巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

さいわいなる不適応者たち――聖書的分離と敬拝(by A・W・トーザー)

目次

 

 さいわいなる不適応者たち!

 

A.W. Tozer, Blessed Maladjustment!(全訳)

 

今日の悲劇は、福音教会が、数的なものによって混乱させられ、また脅かされていることである。彼らは、「現在この世に変化が起こりつつあり、クリスチャンはその変化に適応しなければならない」という信条を受け入れている。ここで用いられている語は adjustment(適応)である。

 

「さあ、我々は何としてでもこの変化に適応・順応していかなければ!」――このようにして彼らは、この世が実際には常に、いわゆる「不適応人」たちによって祝福されてきたという一事を忘れてしまっている。

 

人間の試行的向上に関わるあらゆる分野において、「我、この世に迎合せず!」と勇み立った者たちによってこの世界は前進してきた。古典的作曲家、詩人、建築家などは皆、勇んで適応(迎合)しようとしない類の人々であった。

 

今日の社会は、適応しようとしないあなたを病人扱いするであろう。「カウンセラーの所に行った方がいい」と。

 

イエスは、当時にあって、もっとも不適応な人々の部類にあった。彼はこの世に適応しようという一切のフリを斥けた。彼はこの世のために死に、ご自身の元に彼らや我々を引き寄せるべく来られたのであり、それゆえ、「適応」などというものは、彼にはおよそ無縁なものでなければならなかったのである。*1

 

十字架抜きのキリスト教

 

A.W.Tozer, Crossless Christianity(抄訳)

 

道を誤ったクリスチャンたちが敵どもと友好関係を結び、十字架を社会的に容認されるものにしようとする――。そのような聖くないあがきを私はずっと目にしてきた。これまで何人かの預言者たちが、こういった非道な背信行為に対し、反駁の文章を書いたり、説教してきたが、彼らの警告はほとんど顧みられることがなかった。

 

巷で人気のあるキリスト教運動のリーダーシップは、これまでも、そして今日においても、十字架の意味に対し盲目な人々の手に握られている。これほどまでにひどい闇と光の混合はかつて存在しなかった。彼らはこの世をコピペすることに躍起になり、大胆不敵にも、それと同色化しようと試みているのである。

 

そのような文脈においては、クリスチャンであるために人はただキリストを「受け入れれば」いいのである。そうすれば、「平安」をいただき、天国行きの確実なチケットがもらえる。そうした後、十字架はもう何ら意味を持たず、キリストに何ら権威はない。

 

妥協と共同は、現代キリスト教の顕著なる徴(しるし)である。社会によくなじみ、適応することは、キリストの掟を遵守すること以上に大切なことだとみなされている。

 

媚(こび)とへつらいのスピリットは、今日の聖徒のバッジだ。こうしてこの世とクリスチャンの間には、もはや大した違いはなくなってしまった。しかしこれは偶然の産物ではない。一連のこういった潮流は、したたかに企図されたものである。*2

 

 

驚嘆に満ちた崇敬

 

 A. W. Tozer, Astonished Reverence(全訳)

 

神の臨在およびその近さに対する内なる意識なしに、クリスチャンとして私は長く存在することができなかったと思う。わが魂の中で神に対する畏敬の念を絶えず持ち続け、礼拝の中で言葉に言い尽くせぬ歓喜に喜び溢れることによってでしか、私は自分自身を正しく保つことはできない。

 

残念なことに、神に対する恭しい畏敬という力強い感覚は、今日の教会に抜け落ちている資質である。フェーバーは、神に対する畏れを、「驚嘆に満ちた崇敬」と表現した。

 

それはおそらく、――「聖なる神の前にうち震える罪びとの感じる恐怖」から、「礼拝する聖徒の歓喜に満ち溢れた至福の境地」に至るまでさまざまな畏れや崇敬心を包含するだろう。

 

愛と歓喜と驚きと崇敬とまじりあった、恭謙なる神への畏敬――これが魂の知り得るもっとも至福にして、もっとも清められた感情であると思う。

 

まことの神への畏れは、美しい。なぜなら、それこそが敬拝であり、愛であり、崇敬であるからだ。そしてそれこそが高められた倫理的至福である。なぜなら、神ご自身がそのようなお方であるのだから!*3

 

 

聖徒は孤独な道を歩まなければならない

 

A W. Tozer, The Saint Must Walk Alone(全訳)

 

  

かつて生きた偉大な魂のほとんどは孤独であった。

 

孤独というのは、聖徒がその清い歩みをするべく支払わなければならない代価のように思われる。

 

