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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ⑳「ヘブル人への手紙12:22-24」(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

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Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

前章にて私は、ディスペンセーション主義について話し合いをする上で、ヘブル人への手紙が最も重要な聖句テクストであるということを申し上げました。

 

聖書のどの箇所以上に、ヘブル書は、旧約の《新約への関わり方》に関する重要な問いを明確かつ詳細に述べています。さらに、この書簡の中には、前章で取り扱った予型に関する見解も明快に語られています。

 

残念なことに、紙面の関係上、ヘブル人への手紙全部を検討することにはできないでしょう。そして本章で私はヘブル12:22-24に着目しようと思っています。

 

ここの聖句は、ディスペンセーション主義者の議論の中でこれまであまり注目を受けてこなかった箇所です。また、この聖句だけでは一連の議題解決には至らないとは思います。

 

しかしこの箇所が、「シオンの山」および「エルサレム」の相続におけるクリスチャンの参与について語っている、その言及方法ゆえに、かなりの価値を持っているのではないかと思います。

 

それゆえ、これらの聖句は、ディスペンセーション主義の方々が(「教会とイスラエルという別々のパラレルな宿命」、「教会における預言の非成就」に関する是認で特徴づけられている)固い部分をほぐす際にも助けになる箇所なのではないかと思います。

 

おそらく、ここの箇所がこれまであまり注目されてこなかったがゆえに、いや、まさにそうだからこそ、今後の新鮮な発展に向け、私たちの対話は実り多い出発点になるのではないかと思います。

 

シオンの山およびエルサレムの成就(FULFILLMENT OF MOUNT ZION AND JERUSALEM)

 

ここで中軸となる私たちの関心は、ヘブル12:22における「シオンの山」および「天にあるエルサレム」についての言及の意義にあります。一体何が、ヘブル書の記者をして、キリスト者の諸恩恵についてこのように語らしめたのでしょうか?

 

特に、ここでヘブル書は、(ミカ4:1-2やイザヤ60:14のような旧約の預言聖句の成就として)クリスチャンがシオンの山に来ると言うことができる――それを含意しているのでしょうか。

 

シオンの山およびエルサレムは旧約の中で重要な意味を持っています。なぜなら、そこが、神ご自身の指示により神の神殿が建てられた場所だからです。そしてシオンの山およびエルサレムが持つ神殿との深い関係性ゆえに、これらは私たちが神殿と関連づけている予型の中で共有されているのです。

 

ヘブル人への手紙の中で、地上の天幕(or 神殿)は神の天的住まいの写しであり影であるという事実がかなり述べられています。キリストが来られた時、主は、天にある実体にきよめをもたらす「さらにすぐれたいけにえ」を導入されました(ヘブル9:23、13-14)。

 

そしてキリストは、天にある神のまことの聖所に入る道を設けてくださいました(ヘブル10:19-20)。ヘブル12:22のシオンの山および天にあるエルサレムもまた同様に、――旧約聖書のシオンの山およびエルサレムが「写しであり影である」ところの、それの――天にある実体であるにちがいないということになります。

 

多くのディスペンセーション主義の方々(古典的ディスペンセーション主義者&修正ディスペンセーション主義者)は、この地点までは皆さん、私に同意してくださっているはずです。

 

これまで、ディスペンセーション主義のみなさんは、シオンの山およびエルサレムについての旧約歴史の聖句における予型的意義を認めることに何ら困難を感じてこられませんでした。

 

しかしディスペンセーション主義者は、次に私が提言する内容に対してはためらいを覚えるかもしれません。まず申し上げたいのが、予型に対する《対型(antitype)》の顕れは、預言成就にかなり等しいものであるということです。

 

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《予型》=像、象徴。

《対型》=本体、表象されているもの。

 

 

例えば、ヘブル書全体を鑑みる時、キリストのいけにえは、旧約における動物のいけにえの《対型》であるということです。そしてこの動物のいけにえは、キリストのいけにえを指し示す予型であったわけです。

 

キリストのいけにえは、――イザヤ53章だけでなく、ダニエル9:24の「咎を贖い “atone for iniquity”」をも含めた――旧約歴史のいけにえが指し示していたものの終点であり、完成した産物です。キリストのいけにえはまた、完全ないけにえについての諸預言の成就でもあります。

