巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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新約聖書はどのように旧約を用いているのか?(by E・アール・エリス)

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目次

 

Earle Ellis, How the New Testament Uses the Old, chapter 12, sec.II, The Presuppositions of New Testament Interpretation (pp.209-219 抄訳)

 

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E.Earle Ellis (1926-2010)、南西バプテスト神学校、主著 Paul’s Use of the Old Testament, Eschatology in Luke, The Old Testament in Early Christianity, Sovereignty of God in Salvation等。

 

新約聖書解釈における諸前提

 

1.概要

 

ユダヤ人読者だけでなく、多くのキリスト信者にとっても、新約聖書の「旧約解釈」は一見して、なにかとても恣意的なものに思われます。

 

例えば、ホセア1:1(「わたしの子をエジプトから呼び出した。」)は、イスラエルの出エジプトの体験を言及したものです。それなのに、どうしてマタイ2:15はそれをイエスのエジプト滞在に適用しているのでしょうか?また詩篇8:4ffで、「人の子」(ben-'adam)に「栄光」と「誉れ」が与えられているという箇所はアダムもしくはイスラエルの王を暗示しています。*1

 

それなのに、どうしてヘブル2:8fおよび1コリント15:27ではこの聖句をイエスに適用させているのでしょうか?

 

また、もしも創世記15:6および2サムエル7章がイスラエルの将来に関する予測であるのなら、どうして新約記者たちはそれらの聖句を、イエスや、それからーーユダヤ人や異邦人を含めたーーイエスの弟子たちを言及するものとしているのでしょうか?

 

前項で述べましたように、こういったクリスチャンの旧約聖書解釈を弁明すべく用いられているメソッドは聖書本文を釈義するための真剣にして一貫した試みを表しています。

 

もちろん、メソッド自体は批判されるかもしれません。しかしながら、現代私たち用いている歴史批評的メソッドもまた欠けがあり不十分です。ーーつまり、歴史批評的メソッドは、ある種の諸解釈が誤っていることを示すことはできるかもしれませんが、このメソッドでは、結局、どの聖句に関しても実質上、合意された解釈をもたらすことができないのです。

 

「メソッド」というのは生来的に、限定された手段(instrumentality)であり、それは、解釈という技術(art)の二次的段階に位置しています。

 

むしろそれ以上に基礎をなすものは、視点(perspective; 観点、展望、総体的見方、大局観)および諸前提(presuppositions)であり、解釈者はこれらを付随しつつ聖句に接近しています。

 

新約記者たちが旧約を解釈する視点は、時に明確に言明されており、時に、彼らの使用の仕方から推察することができます。

 

それは一部分において、同時代のユダヤ的諸見解から引き出されており、他の一部分において、イエスの教えおよびイエスの復活のリアリティー経験から引き出されています。

 

キリスト論的フォーカスを除けば、それは主として次の4つの要素に影響を受けているように思われます。すなわち、歴史、人、イスラエル、そして聖書に対する特定の理解です。

 

2.歴史としての救済

 

イエスと弟子たちは、歴史を、ーー「この時代」および「来たるべき時代」というーー二時代の枠組みの中で捉えていました。*2

 

この視点は、その元となる背景を旧約の預言者たちに持っていると考えられます。彼ら旧約預言者たちは、「終わりの('ah rit)日」、「主の日」を、神の民の究極的贖いの時および彼らの敵の破滅として預言しました。*3

 

そしてこれは終末論的(黙示的)記者たちの記述においてより具体化されます。彼らは、宇宙的次元、そして(しばしば)贖いの切迫を強調し、そして、二時代の教理(the doctrine of two ages)により、現時代と来たるべき時代との間のラディカルな相違を強調しました。

 

こういった見地は、「天の御国が近づいた」、そして、「後に来られる方(イエス)は、最後の審判および国の贖いを成し遂げてくださる」というバプテスマのヨハネの使信の中にも明確に現れています(マタイ3:2、10ff)。

 

黙示的ユダヤ教の教義を特徴づけている「審判」と「解放」という二重の完成(two-fold consummation)は、イエスおよび弟子たちの教義の中で、二段階の完成(two-stage consummation)となります。

 

つまり、「解放」としては、ユダヤ教が時代の終わりに予期していた神の国が、イエスのご人格と御業の中ですでに現前しているとみなされています。*4

 

そして「審判」(および究極的解放)としては、神の国は、メシアの栄光に満ちた二度目の顕れを待っています。*5こういった視点は、プラトン主義および黙示的ユダヤ教と次のように対比されるでしょう。

 

①プラトン主義(およびグノーシス主義)

 

永遠

時間

 

②ユダヤ教

この時代     来たるべき時代(神の国)

創造(C)       来臨(P)

______________________→

 

③新約聖書

この時代     来たるべき時代(神の国)

創造(C)       来臨(P)

_______☨↑______↓_ _ _ _ _ _ _ _ _  →       

 

 

プラトン思想および後期グノーシス主義は、物質からの贖いーー死の際の、時間および歴史からの逃避ーーを予期しています。

 

またユダヤ教的希望は、時間内における物質の贖いを含んでいます。つまり、創造(C)からメシア到来(P)までのこの時代は、神の統治下における平和と正義の次の時代に引き継がれます。

 

(その公的顕現こそイエスの来臨〔Parousia〕を待たねばなりませんが)ユダヤ教的黙示に対する新約聖書の修正ーー、それは、メシアであるイエスの使命、死、そして復活の中で、来たるべき時代(神の国)はすでに邪悪なこの時代のただ中で、隠れた形をとり現前しているという認識に基礎を置いています。

 

それゆえ、イエスにとって、「神の国は無意味な歴史ではなく、予定された神的経過をもってそのクライマックスに達します。」*6

 

また、新約記者にとり、イエスへの信仰というのは、イエスのストーリーに対する信仰、つまり、その最高点および成就をイエスの内に見い出すところの「イスラエルの歴史の中における神の贖罪的活動のストーリー」に対する信仰を意味しています。

 

それが故に、イエスの使命および意味は、「特に神によって選定された一連の出来事で構成され、歴史的枠組みの中で起こりつつある」救済史に関し新約聖書の中で表現されています。*7

 

エペソ1:10で使われているοἰκονομίαという概念は、神によって制定されたご計画という思想を表していますが、「救済史("salvation history")」という語はそれ自体としては新約聖書の中に出てきていません。この概念は、新約聖書が、現行の、そして未来の出来事を、旧約聖書の中の出来事や人物そして諸制度に関連づけて言及する際に最も明らかなものとなります。そしてこういった関係は、多くの場合、予型論的(typological)な符合として表明されています。

 

3.予型論(Typology)

 

(a) 予型論的解釈は、「旧約聖書に対する初期キリスト教の最も基本的態度」であると明示されています。*8

 

それは、ゴッぺルト博士の言葉を借りるなら、初期キリスト教共同体がみなしていたところのいわゆる「霊的視点」*9と言うほど〔体系化された〕解釈システムではありません。また、解釈学的メソッドとしては、それはギリシャ世界で広く用いられていたτύπος("model," "pattern," 予型)と区別されなければなりません。*10

 

大まかに言ってですが、予型論的解釈は、①契約予型論(covenant typology)として、②創造予型論(creation typology)としてそれぞれ登場してきます。

 

またその際、τύποςという語はほんの時たまにしか現れていません。後者〔創造予型論〕の例としては、ローマ5章を挙げることができるでしょう。ここではキリストが「きたるべき型のひな型(τύπος)」(5:14)であるアダムと比較され対比されています。

 

また、前者〔契約予型論〕の例としては、1コリント10章を挙げることができます。ここでは、出エジプト記の出来事が、「われらの型になりました。〔前田訳〕τύποι ἡμῶν ἐγενήθησαν」そして、「型として〔前田訳〕τυπικῶς」起こり、「それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」(11節b)。

 

契約予型論は、「神のあらゆる贖罪的行為は、出エジプト記の型に倣う」というユダヤ教の確信と一致しています。*11

 

ですから、それは、イエスおよびイエスの共同体が決定的メシア的贖罪を説明するに当たり適切な方法です。より一般的に言って、契約予型論は、旧約聖書全体を預言として捉えています。人物や出来事だけでなく、その諸制度も「後に来るすばらしいものの影」なのです。*12

 

新約聖書の予型論は、そのフォーカスにおいて徹頭徹尾、キリスト論的です。イエスは「モーセのような預言者」(使3:22f)であり、主の受難を通し、旧い契約にその妥当な目的および終焉をもたらし(ローマ10:4;ヘブル10:9f)、新契約を確立しました(ルカ22:20、29)。

 

メシア的「ダビデの子」であり「神の子」として、主は、ダビデ家系の諸王たちに与えられた約束や地位の受領者であられます。*13

 

(b) イエスの死によって完成された新契約は、主の復活によって開始された新創造の近因(occasion)であるがゆえに、契約予型論および創造予型論は、結合する場合もあるでしょう。「終末論的アダム」であり、「人の子」すなわち「アダムの子」*14として、イエスは創造の新秩序のかしらとして立っておられ、それは現行のそれと比較し対比することができます。パウロおよびヘブル書におけるこういった結合は、その直接的原因をイエスの復活の内に見い出すことができます。*15

 

しかし、それはすでにイエスご自身の教え(例:神殿に関しての言明、強盗に対しての約束、離婚に関する御教えなど)の中に暗に含まれています。*16

 

また、詩篇8:4、ダニエル7:13f、27より由来し、ご自身のことを人の子(マルコ14:62)と名乗られた御行為の内にもおそらく潜在しているかと思われます。詩篇8章で言及されている人の子は、イスラエルの(メシア的・理想的)王についてのみならず、アダムへの言及ともなっています。*17

 

それと同様に、ダニエル7章の人の子は、国家的復興のことだけでなく、新創造のことにも関連しています。*18

 

黙示的ユダヤ教においても、イスラエルは、アダムおよび、更新された被造物との新契約と関連づけられていました。*19イエスと弟子たちも、こういった確信を共有しており、それらをイエスの使命およびご人格という観点から説明したのです。

 

(c) 旧約聖書の予型は、新時代のリアリティーに一致しているだけでなく、それと同時に、それのアンチテーゼとしても立っています。アダムと同様、イエスは人類の代表的かしらです。しかし死をもたらしたアダムとは違い、イエスは赦しといのちをもたらしておられます。*20

 

イエスは「モーセのような預言者」ですが、モーセの(有罪)宣告の働きとは違い、イエスのそれは義を与えるものです。*21

 

同様に、律法は「聖なるものであり、正しく、また良いもの」であり、その掟は、信者によって「成就」されるべきものだとされています。*22しかし、人に対する要求として、それはただ単に人間を糾弾するだけです。*23

 

それ故に、ある予型がはたして新時代のリアリティーに一致しているのか、それともそれとは違っているのかを区別すべく、①「総合的("synthetic")」予型論、②「反立的("antithetic")」予型論という二つの呼び方をする場合があるかもしれません。*24

 

(d) 救済の歴史はまた破滅の歴史でもありますので*25、それは「審判の予型論」("judgment typology")をも含みます。ノアの洪水やソドム、そしておそらくはAD70年のエルサレム崩壊も、神の終末論的審判の予型となっています。*26

 

ーー信仰なきイスラエル人は、信仰なきキリスト者の予型であり*27、イスラエルの敵は、教会の敵の予型であり*28、おそらくは、反キリストの予型でもありましょう。*29

 

(e) レオナルド・ゴッぺルトは、新約解釈学の分野において傑出した貢献をしていますが、彼は予型論的解釈について次に挙げるように明確な説明をしています。*30

 

(1)寓喩(allegory)とは異なり、予型論的釈義は、聖書の御言葉を、ーーより深い意味〔ὑπόνοια〕が隠されているというーーメタファーとして捉えるのではなく、歴史的出来事の記録として捉えているのであり、そこより出でる文字通りの意味により、聖句の意味が現れてきます(pp.18f.,243 ff.)。

 

(2)いわゆる「諸宗教の歴史」釈義とは異なり、予型論的釈義は、現行の新約聖書の状況における意味を、イスラエルの救済史という特定の歴史から見い出そうとします。過去の旧約での出来事から、予型論的釈義は、救済の現時における意味を解釈し、そして今度は、現行の出来事の内に、未来の完成に関する予型論的預言を見ます(pp.235-248)。

 

(3)ラビのミドラーシュと同様、予型論的釈義も、同時代の状況という観点から聖句を解釈しますが、それを為す上で、予型論的釈義は歴史的区別(historical distinctions)を付随させており、それはラビ解釈においては欠如している点です(pp.31-34)。

 

