巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ㉑ 「キリストにあるイスラエルの成就」(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

 

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いのち、そして有機体

 

Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

 

古典的ディスペンセーション主義を特徴づける中心的原則は、イスラエルと教会の「パラレルにして別々な宿命」という原則です。それによると、イスラエルと教会は神の二つの民であり、一つは地上的、もう一つは天的です。

 

この章では、この原則を組織神学の観点からご一緒にみていきたいと思います。しかし覚えていただきたいのは、現在、多くのディスペンセーション主義者はパラレルな二つの宿命というこの原則を修正しています。それゆえ、本章の考究はそういった方々には当てはまらないかもしれません。

 

一方、この「二宿命原則」を保持しておられる方々にとって、その原則への最も鋭利にしてダイレクトな挑戦は、キリストにある成就に関する聖書的教えの省察より生じてきます。

 

旧約の約束の相続人になる(BECOMING HEIRS TO OLD TESTAMENT PROMISES)

 

すでに前の章で私は、旧約の預言的御約束と教会との関連性について述べました。「教会はイスラエルの直線的連続だ」などと私たちが露骨で短絡的な主張をしないのでしたら、この主張は強固なものになります。

 

私たちは、諸約束の成就の中心点としてのキリストご自身のやり方に従うべきです。そして、キリストは完全なる意味においてイスラエル人です。

 

実際、すべてのイスラエルが不忠実さゆえに拒絶されても(ホセア1:9)、キリストは究極的に忠実なるイスラエル人――究極的「残された者」としてとどまります(参:イザヤ6:11-13、11:1)。

 

それゆえ、2コリント1:20は、「神のお立てになった御約束がどんなに多くても、それらはことごとくキリストにおいて『しかり。』となる」と言っています。

 

そうなると次のような問いが残ります。「イエス・キリストとの合一は、クリスチャンに何をもたらしているのでしょうか?」

 

教会は、キリストとの共同相続人にされた(ローマ8:17)ということも含め、キリストを通した神の祝福の全き満たしを受容しています(エペソ1:23、コロ2:10)。

 

つまり、私たちは主が相続されたものを相続しているのです。そしてキリストがアブラハムの子孫であるゆえ、私たちはアブラハムの子孫です(ガラ3:29)。さらに主と一つにされていることにより、私たちは全世界を所有しています(1コリ3:21-23)。

 

そしてこれは、キリストとの合一の性質についての考察によってさらに強化され得ます。

 

キリストと一つに結ばれることは、親密にして、個人的で、経験的なものです。しかしそれだけではありません。キリストとの合一は、それに公同的次元(corporate dimension)をも加えるものです。

 

教会は、それぞれのメンバーのキリストとの合一、および互いの間の合一によって形成される公同的有機体です。

 

しかしパウロはキリストとアダムとの間のアナロジー(類比)を指摘することにより、私たちの視野をさらに拡げています(ローマ5:12-21、参:1コリ15:45-49)。

 

アダムの堕落は、完全に人であるお方――新しい人類のかしらとして立っておられる人――によって克服され、覆されました。古い人類(アダムに結ばれていたすべての人)は、ひとりの人アダムを通して罪と破滅と相続権・交わりのはく奪状態へと落ち込みました。

 

それに対し新しい人類は、「最後のアダム」であるイエス・キリストを通して義、救い、相続、神との交わりを得ました。

 

神の民とは、イエス・キリストが彼らのかしらとして代表し、仕える人々です。先に私たちは御約束の相続について考察してきました。しかし、相続というのは、より壮大な鳥瞰図の一部分に過ぎません。そしてこの壮大な鳥瞰図というのが新しい人類のことなのです。新しい人類は、アダムの堕落とは対照的に、義、救い、相続、交わりを受けます。

 

神の民の合一は、イエス・キリストというひとつのかしらの合一によって保証されています。私はこれについて前の章で述べました。

 

しかし今、この事実が、古典的形態のディスペンセーション主義者にジレンマを与えています。幾人かのディスペンセーション主義者は無防備な発言をしていますが、彼らは救いには一つの道しかないということを保持しようとしています。

 

すべての経綸において、救われる人は誰でも、神の御約束にある信仰により、主の恵みによって救われます。しかし仮に私たちがこの救いの道についてさらに深くさらに詳細に述べようとしているとしましょう。

 

それは神の恵みによります。しかしその「恵み」とはどういう意味でしょうか?義なる神が不義なる者を救うことが一体どのようにして可能なのでしょうか?