 

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それでは、こうした「いけにえに関する状況」と、「エルサレムに関する状況」との間にアナロジー(類比)を見ることはできるでしょうか。

 

ヘブル12章の、天にあるエルサレムは、注ぎかけられた血の付いた大祭司としてのキリストの臨在によるものです(ヘブル12:24)。それゆえ、天にあるエルサレムは、《予型》としての旧約の歴史的聖都であるエルサレムに対する《対型》であるように思われます。

 

それゆえ、これが同時に、完全に回復されたエルサレムについての、諸預言の成就であると見ることもできるかもしれません(ミカ4:1-2、イザヤ60:14)。

 

前章で考究しましたように、これは決して文法的・歴史的解釈に対する侵害ではありません

 

旧約の中のいけにえ、神殿、聖都の象徴的意義のいくつかを認識する文法的・歴史的解釈は、エルサレムに関する預言的資料の中における象徴的(予型的)意義をも認めています。

 

アブラハムの希望(ABRAHAM’S HOPE)

 

私たちは、ディスペンセーション主義者にとって、より受け入れやすい経路で同様の結果にたどり着くこともできます。

 

とりあえず今、「新約時代がはたして『成就』であるか否か」の議題を脇に置くことにします。それでも尚、シオンの山、エルサレム、そしてパレスティナ全体に対しての高揚された栄光、富、聖めに関する旧約預言が存在します。こういった預言は、土地の相続に関するアブラハムに与えられた根本的諸約束を膨らませ、深化させています。

 

それではアブラハムは神の御約束を基盤に何を待ち望んでいたのでしょうか。ヘブル書は、アブラハムが「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいた」そして「その都を設計し建設されたのは神です」(ヘブル11:10)と言及しています。

 

そしてそこから数節後にヘブル書はさらに説明を加え、アブラハムが、生前、約束された国を相続することのなかった寄留者であることを記しています。

 

「しかし、事実、彼ら〔アブラハムおよび彼の子孫たち〕は、さらにすぐれた故郷(a better country)、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました」(ヘブル11:16)。

 

訳者注:新改訳で「故郷」と訳されているギリシャ語は、πατρίςであり、意味としては、「父(先祖)の土地、故郷、ふるさと、郷里」(織田昭『新約聖書ギリシア語小辞典』)等、記載されています。)

 

それゆえ、アブラハム自身、天にあるcountry(πατρίς; 故郷、ふるさと)の所有に関与する御約束を理解していたのです。

 

そして天にあるこの故郷は、――ヘブル12:22にある天にあるエルサレムである――「都」を中心としています。さらに、アブラハムは今すでにこの都に属しています。なぜなら、彼はヘブル12:23で言及されている「全うされた義人たちの霊」の中に含まれているからです。

 

それゆえ、ヘブル12章は、この時代の内に、アブラハムに対する約束の成就があるということを示しています。しかしこれは究極的終点ではなく、成就のもっとも拡張された実現形でもありません。

 

それはこれからの後に起こることです。しかしそれが依然として成就であることには変わりがありません。この成就はアブラハムや族長たち自身に訪れました("The fulfillment has come to Abraham...")。

 

しかしそれではユダヤ人クリスチャンはどうなのでしょうか。彼らは現在、アブラハムの相続を共有しているのでしょうか。ええ、彼らは「シオンの山、天にあるエルサレムに近づいているのです」(ヘブル12:22)。つまり、彼らはアブラハムが約束の成就の中で待ち望んでいたまさにその都に住むべくそこに近づいているのです。

 

ユダヤ人クリスチャンは、キリストを信じたことにより、以前より劣ったアブラハムの子になったわけではありません。また彼らはアブラハムの信仰に倣ったために、そのために相続権を奪われたとか、そういうわけでもありません!それゆえに、彼らの存在もまた、アブラハムへの約束成就の一側面なのです。

 

次に、異邦人クリスチャンはどうでしょうか?彼らはシオンの山に近づくことができるでしょうか。もちろん、できます。なぜなら、福音により、彼らは、ユダヤ人クリスチャンと共に等しく御父に近づくことができるからです(エペソ2:18-19)。

