巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

神を礼拝することと、妻であることについて

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「恭しい(うやうやしい)」という美しい日本語があります。これは元々、礼(うや)を重ねて形容詞化した語であり、「相手を敬い、礼儀正しく丁寧である」という意味を持っています(大辞泉)

 

さて、口語訳聖書は、1ペテロ3章1-2節で、この「恭しい」という語を用い、信仰者の妻のあり方を次のように述べています。

 

「同じように、妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。」

 

さて、それでは「うやうやしく清い行い」というのは、具体的にどのような様子を指しているのでしょうか?みなさんは、最近、なにかこの「うやうやしさ」を想起させるような人物や場面に遭遇しましたか?さらに問うなら、「うやうやしい」という語の持つ実質内容は、現代社会のどこに今、残存しているのでしょうか?家庭の中でしょうか?教会の中でしょうか?

 

ギリシャ語原典では、1ペテロ3:2の「うやうやしい」は ἐν φόβῳ(エン フォボー;in fear/respect)となっています。

 

φόβος(フォヴォス)という名詞は、①恐れ、恐怖、恐ろしさ、または、そのような感情を起こさせる物(事)、②畏れ、畏怖、畏敬、崇敬、または、そのような感情を起こさせる物(事)等の意味を持っています(織田『新約聖書ギリシア語小辞典』p623)

 

つまり、〔神に対する〕畏敬の念の中で、畏れをもって、というのがἐν φόβῳ(エン フォボー)の直訳になると思います。そのため、新改訳、岩波委員会訳、塚本訳はそれぞれエンフォヴォーを次のように訳出しています。

 

神を恐れかしこむ清い生き方〔新改訳〕

畏敬のある清い振る舞い〔岩波訳〕

神を畏れる潔い行い〔塚本訳〕

 

また、そういった目には見えない神に対する畏敬の念が、外側に映し出される時、人はそこに「つつましさ」「うやうやしさ」「恭敬さ」といった態度を見い出すようになるのでしょう。そのため、前田訳、文語訳は、次のような訳になっています。

 

つつましやかな清い行状〔前田訳〕

潔く、かつ恭敬しき行状〔文語訳〕

 

(英訳では、reverent, respectfulというのが一般的な訳語となっています。参照

 

「主人」それとも「パートナー」?

 

最近の傾向として、husbandのことを、「主人」ではなく、「パートナー」と呼ぶ風潮があります。

 

「パートナー」という語が現代の世で好まれている理由の一つは、何とはなしにニュートラルに感じられるその語感覚、それから、何と言ってもこの語に、「かしら性」の概念が全く欠如しているという隠れた重要な要因(政治的アジェンダ)があります。

 

実際、パートナーシップというのは、第一義的に、「英米法で認められている共同企業形態の一種で,2人以上の人間が金銭,労務,技術などを出資してなされる共同の営利行為関係」(出典)を意味しており、そこには、「一方の側がもう片方に恭順する」という観念は皆無です。

 

それゆえに、「かしら性」「妻の夫に対する聖書的恭順」を嫌悪するフェミニズム思想にとって、「パートナー」という言葉は非常に心地良いのです。ですから、大衆メディアや教育諸機関を通し、この語及び、この語に含ませているある特定概念を普及させることは、イデオロギーの植え付けとして非常に効果があります。*1

 

しかし、そのような政治的公正さ(political correctness)などお構いなしに、使徒ペテロは、サラがアブラハムのことを「主(キリオス;κύριος)」と呼んで彼に従ったと言い切っています(1ペテロ3:6)。

 

"ὡς Σάρρα ὑπήκουσεν τῷ Ἀβραάμ, κύριον αὐτὸν καλοῦσα·"

 

Κύριος (キリオス)という語は、κῦρος(=権力、権威、効力)から派生した名詞であり、

①主人、持ち主、

②神とキリストについての呼称〔旧約聖書の聖なる神の名יהוהは、אדוני(アドナイ;主)と読まれた関係上LXXではκύριοςと訳された;織田〕、

③君主、主君、国王、帝王

などという意味があり、いずれも、そこにauthority(権威)という概念が存在しています。*2

 