世界の黎明期に(もしくは、人間の創造という暁の後すぐに襲ってきたあの奇妙な暗闇の中でと言うべきかもしれない)、あの敬虔な魂エノクは、神とともに歩み、そしていなくなった。

 

なぜなら神が彼を取られたからである。またそこに多くの記述こそないが、エノクが彼の同時代人たちとはかなり異なる歩みをしていただろうことは容易に察することができる。

 

ノアもまた孤独な人だった。

 

洪水以前に生きたすべての人類の中にあって、彼は主の心にかなっていたのである。そして彼もまた、同胞に囲まれていながらも、やはり孤高な生涯を送っていたらしいことが察せられるのだ。

 

またアブラハムの周りにはサラやロトの他にも、多くのしもべや家畜の牧者たちがいた。

 

しかし、彼の生涯の記録および彼についての使徒の記述の読んでなお、「あなたの魂は星のように はるか遠くに住んでいる(訳註:ウィリアム・ワーズワースの詩の一節)」――そのような孤高さを彼の内に感じない人がいるだろうか。

 

私たちが知る限り、人の輪の中にあっては、神はただの一言もアブラハムに語りかけなかったのである。

 

顔を地に伏せ、アブラハムは神と親しく語り合った。そして彼持前の威厳が、他人の面前で平伏祈祷することを潔しとしなかったのである。

 

彼が、切り裂かれたささげ物の間を通り過ぎる「燃えるたいまつ」を見たあの晩の光景はいかに甘美で、かつ厳粛なものであったことだろう。

 

あの場においてこそ、、そう、おそろしい暗黒の恐怖が彼を襲うただ中にあってこそ、アブラハムは神の御声を聞き、自分が主の恵みを受けている者であることを悟ったのである。

 

☆☆

 

モーセもまた聖め別たれた人であった。

 

未だパロの宮廷にいた時分にも、モーセは独り長い道のりを歩いていたのだった。そんなある日、彼は人気(ひとけ)のないある場所で、エジプト人とヘブル人がけんかをしているのを目撃し、同胞の助けに走ったのだった。

 

その結果として彼はエジプトを離れることを余儀なくされ、砂漠の地でほぼ完全な隠遁生活を送ったのである。

 

こうして独り、彼が羊の群れを世話していた時、燃える柴の奇蹟が彼の前に顕され、その後、シナイ山の頂において、モーセは独り身をかがめつつ、あの神々しい神のご臨在――雲と火の間にあって一部は隠れ、一部は顕されていた――に立ち会ったのである。

 

☆☆

 

キリスト者以前の時代に生きた預言者たちは、それぞれ性格をかなり異にしているものの、彼らを結び付けていた一つの共通点――それは、強制されし孤独だった。

 

彼ら預言者は同胞を愛し、父祖の宗教に誇りを持っていたが、しかし、アブラハム、イサク、ヤコブの神に対する忠誠心およびイスラエルの福利に対する彼らの熱意が彼ら預言者をして、なかば強制的に群衆から分離せしめ、長期に渡る重苦しい歳月へと至らしめたのである。

 

「わたしはわが兄弟には、知らぬ者となり、わが母の子らには、のけ者となりました」(詩69:8)とある者は叫び、意図せずして残り全ての者の心境を代弁していたのだ。

 

しかしその中でも最も意味深いのは、――モーセや全ての預言者たちが記していたあのお方の――孤独に満ちた十字架への道のり、その光景であろう。

 

主イエスの深い孤独感は多くの群衆に囲まれている最中にあっても、決して慰められはしなかったのである。

 

 

真夜中だった。

オリーブ山の頂では

さきほどまで輝いていた星がかすんでいる

 

真夜中だった。

園では

受難の救い主が 独り祈っておられる

 

時は真夜中だった。

すべてをはく奪され すべてに捨てられ

救い主は ただ独り 恐怖と戦っている

 

愛しておられた弟子たちでさえも

もはや そこにはおらず

主人の嘆きと涙に 心留める者もいない

 

-William B. Tappan

 

  

主は――死すべき人間の視野からは隠された――暗闇の中でたった独り、息を引き取られた。そして、(後になって多くの人が復活された主を見、その事を証言しはしたが)主が死より甦り、墓から出て来られた当初、それを目撃した者は誰ひとりいなかったのだ。

 

あまりにも崇高すぎて神の目を持ってしか見ることのできないものがある。

 

好奇心、騒々しさ、(そして、たとい良い意図ではあっても)的の外れた助言などは、主を待ち望む魂にかえってつまずきを与え、人間の理解を超えた神の使信を、敬虔な心に伝えることを困難にしてしまうのである。

 

