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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

山々を見、永遠性に心を馳せ、神の栄光を想う。(ジョン・マクダフ)

 

Mount Kinabalu

翠嶺(すいれい)

 

 

John MacDuff, The Glory of God(全訳)

 

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ジョン・マクダフ(John MacDuff, 1818-1895)は、19世紀のスコットランドの説教者です。

 

「山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です」(詩篇90:2)。

 

おおわが魂よ!全能なるお方への思いであなたの心を満たしなさい。神の栄光の計り知れない海原の中に自らを沈めなさい。

 

「あなたは神の深さを見抜くことができようか。」(ヨブ11:7)。アメーバが海洋を測深することができましょうか。そして虫けらが天空を測ることができましょうか。

 

有限なるものがいったい無限なる方を把握することなどできるのでしょうか?――死すべきものが不滅のお方を。

 

いいえ。私たちはただ、岸なき海の淵に立ち、「おおなんという深さよ!」と叫ぶことしかできないでしょう。それは、永遠性という偉大にしておそるべき奥義のヴェールに覆われた「とこしえより存在するもの」なのです。

 

一つの星がその天体を公転する前に、そして、ひとりの御使いがその羽を羽ばたかせる前に、神はすでにそこに存在しておられました。神の無限なるご臨在は天体すべてを満たしているのです。全時間性は、神にとっては、瞬間的息のうねり、脈拍の一音、眼のまばたきにすぎません。

 

被造物に与えられているもっとも崇高な遺産である至福の永遠性――これはその本質において漸進的です。そしてこれは幸福や栄光の度合いに応じて前進することを認めます。

 

しかし偉大なる創造主の永遠性はそうではありません。神は時間の誕生する以前にすでに完全であられ、「もはや時が存在しなくなる」時にあっても神は依然として完全であられます。

 

そしてそれは、神が、茫漠とした無限なる空間にひとりお住まいになっていた時にも、主の耳もとに鳴り響く御使いや御使いのかしらの調べと共におられる今も、変わらず完全であります。

 

しかし、誰がこの方にふさわしい賛美を捧げ尽くすことなどできるのでしょう?私たちはせいぜい主の栄光のほんのさわりの部分をいくつか列挙できるにすぎません。

 

他の人に勝って神に対面したモーセであってさえも、「どうか、あなたの栄光を私に見せてください」(出エ33:18)と祈らざるを得ませんでした。また他の人に勝って神を深く知っていたパウロであってさえも、「かくて(ますます深く)キリストを知る〔塚本訳〕;that I may know Him」(ピリピ3:10)ためです、と祈らざるを得ませんでした。

 

「神に関する最も安全な私たちの修辞は」とフッカーは言います。「それは私たちの沈黙です。そうです、告白の言葉なき告白をするその時、それが、神の栄光は言語を絶するものであるという私たちの告白になります。」

 

そして私たちは、この存在者に向かい、もっとも甘美なる確信の内にこの方を見上げ、「わが御父よ」とお呼びすることが許されているのです。これはまことに驚嘆すべきことではないでしょうか?

 

「実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできない」(1列8:27)この無限なる方に、私は「わが神よ」と呼びかけてさしつかえないのでしょうか?

 

信仰者よ、あなたが神の栄光をみながらも尚も生きながらえている、その事を可能にしている仲介者のことに思いを巡らせなさい。

 

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(ヨハネ1:18)。

 

近づくこともできない光の中に住まわれる主(1テモテ6:16)は、「神はわれらと共におられる」インマヌエルなる方のご人格の内にある、神の栄光の御住まいより来られます。

 

見えない神のかたちであるキリストの内にあって(コロサイ1:15)、被造物――そうです、罪びとたちは――神性の耀きを見つめることができるのです!

 

この真理をあなたのものとして、主に栄光を捧げなさい。そしてあなたの存在に託されている偉大なる企図をいかにして全うしていくことができるのか主に求めなさい。あなたの言葉や生き方、行動、目的、苦難、喪失、それら全てをもって神への讃美へと高揚させましょう。

 

もっとも至高なセラフもこれより高く、崇高なる目的を持つことができません。――そうです、神の栄光。そしてこの方の前に彼は自らの冠を投げ出します。

 

さらに神は、贖われていない御使いではなく、あなたに対し次のことをおっしゃっています。「わたしは自分自身をあなたに与えた」と!

 

そして全能なる方が被造物に与えることのできる恩恵の内これほど強力なものはないこの賜物こそ、(それよりは必要性のない)あらゆる他の祝福および、受ける必要のないあらゆる試練を差し押さえるための保証です。

 

この方の栄光、父のみもとから来られたひとり子としての栄光(ヨハネ1:14)を仰ぎ見るようあなたが召されている間、たえずそのご性格に思いを潜めてください。――それはきらびやかな豪華さによってあなたを愕然とさせるような栄光ではなく、その美しさによってあなたの心を魅了し捉えるような栄光だということを。実にそれは「恵みとまこと」に満ち満ちています(ヨハネ1:17)。

 

そうです、主こそ、契約の内にあるあなたの神です。「永遠の腕が下に」(申33:27)。

 

こうしてあなたは安らかなる心で夜のまくらに頭を横たえ、安全さという甘美なる御約束を胸にこう言うことができるでしょう。「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」(詩4:8)。