辞書的な意味において、夫が妻のパートナーであるということはその通りであり、パートナーシップが持つ「協力関係、共同、提携」という概念もまた、夫と妻の関係に内包されていると思います。しかしながら、前述しましたように、この語は現在、イデオロギー色の強い文脈の中で用いられる場合が多く、また、そういった文脈の中では、対等主義的な意味でのヒューマニスティクな「平等」観念がその前提として根柢に横たわっています。*3

  

もちろん、「主人」という語にしても、1ペテロ3:6で用いられているキリオスと100%同じ意味であるわけではないと思いますが、それでもやはり、かしら性や男性リーダーシップ、妻の恭順といった聖書の概念を総合的に考えた時、私は、現代日本語の中では、「主人」という語が、もっとも適切に聖書的真理を表現しているのではないかと考えています。

 

神礼拝と妻の姿勢

 

信仰者としての妻のあり方は、神礼拝という命の源泉からほとばしり輝き出でる小川の流れのようなものではないかと思います。つまり、それは、霊とまことをもって目に見えない神を仰ぎ敬拝するという行為から生み出される可視的顕れの一つだと思うのです。

 

ウェストミンスター大教理問答の序説は、「人間のおもな、最高の目的は何であるか?」という問いで始まっており、その答えとして、「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」というかの有名な文が記されています。そして人間の最高の任務そして喜びは、全存在をもってその生ける神を礼拝し神の内に憩うことだと思います。

 

エペソ5章22-33節ではキリストが教会のかしらである(23節)というかしら性(headship)の崇高な真理が、地上での夫・妻の関係になぞられて語られています。

 

もちろん私たち妻は、被造物である人間の夫を「礼拝」するわけではありません。ですが、夫と妻の関係と、キリストと教会の間には、なにがしかの深奥な類比(analogy)があり、パウロが言うように「この奥義は偉大です」(32節)。

 

恭敬な心とそこから自然ににじみ出て来るうやうやしい態度は、フラット(平ら)な地平からは決して生まれてきません。また、畏敬をもたらすある種のauthority(権威)が不在な環境からも、うやうやしさは決して生まれてきません。

 

さらに言えば、現代福音主義教会を席巻している「CCMロック/ポップ礼拝」のような霊的環境からも、真のうやうやしさは決して生み出され得ません。

 

私たち妻の心が、神に対する真正なる畏れの念で満たされ、敬拝の中で、その神の偉大さ、崇高さ、聖さ、力強さ、恒久性、不変性、そして永遠性に圧倒され、この御方の前にぬかづく時、覆われたヴェールの内側から私たちはこれまで知らなかったなにかを見るようになります。

 

そして、創造の秩序における境界線それ自体が「聖」であることを知るとき、私たちの神礼拝に質的変化が起されます。そしてそれ以降、私たちは主人であり夫である地上的かしらとの間に神聖なる「聖」のラインを認め、その存在を畏れ敬うようになります。

 

「でも、完璧なキリストと違い、うちの主人は霊的でもなく、欠陥だらけで、尊敬したくてもそうできない現状があります」という悩みを抱えておられる方がいらっしゃるかもしれません。そういった場合はどうすればよいのでしょうか。つまり、信仰者である妻は聖書に従い、心底、夫を敬い、夫に従おうとしているのですが、夫の側に明らかな問題がある場合です。

 

また、そのような明らかな問題こそないにしても、日々の生活の中で、地上のかしらとしての夫の落ち度や欠けに直面する場合、私たち妻はどうすればいいのでしょうか。

 

以前に私は、エープリル・カスィディ姉妹の夫婦関係回復の証しをご紹介しました。*4霊的に熱心なエープリル姉妹にとっての長年の悩みの種は、「頼りなく、無気力な夫」グレッグさんにまつわることでした。

 

「主よ、私の主人には神様からの召命がありません。そんな夫にどうやって従っていけるというのでしょう?」と彼女は苦悶していました。しかしそんな彼女にとっての一大転換は、「かしら性を通して働かれる神の主権」という聖書の真理に目が開かれた時に起こされました。その発見について彼女は次のように記しています。

 

「目下、(あなたの計りによれば)ご主人は敬虔なリーダーでもなく、夫でもなく、父親でもないかもしれません。そして、そういうご主人を用いては、神様はあなたや子供たちを導くことができないと感じているかもしれません。

 

いえ、どうか気落ちしないでください。神様は異教徒の王や国々を用いてさえーー彼ら本人が、主のご計画遂行に協力していたということを自覚していたか否かに関わりなくーー主の業をなすことができたのです!