(4)予型論的釈義は、*歴史的符合(correspondence)および、*段階的高まりという二つの基本的特徴という観点から予型を認定しようとし、その中にあって、神によって聖定された予表が、後続し、より拡大していく出来事の中においてその補完を見い出します(p.244)。

 

ルドルフ・ブルトマンはその論文の中で*31、「救済史が予型論的釈義で構成されている」というゴッぺルトの結論を拒絶した上で、「予型論の起源は、むしろ、歴史の循環的・反復的見方に在る」という主張をしています(cf.Barnabas 6:13)。

 

それによると、ユダヤ教が上述の二つの視点を結合させてきたのに対し、新約聖書(例:アダム/キリストの予型論)は、純粋に循環的パターンであり、それは原始の時代と、終わりの時代をパラレルに並行させているものである、とされています。

 

しかしながら、ブルトマン(pp.369f.)は、伝統的ギリシャ観念*32という文脈内における新約聖書の解釈学的使用を解釈するに当たり、「新約聖書の予型論における反復的要素は、決して単なる反復ではなく、ーー予型のある側面は持ち越されない一方、別のある側面はより強化されるーーという風に、常に、基調の変化と結び合っている」という事実を認識できていないように思われます。

 

それゆえ、釈義的に言って、ゴッぺルトの方が強固な立証をしており、「新約聖書がどのように旧約聖書を用いているのか」という理解のための重要な枠組みを確立しています。

 

4.その他の諸前提

 

(a) 旧約聖書の観念と一致し、新約聖書もまた、人(man)を、①個人としても、②公同存在(corporate existence)としても捉えています。これは公同的特質を示しているわけですが、イエスやイエスの教会を考える上で、こういった公同的側面は、現代の西洋人にとって最も理解が難しい点ではないかと思います。*33

 

なぜなら、新約聖書では、イエスへの信仰は、この御方への結合(incorporation)*34、主の肉に与ること(ヨハネ6:35、54)、主のみからだとされること(1コリ12:27)、主の内に、もしくは御名に内にバプタイズされること(ローマ6:3)(1コリ1:13、使8:16)、主と同一視されること(使9:4f.)、公同的キリストの内に存在すること(2コリ5:17)を意味します。実に、公同的キリストは、「幕屋」(ヘブル9:11)、もしくは天にある「家」(2コリ5:1)、そして神の終末論的神殿であります。

 

公同的存在は、「モーセへと洗礼された〔前田訳〕εἰς τὸν Μωϋσῆν ἐβαπτίσαντο」(1コリ10:2)という表現、「アブラハムを通した,  δι’ Ἀβραὰμ 」(ヘブル7:9f.)存在、「アダムにあった, ἐν τῷ Ἀδὰμ」(1コリ5:22)存在、そして最も基本的なレベルとして、夫と妻との一致が「一つのからだ」とされる(マタイ19:5、エペソ5:29ff.)という表現の内に見い出されます。

 

これをただ単にメタファーとだけ解釈したいという誘惑に駆られがちですが、実際には、それは人間が何者であり、如何なる存在であるかということに関する本体論的言明なのです。こういった観念のリアリズムは、「公同的人格("corporate personality")」という語によって良く表現されています。*35

 

「指導者としての人物に(彼に属する)個々の人々が包含される」という公同的拡張は、旧約聖書中の数多くの聖句に光を当てています。それにより、いかにしてソロモンに与えられた御約束(2サム7:12-16)が、メシアの内だけでなく(ヘブル1:5)、メシアに従う人々(2コリ6:18)の内にあっても成就したとみなされ得るのかということに説明がなされます。

 

同様に、いかにして終末論的神殿が、個人と同一視されると共に(マルコ14:58、ヨハネ2:19ff.)、公同的(1コリ3:16、1ペテロ2:5)キリストとも同一視されているのかにも説明がなされます。

 

また、それは、イスラエルのメシア的王であるキリストに属する者は、まことのイスラエルを構成しているという、初期キリスト教徒たちの確信を明白にするものだったに違いありません。*36

 

その結果として、元々異邦人に向けられていた(箇所を)〔聖書中の〕不信心なユダヤ人に当てはめるという(初期)クリスチャンの適用の仕方*37、そして他方において、元々ユダヤ国家に向けられていた(箇所を)〔聖書中の〕教会に当てはめるという(初期)クリスチャンの適用の仕方にも説明がなされます。*38