 

彼らはアブラハムへの祝福を共有しています。そしてこれは「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創12:3)というアブラハムへの御約束と完全に調和しています。

 

そして使徒パウロはまさにこの論点をガラテヤ3:7-9、3:26-4:7の中で展開しているのです。それゆえ、シオンの山へ異邦人クリスチャンが近づくこと(ヘブル12:22)は、アブラハムへの約束の成就でした。

 

ディスペンセーション主義者のある方々は次のように言うかもしれません。「それは美しい適用ではあるけれども、本当のところの成就というわけではないです」と。

 

これまでご一緒に見てきました通り、その答えは、ディスペンセーション主義体系の《内側》では、常に通用します。しかしヘブル書で言及されているこの祝福が成就でないとするなら、それが一体何であるのか私には見当がつきかねます。

 

ヘブル書はアブラハムがこの都を待ち望んでいたと言っており、アブラハムへの約束は、「異邦人たちがこの祝福に内包される」ということを言っています。このように、アブラハム自身がそれを成就とみなしているわけですから、私たちとしてはそれに対して何をどう反論していいのか分かりません。

 

しかしディスペンセーション主義者はここで一つの重要な点を指摘してくださっています。それはヘブル12:22における成就は、あくまでも成就の一つであり(“a” fulfillment)、アブラハムへの約束の最も偉大・壮大・クライマックスとしての実現ではないという点です。

 

そうです、それは未だ起こっていません。そしてこの事実を過少評価するなら、私たちは過ちを犯してしまいます。

 

その一方、幾人かの(幸い、全員ではありません)ディスペンセーション主義者は、異邦人クリスチャンにおける成就に対する露骨な否定によって、対極側にある誤謬を犯しています。

 

黙示録における新しいエルサレム(THE NEW JERUSALEM IN REVELATION)

 

〔ディスペンセーション主義〈前〉千年王国説論者および歴史的〈前〉千年王国論者の別に関わりなく〕すべての前千年王国説論者は、「アブラハムへの約束は、キリスト再臨に続く、千年王国期に、より完全な形での成就を見る」ということを信じています。

 

さて議論を進めるために、まずここで、前千年王国説が正しいと仮定することにしましょう。

 

しかしそう仮定したにしても、これだけで一件落着というわけにはいきません。といいますのも、黙示録21:1-22:5における新天新地にて成就されるべき諸約束が未だ残っているからです。そしてそれがヘブル12:22と関連しているがゆえに、この最終的成就は重要なポイントです。

 

ここにすでに困難点があります。黙示録21:1-22:5における事象の性質に関し、ディスペンセーション主義者たちの間で意見の不一致があります。

 

確かにほとんどの方は黙21:1-7が「永遠の状態」を描写しているということに同意しています。しかし黙21:9-22:5はさまざまな解釈のされ方をしています(Pentecost 1958, 563-83)。あるディスペンセーション主義者たちは、ここの箇所は永遠の状態を表していると考え、別のある人々は「いや、ここの箇所は千年王国を表している」と考えています。

 

J・ドワイト・ペンテコステはここの解釈として、「これは両者の組み合わせである」という見解を好んでいます。①黙21:9-22:5における天にあるエルサレムは、すべての聖徒の永遠なる住まいとなる、②しかしそれは千年王国期に存在するものとして描写されている。

 

さて、黙21:9-22:5と、黙21:1-7の間に密接な関係があることに皆、同意しています。

 

それゆえ、それ以外のあり方を示唆する諸要因がない限り、文法的・歴史的解釈は、「その両方の箇所が、同じ状況のことを描写している」と結論づけることになります。

 

もし私たちが、永遠の状態は新しい地を含むのだということをしっかり念頭に置き続けるなら、黙21:9-22:5のいくつかの側面における明らかに「地的(“earthy”)」な性質は、永遠の状態と実に調和していることに気づかされます。

 

黙示録22:2にある諸国の民の癒しに関する言及でさえも、黙21:4の「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」からほとんど離れていません。両者とも、黙示録の主要部分にみられる苦しみや不完全性と対比をなしています。

 

