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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ㉑ 「キリストにあるイスラエルの成就」(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

 

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いのち、そして有機体

 

Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

 

古典的ディスペンセーション主義を特徴づける中心的原則は、イスラエルと教会の「パラレルにして別々な宿命」という原則です。それによると、イスラエルと教会は神の二つの民であり、一つは地上的、もう一つは天的です。

 

この章では、この原則を組織神学の観点からご一緒にみていきたいと思います。しかし覚えていただきたいのは、現在、多くのディスペンセーション主義者はパラレルな二つの宿命というこの原則を修正しています。それゆえ、本章の考究はそういった方々には当てはまらないかもしれません。

 

一方、この「二宿命原則」を保持しておられる方々にとって、その原則への最も鋭利にしてダイレクトな挑戦は、キリストにある成就に関する聖書的教えの省察より生じてきます。

 

旧約の約束の相続人になる(BECOMING HEIRS TO OLD TESTAMENT PROMISES)

 

すでに前の章で私は、旧約の預言的御約束と教会との関連性について述べました。「教会はイスラエルの直線的連続だ」などと私たちが露骨で短絡的な主張をしないのでしたら、この主張は強固なものになります。

 

私たちは、諸約束の成就の中心点としてのキリストご自身のやり方に従うべきです。そして、キリストは完全なる意味においてイスラエル人です。

 

実際、すべてのイスラエルが不忠実さゆえに拒絶されても(ホセア1:9)、キリストは究極的に忠実なるイスラエル人――究極的「残された者」としてとどまります(参:イザヤ6:11-13、11:1)。

 

それゆえ、2コリント1:20は、「神のお立てになった御約束がどんなに多くても、それらはことごとくキリストにおいて『しかり。』となる」と言っています。

 

そうなると次のような問いが残ります。「イエス・キリストとの合一は、クリスチャンに何をもたらしているのでしょうか?」

 

教会は、キリストとの共同相続人にされた(ローマ8:17)ということも含め、キリストを通した神の祝福の全き満たしを受容しています(エペソ1:23、コロ2:10)。

 

つまり、私たちは主が相続されたものを相続しているのです。そしてキリストがアブラハムの子孫であるゆえ、私たちはアブラハムの子孫です(ガラ3:29)。さらに主と一つにされていることにより、私たちは全世界を所有しています(1コリ3:21-23)。

 

そしてこれは、キリストとの合一の性質についての考察によってさらに強化され得ます。

 

キリストと一つに結ばれることは、親密にして、個人的で、経験的なものです。しかしそれだけではありません。キリストとの合一は、それに公同的次元(corporate dimension)をも加えるものです。

 

教会は、それぞれのメンバーのキリストとの合一、および互いの間の合一によって形成される公同的有機体です。

 

しかしパウロはキリストとアダムとの間のアナロジー(類比)を指摘することにより、私たちの視野をさらに拡げています(ローマ5:12-21、参:1コリ15:45-49)。

 

アダムの堕落は、完全に人であるお方――新しい人類のかしらとして立っておられる人――によって克服され、覆されました。古い人類(アダムに結ばれていたすべての人)は、ひとりの人アダムを通して罪と破滅と相続権・交わりのはく奪状態へと落ち込みました。

 

それに対し新しい人類は、「最後のアダム」であるイエス・キリストを通して義、救い、相続、神との交わりを得ました。

 

神の民とは、イエス・キリストが彼らのかしらとして代表し、仕える人々です。先に私たちは御約束の相続について考察してきました。しかし、相続というのは、より壮大な鳥瞰図の一部分に過ぎません。そしてこの壮大な鳥瞰図というのが新しい人類のことなのです。新しい人類は、アダムの堕落とは対照的に、義、救い、相続、交わりを受けます。

 

神の民の合一は、イエス・キリストというひとつのかしらの合一によって保証されています。私はこれについて前の章で述べました。

 

しかし今、この事実が、古典的形態のディスペンセーション主義者にジレンマを与えています。幾人かのディスペンセーション主義者は無防備な発言をしていますが、彼らは救いには一つの道しかないということを保持しようとしています。

 

すべての経綸において、救われる人は誰でも、神の御約束にある信仰により、主の恵みによって救われます。しかし仮に私たちがこの救いの道についてさらに深くさらに詳細に述べようとしているとしましょう。

 

それは神の恵みによります。しかしその「恵み」とはどういう意味でしょうか?義なる神が不義なる者を救うことが一体どのようにして可能なのでしょうか?

