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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「『教会では、妻たちは黙っていなさい』(1コリ14:34)の箇所は、後代の筆記者による挿入句であり、神のみことばではありません」という主張はどうでしょうか?【キリスト教リベラリズムへの下り坂としての福音主義フェミニズム】

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Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 7より翻訳

 

ゴードン・フィーは、第一コリント人への手紙の註解書の中で、「パウロが1コリント14:34-35を書いたのではない。この箇所は後代の筆記者によって書き加えられたものである」という事を述べています。

(Fee, First Epistle to the Corinthians (1987), 699-708. 尚、レベッカ・グロースイスは、Good News for Women, p205において、フィーのこの見解を「一つの可能性」としては言及していますが、明確にそれを受容も拒絶もしていません。)

 

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 「ここの聖句に反する証拠というのは非常に強固であり、これらの意味を見い出すに当たっての可能な解決も難しい。それゆえ、この箇所を『挿入句』とみるのが最善でしょう、、、

 最初、誰かが欄外の余白にこの箇所の言葉を書き加え、おそらく、その人は、1テモテ2:9-15に照らし合わせ、パウロの出した指示にさらなる権限を与える必要があると感じた――そう捉えるべきでしょう。」(同著p705)

 

ここでのフィーの主要な主張点は、

―後期のギリシャ語写本類は、40節の後にここの聖句を続かせるべく、これらの聖句を移動させている。

―そしてここの聖句は、パウロが女性たちに教会内での預言活動を許している1コリント11:5と折り合いをつけることができないから、というものです。

 

回答1.新約聖書のギリシャ語写本の中でここの聖句が抜けている写本は皆無です。そして必ずしも、ここの箇所がパウロが他の箇所に書いている内容と相反しているわけではありません。

 

フィーのこの議論は、これまで強固に拒絶されてきました*

 

*フィーのこの説に対する反証論文としては、Anthony C. Thiselton, First Epistle to the Corinthians, 1148-50を参照ください。この論文の中で、Thiseltonは特にC.Niccumの論文"The Voice of the Manuscripts on the Silence of Women: The External Evidence for 1 Corinthians 14:34-35," New Testament Studies 43 (1997), 242-55に言及しています。また別の反証論文としては、D.A.Carson, "Silence in the Churches," in Piper and Grudem, Recovering Biblical Manhood and Womanhood, 141-45を参照ください。)

 

訳者注:D・A・カーソンによる反証論文は↓に掲載されています。)


 

どの世紀の、どんな種類のギリシャ語写本であれ、ここの箇所が抜け落ちている写本は皆無です。(40節の後に続けるべく移動させてあるウェスタン写本は他の箇所においてもとにかく信頼性のないものです。)

 

そして実質上、これまで全てのキリスト教会史に渡り、聖書解釈者たちはさまざまな方法で、1コリント14:34-35と、11:5に折り合いがつくような聖句の読み方をしてきました。

 

ですからフィーは、不当にもこの二か所が「和解不可能」だと見ており、それがここの聖句の信憑性に異議を差し挟む彼の主要な主張点なのです。

 

ここの箇所に限らず、良く知られた新約聖句の多くは、一見したところ、その他の諸聖句との折り合いがついていないようにみえます。しかし、より注意深い精読と研究を通し、それらの箇所が互いに調和していることが分かってきます。本記事で取り上げているこの箇所もそれに該当します。

 

古代の写本すべてに記載されているここの聖句が、聖書の一部ではないので、それゆえ、「これはもちろん、クリスチャンには適用されないものです(Fee, First Epistle to the Corinthians, 708)と結論づけているフィーのこのような見解に、福音主義クリスチャンは不穏の情を抱いているはずです。

 

これまで現存してきたすべての写本の中でこの箇所はこれまでずっと聖書の一部として存在してきたのです。ただ単に解釈するのが難しいからといって、その箇所を切り取ってしまうというようなことはできない話です!

 

回答2.これは――神の御言葉の一部の権威を取り去る結果をもたらす――洗練されたアカデミック手腕です。

 

ある人々は、フィーのこの見解は、彼が多種多様な古代写本を注意深く分析した結果至った本文批評的な結論なのではないかと思っているかもしれません。

 

しかし次に挙げる二つの理由により、私はこの議論は、むしろ、これらの聖句が今日の教会に対する権威であることを拒絶させるべく立ち働いている異種のメソッドであるとみています。

 

(私はフィー自身の意図がどうであったかということを言っているのではありません。実際、私はフィーの意図を知りません。ここで私が指摘しているのは、フィーが辿っている実際のプロセスおよび彼が到達した結果についてです。)

 

要因その1.

(1コリントの他の箇所で信頼性のない2、3のウェスタン写本は、40節に続けてこれらの聖句を移動させているものの)、今日現存している何千という古代新約聖書写本の中で、ここの聖句を省略している写本は皆無です。

 

そしてこの事実は、フィーが「聖書本文伝統に何かオリジナルでないものが紛れ込んだ事例*」としてパラレルに例示している他の二つの聖書箇所(A. ヨハネ5:3b-4および B.1ヨハネ5:7)と、1コリント14:34-35は非常に異なる性質のものであることを示していますFee, First Epistle to the Corinthians, 705.

 

AとBの事例では、たしかに一番古い写本および最良の写本に、付加された聖句部分が欠如しています。しかし、1コリント14:34-35においては、この聖句部分が欠如している写本はまったく皆無なのです。

 

ですから、フィーがここで取っている手順というのは、歴代を通し、ギリシャ語新約聖書の編集者たちによって採られてきた本文批評の決定のどれとも異なっています。

 

驚くべきことにフィーは、現存するすべての写本に含まれている新約聖書の聖句を排除すべきだと考えているのです!

 

それに実際、この箇所は特に信憑性が疑わしいとされているテクストでもなく、『United Bible Society 新約聖書第4版*』ではBランクが付与され、そこには「ほとんど確実("almost certain")」(UBS4, p.3*.)と記載されています。(*The Greek New Testament, 4th rev.ed., 601)

 

要因その2.

フィーをこの結論に至らしめている最も決定的なファクターは、古代写本からの資料というよりはむしろ、「教会では、妻たちは黙っていなさい」(1コリ14:34)というここの聖句と、1コリント11章の両者を和解させるのが不可能だと彼が考えていることに原因しています。

 

そしてここからうかがえるのが、論点は究極的に、本文批評的な問題に在るのではなく、ここの聖句の内容に対する彼の反発に在るということではないかと思われます。

 

現にフィーは次のように書いています。「〔1コリント14章の〕ここの聖句は、1コリント11章2-16節と明らかに矛盾しています。後者では、とがめだてすることなく、女性たちは集会の中で祈ったり預言したりすることが前提されているのです。」(Fee, First Epistle to the Corinthians, 702)。

 

しかしこの地点で、フィーの手順はすべての福音主義聖書解釈者たちと異なっています。聖書の中には、一見したところ、他の諸聖句との折り合いがつけにくくみえる箇所が少なくありません。

 

そして歴史的に、聖書の権威および一貫性に対し、非常に高い敬意を払ってきた解釈者たちは、ある一群の聖句が他の一群と「明らかに矛盾している」として、難しい聖句をお払い箱にし、聖書から追放するようなことはしてきませんでした。

 

もしも私たちが福音書においてこういったフィーの手順に倣い始めるのなら、一体どういう事態が発生するようになるのかを想像してみてください。

 

フィーが1コリント14:34-35を別の文脈に移動させようとした写本を見い出したように、現存する福音書写本の中には、詳細部分において調和が難しいと考えられるパラレル聖句を、筆記者たちが「修繕」しようと試みているいくつかの写本証拠があります。

 

しかしフィーとは対照的に、歴代の解釈者たちは、「自分たちこそ、もしかしたらこの箇所の解釈を見誤っているのかもしれない」と仮定した上で、もう一度その難しい聖句に戻り、両方の聖句に対し公正かつ、矛盾のないような解釈を見い出そうと努めてきました*

 

*フィー自身、1コリント14:34-35を1コリント11章と矛盾させないような仕方で解釈してきた人々の例を挙げてはいるものの、結局、それらを拒絶しています。)

 

そうすると、1コリント14:34-35に対するフィーの解決策は、聖書の権威を拒絶するリベラル主義傾向を証左しているのでしょうか?それに対し、読者のみなさんお一人お一人が判断をすべきでしょう。

 

「難しい諸聖句を、他の箇所と矛盾しないような仕方で理解しようと努めるよりは、むしろそれらの聖句を聖書から取り除いてしまおう」というこういったフィーの提案によって、危険な前例が作られています。

 

前述しましたように、彼が聖書から追放しようとしている聖句は、どの写本にも含まれており、また折しも、ここの聖句は、「聖徒たちのすべての教会」における男性による集会統治をパウロが主張している、まさにその箇所でもあります。

 

そこから考えますと、フィーのこの手順もまた、その他多くの対等主義著述の中に見られる定型パターン――神の御言葉の権威に従うことに対する聖書の要求を巧みに逃れるべく、学者たちが洗練された手腕で推し進めている例のパターン――を示すもう一つの実例なのではないかと思わされます。

 

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