実際、私たちが、――「永遠の状態というのは、千年王国と共通するいくつかの特徴点を持っているはずだ」という独断的前提でスタートするのでない限り、――黙21:9-22:5が永遠の状態であるという事に対しての反論内容はどこにもありません。

 

しかし、黙21:9-22:5が、永遠の状態において天から下ってくるエルサレムの初期段階であるということを少なくとも認めるならば、黙21:9-22:5が永遠の状態を描写しているということを立証する必要さえありません。

 

そしてこれは全ての人が認めなければならないものです。なぜなら、天にあるエルサレムは揺り動かされないものであるからです(ヘブル12:28;参 Pentecost 1958, 580)。

 

黙21:9-22:5を解釈する上でどちらの選択肢を採ろうとも、黙21:1-7および21:9-22:5その両方の中で記されている新しいエルサレムは、ヘブル書の「天にあるエルサレム」との根本的連続性の内にあります。

 

もちろん、黙示録21章の新しいエルサレムは、ヘブル書が書かれた時点よりも後期の状況を描写しています。ですから、今(ヘブル書)と、かの時(黙示録)の間には、啓示において、そして神の御目的の働きという点において前進があります。

 

しかし、それにも拘らず、両者の間には連続性があります。それを支持する根拠として下に何点か挙げます。

 

 (a)「エルサレム」という名称が両者の密接な関係を示しています。

(b) 黙示録21章の新しいエルサレムは、「天から下って来」、それはヘブル12:22のエルサレムの位置です。

(c) ヘブル12:22のエルサレムは、「揺り動かされない御国」(ヘブル12:28)として描写されているものの様相です。そしてこれは、たとい天と地が揺り動かされても消え去ることのないものです。

(d) アブラハムは天にあるエルサレムを待ち望んでいたとヘブル書は言っています(ヘブル11:10、16)。そして黙示録の中において、アブラハムの行き先は新しいエルサレムでなければなりません。よって、この両者は同一のものです。

(e) ディスペンセーション主義の注解者たち自身が、何の苦も無く、この両者を同一のものとして認めています(Kent 1972, 272; Newell 1947, 426; Pentecost 1958, 579; Walvoord 1959, 326)。

 

そしてもしもこれら全てが真なら、クリスチャンは今、天にある都の、アブラハムの相続に共に与っています。それゆえ、彼らはまた、それを将来も共有することになります。ユダヤ人と異邦人を、二つ別々の起源を持つ民として区別するのは正当なことです。しかしながら、(もしも彼らが神の御約束を信じるようになった場合)彼らの行き先(destiny;宿命)は同じです。

 

両者共に、天から下ってくる新しいエルサレムの相続に与ります。それゆえ、「二つのパラレルな宿命」、一つは天的で、もう一つは地上的という考えは消え去ります。

 

新しい地(THE NEW EARTH)

 

ディスペンセーション主義者の中には、「あなたがたは、天と地の間に存在する適切な区別という部分に焦点を当てていない」と反論される方々がおられるかもしれません。

 

「クリスチャンは天にあるエルサレムに参与します。しかし、イスラエルは、千年王国期に、地上的エルサレムにおいて、地上的成就をみなければなりません」と。

 

しかし黙示録21章において、新しいエルサレムは天から地に下って来ます。そして旧約預言の地上的成就はそのクライマックスを黙示録21-22章の内に見いだします。

 

アブラハムは確実に、この地上的成就に参与します。そして他のユダヤ人たちも参与します。またユダヤ人クリスチャンは、彼らがアブラハムの信仰に倣ったからといって、それでユダヤ人の相続を奪われるということにはなりません。ゆえに、彼らも参与します。

 

しかしさらに、異邦人クリスチャンもまた参与しなければなりません。なぜなら、彼らはユダヤ人であるキリストと結ばれているその恩恵によって共同の相続人とされているからです(エペソ3:6)。

 

それゆえ、黙示録21-22章において、天的/地上的それぞれの「宿命」の間の厳密な分離性は不可能です。

 

新しい地で、クリスチャンはアブラハムの約束の地上的実現に関係しています。さて、彼らは天にあるエルサレムの一員であることを享受していますから、アブラハムの約束における最初の一コマ(first installment)を経験しているのです。

 

もし私たちの中のある方々が、成就におけるクリスチャンの参与という点を拒絶されるのなら、それはその方々が「字義的」成就をあくまで強く主張しているからではないのです。

 

実際、黙示録21:1-22:5におけるエルサレムは、各自好きなだけ字義的に解釈することも可能ですし、それはクリスチャンの参与に反対するようなことは何も言っていません。

 

そして、もし私たちがクリスチャンの参与を拒むのだとしたら、それは(いわゆる「字義的」解釈に対するこだわりというよりは)むしろ、「天的な宿命」と「地上的な宿命」との間にどうしても厳密なる区別を保持し続けたいという、その方々の要望が原因です。

 

そして、二つ別々の宿命という主張は、「人々が別々の起源を持っている」という(まっとうな)主張以上のなにか、そしてそういったまっとうな主張とは異なるなにかを言っています。

 

そして事実、「別々の宿命」というこの考えは、全く聖書聖句からの根拠なしに、体系化された諸理論の中に組み込まれています。

 

一部のディスペンセーション主義者は、天と地の間に設定するこういった厳密な区分化(compartmentalization)は間違いであるということを認知するようになってきています。ケネス・バーカー(1982, 12)は次のように言っています。

 

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Kenneth Barker

 

「厳密に言って、イスラエルを地上的な民、教会を天的な民と呼ぶことも間違っています。なぜなら、永遠の状態において、私たちは皆、新しいエルサレムそして新しい地の祝福を共有するようになるからです、、、」

 

ですから、多くのディスペンセーション主義者が認めようとしている程度以上に、この地とその民に対する、神の壮大な企図、そして主の総合的目的および包括的計画の中における、より壮大なる一致ないしは統合性が存在しているのです。

 

過去、私たちの中のある人々は、「木を見て森を見ず」の状態にありました。私たちは区分化・区画化をし過ぎていたからです。

 

ヘブル11:16と12:22の重要性(THE IMPORTANCE OF HEBREWS 11:16 AND 12:22)

 

それではまとめてみましょう。黙示録21-22章は、私たちが話し合いをする上で貴重な聖句です。なぜなら、新しい地に対するこの聖書箇所の強調は、クリスチャンとイスラエルそれぞれの最終的行き先(destiny)が同様であるということを示しているからです。

 

そしてこれは――天と地ほども違う「二つの別箇の宿命」という考えを強調する――最も厳格な形態のディスペンセーション主義にとってはすでに挑戦です。

 

またヘブル12章は、①クリスチャンがすでに黙示録21-22章の成就の前触れを経験している、②それゆえ、彼らは旧約の「ユダヤ人の(“Jewish”)」約束に関与している、ということを示しているという点で重要です。

 

最後に、ヘブル12章は、それが天と地に関連する仕方において注目に値します。古典的ディスペンセーション主義は、天と地を単に、――教会とイスラエルという二つ別々の宿命が実現するという――二つ別々の領域として解釈していました。

 

しかしヘブル12章は、その二つを「影」と「本体」、「歴史的待望」と「成就」という観点で、互いに相関性を持ったものとして捉えています。

 

それゆえ、この事実は否応なしに、ディスペンセーション主義者を、「パラレルな軌道を走る教会とイスラエルという垂直的配置」から引き離し、彼らを、連続した歴史的諸段階に属している、教会およびイスラエルの歴史的・予型的な配置へと導いていきます。

 

しかしことわっておきますが、ヘブル12:22-24をベースにしたこれらの議論は、「旧約預言のどの部分も絶対にクリスチャンや教会において成就していない」と主張する、より厳格な形態のディスペンセーション主義に対し、より一層の重要性があるということです。

 

エリック・ザウアーやその他の人々は、千年王国期における最も字義的なる成就をみているものの、教会における成就はしっかりと認識しておられます。

 

そしてこういった立場の人々は、ヘブル12:22-23における主要な含意のいくつかを会得しています。

 

千年王国期におけるアブラハムおよびクリスチャンに対する成就の、統合された性質についてのさらなる考察により、――あらゆる世代を通した歴代の神の民の宿命や相続における根本的一致を見る方向へと――私たちはさらに進んでいきます。