 

神の恵みは、イエス・キリストの代理的贖罪と密接な関係があります。また恵みは、キリストがご自身の使命を完了される前にすでに与えられていましたが、それはその御働きを予知する中で与えられました(ローマ3:25)。

 

それでは信仰とはどういう意味なのでしょうか?信仰とは信仰のための信仰でもなく、空虚なものへの信仰でもありません。それは神の御約束に対する信仰であり、イエス・キリストによって完全に成し遂げられる救いの日を指し示す、ご自身の契約的公約(commitments)に対する信仰です。

 

そしてこの御業が成し遂げられる時、私たちは、イエス・キリストの御業は最後のアダムの御業であることを見ます。そして、救いに関わるひとつの働きの合一は、キリストにあって救われた新しい人類の合一を含意していることを見い出します。

 

ゆえに、そこから導き出される結論は、神の一つの民ということになるでしょう。この点に関し、ダニエル・P・フラー(1957, 178)は、このジレンマのことを次のように明確に表現しています。

 

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Daniel. P Fuller

 

「、、、彼ら〔ディスペンセーション主義者〕は、救いは〔神の御言葉への信仰そして血潮により〕いつも同一の方法で施行されると考えたいと望んでいます。その一方、彼らはこの考えから導き出されるロジカルな結論、つまり、救われた人皆が、〔イスラエルも教会も差異なく〕同じ立場にある、ということは受け入れようとしたがっていません。」

 

救いからイエス・キリストの公同的合一へ(REASONING FROM SALVATION TO CORPORATE UNITY IN JESUS CHRIST)

 

このジレンマは――救いの側面から始まり、公同的合一で終わる――、一連の漸進的諸段階を提示することでより一層明らかにされるでしょう。

 

その各段階において、私たちはキリストとの合一がひとつにして唯一の祝福の手段であることを強調します。

 

さて最初の地点において、私たちが救いの側面を考える際、ディスペンセーション主義者は、救いの方法における統一性を保持すべく、合一に対する強調に進んで同意しようとします。

 

そして終点において、私たちが公同的合一の側面を考える際、ディスペンセーション主義者は「神の二つの民」という自らの思想を取り壊さなければならないという状態に気づきます。

 

ではまず初めに、救いの側面としての義認について考えることにしましょう。救われる者は信仰によって義とされます。さらに義認は究極的に代償的行為です。キリストの義が私たちにとって肝要であり、私たちの罪はキリストの上に置かれました。私たちは「キリストにあって義と認められ」ています(ガラ2:17)。

 

次に、変えられたいのちの力もまたキリストより来ます。私たちは「キリストにあって聖なるものとされ」ています(1コリ1:2)。また霊的な実はキリストの内に宿ることによって流れ出てきます(ヨハネ15章)。ここでのキリストとの合一の言語は、ガラテヤ3章のそれと非常に類似しています。

 

この義認に関する文脈の中で、パウロは私たちが「キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」(ガラ3:26)と言っています。そしてパウロは続けて私たちは「みな、キリスト・イエスにあって、一つ」(ガラ3:28)と言っています。

 

そしてさらに鋭く公同的強調をもった表現を見い出すことができます。私たちは「一つのからだとして」和解し(エペソ2:16)、「キリストにあって」「一つのからだ」(ローマ12:5)、「キリストのからだ」(1コリ12:27、エペソ1:23)となりました。

 

キリストとの合一は、(義認、子とされること、聖化を含めた)「救い」と、「公同的合一」その両方がしっかりと織りなされる形の、有機的な関係です。

 

人はキリストとの合一なしには救われ得ず、キリストとの合一は、神のひとつの民の一部になることを意味します。

 

しかしディスペンセーション主義者は、旧約の神の民は現代の私たちと同じような仕方ではキリストとの合一を享受していなかったということにすぐに気が付きます。

 

