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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「字義的」それとも「文字通り」?――"Literal "という用語に関する本ブログの方針について(私の試験的な試みです♡)

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現在、"literal"の訳語である「字義的」「文字通り」という言葉をめぐり、福音主義界でかなりの混乱と意思疎通の行き違いが起こっています。

 

ある方々は、「"Literal"な解釈」というフレーズを文法的・歴史的解釈と同義語的に使っています。あるいはそういう風に使っていると認識しておられます。

 

しかしながら近年の研究により、少なくとも古典的ディスペンセーション主義体系の中で"Literal"という語が用いられる際、その中身はけっして一通りではなく、複合的ファクターが交互に入り混じった多義語であることが指摘されています。ウェストミンスター神学大のV・ポイスレス氏は、その多義語性を以下の4つのカテゴリーに分類しています。

 

A) 通常の文法的・歴史的解釈で使う意味における"literal"

B) 《最初に頭に浮かぶ型解釈("first-thought" interpretation)》で使う意味における"literal"

C) 《平べったい解釈("flat" interpretation)》で使う意味における"literal"

D) 《プレーン解釈("plain" interpretation)》で使う意味における"literal"

 

*上の4つの解釈の詳細については以下の記事をご参照ください。

 

 

この点に関し、一つ実例をあげたいと思います。ディスペンセーション主義の立場にたっておられるある先生が、無千年王国説に関し、次のような説明をしておられます。

 

Amillennialism(無千年王国説)

(1)「A」は、「No」という意味である。

①無千年王国説は、地上に文字通りの神の国が出現するわけではないとする。

②この意味での神の国は、今の時代の教会からなっている。

③メシアの再臨後、すぐに永遠の秩序が始まる。

 (引用元

 

 

さて、①で、この先生は、「無千年王国説は、地上に『文字通りの』神の国が出現するわけではないとする」と定義しておられます。

 

しかしながら皆さんご存知のように、無千年王国説は、realized eschatologyの立場から、神の国は「すでに(already)」この地上に出現しているけれども、その究極的完成は「いまだ(not yet)」到来していないと捉えています。

 

さあ、大変です。ここで深刻なコミュニケーション障害が起こっています。

 

ディスペンセーション主義者Aさんの頭の中での「文字通り」によれば、無千年王国説者は、地上に神の国が出現するわけではないと考えている、となります。そしてそれはAさんの中ではまことに真なのです。

 

しかし無千年王国説者のBさんの頭の中での「文字通り」によれば、今すでに神の国は地上に出現しているのです。そしてそれはBさんの中ではまことに真なのです。

 

ここでの両者の行き違いは、「文字通り」という言葉を、AさんとBさんが異なった風に捉えていることに端を発していると思います。

 

つまり、「文字通り」というのを、一つの大きなリュックサックに譬えるなら、Aさんは自分のリュックの中に青色の貝殻を詰めており、一方のBさんは、その中にオレンジ色の紅葉(もみじ)を詰めているのです。意味論上の問題がここに発生しています。

 

ですから、冒頭の①の説明が仮に、

 

「無千年王国説は、地上に〔ディスペンセーション主義体系の定義するところの『文字通り』という意味における〕神の国が出現するわけではないとする。」

 

と記述されていたならば、公正さや中立性という点でクリアーな説明になっていたのではないかと思います。

 

しかし literalという語が出てくる度に、そのような長々しい註書きを加えることは困難ですし、それぞれの著者が、上に挙げたA )B )C )D)の内、一体どの意味でliteralを用いているのか判別することもまた困難です。

 

私は翻訳者としてできる限り、正確さと公正さを訳文の中に反映していきたいと願っています。

 

そのため、現在、非常な混乱とミスコミュニケーションの原因ともなっているこの"literal”という語の翻訳について熟考しています。こういった「言葉の意味の確かめ合い」というのは、人と人が互いに相手を理解し、愛し合っていく過程でとても大切なプロセスだと思うからです。

 

そこで私は、本ブログにおいてとりあえず次のように術語の訳し分けをすることにしようと思います。

 

①literalを「字義的」と括弧くくりで訳出する場合。

②literalを文字通りと訳出する場合。

 

①の場合は、ディスペンセーション主義体系の理解するところのliteralという語の訳出です。

 

尚、字義的という形容詞をカギ括弧表記してある理由は、その「字義的」という語が、多義語的な要素を帯びており、従って、A)B)C)D)4つの異なる意味のどれかに該当するかもしれないという複合的ニュアンスを含意させるためです。

 

そして②の場合は、非ディスペンセーション主義体系の理解するところのliteralという語の訳出表記として用いようと思います。

 

(別の先生方は、①を(極端な)字義的解釈と表記しておられるようです。しかし極端なという形容の仕方はディスペンセーション主義の《外側から》見た場合はたしかに妥当であったとしても、この体系の《内側》にいる人々の観点でいえば、「いいえ。私たちは『極端な』字義的解釈をしているのではなく、あくまで、『忠実な』字義的解釈をしているのです」となると思うので、う~ん、どうなんだろうと困惑しています。かといって、括弧もなにも付けずに字義的解釈と表記するには、この語にはすでにあまりにもディスペンセーション神学という特定神学のエッセンスが詰め込まれ過ぎていて中立性を逸していると思うので、やはり表記上、なにかが必要ということは分かるのです。さあ、どうしたものでしょう?)

 

尚、この混乱状態に光を照らしてくださるような、より優れた方針を打ち出してくださる方がいらっしゃいましたら、今後、それらの方々に倣い、私もliteralの訳語に関する改訂とアップデートをしていきたいと思っています。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

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