巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ベリート〔berith〕とディアセーケー〔diatheke〕ーーそれぞれの起源と意味について(ゲルハルダス・ヴォス著『歴史神学』より)

 目次

 

Geerhardus Vos, Biblical Theology: Old and New Testaments (初版1948年、新装版2014年, Part One, sec.2 "Mapping out of the field of revelation"のp23-26までを拙訳*1

 

ベリート(berith)

 

贖罪の特別啓示(Redemptive Special Revelation)とは何か?

 

贖罪の特別啓示とは、教義学的には、「恵みの契約」と呼ばれています。他方、贖罪以前の特別啓示(pre-redemptive Special Revelation)は一般的に、「わざの契約」という名で呼ばれています。

 

ですが、後者の「わざの契約」を「旧約('Old Testament')」と混同しないように注意しなければなりません。

 

旧約('Old Testament')は堕落以後に属します。そして旧約は「恵みの契約」の2つのカテゴリーの中の最初の項を形成しています。つまり、旧約というのは、メシア来臨に先立つ「恵みの契約」の期間であり、それに対し、新約は、メシア到来以降、今日に至るまでの「恵みの契約」の期間です。

 

「旧約('Old Testament')」と「新約('New Testament')」、それから、「旧契約('Old Covenant')」と「新契約('Old Covenant')」という用語は、しばし置き換え可能なもののようにして互換的に用いられる傾向があります。そのため、そこに混乱と誤解が生じてしまっています。

 

そういった理由もあり、また、本稿の主題それ自体の明瞭化のためにも、こういった用語の起源と意味についてこれから注意深く考察していきたいと思います。

 

ベリートの傑出した特徴点

 

上記の名詞によって表現されているヘブル語の言葉は、ベリート(berith)です。そしてギリシャ語ではディアセーケー(diatheke)です。ベリートに関して言いますと、聖書の中において、この語には決して「遺言('Testament')」という意味はありません。

 

実際、「遺言」という思想は古代ヘブル人には全く未知のものでした。彼らは「遺言状」などというものについて何も知りませんでした。しかしそうだからと言って、「それでは、ベリートという言葉が登場する箇所はことごとく『契約』という意味になるのです。」ということにはなりません。

 

〔また「合意 'agreement'」という意味においての契約としてベリートという語が用いられることはあるかもしれませんが、ベリート自体には決して「合意」という意味はないということを覚えておく必要があります。〕*2

 

また、純粋に一方側からの主体的約束、裁量、掟がベリートになるわけですが、それは、内在する概念的ないしは語源的意味ゆえではなく、そこに加えられた宗教的執行がゆえにそうなるのです。

 

そしてそこから理解できる事、それは、ベリートの傑出した特徴点がその不変性、確実性、恒久的妥当性にあるということです。それは、任意的な性質でも、不安定な性質でもありません。ベリートは、あくまで「忠実なるベリート」であり、破棄の危険にさらされるような代物ではありません。

 

たしかにそれは人間側の過失によって破られることはあり得ます。そして違反はもっとも深刻なる罪です。が、これが深刻である理由もまた、一般的な合意を破棄したからではなく、(その執行が有効になるところの)神聖なる儀式を人が侵害したことに在るのです。

 

ディアセーケー(diatheke)

 

しかし、ギリシャ語ディアセーケーとの関連では、話がいくぶん変わってきます。ベリートを「ディアセーケー」という言葉で表現しようとすることは翻訳上の妥協行為にもなりかねませんでした。

 

70人訳聖書や新約聖書が誕生した時期、ディアセーケーはすでに「遺言」という意味を有していただけでなく、その意味が主流のものとなっていました。

 

しかし、それが元々の語義でなかったことは確かです。元の語義は、かなり総称的であり、「自分の判断・裁量で行なう」(<diatithemi, 処置する、裁量する)という意味でした。*3

 

しかしその当時、ディアセーケーを遺言に関わる裁量として用いていた法律的語用が、その語を独占している状態にありました。それゆえ、ギリシャ語聖書翻訳者たちは困難に直面したのです。

 

ベリートに適合する訳語選びをする中で、彼らはディアセーケーを採用することにしたのですが、この語の持つ「遺言」という意味は、ヘブル語聖書の中には皆無でした。それだけでなく、選択したこの語は、事もあろうにヘブル語ベリートが表している意味とはまるきり正反対の意味すら含んでいる感があったのです。

 

前述したように、ベリートは不変性を表現していました。しかしそれとは反対に、'testament'(遺言)は、おそらく、可変性(少なくとも遺言者が亡くなる瞬間までは。)という思想を髣髴させるものだったでしょう。

 

さらに、'testament'(遺言)という言葉自体が、それを作成する人物の死を示唆しており、それはきっと、「神が御参入される何かに対して用いるにふさわしい言葉ではない」と人々の目に映ったに違いありません。

 

しかしながら、そういったあらゆる困難点があったにも関わらず、彼らは結局、ディアセーケーを選びました。なぜでしょう?後述するように、それを決定するに当たり、彼らの側に何か重大な理由があったに違いありません。

 

もう一つの候補語シンセーケー(syntheke)はどうなのか?