時に私たちは、一種の(宗教的)反射作用を起こし、――自分が本当にはそう感じることができておらず、それに関する個人的体験にも欠けていながらも――、それでも生真面目に「もっともらしい」言葉やフレーズを繰り返してはいないだろうか。

 

昨今、とみにそのような傾向がみられる。しかし聖徒の孤独という聞きなれない真理を初めて耳にしたあるクリスチャンは、その紋切り型の忠誠心によって、快活にこう言うのかもしれない。

 

「いいえ、とんでもありません。私は孤独を感じたことなんて一度もありませんよ。だってキリストはこうおっしゃいました。『わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない』そして『見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである』と。そうです、イエス様が私と共におられるのに、どうして孤独を感じたりなどできましょう?」

 

もちろん私はそれぞれのクリスチャンの心の動機や誠実さについて云々言うつもりはない。

 

しかしこういった種類の証しには真実性が感じられないことが多々あるのだ。このように言っている人はおそらく、「経験によって試された上で真と証されたもの」というよりはむしろ、彼がこれが真に違いないと「考えていること」――これに基づいて発言しているのではないかと思う。

 

聖徒の孤独に対しての、こういった明るく快活な否定というのは、その人がまだ一度も、周りの支援や励ましなしに神と歩んだことがないという事実を物語っている。

 

彼がキリストの臨在ゆえに自分に与えられていると主張する「親密な交わりの感覚」というのは、もしかしたら彼に対してフレンドリーな人々の存在に起因しているのかもしれない。

 

でもこれだけは覚えておいてほしい。――人は、「集団で」十字架を背負うことはできないということを。

 

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たとえその人が大勢の人の間に囲まれていたとしても、それでも彼の十字架は彼だけのものであり、彼がそれを背負うという行為が、この人をして他から別たれた人とせしめるのである。

 

周りの社会は、彼に敵対してくるだろう。(仮に敵対されないのなら、彼にはそもそも十字架がないということである。)そして十字架を背負った男と友達になろうと思う人はいないのである。「彼らは皆、主を捨てて、そして逃げ去った。」

 

☆☆

 

孤独の痛みというのは、私たちの生来の性質に起因するものである。

 

神は私たちをお互いのためにお造りになったからだ。それゆえ、人間同士のつながりを求める願望というのはきわめて自然なことであり、また正当なことでもある。

 

クリスチャンの孤独というのは、神を信じない不敬虔な世において彼が神と共に歩まなければならない事に起因し、また、神とのその歩みというのは、往々にして彼を、新生していないこの世との交わりからも、そして善良なクリスチャンとの交わりからも隔絶に至らしめることすらあるのだ。

 

しかし彼の(神より与えられし)本能は、自分と志向・思いを同じくする仲間を求め叫ぶのだ。――ああ、自分の切に求めているもの、この情熱、そしてキリストの愛に捕えられた私のこの思いを理解してくれる仲間がほしいと。

 

しかし現実には、彼のこういった内的経験を真に理解し、共有してくれる人は彼の周囲にほとんどいない。

 

それゆえに、彼は孤独な歩みをせざるを得なくなるのだ。

 

過去に生きた預言者たちも同様に、仲間の理解を求め、それを切望していたがそれは満たされることがなく、彼らはその事を嘆かずにはいられなかったのである。そして主ご自身でさえも、同じような苦しみを味わわれたのだ。

 

☆☆

 

真に内的経験をし、主のご臨在のうちに入った人は、自分のことを理解してくれる仲間を見いだすことに困難を覚える。

 

もちろん、定期的な教会の集まりの場などで、ある程度の社交的付き合いはできるだろう。しかし真に霊的な交わりを見いだすことは非常に難しい。しかし彼はそれ以外の状況を期待すべきではない。

 

、、この人は旅人であり、巡礼者なのだから。そして彼の歩んでいる旅路というのは足ではなく、彼の心の内で進行しているものなのだから。

 

彼は自分の魂という園において神と共に歩んでいる、、そう、神以外の誰が彼と一緒にその園の中を歩めるのだというのだろう?