 

公同的人格はまた、どのようにして、個としての、実存的決断(マルコ1:17、2コリ6:2)が、国家としての、もしくは民族としての救済史という枠組み内で理解され得るのかという事に関する論拠をも提供しています。こういった二つの視点をある学者たちは、「互いに緊張関係にある*39」、「相互に排他的なものである *40」と捉えています。

 

しかしながら、オスカー・クールマンの言葉を借用するなら*41、新約聖書における「決断の《今》」は、救済・歴史的姿勢と衝突はしておらず、むしろ、それに従属しています。--「救済史に対するパウロの信仰は、毎瞬間における実存的決断を生み出しています。」

 

なぜなら、共同体の文脈内においてこそ、個人の決断が下されているからです。つまり、一般史(普遍的歴史;universal history)と、個人の歴史は、互いに孤立化し得ないのです*42

 

救済の歴史は、新約聖書の中でしばしば、アダム、アブラハム、モーセ、ダビデ、イエスといった個々人の歴史として現れています。しかし、彼らは個々人でありながら、それと同時に、国家ないしは民族をも包含する公同的様相を帯びていました。

 

彼らに関わることを、新約聖書がそれを「人(men)」と呼んでいる決断の所以もここにあります。それは、決して孤立した個人と神の間における決断ではなく、むしろ、「古い人を脱ぎ」「新しい人を身に着る」決断、「モーセの内」「アダムの内」にある肉体性(corporeity)から解放され、キリストの内に「沈められ」キリストを「身に着る」決断です。

 

こうして「モーセのような預言者」であり、新創造の終末論的アダムの内に組み込まれ(incorporated into)、その中にあって、救済の歴史は完成されるのです。*43

 

(b) 初期キリスト教徒の預言者や教師たちは、いわゆる「charismatic 釈義」、ないしはL.Cerfauxの言葉*44によれば「霊的解釈」と呼ばれるもので旧約聖書を解釈していました。

 

クムランの教師たちと同様、それは、初期キリスト教徒たちの、「旧約聖書の意味は、『奥義』であり、その『解釈』は、人間理性ではなく、聖霊のみによって与えられ得るものである」という確信に由来していました。*45

 

御霊による啓示を基盤にし、彼らは正しく聖書を解釈する自分たちの能力に関し揺るがぬ確信を持っていました*46 。また、そういった賜物に与っていない者は、神の言葉の真の意味を「知る」ことができないと彼らは考えていました。*47

 

自らの任務に関するこういった新約記者たちの見解は、彼らが論理や、解釈学的諸規則やメソッドを用いていなかった事を意味してはいません。ですが、彼らの解釈の究極的権威がどこに在るのかという点は確かに明らかになっています。

 

それゆえ、私たちが、新約記者たちの解釈を、その他の解釈ーーそれが古代のものであれ、現代のものであれーーに優先して受容する理由も、究極的には、彼らの論理的手順や釈義的メソッドからの立証された優位性というものにではなく、むしろ、彼らの預言者的性格や役割に対する確信の上に据えられていると言っていいでしょう。

 

ー終わりー

 

この章の文献目録

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F. BRUCE, Biblical Exegesis in the Qumran Texts (London: Tyndale Press 1960).

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D.DAUBE, The New Testament and Rabbinic Judaism (London: Athlone Press 1956).

J.W. DOEVE, Jewish Hermeneutics in the Synoptic Gospels and Acts (Assen 1954).

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E. E. ELIS, Paul's Use of the Old Testament (Edinburgh: Oliver and Boyd 1957).

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L.GOPPELT, Typos: die typologische Deutung des A/ten Testaments im Neuen (Giitersloh 1939; rep. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1969; E.T. forthcoming from Eerdmans, Grand Rapids).

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G. VERMES, Scripture and Tradition in Judaism (Leiden: Brill 1961, 1973 2 )

*1:F. Delitzsch, The Psalms (Grand Rapids 1949 (1871), pp. 154-157; (re the king) A. Bentzen, Fortolkning ... Salmer, (Copenhagen 1939, cited in H. Ringgren, The Faith of the Psalmists (Philadelphia 1963), p. 98を参照。

*2:例: マタイ12:32; マルコ10:30; ルカ20:34f. 

*3:民数記 24:14; イザヤ 2:2; ダニエル10:14; ホセア 3:5; アモス 5:18fT.; ミカ4:1; ゼカリヤ 14; 参. ハガイ 2:9; G. Kittel and G. von Rad, TDNT 2 (1964/1935), pp. 697, 944f.; U. Luz, Das Geschichtsverstiindnis des Paulus (Miinchen 1968), pp. 53ff. 

*4:参. ルカ7:19-22; 11:20-22, 31 par; ローマ 14:17; ガラ1:4; コロ1:13; 0. Cullmann, Christ and Time (London 1952), pp. 81-93; Salvation in History (London 1967), pp. 193-209; Luz, Paulus, p. 5.

*5:参. ルカ11:2; 21:27; 22:16, 28ff.; マタイ25:31.

*6:Cullmann, Salvation, pp. 233, 236.

*7:同著., p. 25. 参. F. F. Bruce, "Salvation History in the New Testament," Man and his Salvation, ed. E. J. Sharpe (Manchester 1973), pp. 75-90; W. G. Kiimmel, Promise and Fulfilment (London 1957), p. 148: ... 「もしも、決断の時としての《現在》に関わる、ないしは神の霊的近さに関わる『時代を超越した使信』が、終末論的未来や、未来による現在の決断への説教に取って代わるなら、その時、新約聖書の使信自体が無効にされてしまいます。なぜなら、それにより、『人が終末へと前進しつつある救済の歴史の中において決定的に確かな状況に置かれている』というイエスの使信の完全なる退廃を招き、イエスの姿および御活動は、神の歴史的活動としての根本的性格を失ってしまいます。」

*8:W. G. Kiimmel, "Schriftauslegung," RGG V, 1519. 

*9:"pneumatische Betrachtungsweise." L. Goppelt, Typos: Die typologische Deutung des A/ten Testaments im Neuen (Darmstadt 1969 (1939), pp. 183, 243f. An English translation is forthcoming from Eerdmans Publishing Co., Grand Rapids, Mich. USA.

*10:参. Luz, Paulus, p. 53. 

*11:D.Daube, The Exodus Pattern in the Bible (London 1963); G. von Rad, Old Testament Theology, 2 vols. (London 1960), 1965, 11, 272.

*12:ヘブル 5:1-10; 9:9; 10:1; コロ 2:17; 参. マタイ7:11; ヨハネ3:14f.; 6:32. ヘブル 8:5(参. 9:24; 出25:40を反映した使徒 7:44の箇所は、通常の予型論的心象(imagery)を反転させており、τύποςを天的型(model)と同一視しており、旧約聖書の諸制度は『対型, "anti-types"』とされます。ヨハネのように(6:31-39; 14: 1-3)、そしてフィロンとは異なり、ヘブライ人たちは、『天的であるもの』を、来るべき時代(=昇天され来臨されるイエス)と同一視することによって、垂直的予型論を、水平的、二時代の構想に組み入れました。参:ヘブル9:24-28; 10:37; L. Goppelt, TDNT 8 (1972), p.258; 黙21 :2; ガラ4:25f.: "今のエルサレム... 上にあるエルサレム" 。C.T. Fritsch, "TO ANTIΤΟΠΟΝ", Studia Biblica [for] T. C. Vriezen, ed. W. C. van Unnik (Wageningen 1966), pp. 100-110も参照のこと。

*13:2 サム7:12fT.; 詩2; 16; 110; アモス 9:11f.; 参. ヨハネ7:42; 使3:25-36; 13:33ff.; 15:16fT.; 1 コリ15:25; ヘブル1:5; E. Lohse, TDNT 8 (1972), pp. 482-487. Re Moses 参. J. Jeremias, TDNT 4 (1967/1942), pp. 856-873. Re Son of God 参. M. Hengel, The Son of God (London 1976), pp. 42-5.

*14:詩8:4, ben-'adam; 1 コリ15-27, 45; エペソ1:21f.; ヘブル 2:5-10; 参. ルカ3:38; 使 6:14; 7:44, 48.

*15:I ペテロ 3:21f.; 黙2:7, 26fも参照のこと。

*16:マルコ14:58 (ἀχειροποιητός); 15:29; ルカ23:42f. ("kingdom," "Paradise"); マタイ19:4-9; 参. ルカ16:16-18.

*17:note 55を参照のこと. 参. W. Wifall, "創3:15 ... ", CBQ 36 (1974), p.365; ヤハウィストは、イスラエル先史を、"Davidic"もしくは"messianic"という枠組み内で提示してきました。

*18:ダニエル7:14 ("dominion," "glory"); 参. M. Hooker, The Son of Man in Mark (London 196 7), pp. I 7tT., 24-30, 71.

*19:ダニエル7:13f., 27; Test. Levi18; 2 バルク72-74; IQS 4:22f.; CD 3:13-20; 4:20; IQH 6:7f., 15f.; 17:12-15; IQ34; 参. イザヤ43; 65:22.

*20:1コリ15:22; ローマ5:12, 15. 15.

*21:使3:25; 2 コリ3:6-9.

*22:ガラ5:14; ローマ7:12; 13:8:「愛」(レビ19:18)は、掟(出20章)の代替ではなく、それらが解釈され成就されるための手段であり指針です。参:ヘブル10:1

*23:2 コリ3:6; 参. ガラ3:10-13. その他の事項もさることながら、(永続している)神の義の表現としての律法と、(存在せず、これまでも決して存在してこなかった)人間の救済の手段としての律法(の働き)との間の区別をし損なうことにより、クライン・ギュンターのような誤りが生じます。(Klein, Günter, Rekonstruktion und Interpretation (Munchen 1969), p. 210, Evangelische Theologie 24 [1964], 155)。ギュンターによると、パウロにとって、律法の授与者であるモーセは、「反神的権力の手下であり、、彼を基にした歴史的領域は不敬であるだけでなく、明らかに悪魔的です。」参:C. E. B. Cranfield, "St. Paul and the Law", SJT 17 (1964), pp. 43-68; 'Notes on Rom. 9:30-33", in E. E. Ellis and E. Grasser (ed.), Jesus und Paulus (Gottingen 1975), pp. 35--43.

*24: Luz, Paulus, pp. 59f. 例.アブラハムは、反立的予型論(つまり彼の割礼;ガラ3章)ではなく、総合的予型論(つまり彼の信仰)を代表しています。モーセと出エジプト記は両方を表していると言えましょう(ヘブル11:28f;1コリ10:1-4、6-10;2コリ3:9)。さらにエルサレム(ガラ4:25f; 黙11:8;21:2)も同様のことが言えると思います。旧契約(律法)は多くの場合、反立的予型論を表しています。

*25:Cullmann, Salvation, pp. 123; cf. 127-135.

*26:ルカ17:26-30; 2 ペテロ2:6; ユダ7 (δεῖγμα); マタイ24:3. 

*27:1コリ10:6-11; ヘブル4:5, 11.

*28:黙11 :8; 17:5; 参:ローマ2:24; ガラ4:29.

*29:2 テサ 2:3f.; 黙13:1-10.

*30:Goppelt, Typos. Cf. Cullmann, Salvation, pp. 127-I35; J. C. K. von Hoffman, Interpreting the Bible (Minneapolis 1972 (1880).別のアプローチとしては、R. E. Brown (The Sensus Plenior of Sacred Scripture (Baltimore I955)によるもの、それから、実存主義神学者たちによるもの(例:M. Rese, Alttestamentliche Motive in der Christologie des Lukas (Gutersloh 1969), p. 209; A. Suhl, Die Funktion der alttestamentliche Zitate ... im Markusevangelium (Gutersloh 1965), pp. 162-186)、そして、A・T・ハンソンによるもの(Jesus Christ in the Old Testament (London I965), pp. 6f., I72-178)が挙げられます。

ハンソンは、「実在以前のイエスの真の臨在」は、新約釈義のこの領域を最も良く説明していると考えています。参. also his Studies in Paul's Technique and Theology (London 1974), pp. 149-I58.

J・L・マッケンジーが考えるように(JBL 77, 1958, pp. 202f.)、sensus pleniorが、単に寓話的解釈の一種に過ぎないのか否かは、そこで使われている基準に依るでしょう。参:R. E. Brown, CBQ 25 (1963), pp. 274ff。

ハンソン自身も認めているように(p. 177)、彼の見解は、予型論的解釈に完全に取って代わるような代替を提示してはいません。また、彼の見解の中では、新約思想である二時代(two-age)の黙示的枠組みのある諸側面に対して公正な取り扱いがなされていません。救済史(Suhl)を、実存主義的決断に対立させるやり方は、私の判断では、誤った二分法です。下のpp.213を参照。

*31:Bultmann, "Ursprung und Sinn der Typologie als hermeneutische Methode," TLZ 75 (1950), cols. 205-212 - Exegetica (Tubingen 1967), pp. 369-380.

*32:note 64を参照.

*33:マルコ14:22ff.; コロ1:24; J. A. T. Robinson, The Body, London 1952; R. P. Shedd, Man in Community (London I958); Ellis, Paul's Use, pp. 88-98, 126-I35; B. Gartner, The Temple and the Community in Qumran and in the New Testament (Cambridge 1965), pp. 138-142.

*34: "in faith"という句でさえ、時として存在の領域を意味していると考えられます。例:"in Christ." 参. 使14:22; 16:5; I コリ16:13; 2 コリ13:5; コロ1:23; 2:7; I テモテ1:2; 2:15; ヤコブ2:5; I ペテロ5:9. しかし、バプテスマに関しては、 L. Hartman, "Baptism 'into the name of Jesus,'" Studia Theologica 28 (1974), pp. 24-28, 35fを参照。

*35:W. Robinson, Corporate Personality in Ancient Israel (Philadelphia I964 (I935); 参. Deuteronomy and Joshua (The Century Bible) (Edinburgh 1907) p. 266. 参. J. Pedersen, Israel (London 1959 (1926), 1-11, pp. 263-296, 474-479; III-IV, pp. 76-86; A. R. Johnson, The One and the Many in the Israelite Conception of God (Cardiff 1961), pp. 1-13.

J・W・ロジャーソン(JTS 21, 1970, pp. 1-16)は、ロビンソンの観念が未開人の思想に関する最近の理論に由来しているのではないかと疑っています。最近の心理学的理論が、聖書の中の人間の心身的統一性に関する認識を促すこともあるように、そういった理論がロビンソンの著述を促している可能性はあります。

ですが、ロビンソン、ペデルセン他によってかなりの蓋然性をもって確立されている釈義的結論を拒絶するに当たっては、より説得力に富む聖句の説明が必要とされますが、ロジャーソンはその事を怠っています。

*36:参. Ellis, Paul's Use, pp. 136-139; ルカ19:9; 使3:22f.; 15:14ff.; ローマ9:6; ガラ6:16; ピリピ3:3; ヘブル4:9; 黙2:14. 別の面では: J. Jervell, Luke and the People of God, (Minneapolis 1972), pp. 41-69; P. Richardson, Israel in the Apostolic Church (Cambridge 1969).

*37:例. 使 4:25ff.; ローマ8:36; 9.25; 10: 13; 参. M. Sunon, Verus Israel (Pans 1964 ), pp. 104-24; W. Gutbrod, TDNT 3 (1965/1938), pp. 384-388; H. Strathmann, TDNT 4 (1967/1942), pp. 50-57.

*38:例 2 コリ6:16ff.; ヘブル8:8-12; 1 ペテロ2:9f. クムラン派は、同様の見方をしています。I QM 1:2の中で、ユダヤ人の"offenders"が、異教徒である敵の間に含まれています。参:1QpHab 2: 1-4; 4Qtest 22, 29f.*訳者注)この箇所の原文:"Consequently, it explains the Christian application to unbelieving Jews of Scriptures originally directed to Gentiles and, on the other hand, the application to the church of Scripture originally directed to the Jewish nation."

*39:Dinkler, "Earliest Christianity," The Idea of History in the Ancient Near East, ed. R. C. Denton (New Haven 1955), p. 190.

*40:Klein Günter, Rekonstruktion, pp. 180--204.

*41:Cullmann, Salvation, p. 248.

*42:Luz, Paulus, p. 156.

*43:Eph. 4:22ff.; 1 コリ10:2; 15:22, 45; ガラ3:27; 使3:22ff. 

*44:P. Auvray et al., L 'Ancient Testament et les chretiens (Paris 1951), pp. 132-148.

*45:I コリ2:6-16. notes 15, 50を参照.

*46:参. マタイ16:17;マルコ4:11; ローマ11:25f.; 12:6f.; 16:25f.; 1 コリ2:12f.; エペソ3:3-6; 2 ペテロ3:15f.

*47:マタイ22:29; 2コリ3:14ff.