 

おそらく主たる理由ーーそれは、もう一つの候補語であったと思われる「シンセーケー(syntheke)」というギリシャ語には、〔ディアセーケーと比べ〕はるかに根本的な問題が含まれていたことが挙げられると思います。

 

この語は、まさにその語形態からして、協定関係に入る人々の間に存在する「対等性」および「パートナーシップ」という思想を強烈に打ち出しています。そしてこういった強調は、ヘレニズム的宗教性の特質と非常に調和していました

 

一方、翻訳者たちは、そういったものが旧約聖書の趣意と調和を保てていないように感じました。なぜなら、旧約聖書では神の至高性および単働説が強調されているからです。

 

そのため、〔シンセーケーを採用することによって生じるに違いない〕誤解を避けるべく、彼らはディアセーケーに付着している不都合さをむしろ我慢する道の方を選ぶことにしました。

 

翻訳者たち、古(いにしえ)の語義を復元させる

 

しかしより綿密な省察をすると、こういった不都合さはあながち克服不可能なものではないことが分かりました。たしかにディアセーケーはその時点で 'last will'(遺言書)という意味を持ってはいました。ですが、元々の「自分の判断・裁量で行なう」という総称的意味も、その当時であってさえ、完全に忘れ去られていたわけではありませんでした。

 

また語源的にもこの語は明瞭でした。「確かにディアセーケーには『主権的』性質といった意味合いがあるし、それに必ずしも常に遺言書的意味を帯びているわけでもない。」こうして彼らは古(いにしえ)の語義を復元させました。

 

このようにして彼らは障害を克服しただけにとどまらず、旧約聖書の宗教意識の中にある最も重要な要素を再生することにも成功したのです。

 

ローマ法 vs ギリシャ・シリア法

 

神は死に従属することのあり得ない方です。〔その一方、前述したように、ディアセーケーには遺言者の「死」が示唆されているため、ここに問題が生じます。訳者補足〕ですがこれは、ただローマ法の観点から見た場合のみの困難点です。

 

ローマ法による遺言システムによると、遺言書というのは、実際に作成者の死が発生しない限り、効力を持ちません(ヘブル9:16参)。

 

しかしその当時、ローマ法とは異なる法体系も存在していました。そうです、ギリシャ・シリア法です。そしてギリシャ・シリア法のような法体系下では、遺言というのは、遺言者の死と必ずしも不可分な関係にあるわけではありませんでした。そしてそれは、本人の存命中に作成・執行され、すぐさま法的に発効されることも可能でした。

 

また「ローマ法における遺言の可変性」から生じてくるもう一つの問題も、こういった〔ギリシャ・シリア法体系という〕別の観念の下にあっては、もはや問題ではなくなります。というのも、この観念には〈可変性〉とは無縁であり、いや、そればかりでなく、むしろ〈不変性〉という正反対の思想が強力に注入されていたからです(ガラ3:15参)。

 

ディアセーケーは 'covenant'("契約")と訳すべきなのか、それとも'testament'("遺言")と訳すべきなのか?

 

こうして、七十人訳聖書(LXX)から、ディアセーケーという語は、新約聖書へと受け継がれていきました。そして、ディアセーケーを 'covenant'("契約")と訳すべきなのか、それとも'testament'("遺言")と訳すべきなのかを巡って、これまで長い間議論が続けられてきました。

 

欽定訳聖書(A.V.)では、14箇所においてディアセーケーが、'testament'と訳されており、その他の箇所はすべて 'covenant'と訳されています。

 

他方、改訂訳聖書(R.V.)は、この慣例を大幅に修正しています。この聖書は、('testament'という意味が確実なヘブル9:16を除いた)その他すべての箇所において、(欽定訳では'testament'と訳されていた箇所を)'covenant'と置き換えています。

 

それからおそらく、ガラテヤ3:15の聖句もまた例外措置を受けてしかるべきだと考えられます。この箇所では、(パウロ自身の明確な言明によるものではないにしても)少なくともこの節の関連性により、 'testament'の可能性を考慮するよう私たちは導かれるでしょう。

 

改訂訳聖書の翻訳者たちのこうした試みは、「旧約の中の言明に含まれる様態と、新約の中のそれとを一致させたい」という彼らの願望より為されているのは一目瞭然であり、その願望自体は称賛に値すると思います。しかしある事例においては、そういった願望が先立ちすぎるためか、釈義的諸要求に対する十分な考慮が阻まれている感も払拭できません。

 

改訂訳聖書の出版以降、学会の全体的傾向としては、'covenant'よりも、どちらかというと'testament'の方を支持する風潮が強いといえます。現在も論議中の諸聖句があり(例えば、主の晩餐の箇所など)、こういった箇所などは 'testament'へのさらなる回帰が望ましいと言えましょう。*4

 

「旧いベリート」と「新しいベリート」、あるいは、「旧いディアセーケー」と「新しいディアセーケー」との間の区分

 

「旧いベリート」と「新しいベリート」、あるいは、「旧いディアセーケー」と「新しいディアセーケー」との間の区分は、次に挙げる諸聖句の中に見い出されます。①エレミヤ31:31、②主の晩餐の箇所、それから、③「ヘブル人への手紙」の中でさまざまな言い回しと共に多数に渡り区別がなされています。

 

しかし勿論、こういった諸聖句が(「新約聖書」「旧約聖書」という正典内の二つの部分の間を仕切る私たちの伝統的区分に相当するような)「文献的」区分でないことは言うまでもありません。それはあり得ない話です。というのも、上記の諸聖句が書かれた当初、正典の第二部に相当する「新約聖書」なるものは未だ存在していなかったのですから!

 

また、正典の区別を指し示す聖書的事例として、2コリント3:14が引き合いに出される時があります。というのも、ここの箇所でパウロは古いディアセーケーの「朗読」の事に言及しているからです。「ここで古いディアセーケーが朗読されているということは、つまり、『新しいディアセーケー』の朗読がそれに対応するのだと考えなければならない」と。

 

そして、もしもこの説が正しいのなら、パウロの側で、第二の、新しい正典が形成されようとしていることに対する預言的予知がそこに在ったと私たちは考えるべきでしょう。ですが、この説は、あながち不可能ではありませんが、やはり妥当性は低いと思います。

 

15節をみますと、パウロがなぜ古いディアセーケーの「朗読」の事について語っているのか、その理由が述べられています。そうです、それはモーセの朗読、つまり、律法の朗読のことです。往々にして、律法は、ベリートやディアセーケーと呼ばれていますので、パウロはその朗読を、古いディアセーケーの朗読と呼ぶことができたわけであって、「第二の正典の形成が進行中ですよ」ということを示唆していたわけではありません。

 

要するに、成文の形で存在していた古いベリートが存在し、それと同様に、新しいベリートも存在していました。ですが後者は未だ成文の形として表されてはいなかったのです。

 

ここでの比較は、二つの等しく完成された事柄の間における比較であって、「一方は完全性を有しているけれども、もう一方は未だにその完成を待っている状態にある」ーーそういった二者間の比較ではありません。

 

全区分は二つの経綸、ないしは二つの取り決めの間における区分であり、その二者間にあって、一つはもう一方をはるかに凌いでいます。〔旧約と新約という〕二つの正典の名称は、後にパウロのこの聖句の中に論拠を見い出すかもしれません。ですがそれは依然として厳密性に欠ける解釈に依拠していると言わざるを得ません。

 

第一に、パウロよりずっと後世になってからでさえ、聖書の二部分を区分する上で別の用語などが使われていたとされています。例えば、テルトゥリアヌスなどは未だに「旧い'instrument'」と、「新しい'instrument'」という用語で両者を区分しています。

 

おわりに

 

最後に述べておきたいことがあります。それは、聖書が二重のベリート、二重のディアセーケーについて言及する際、それは、人類の堕落からキリストまでという全期間ではなく、モーセからキリストまでの期間を指す「旧い」契約だということです。

 

ですが、創世記記述におけるモーセ時代に先行するものは、「旧契約」の下にあるいは適切に組み込まれ得るかもしれません。その際、それはモーセ五書の中にあって、「モーセ諸制度の記述に対する序文」という意味合いを持っているでしょう。そして序文というのは本のカバー内に収まっています。

 

同じように、救済論的、掉尾(とうび)的語義の内における 'New Testament'は、キリストの生涯期や使徒時代を超越しています。そうです。それは私たちを含んでいるだけでなく、それを超えてはるかに終末論的、永遠の状態にまで及び、それらを包含しているのです。

 

ー終わりー

 

*1:訳者注:大見出しは著者によるものであり、中見出しは便宜を考え、訳者が作成しました。

*2:訳者注:それから、本書(新装版)p23の下から14行目「Berith may be employed...」から8行下の「And similarly in other connections.」までのセクションの訳についてです。この項は私には意味が不明瞭で、よく理解できず、訳出に試行錯誤したのですが、調べてみると、英語圏の読者も「このセクションの意味が分からない」と他のネイティブの方々に質問していることが分かり(here)、「それなら尚更のこと、ネイティブでない私には理解と翻訳が難しいに違いない」と頭を抱え込んでしまいました。そこで臨時の措置として、フレッド・カール・クーエナー氏が1948年に作成したOutline of Geerhardus Vos's Biblical Theologyでこの項の部分を確認し、その要約文を基に、段落全体のヴォス氏の主旨を曲げないように細心の注意を払いつつ、このセクションを翻訳する代わりに、〔〕付きで、次のような要約文を書きました。 

〔また「合意 'agreement'」という意味においての契約として、ベリートという語が用いられることはあるかもしれませんが、ベリート自体には決して「合意」という意味はないということを覚えておく必要があります。〕

カール氏も記述しているように、ここでの一番の要点は、Berith⇒Never means an agreement, but rather a one-sided promise concluded by a special religious sanction.(ベリート⇒決して、合意という意味は持たず、特別な宗教的執行によって締結する片務的約束。)という点だと思います。あしからずご了承ください。

*3:訳者注:織田昭編『新約聖書ギリシア語小辞典』(p.132)より

διαθήκη, -ης, ἡ (<διατίθεμαι, 処置する、裁量する)

①(自分の判断・裁量で行なう)意志表示、自ら裁量したこと、裁定、取り決め;遺言(書)。

②(一方の主体的裁量や約束を他方が受け入れ服する形での)裁定と受諾の関係、(特に)神の裁量に服して生じる関係、‟聖意志表示→受諾”関係、‟聖裁定→服従”の関係、「ベリート」の関係;(従来の慣例的訳語)「契約」;普通の双務契約や協定、協約の関係を表す語としてはσυνθήκηが使われたのに対し、διαθήκηは旧約聖書のבְּרִיתの意味に(LXXを通して)適用された。

KittelのQuellとBehmの30ページにわたる論文を参照。特にBehmの「διαθήκηとδιάθεσιςの意味は、近接した関係にある」(英訳p.125)は、現代ギリシャ語の Εἶμαι στὴ διάθεσή σας. =I am at your disposal(おっしゃる通りにします)とつながっていて面白い。

訳語の私案として、例えば「新契約」の代わりに(神の)「新裁量」、それから、「契約を立てる」の代わりに「裁量を制定(施行)する」等の訳語が良いと思うが、「契約」やcovenantに馴れた日本人には異様に響くだろうか?

ーーーーー

また、下は『リーデル・スコット古典ギリシャ語・英語大辞典』によるディアセーケーの定義です。

διαθήκη , , (διατίθημι)

A. disposition of property by will, testamentAr.V.584,589D.27.13, etc.; κατὰ διαθήκην by will, OGI753.8 (Cilicia), Test.Epict.4.8, BGU1113.5 (i B.C.), etc.: in pl., “διαθήκας διαθέσθαι” Lys.19.39; “θέσθαι” CIG2690 (Iasus).

II. αἱἀπόρρητοι δ. mystic deposits on which the common weal depended, prob. oracles (cf. διαθέτης), Din.1.9 codd.

  2.name of an eyesalve, because the recipe was deposited in a temple, Aët.7.118.

IIIcompact, covenant, “ἢν μὴ διαθῶνται διαθήκην ἐμοί” Ar.Av.440; freq. in LXX, Ge. 6.18, al.; καινήπαλαιὰ δ., Ev.Luc.22.202 Ep.Cor.3.14; disposition (with allusion to 1), Ep.Gal.3.15, cf. Ep.Hebr.9.15.

IV.=διάθεσις 11, “σώματος δ.” 9.

〔出典〕Henry George Liddell. Robert Scott. A Greek-English Lexicon. revised and augmented throughout by. Sir Henry Stuart Jones. with the assistance of. Roderick McKenzie. Oxford. Clarendon Press. 1940.

*4:訳者注:ディアセーケーを"covenant"と訳すか"testament"と訳すかに関し、ルター派の聖書翻訳委員会(God's Word to the Nations Bible Society)が興味深い論考を発表しています。この委員会は1988年に、ルター派神学の骨格を忠実に翻訳に反映させたThe New Testament: God's Word to the Nations (GWN)という新約聖書を発行したそうです。そして、委員会は、「ルター派神学に忠実な翻訳聖書がなぜ、ディアセーケーを『契約』と訳さないで『遺書』と訳すのか」、その理由を論文の形で発表しています。それによると、祭壇のサクラメント(つまり「主の晩餐」)のルター派理解において、この語を「契約」と訳すかそれとも「遺書」と訳すかの違いは非常に重大だということです。ご関心のある方はDiatheke - Covenant or Testament?をクリックしてください。