 

主の宮の外庭を出入りしている群衆とは異なるスピリットを彼は持っているのだ。

 

そして彼は外庭にいる群衆が聞いたことしかないものを実際に目で見、――神殿から出てきたザカリヤを見た人々が、「彼は幻を見たのだ」とささやいたように――そのような特異な歩みをしているのである。

 

☆☆

 

真に霊的な人というのは、何といっても「変わり者」である。この人は、自分のためには生きておらず、その代わり、別のお方――この方に人々の関心が向けられるよう、その事だけに邁進している。

 

また「全てをこの主に捧げ尽くし、自分のためには何も求めてはいけない」と人々を説得しようとしてもいるのである。

 

彼は自分に栄誉が帰せられるのは嫌がる一方で、救い主イエスが人々の目に崇められるのをひたすら望んでいる。主が注目され、自分自身は目立たぬ所にいることがこの人の喜びである。

 

こういった彼の心にある最大の関心事を共有し、話題にしてくれる人はほとんどいないため、彼は往々にして、がやがやした宗教談義の間中、じっと黙りこくり、上の空であることが多い。

 

そのため、次第に「この男は、なんとも面白みがなく、まじめすぎる」という定評が立ち、人から疎んじられるようになり、こうして、彼と周囲の世界との隔たりはますます拡がってゆく。

 

また彼は、象牙の塔の中にも、没薬、沈香、桂皮の香りのする「似た者」を嗅ぎ分け、仲間を得ようと試みもするが、結局、古(いにしえ)のマリアのように「これらのことをすべて心に納めて思いを巡らせて」いるような人はほとんど皆無であることを知るのだ。

 

しかしこの孤独こそが、再び彼を神の懐に飛び込ませるのだ。「たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう」(詩篇27:10)。

 

人のうちに仲間を見い出すことができない――この事実が彼を神の元へ向かわせ、神の内にのみそれを求めさせるのである。

 

そして内なる静けさの内にあって――彼は人込みの中にいては学ぶことのできなかったであろう――次の事を知るのだ。

 

つまり、キリストこそが全ての全てであり、キリストこそ私たちにとっての知恵、義、聖め、贖いとなってくださったこと。そしてキリストの内に私たちは人生の至高善を宿しているということを。

 

☆☆

 

ここで二つの事を付け加えておきたい。

 

一つ目は、これまで述べてきた「孤独な聖徒」というのは、高慢な人ではなく、また(大衆小説で痛烈に風刺されているような類の)独善的でいかめしいクリスチャンの事を言っているのでもない、ということだ。

 

逆にこの人は自分の事を他の誰よりも取るに足りない者だと感じ、「私が孤独なのは、きっと自分に何か問題があるのかもしれない」とむしろ自分を責めているであろう。

 

また彼は自分の気持ちを他の人々と分かち合い、自分の事を理解してくれそうな何人かの魂に心を打ち明けたいと願っている。しかし現在彼を取り囲む霊的環境は、そういった事をなかなか彼に許さない。

 

それゆえ、彼は引き続き、沈黙を保つことになり、ただ神にだけ自分の嘆きを打ち明けるのである。

 

☆☆

 

二つ目として、孤独な魂は「世捨て人」ではない。

 

彼は人類同胞の苦しみに対して心を閉ざし、ひがな天国の黙想だけに時間を費やしているような隠遁人ではないのである。

 

いやむしろ、事実は全くその逆なのだ。彼は自分が孤独であるからこそ、心に痛みのある者、罪に傷つき倒れている者たちに対し、慈しみと同情の心をもって近づくことができるのである。

 

そして彼はこの世から分離しているがゆえに、尚更、そういった人々を助けることができるのだ。マイスター・エックハルトは弟子たちに次のように言ったそうだ。

 

ーーもしあなたがたが深い祈り、、それも第三の天に引き上げられたかのような深い深い祈りの内にありながらも、その時ふと、貧しい一人のやもめが食べ物を必要としている事を思い出したのなら、その祈りをただちに止め、やもめの助けに走りなさい。「あなたは(帰ってきてから)再び祈り始めればいいのであって、主もまた十分に補ってくださるのです。」

 

こういった態度は、パウロから今日に至るまで、内なる生活を実践する偉大な神秘家や信仰者のうちに典型的にみられるのだ。

 

☆☆

今日、多くのクリスチャンの弱点というのは、彼らがこの世にあまりに馴染みすぎ、この世に対し、すっかり「住み心地良さ」を感じてしまっていることにある。

 

キリストを知らないこの社会になんとか自分を平和的に「適応させよう」と努めた結果、彼らは「旅人」としてのクリスチャン本来のあり方を失ってしまった。

 

そして元々彼らは、この世の倫理秩序に「再考」および「反省」を促すべく主に遣わされた者であったはずだが、悲しいかな、今となっては逆に、その倫理秩序を構成する重要な一員にさえなってしまっているのだ。

 

それゆえ、この世はそういう彼らを評価し、受け入れるのである。ああ、これほど悲しいことがあるだろうか。だから、そういうクリスチャンは孤独ではない。しかしまた、聖徒でもないのである。

 

 

ーおわりー

*1:

 

*2:

*3: