です。つまり、「かつてのあの輝かしいアッティカ方言を現代に復活させよう!」との人工的試みによりできた言葉です。
1977年以降、ディモティキがギリシャ共和国の公用語になりましたが、ディモティキはそのルーツを直接、コイネー・ギリシャ語に持っています。*3
コイネー・ギリシャ語〔共時的〕
1.術語
コイネー(Κοινή)というのはκοινός(共有の、共通の)という語の女性形形容詞です。コイネー・ギリシャ語の類義語は、「共通」ギリシャ語、もしくはヘレニズム期ギリシャ語です。新約聖書ギリシャ語も、70人訳(LXX) ギリシャ語も共に、コイネーの基層言語だとみなされています。
2.歴史的発展
次の2点は、ヘレニズム期ギリシャ語に関する興味深い歴史的事実です。
☆古典ギリシャ文学の黄金時代は、事実上、アリストテレスの死をもって終焉を迎えました(BC322)。前述しましたように、コイネー・ギリシャ語はアレクサンダー大王の制覇をもって誕生した言葉です。
軍隊内でのさまざまな方言の混合と接触を通し、「平準化」が進み、それと同時に、〔征服の結果としての〕ギリシャ植民市の各地出現により、ギリシャ語は普遍的性質を帯びるようになっていきました。
☆コイネー・ギリシャ語は主としてアッティカ方言から発達してきました。というのも、それがアレクサンダー大王の母語だったからです。しかし、それだけでなく、大王付属の軍隊内にいた兵隊たちの話すその他の諸方言からも影響を受けています。
「ヘレニズム期ギリシャ語は、強固なマイノリティー(アッティカ方言)と、より脆弱な多数派(その他の諸方言)が歩み寄った結果生じた語だといえます。」*4そのようにして、この語は、民衆にとってより馴染みやすい言葉となりました。
☆コイネー・ギリシャ語はAD1世紀までに、ローマ帝国全域に渡る共通語(lingua franca)となりました。
3.コイネー・ギリシャ語の範囲
おおざっぱに言って、コイネー・ギリシャ語は、BC330~AD330まで存続しました。--つまり、アレクサンダー大王からコンスタンティヌス帝まで、です。
BC322のアリストテレスの死をもって、生きた言葉としての古典期ギリシャ語は廃れていきました。コイネー・ギリシャ語の最盛期は、BC1世紀、そしてAD1世紀です。
その言語史の中において唯一この時期、ギリシャ語は普遍化(universalized)されました。アレクサンダー大王の死後も、植民市は成長し続け、その結果、外国の地においてもギリシャ語は普及し続けました。BC1世紀にローマが覇権を握った後でさえ、ギリシャ語の勢力範囲はさらに遠く外国の地に伸び続けました。
さらにローマが絶対的な支配権を掌握した時でさえ、ラテン語はリンガ・フランカ(共通語)ではありませんでした。こうしてギリシャ語は、少なくとも1世紀の終わりまでは、普遍語として存在し続けたのです。
2世紀以降、ラテン語が次第にイタリア半島(の民衆の間で)でギリシャ語を凌ぐようになり、コンスタンティノープルがローマ帝国の首都になると、西方においてもラテン語が優勢になりました。ですから、ほんのしばらくの間、ギリシャ語は普遍語だったわけです。
4.古典期ギリシャ語からの変遷
一言でいいますと、ギリシャ語はよりシンプルになりました。形態論の観点でいうと、いくつかのアスペクトを失い、難解な諸形態を、より頻繁に見られる型に同化させていきました。
また文章も、より短くなり、簡素化されました。また構文論的技巧のいくつかは失われ、あるいは衰退していきました。こうして古典ギリシャ語の正確さ・精巧さが、明示性(分かりやすさ)に置換されていきました。*5
5.コイネー・ギリシャ語の種類
コイネーには、少なくとも3つの異なる種類があります。①口語体、②文芸体、そして③会話体です。4番目の、アッティカ主義体(Atticistic)ですが、これは、本当に人工的であり、無理矢理に、かつての古典期〈黄金時代〉にUターンしようという試みの下に作り出されています。
a. 口語体、民衆体 (vernacular or vulgar)(例:パピルス、陶片)
これはいわば界隈で話されている、一般民衆の言葉です。これは主としてエジプトで発掘されているパピルス文書の中に見い出されます。この語こそ、まことにその当時の共通語でした。
b. 文芸体 (literary)(例:ポリビウス、ヨセフス、フィロン、ディオドーロス、ストラボン、エピクテトゥス、プルータルコス)
より洗練された形のコイネーであり、学者、文芸家、歴史家たちの使っていた言葉です。口語体コイネーと、文芸体コイネーの違いは、街でがやがや話されている英語と、高等教育機関で話されている英語の間の違いのような感じです。
c. 会話体 (conversational)(新約聖書、いくつかのパピルス文書)
会話体コイネーは、主として、教育を受けた人の話し言葉(spoken language)です。これは大体において文法的に正しいのですが、文芸体コイネーと同じレベルというわけではありません。(会話体コイネーの方がより明白。より短い文で構成。〔接続詞を用いず〕並列表現がより多いと言えましょう。)
そしてこれは「会話体」なので、その性質上、これに類似するような同時代の関連文献を見い出すことは難しいです。つまり、(比較的無教養な人々の書き言葉である)パピルス文書の内にも、そして(「話し言葉」ではなく「書き言葉」で執筆している)文芸家たちの作品の内にも、この会話体コイネーとパラレルなものを見い出すことは困難です。
d. アッティカ主義体 (Atticistic)(例:ルキアノス、ハリカルナッソスのディオニシオス、ディオン・クリュソストモス、アリステイデス、プリューニコス*6、モエリス)
これは言語の(自然的)変遷について考慮をしていない文学者たちが復活させた人工語です。
(これはもしかしたら、今日の「欽定訳(KJV)だけが唯一の正統な英訳聖書である」との主張に相通じているかもしれません。こういった主張をする人々は、KJVが、シェークスピア時代という英語史における絶頂期の英語であるという点にこだわりを持っています。)
新約聖書ギリシャ語
新約聖書ギリシャ語の性質に関してですが、ここには二つの異なる、(しかし互いに関連している)問いがあります。①1世紀のパレスティナ地方では、どのような言語が流通していたのか?②新約聖書ギリシャ語はコイネーのどこに適合しているのか?
1.パレスティナの言語環境
AD1世紀のパレスティナ地方では、アラム語、ヘブライ語、ギリシャ語が用いられていました。しかしそれぞれの言語がどれくらい日常的に使われていたのかについては議論があります。
ですが現在の学界の動向としては、イエスの時代ーーそしてイエスの公生涯の期間であってさえもーーパレスティナ地方では、ギリシャ語が主要な言語であった、とみる学者たちが増加してきています。まだ少数派の意見ではあると思いますが、この見解には確かに多いに称賛されるべき点があり、支持者が増えていっています。
2.ヘレニズム期ギリシャ語の中における新約聖書の言語の位置づけ
1863年、J・B・ライトフットは、パピルス文書の大いなる発見を予測し、次のように言いました。「もしも我々が、ーーそれらを文芸的だと考えずーー一般の民衆が互いに書き合っていた手紙類を回復することさえできるのなら、新約聖書の言語理解に最大規模の助けが得られるに違いない!」*7
それから32年後ーー。1895年、アドルフ・ダイスマンが、bibelstudienという素朴なタイトルの一冊の本を出版しました。そして、それにより、一大旋風が巻き起こされ、新約学に空前の革命がなされたのです。
この本(後にBible Studiesという題名で英訳されました)の中で、ダイスマンは、新約聖書のギリシャ語というのは聖霊により創作された言語ではないことを示しました。
(ヘルマン・クレーマーは聖書ギリシャ語のことを『聖霊のギリシャ語』と呼んでいました。それは新約の語彙の10%がその他の世俗文献に見い出されない種類のものだったことに起因しています。)そして、新約語彙の大部分がパピルス文書の中に見い出されることを実証したのです。
ダイスマンの著書のこういった効果により、それ以前に書かれた殆どすべての事典や語彙註解書の類がもはや陳腐なものになり果てました。(1886年に出版されたセイヤーの辞書は、出版後まもなく時代遅れのものになりました。ーーそれにもかかわらず、皮肉なことに、この辞書は今日でも、新約を学ぶ多くの人々の拠り所となっています。)
そして次にはジェームズ・ホープ・ムールトンが、ダイスマンの外套を身に着け、新約とパピルス文書の間の、構文論および形態論におけるパラレル関係を表示しました。
James Hope Moulton (1863-1917)
つまり、ダイスマンが辞書学の分野で為したことを、ムールトンは文法の分野でやってのけたわけです。しかしながら、ムールトンの主張は説得力ある立証というところまではいきませんでした。
新約ギリシャ語の性質を考察するに当たっては他にもいくつか方法が存在します。以下それを挙げてみます。
a. スタイルと構文論(syntax)の間の区別
構文論とスタイルの間には区別がなされなければなりません。構文論というのは筆者にとり、外的ななにかです。ーーつまり、ある共同体の基礎的な言語的特性であり、それなしにコミュニケーションは不可能であるところのものです。
他方、スタイルというのは、書き手にとって、内的ななにかです。例えば、ある筆者が、ある特定の前置詞や等位接続詞(例えば、καί)を使う頻度というのは、スタイルに関わる事項です。
(例えば、古典期アッティカの作家たちは、コイネー期の書き手に比べ、前置詞や等位接続詞をより少なく用いていますが、それは、『シンタックス(構文論)が変わった』という事を意味してはいないのです。)
b. コイネー・ギリシャ語のレベル
前述しましたように、新約ギリシャ語は、パピルス文書のレベルとも違い、(大部分において)文芸体コイネーのレベルとも異なっている、会話体ギリシャ語です。
c. 多角的であって、直線的ではない
ここで言及されるべき事柄は、文法やスタイルだけにとどまりません。語彙もまた、非常に重要な基盤をなしています。その意味でも、ダイスマンは、新約ギリシャ語の語彙ストックがその大部分において、口語体コイネーの語彙ストックと同じであることを見事に例証しました。
私たちが確信しているのは、新約聖書の言語は、①スタイル、②文法、③語彙という3つの柱(poles)に照らし考察されなければならないのであって、その内のどれか1つだけに依拠してはならない、ということです。
大体において、スタイルはセム語的であり、構文論は(アッティカ方言の子孫である)文芸体コイネーに近く、語彙は口語体コイネーです。しかしもちろん、これらは常にきちんと分離できるわけではありません。三者間の関係は次のように図式化することができるでしょう。
d. 多数の著者性
それからもう一つ別の要素も考慮されなければなりません。それは、新約が複数の著者によって執筆されたという事実です。
幾人か(例:ヘブル書、ルカの福音書の著者、それから時々パウロ)は、文構造の中に文芸体コイネーを取り入れようとしており、その他の著者たちは、それよりはずっと低空を飛行しています(例:マルコ、ヨハネ、黙示録、2ペテロ)。
従って、新約ギリシャ語を、一本調子のモノトーンで語ることは不可能です。新約聖書の言語は、「他に類をみないユニークな言語」でありません(それはヘブル書や黙示録をざっと見ただけでも明らかです)。しかし同時に、それは、パピルス文書の如く、全てを同じレベルに括ることができるような言語でもないのです。
幾人かの新約記者たちにおいては、確かに彼らがギリシャ語を母語としていた形跡がみられます。他方、別の著者たちはバイリンガル環境で育ったと考えられます。(おそらくアラム語の後にギリシャ語を学んだと思われます。)また、成人後にギリシャ語を習得した著者たちもいるかもしれません。
e. いくつかの結論
新約ギリシャ語に関する事柄はいくぶん込み入っています。私たちは本書での見解を次のようにまとめることができると思います。
☆大部分において、新約聖書のギリシャ語は、その構文論において会話体ギリシャ語でした。ーーそしてこの会話体は、文芸体コイネーの洗練性や文構造よりは下にありましたが、ほとんどのパピルス文書の中に見い出されるレベルよりは上です。(もちろん、時として、セム語系の介入が構文論の中にもたらされることはあるでしょうが。)
☆他方、スタイルにおいては、それは大部分、セム語的です。つまり、新約記者のほとんどがユダヤ人であり、彼らの書き方のスタイルは、彼らのその宗教的遺産および言語学的背景によって形成されているということです。
さらに、新約聖書のスタイルは、彼ら全員が一つのことを共有していたことにも起因しています。そうです、それはイエス・キリストに対する信仰です。(これは、二人のクリスチャンの教会内での会話と、職場での会話に類比できるかもしれません。教会と職場とでは、言語学的スタイルや語彙にある程度違いが生じるでしょう。)
☆しかし新約の語彙ストックは、同時代の一般的パピルス文書と大部分を共有していると考えられます。また、時として、それは七十人訳(LXX)やキリスト者としての経験に非常に影響されています。