 

これはすばらしいことです。なぜなら私たちの創造主である神は全てを統べ治めておられ、全能であられ、なおかつ全知であられるからです。ですから、鍵は、私たちの夫にあるのではなく、神様にあるのです!」(引用元

 

「鍵は、私たちの夫にあるのではなく、神様にある。」ですから、究極的に言うなら、私たち妻が自分の夫に敬意を払い、夫のリーダーシップに従うのは、目の前にいるかしら(=夫)がそれを受けるに値する人間だからという理由ではなく、それが神のお定めになった宇宙秩序であり、聖書の誤りなき真理であり、そこに偉大なる神の主権の御手があるからなのです。

 

つまり、被造物のもろもろの状態如何にかかわらず、私たち妻がそれをするのは聖書的に正しいことであり、神がそれを正しいと考えておられるから私たちは信仰を持ってそれに服します。

 

ですから、私たちは可視的かしらに接する際、その向こうに確実に存在する不可視的かしらの真実を絶えず見続け、そこから片時も目を離さないようにする信仰の決心が必要だと思います。

 

おわりに

 

最後になりますが、キリストの教会を構成する私たち一人一人は「夫のために飾られた花嫁のように整えられ」、日々、主の前に、そして地上のキリオスである主人の前に、美しく、優美であることを追究し、求めたく思います。

 

言葉遣いにおいても、立ち振る舞いにおいても、私たちは内面のやわらかさや静けさを映し出すような表現を用い、それによって、主人を立て、喧噪ではなくやすらぎが家庭に満ち満ちることを望みます。

 

また私たち妻の心は、夫の前に、透明なクリスタルのようでありたい、そしていつまでも純情な少女のようでありたいと願います。

 

地上の主人に対する私たち妻の恭順な態度や心のあり方は、日頃、私たちが何を見、何を聴き、何を読み、何を考え、どのような価値観(世界観)を持って生きているかの総計であって、それはハウツー本的に取得できるような種類のものではないと思います。

 

神礼拝が、私たち人間の全存在をかけた崇高な営為であるように、妻としてのあり方もまた、私たち女性が全存在をかけ、祈りの内に培っていく信仰行為であり、喜びに満ちた人格形成の道程だと思います。

 

読んでくださってありがとうございました。

 

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*1:ケファレー(kephale;かしら)および、ヒュポタッソー(hupotassó;恭順する)という聖書的概念は、フェミニズム・イデオロギーと真っ向から対立しており、そのため、フェミニスト神学は現在、総力を挙げて、この二語の再解釈を試みています。

参考資料:〔福音主義フェミニズム側の見解および再解釈の動き⇒『性差によるのか賜物によるのか』(日本福音同盟HP、PDF文書)(3)頭と権威 - コリント人への手紙第一 11:2-16(p92-p93)/(6)服従の意味 - エペソ人への手紙 4:15-16(p95-97)〕それに対する相補主義キリスト者側の応答⇒

反証、反証

*2:κύριοςの関連語として、κυριεύω(~の主人である、主として君臨する), κυριότης(主であること、主権、権勢), κυρῶ(効力を持つと決める、法的に有効にする)等がありますが、いずれも、そこにauthority(権威)という概念が内包されています。

*3:対等主義的な「平等」観念と聖書的な「平等」観念の違いについては以下の項を参照ください。「相補主義」と「対等主義」について――福音主義教会を二分する二つの視点(「両者の根本的違い」および「役割における「違い」と「優劣」を混同してはいけない」の項)

*4:「私の主人には神様からの召命がありません。そんな夫にどうやって従っていけるというのでしょう?」byエープリル・カスィディ〔前篇〕〔後篇〕 完全なる心の入れ替え―祈りのベールと夫への恭順 byエープリル・カスィディ(ココ