――キリストはその時はまだ受肉されておらず、死んだ後に復活もされておらず、聖霊のお遣わしになっていなかった。それらは全てその通りです。

 

しかし旧約においては人々はどのようにして救われていたのでしょうか?彼らはそういった事柄への待望により、またそれらの効力の一種の予備的「後方作用(“working backward”)」によって救われていました。そしてディスペンセーション主義者であれ非ディスペンセーション主義者であれ、救いの道の統一性(unity)を主張する人は、何らかの形でそのことを認めなければなりません。

 

しかしそれはまた私たちを次の結論にも導きます。つまり、イスラエルと教会の間の相違というのは根本的に、救いを完遂すべくキリストが来臨される「前」と「後」における神の民の間の相違であるということです。

 

それはユダヤの血統の人々の将来についての問いによっても、別の方法でその含意が見い出されるでしょう。こういった人々はどのようにして救われ、そして彼らの相続に与るのでしょうか?今やキリストがご自身の業を成し遂げてくださり、救いはもはや予型や影、予測や予兆といった事柄ではなくなりました。

 

救いはキリストとの合一によるものであり、それ以外の方法はありません。そしてその救いは、現在であれ千年王国期であれ、ユダヤ人および異邦人をして、キリストの「構成員」と成さしめます。

 

彼らは新しい人類として公同的にひとつです。それゆえに、キリストというひとつのかしらの下にあるこういった新しい人類を二つに引き裂くということはもはや考えられないという事になります。

 

そして、私たちは千年王国を眺望する時、そこにおける救いが――最後のアダムであるイエス・キリストというひとりの人との合一であるにもかかわらず、その合一が、「一つは地上に、もう一つは天にあるという《二つの相続》、《二つの宿命》をそれぞれ持つ、《神の二つの民》」という区別によって弱体化される、というような事をもはや考えることができなくなります。

 

将来的な探求のための他の領域(OTHER AREAS FOR POTENTIAL EXPLORATION)

 

これまでディスペンセーション主義者との実り多い対話の場を作り出す上でもっとも大切だと思われるポイントに触れてきました。

 

この章ではさらなる探求のための、その他のポイントを提示したいと思います(その中のいくつかはすでに少し言及しています。)ある場合には、少なくとも、こういった論点は、アプローチのための相補的方法を提供するものとなるかもしれません。

 

今後話し合いを深めたいテーマ(SUBJECTS YET TO BE EXPLORED)

 

―前述しましたように、ヘブル人への手紙は、旧約解釈について、他のどの書にまさって克明な取り扱いがなされています。旧約理解に影響を与えている解釈学的諸原則を明らかにすべく、ヘブル書全体の学ぶがなされるといいかもしれません。

 

―旧約からのマタイの引用は、議論の余地のない預言成就の事例です。なぜなら、マタイはしばしば、「~と言われた事が成就するためであった」という引用句を用いているからです。これもまた、旧約預言の解釈学的諸原則の検証のための、一つの出発点となるかもしれません。

 

―黙示録21:1-22:5は、直接的に旧約から引用しているわけではありませんが、それでも旧約言語に溢れ、また旧約諸聖句への含みで溢れています。旧約の預言が黙21:1-22:5の中で提示されている像の中で成就されている仕方に焦点を当てて、話し合いをすることも可能でしょう。そしてこれは、次の二つの方法でディスペンセーション主義者に影響を与えると思います。

 

(1)少なくとも何人かのディスペンセーション主義者は、千年王国期における預言成就に注目し過ぎてしまっていて、より完全なる成就としての万物の成就(consummation)に殆ど注意が向けられていない傾向がみられます。そういった方々にとって私たちの話し合いは良い挑戦を与えるものになると思います。

 

(2)黙21:1-22:5は、天と地を統合しています。またこの箇所は、教会に適用される像(ガラ4:26)およびイスラエルに向けられている旧約預言(参:エゼキエル47、イザヤ60:19-22)を統合しています。神のひとつの民の合一と、「字義的」成就の性質についての問いは、この文脈の中で実り豊かに提示され得ると思います。

 

―以上が、1986年初版の完訳です。―