☆個々の著者
新約記者たちの文芸的レベルの領域は次のように表示することができるかもしれません。
セム語的/民衆的
黙示録
マルコの福音書
ヨハネの福音書、1-3ヨハネの手紙
2ペテロの手紙
会話体
パウロの書のほとんど
マタイの福音書
文芸体コイネー
ヘブライ人への手紙
ルカー使徒の働き
ヤコブの手紙
牧会書簡
1ペテロの手紙
ユダの手紙
ー終わりー
*1:訳者注:それゆえ、現代ギリシャ語では、コイネーのことを、Αλεξανδρινή Κοινή(=アレクサンダーのコイネー:現地の発音では、〔アレクサンドリニー・キニー〕と呼んでいます。
*2:Robertson, A.T. A Grammar of the Greek New Testament in the Light of Historical Research, 4th ed. New York: Hodder & Stoughton, 1923, p.44
*3:訳者注:現代ギリシャ史の中で、カサレヴサ vs ディモティキの間の抗争は、いわゆる‟言語問題”(Γλωσσικό Ζήτημα)さらには、国家ナショナリズムに絡む政治問題として内紛の種となってきました。詳しくは、村田奈々子著『物語近現代ギリシャの歴史ー独立戦争からユーロ危機まで』中公新書の中の、第3章「国家を引き裂く言語」1.言葉が人の命を奪うとき、2.ふたつのギリシャ語、3.ディモティキの浸透の項をご参照ください。*現代ギリシャ語での参考資料:Γλωσσικό ζήτημα - Βικιπαίδεια,それから、Το Ελληνικό γλωσσικό ζήτιμα
*4:Moule, C.F.D. An Idiom Book of New Testament Greek. 2nd ed. Cambridge University Press, 1959, p.1.
*5:訳者注:アテネ大学言語学科のニコス・パンデリディス教授が、「ヘレニズム期コイネー・ギリシャ語の形成(Νίκος Παντελίδης. Δημιουργία της ελληνιστικής κοινής (2007))」という論文をネットに公開しています。彼の専門は元々、古典期から現代に至るギリシャ語音韻史ですが、この論文の中では音韻の変遷だけでなく、形態論の観点からも古典期ギリシャ語とコイネー・ギリシャ語の間の相違について詳しい解説がなされています。
*6:訳者注:2世紀のビシニアの文法家でありアッティカ主義者であったプリューニコス(Φρύνιχος ὁ Ἀράβιος)は、新約聖書のギリシャ語が「ちゃんとした高尚な古典期ギリシャ語」に比べ、がさつで粗野であることに苛立ちを覚えたのでしょう、マタイ15章16節の「ἀκμήν(まだ)」という語にケチをつけ、次のように書いています"Ἁκμήν ἁντί τοῦ ἒτι...σύ δέ φυλάττου, λέγε δέ ἒτι."(「ἒτιではなくἀκμήν〔と書いてある〕。しかし、君は今後もἒτιと言いたまえ!」(出典: Φρύνιχος, Ἐκλογή ῥημάτων καί ὁνομάτων ἀττικῶν, p.203).また、プリューニコスは、新約聖書の中に頻繁に出てくる「πάντοτε(=いつも)」という表現も本来あるべき正統的ギリシャ語ではないと考えました。そうしてちょっと怒った様子で次のように書いています。〔マタイ26:11の冒頭で使われているπάντοτεに言及した後〕"Πάντοτε μή λέγε, ἀλλ' ἑκάστοτε καί διαπαντός."(Πάντοτεなどと言ってはいけない。しっかり、ἑκάστοτεあるいはδιαπαντόςと言うべきである!)(同著、p. 358) 参照:ΜΠΑΜΠΙΝΙΩΤΗΣ, Γ. 2002. Συνοπτική ιστορία της ελληνικής γλώσσας, 5η έκδ. Αθήνα, "Πηγές τής Αλεξανδρινής Κοινής"の項, p.119.
*7:Moulton, J.H. A Grammar of New Testament Greek. Vol.1, Prolegomena. 3d ed. Edinburgh, 1908, p.242の中での引用。