 

神の恵みは、イエス・キリストの代理的贖罪と密接な関係があります。また恵みは、キリストがご自身の使命を完了される前にすでに与えられていましたが、それはその御働きを予知する中で与えられました(ローマ3:25)。

 

それでは信仰とはどういう意味なのでしょうか?信仰とは信仰のための信仰でもなく、空虚なものへの信仰でもありません。それは神の御約束に対する信仰であり、イエス・キリストによって完全に成し遂げられる救いの日を指し示す、ご自身の契約的公約(commitments)に対する信仰です。

 

そしてこの御業が成し遂げられる時、私たちは、イエス・キリストの御業は最後のアダムの御業であることを見ます。そして、救いに関わるひとつの働きの合一は、キリストにあって救われた新しい人類の合一を含意していることを見い出します。

 

ゆえに、そこから導き出される結論は、神の一つの民ということになるでしょう。この点に関し、ダニエル・P・フラー(1957, 178)は、このジレンマのことを次のように明確に表現しています。

 

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Daniel. P Fuller

 

「、、、彼ら〔ディスペンセーション主義者〕は、救いは〔神の御言葉への信仰そして血潮により〕いつも同一の方法で施行されると考えたいと望んでいます。その一方、彼らはこの考えから導き出されるロジカルな結論、つまり、救われた人皆が、〔イスラエルも教会も差異なく〕同じ立場にある、ということは受け入れようとしたがっていません。」

 

救いからイエス・キリストの公同的合一へ(REASONING FROM SALVATION TO CORPORATE UNITY IN JESUS CHRIST)

 

このジレンマは――救いの側面から始まり、公同的合一で終わる――、一連の漸進的諸段階を提示することでより一層明らかにされるでしょう。

 

その各段階において、私たちはキリストとの合一がひとつにして唯一の祝福の手段であることを強調します。

 

さて最初の地点において、私たちが救いの側面を考える際、ディスペンセーション主義者は、救いの方法における統一性を保持すべく、合一に対する強調に進んで同意しようとします。

 

そして終点において、私たちが公同的合一の側面を考える際、ディスペンセーション主義者は「神の二つの民」という自らの思想を取り壊さなければならないという状態に気づきます。

 

ではまず初めに、救いの側面としての義認について考えることにしましょう。救われる者は信仰によって義とされます。さらに義認は究極的に代償的行為です。キリストの義が私たちにとって肝要であり、私たちの罪はキリストの上に置かれました。私たちは「キリストにあって義と認められ」ています(ガラ2:17)。

 

次に、変えられたいのちの力もまたキリストより来ます。私たちは「キリストにあって聖なるものとされ」ています(1コリ1:2)。また霊的な実はキリストの内に宿ることによって流れ出てきます(ヨハネ15章)。ここでのキリストとの合一の言語は、ガラテヤ3章のそれと非常に類似しています。

 

この義認に関する文脈の中で、パウロは私たちが「キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」(ガラ3:26)と言っています。そしてパウロは続けて私たちは「みな、キリスト・イエスにあって、一つ」(ガラ3:28)と言っています。

 

そしてさらに鋭く公同的強調をもった表現を見い出すことができます。私たちは「一つのからだとして」和解し(エペソ2:16)、「キリストにあって」「一つのからだ」(ローマ12:5)、「キリストのからだ」(1コリ12:27、エペソ1:23)となりました。

 

キリストとの合一は、(義認、子とされること、聖化を含めた)「救い」と、「公同的合一」その両方がしっかりと織りなされる形の、有機的な関係です。

 

人はキリストとの合一なしには救われ得ず、キリストとの合一は、神のひとつの民の一部になることを意味します。

 

しかしディスペンセーション主義者は、旧約の神の民は現代の私たちと同じような仕方ではキリストとの合一を享受していなかったということにすぐに気が付きます。

 

――キリストはその時はまだ受肉されておらず、死んだ後に復活もされておらず、聖霊のお遣わしになっていなかった。それらは全てその通りです。

 

しかし旧約においては人々はどのようにして救われていたのでしょうか?彼らはそういった事柄への待望により、またそれらの効力の一種の予備的「後方作用(“working backward”)」によって救われていました。そしてディスペンセーション主義者であれ非ディスペンセーション主義者であれ、救いの道の統一性(unity)を主張する人は、何らかの形でそのことを認めなければなりません。

 

しかしそれはまた私たちを次の結論にも導きます。つまり、イスラエルと教会の間の相違というのは根本的に、救いを完遂すべくキリストが来臨される「前」と「後」における神の民の間の相違であるということです。

 

それはユダヤの血統の人々の将来についての問いによっても、別の方法でその含意が見い出されるでしょう。こういった人々はどのようにして救われ、そして彼らの相続に与るのでしょうか?今やキリストがご自身の業を成し遂げてくださり、救いはもはや予型や影、予測や予兆といった事柄ではなくなりました。

 

救いはキリストとの合一によるものであり、それ以外の方法はありません。そしてその救いは、現在であれ千年王国期であれ、ユダヤ人および異邦人をして、キリストの「構成員」と成さしめます。

 

彼らは新しい人類として公同的にひとつです。それゆえに、キリストというひとつのかしらの下にあるこういった新しい人類を二つに引き裂くということはもはや考えられないという事になります。

 

そして、私たちは千年王国を眺望する時、そこにおける救いが――最後のアダムであるイエス・キリストというひとりの人との合一であるにもかかわらず、その合一が、「一つは地上に、もう一つは天にあるという《二つの相続》、《二つの宿命》をそれぞれ持つ、《神の二つの民》」という区別によって弱体化される、というような事をもはや考えることができなくなります。

 

将来的な探求のための他の領域(OTHER AREAS FOR POTENTIAL EXPLORATION)

 

これまでディスペンセーション主義者との実り多い対話の場を作り出す上でもっとも大切だと思われるポイントに触れてきました。

 

この章ではさらなる探求のための、その他のポイントを提示したいと思います(その中のいくつかはすでに少し言及しています。)ある場合には、少なくとも、こういった論点は、アプローチのための相補的方法を提供するものとなるかもしれません。

 

今後話し合いを深めたいテーマ(SUBJECTS YET TO BE EXPLORED)

 

―前述しましたように、ヘブル人への手紙は、旧約解釈について、他のどの書にまさって克明な取り扱いがなされています。旧約理解に影響を与えている解釈学的諸原則を明らかにすべく、ヘブル書全体の学ぶがなされるといいかもしれません。

 

―旧約からのマタイの引用は、議論の余地のない預言成就の事例です。なぜなら、マタイはしばしば、「~と言われた事が成就するためであった」という引用句を用いているからです。これもまた、旧約預言の解釈学的諸原則の検証のための、一つの出発点となるかもしれません。

 

―黙示録21:1-22:5は、直接的に旧約から引用しているわけではありませんが、それでも旧約言語に溢れ、また旧約諸聖句への含みで溢れています。旧約の預言が黙21:1-22:5の中で提示されている像の中で成就されている仕方に焦点を当てて、話し合いをすることも可能でしょう。そしてこれは、次の二つの方法でディスペンセーション主義者に影響を与えると思います。

 

(1)少なくとも何人かのディスペンセーション主義者は、千年王国期における預言成就に注目し過ぎてしまっていて、より完全なる成就としての万物の成就(consummation)に殆ど注意が向けられていない傾向がみられます。そういった方々にとって私たちの話し合いは良い挑戦を与えるものになると思います。

 

(2)黙21:1-22:5は、天と地を統合しています。またこの箇所は、教会に適用される像(ガラ4:26)およびイスラエルに向けられている旧約預言(参:エゼキエル47、イザヤ60:19-22)を統合しています。神のひとつの民の合一と、「字義的」成就の性質についての問いは、この文脈の中で実り豊かに提示され得ると思います。

 

―以上が、1986年初版の完訳です。―

 

 

【追加資料】

出典:ジョージ・ラッド著『終末論』(第2章 イスラエルについてはどうか。)より

 

第1章において、旧約聖書はイエス・キリストにおいて与えられた新しい啓示の視点に立って解釈されなければならないという聖書解釈の原則を確立した。では新約聖書は、イスラエルについて何を教えているのだろうか。

 

旧約聖書は、イスラエルの未来における救いを見ているが、新約聖書はその預言を大幅に再解釈して、それらが教会において霊的に成就されるべきであるとしているのか?

 

すなわち、教会は新しい真のイスラエルなのか?あるいは、神はまだご自身の民イスラエルのための未来を用意しておられるのか?

 

幸いなことに、霊感された聖書の中には、この主題についての詳細な議論が記されている。それがローマ人への手紙9-11章である。パウロは最初に、イスラエル民族がメシヤとしてのイエスを拒絶したことに対し、「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」(ローマ9:2)と、肉における同胞に対する心底からの関心と愛を吐露している。

 

パウロの最初の論点は、「イスラエル」つまり真の霊的イスラエル――神の民――はアブラハムの肉的子孫と同一ではないということである。「イスラエルから出る者〔本来の血縁の子孫〕がみな、イスラエル〔霊的な子孫〕なのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく・・・・」(ローマ9:6-7)。

 

パウロはこのことを証明するために旧約聖書の歴史を思い起こさせる。アブラハムには二人の息子、イサクとイシュマエルがいた。しかしイシュマエルの家族とその子孫は、アブラハムの本来の血縁の子孫であるが、霊的子孫には含まれない。

 

「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」(ローマ9:7)、「すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされる」(ローマ9:8)。

 

神はイサクを選び、イシュマエルを拒絶された。それゆえアブラハムの真の子孫――真のイスラル――は、生来の肉的な血統において決定されるのはなく、神の選びと約束によって決定される。

 

その意味は明らかである。パウロのいた当時のすべてのユダヤ人が、神の民「イスラエル」を名乗ることができるわけではない、神の民「イスラエル」を名乗ることができるのは、アブラハムの信仰に倣う人、約束の子であると自己証明する人だけである。

 

この原則は、すでにローマ人への手紙の始めの部分に系統立てて述べられている。ローマ人への手紙2:28-29でパウロは、「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです」と書いてある。

 

この《霊的割礼》対《肉的割礼》の原則は、パウロを起源とするものではない。この主題はすでに、旧約聖書に見い出されるものであり、パウロはそれを繰り返している。「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行いのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう」(エレミヤ4:4)。

 

モーセの律法への外側だけの従順のみでは、神の愛顧を確かに受けているアブラハムの真の子孫であるとは言えない。そこには、それにふさわしい心――そして生活――がなければならない。さもなければ、神の怒りと直面することになる。

 

この原則は、ヨハネの黙示録の二つの節にも適用されている。ヨハネはある人々について、「ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である」(黙示録2:9.3:9も参照)と言っている。ここには、ユダヤ人であると(正当に)主張できる人々がいる。

 

確かに彼らは肉において、また宗教的にユダヤ人ではあるが、ヨハネは彼らのことを、霊的にユダヤ人ではなく、実際はサタンの会衆であると言う。メシヤとしてのイエスを拒絶して、イエスの弟子たちを迫害していたからである。

 

次にパウロは、もしそれが事実であるとしたら、神の身勝手さを反映しているのではないかという反論を取り扱う。この反論に対し、厳しいことばで答えている。

 

「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか』と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか」(ローマ9:20-21)。

 

この箇所は、神の選びと個人の救いに対する拒絶という視点から解釈されることが多い。しかし個々人にどのような適用がなされるにせよパウロの論点は、第一義的には贖罪の歴史と、アブラハムに与えられた約束を受け継ぐ者として神がヤコブを選ばれたことである。

 

神は字義上のイスラエルの反逆や背教に多大な忍耐をもって耐えた。「それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためなのです」(ローマ9:23)。

 

神は字義上のイスラエルの不信仰に忍耐してこられた。それは、その忍耐を通して、真のイスラエルにあわれみを示すためだった。パウロは同じことを、同じ箇所の後ろのほうで取り上げている。

 

「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは〔最終的に、回復不可能あ状態に〕倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです」(ローマ11:11)。イスラエルはつまずき、不信仰となったが、そこに神はある目的を持っておられる。

 

神が忍耐をなくしたわけではない。イスラエルのつまずきもイスラエル自身のために起こったわけではない。むしろ、神はイスラエルのつまずきを、異邦人に救いをもたらすために用いたのである。

 

パウロは前のほうの箇所で、この主張を発展させて述べている。「神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです」(ローマ9:24)。

 

神が怒りの器――神の裁きの下に立つ不信仰なユダヤ人――に取って代わるものとして選ばれた「あわれみの器」は、ユダヤ人と異邦人から成る混成体である。

 

続いて、パウロは驚くべきことをする。旧約聖書の文脈ではイスラエルに言及している二つの箇所をホセア書から引用し、大部分が異邦人から成るキリスト教会に当てはめているのである。それによって、旧約聖書が異邦人の教会を予見していたことを証明しようとする。

 

「それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。『わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ』」(ローマ9:25)。

 

ホセアは姦淫の女をめとるように主から命じられた。その女は、イスラエルの霊的姦淫を象徴している。二番目に生まれたのは女の子で、ホセアは「その子をロ・ルハマ〔訳注・新改訳欄外注「愛されない」)と名づけよ。わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、決して彼らを赦さないからだ」(ホセア1:6)と告げられた。

 

しかし、イスラエルに対するこの拒絶は最終的なものでも、回復不可能なものでもない。事実は、ホセアは続いて、神の国におけるイスラエルの未来の救いを主張する。ホセアは、弱肉強食が動物界から取り除かれる日を見ている。神は野の獣、空の鳥、地を這うものとの契約を結ぶ。暴力と戦争の武器、弓と剣、戦争そのものをもなくしてくださる。

 

イスラエルは地に安全に住み、安らかに伏す。「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ」(ホセア2:19)。

 

それから、ホセアは言う。「わたしは・・・・『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう」(ホセア2:23)と。

 

さて私たちは今、キリスト論で見た同じ現象を終末論の領域でも見ている。旧約聖書の諸概念が根本的に再解釈され、予見されていなかった適用を与えられている。

 

旧約聖書においては字義どおりのイスラエルに適用されているものが、ローマ人への手紙9章25節ではユダヤ人も異邦人をも含む教会に適用されているのである(ローマ9:24)。事実、新約聖書時代の教会で構成上優勢であったのは異邦人であった。

 

パウロは、再びホセア書から引用する。「『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは『生ける神の子ども』と呼ばれる」(ローマ9:26)。

 

ホセアは、息子である第三の子を持った。そして、こう告げられた。「その子をロ・アミ〔訳注・新改訳欄外注「わたしの民でない」)と名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ」(ホセア1:9)。

 

ここではホセアは、すぐに続けてイスラエルの未来の救いを知らせている。「イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは、『あなたがたはわたしの民ではない』と言われた所で、『あなたがたは生ける神の子らだ』と言われるようになる」(ホセア1:10)。

 

この二箇所で、旧約聖書の文脈では字義どおりのイスラエルに言及している預言が、新約聖書において(異邦人)教会に適用されている。言い換えると、パウロは、ホセア書1:10と2:23の預言が教会において霊的に成就されたと見ているのである。

 

したがって必然的に、異邦人教会における救いの出来事は、イスラエルになされた預言の成就であるということになる。

 

このような事実があるからこそ、筆者を含む聖書を学ぶ者たちは、教会は新しいイスラエル、真のイスラエル、霊的イスラエルであると言わざるをえないのである。

 

この結論は、パウロがクリスチャンを(霊的な)アブラハムの子孫と言っている箇所によって支持される。「彼は、割礼を受けていないとき、信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。

 

すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです」(ローマ4:11-12)。ここでアブラハムは、ユダヤ人信仰者と異邦人信仰者の父と言われている。

 

したがって不可避の結論として、ユダヤ人であるかギリシヤ人であるかとは関係なく、信仰者こそがアブラハムの真の子ども、真の霊的イスラエルであるということになる。再び、ローマ人への手紙2:28-29を思い起させられる。すなわち真のイスラエルは、心の内で割礼を受けた人々であるということである。

 

ローマ人への手紙4:16において、パウロは再び「アブラハムは私たちすべての者の父なのです」と繰り返している。ガラテヤ人に書いたとき、パウロはすでにこの真理を明言している。「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい」(ガラテヤ3:7)。

 

ディスペンセーション主義者は、《霊的》解釈を、旧約聖書を解釈するうえで最も危険な方法とみなしている。

 

ジョン・ワルブード教授は、これは現代のローマ・カトリック、現代のリベラル派、現代の非ディスペンセーション系保守の立場の著者たちを特徴づけている解釈であると書いている(The Millennial Kingdom, Dunham, 1959, p.71)。しかし筆者は霊的解釈を採用しなければならないと思っている。

 

なぜなら筆者には、旧約聖書において字義どおりのイスラエルに言及されている約束を、新約聖書が霊的教会に適用していることがわかっているからである。

 

筆者が霊的解釈を採用するのは、契約神学の立場を採っているからではなく、神のことばに縛られているがゆえである。

 

それでは、教会が真に霊的イスラエルであるのなら、「神はご自分の民〔字義どおりのイスラエル〕を退けてしまわれた」(ローマ11:1)のだろうか。

 

パウロはこの問いに続けて、長めの回答を記している。パウロはローマ人への手紙11章5節で、イスラエルの未来の救いを暗示している。

 

「もし彼ら〔字義どおりのイスラエル〕の捨てられることが世界の和解〔異邦人の救い〕であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。」

 

パウロは、このことを有名なオリーブの木のたとえで例証している。オリーブの木は全体として見れば、神の民である。栽培種の枝(ユダヤ人)が栽培種の木から切り取られ、野生種のオリーブの枝(異邦人)が栽培種のオリーブの木に接ぎ木された。しかし、栽培種の木に野生種の枝を接ぎ木するなどという話は聞いたことがない。

 

パウロはその疑問にも気づいていたので、「もとの性質に反して」(ローマ11:2)と語っている。パウロはイスラエルに取って代わった異邦人に、イスラエルに対して誇ってはならないと警告する。神には再び、異邦人を切り取ることもできるからである。

 

逆に、「彼ら〔ユダヤ人〕であっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです」(ローマ11:23-24)。

 

その後、パウロはすばらしい論述によって、全体の状況を要約している。「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いを思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。

 

『救う者がシオンから出て、

ヤコブから不敬虔を取り払う。

これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。

それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である』」(ローマ11:25-27)

 

ここに贖罪の歴史における聖定――栽培種のオリーブの木に生えた栽培種の枝、不信仰ゆえに切り落とされた栽培種の枝、もとの性質に反して接ぎ木された野生種の枝、まだオリーブの木に再接ぎ木されていない栽培種の枝――がある。

 

イスラエルはつまずきの岩――キリスト――につまずいた。しかしいつまでも倒れたままではない(ローマ11:11)。

 

パウロは、「イスラエルはみな救われる」と語っているが、明らかに、かつて生きていたすべてのユダヤ人についてそう言っているわけではない。パウロは贖罪の歴史について語っている。しかし、生きているユダヤ人の大多数、すなわち「イスラエルはみな」救われる日が訪れるということである。

 

イスラエルがどのように救われるのかについて、パウロがもっと詳しく書いてくれていたらと思われるかもしれない。「救う者がシオンから出て」ということばは、おそらくキリストの再臨に言及していると思われる。再臨の目的の一つとして、キリストのもとに教会を集めることとともに、イスラエルを贖うことがあるのだろう。

 

ただし、二つの事柄は明白である。一つは、イスラエルは教会と同じ方法で――つまり、信仰によってメシヤであるイエスに向かうことによって――救われなければならないということ(ローマ11:23)。

 

もう一つは、イスラエルが経験する祝福は、教会が経験している同じ祝福――キリストにある祝福であるということである。

 

それでは、神殿再興についての旧約聖書の詳細な約束についてはどうなるのか。ヘブル人への手紙は、律法には「後に来るすばらしいものは影であっても、その実物はない」(ヘブル10:1)と語り、この問いにはっきりと答えている。

 

神殿といけにえの制度を規定する律法は、キリストにおいて私たちにもたらされた祝福――実物――の影にすぎない。影はその目的を達成した。

 

キリストは今、天にある真の幕屋に入り、私たちの大祭司としての務めを行なっておられる。今、神の贖罪の計画が影の時代に逆戻りすることなどありえない。

 

実際に、ヘブル人への手紙が明確にこのことを断言している。「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう」(ヘブル8:6-7)。

 

ここで強調すべき点は、ヘブル人への手紙は、モーセの契約とキリストによる新しい契約を対比させているということである。もしモーセの契約が適切なものであったのなら、第二の契約は必要なかったはずである。

 

ヘブル人への手紙は、エレミヤ書31:31-34からの長い引用によって、このことを証明している。

 

「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。・・・それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。・・・なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」

 

ここで、すでに直面した事柄に再び遭遇する。新しい契約が二つあると考えることはきわめて困難である。

 

二つの契約とは、キリストによってキリストの血を通して教会との間で結ばれた契約と、イスラエルとの間で結ばれる未来の新しい契約である。

 

イスラエルとの間で結ばれる契約は、ディスペンセーション主義者によれば、大部分がモーセの契約の更新である。確かにパウロがローマ人への手紙9-11章で、字義どおりのイスラエルはまだ新しい契約の内に入れられていないと教えていることは、すでに見てきたとおりである。

 

しかしその契約とは、十字架を通して教会と結ばれた新しい契約と同じ契約である。別個の契約ではない。ヘブル人への手紙8章は、エレミヤを通してなされた約束を、キリストを通し教会との間に結ばれた新しい契約に適用している。

 

このことは、第二の箇所でさらに明確にされている。ヘブル人への手紙10章11-17節は、罪のための十字架上のキリストの犠牲、続いて神の右への着座、そして「その敵がご自分の足台となるのを待っておられる」ことについて語っている。

 

それは「キリストは聖なるものをされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされた」(ヘブル10:13-14)からであると語っている。

 

それらのことばは、ヘブル人への手紙がキリストにより教会との間に結ばれた契約について語っていることを明らかにしている。それから、ヘブル人への手紙は、再びエレミヤ書31章を引用する。

 

「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。(ヘブル10:16-18)

 

エレミヤ31章の新しい契約が、キリストによってキリストの教会との間に結ばれた新しい契約であることは、だれも否定できない事柄である。

 

ヘブル人への手紙から引用した上記の箇所は、赦しのあるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用であると語っている。キリストによって成し遂げられた赦しは、モーセの制度を無用、かつ廃止されたものとした。

 

ヘブル人への手紙は、8:13で同じ真理を断言している。「神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます」。

 

それらのことばは、紀元70年のローマ人によるエルサレムの破壊の史実に言及しているのかどうかは別として、少なくとも、贖罪の実体がもたらされたのだから、古いモーセの秩序は消滅したのだと断言している。

 

ここで再び、旧約聖書預言書の根本的な再解釈を手にする。この解釈によれば、モーセの契約は、そこに記された神殿といけにえの制度を含めて一時的なものである。

 

ヘブル人への手紙の議論は、それらがキリストにおいてもたらされた霊的実体を指し示している予型であり影であるということである。予型と影はそれらの目的を達成するやいなや、神の贖罪のご計画から無用のものとして捨てられるというのである。

 

このことは、現在のイスラエルの問題にどんなかかわりがあるのか。三つのことが指摘される。

 

第一に、神はご自身の民を保護してこられた。イスラエルは「聖なる」民(ローマ11:16)のままであり、聖別されており、神の目的を遂行することが定められている。

 

第二に、まだすべてのイスラエルが救われているわけではない。今日のある学者は、千年王国において歴史は、初めて真のキリスト教国を目撃することになるだろうと言っている。

 

第三に、イスラエルの救いは、モーセのいけにえの制度の再興を伴うユダヤ教神殿の再建を通してではなく、すでに教会との間で制定されているキリストの血による新しい契約を通してなされなければならない。

 

ヘブル人への手紙は、モーセのすべての制度は廃止され、消え去ったと断言している。それゆえ、イスラエルは「預言の時計」であるという、よく知られたディスペンセーションの見解は間違っている。

 

近代イスラエルがパレスチナに帰還したことが、イスラエルに対する神の目的の一部分であったとしても、新約聖書はこの問題の解明に何の光も投げかけていない。

 

ただ二千年の間、イスラエルが一つの民族として保持されていることは、神がご自身の民イスラエルを見捨ててはおられないことの一つのしるしではある。

 

 ー引用おわりー