巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ディスペンセーション主義者を理解する ⑲「予型(よけい)について」(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

小見出し

 

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予型(よけい:ギリシア語: τύπος, ラテン語: Typus, 英語: Type)は、聖書の解釈法のひとつである予型論的解釈で用いられる概念。旧約聖書における数々の事象(主な例:青銅の蛇)が、新約聖書におけるイエス・キリストおよび教会の予型(予兆・前兆)として記述されていると考える引用元

 

Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

予型の挑戦(THE CHALLENGE OF TYPOLOGY)

 

前の章で、私たちはイスラエルの社会的・政治的構造、そしてその存在自体が象徴的な重要性を持っていたことを考察してきました。

 

特に、モーセ時代、イスラエルが一つの国として構成された際、その社会的構造や性質は、神ご自身・主の御約束・天における主の栄光に満ちた住まいへの言及によって特徴づけられていました。

 

それゆえに、モーセ立法制定の中の要素が持つ象徴的重要性には、「垂直的な」重要性があります。そしてその中のさまざまな要素が神とそのご人格、ご計画、天を指し示しています。

 

しかしこの重要性は同時に、水平的でもあり得ます。垂直的な方向に象徴が指し示している霊的諸現実は、栄光の内になされる、終末論的神の「来臨」の際に、この地において完全な形で顕示されます。それゆえに、象徴は時に、明瞭・不明瞭に前方を指し示す性質を持っています

 

それでは、古典的ディスペンセーション主義の方々が旧約啓示のこの象徴的側面をどのように取り扱っているのか、ご一緒にみていきたいと思います。

 

予型に対するディスペンセーション主義者のアプローチ(DISPENSATIONALIST APPROACHES TO TYPOLOGY)

 

もちろん、ディスペンセーション主義者も予型について知っており、それを研究しておられます。彼らは予型を、「新約のクリスチャンである私たちが旧約の中に見いだすことのできるなにかである」と受け取っています。

 

しかしこれまで、ディスペンセーション主義者は、新約それ自体が残りの聖句を予型している(typologizing)という文法的・歴史的基盤についてほとんど語ってきませんでした。

 

それはあたかも、旧約それ自身の内には、象徴的な省察を奨励するような箇所はどこにもなかったと言っているかのようです。それゆえ、彼らの内で、新約の予型は、――旧約時代にすでにそこに存在していた――旧約の象徴的含みから隔離されています

 

さて、過去に用いられていたこういったアプローチは、スコフィールドの《二分法》聖書解釈のアプローチと非常に良く調和していました。この点のロジカルな関係性について、どなたか詳細に分析した方がおられるのか分かりません。ですが、この解釈法でいくと、旧約聖書は二つのレベルで読まれなければならないとされています。

 

レベルその1

イスラエルに向けて言及されている旧約箇所は、非常に散文的(prosaic)に捉えるべく意図されていた。一方、天幕、さまざまな犠牲、族長たちの生活、王制、ダビデの生活などに対する象徴的意味については、イスラエル人によって、看過され得る――否、おそらくは看過されるべきものとされた。

 

レベルその2

旧約聖書は、それらが教会に関連する時には、豊かな象徴的意味を生み出すべく意図されていた。

 

しかし「字義的」解釈のことで討論が進み、発展していくにつれ、上記のようなアプローチはますます困難になってきました。

 

スコフィールドのような二重アプローチというのはどれも、まず先行的に、「イスラエルと教会に対する二つのパラレルな目的の間に存在する鋭利な区別」という前提からスタートしなければなりません。しかしそれ自身だけを論拠にしようとするなら、それはあまりにも恣意的と言わなければならないと思います。

 

それでは、私たちはいかにして、より良い形で「字義的」解釈を定義すればよいのでしょうか?

 

それに対する最も確実な道は、この「字義的」解釈を、文法的・歴史的解釈と同一のものにすることだと思います

 

しかし、文法的・歴史的解釈が予型(typology)に直面する際に、興味深いことが起こります。さあ、文法的・歴史的解釈は、旧約の天幕、イサクの犠牲、ダビデの生涯などについてどのような取り扱いをするのでしょうか?これに対し少なくとも二つの回答が考えられます。

 

回答1.

「文法的・歴史的解釈は、上記のような聖句の中で、何ら象徴的含みを見い出さない、もしくは、見い出したとしてもほんの最小限に過ぎない。」とする立場。

しかしこの結論は、①新約それ自体とも、それから②ディスペンセーション主義者が旧約の歴史的啓示に関する多くの側面でこれまで解釈してきた内容とも衝突を起こしてしまうでしょう。

 

回答2.

文法的・歴史的解釈は、旧約の中にある多くの象徴的重要性を明らかにし、それらは、後に新約聖書の中で用いられているものに正しく従っている。

 

*そしてこちらの回答②の立場に私自身の見解は近いです。

 

しかし、もしもこれが真だとすると、象徴的・予型的重要性は、私たちが旧約預言に取り組む際にも消えることはない、ということになります。

 

旧約預言は、モーセの啓示を背景として書かれています。もしも犠牲、神殿、土地、祭司制、王制などがモーセ時代に象徴的重要性を持っていたのだとしたら、――預言聖句の中で〔犠牲、神殿、土地といった・・〕同じものが言及され、暗示されている際には――その重要性は引き続き存在するということになります。

 

いや実際、預言者たちの後期啓示が、それ以前には比較的不明瞭であったある種のものに光を照らすにつれ、それはむしろより一層、増し加わり、より豊満になっていくと言えるでしょう。

 

それゆえ、文法的・歴史的解釈はそれ自体として、預言者たちに対し、モーセを背景に解釈する事を強い、そしてそこから進み、象徴的・予型的要素を、未来に関する預言的言明にダイレクトに導入していくことになります

 

そしてこれは旧約の「歴史」と「預言」の間に厳密な区別を置くスコフィールドの解釈法と相反しています(参:シリーズ等)

 

そうではあっても多くの現代ディスペンセーション主義者はなんとかここに自らを調和させようと努めておられるかもしれません。そして彼らは次のように言うでしょう。「旧約の歴史は、実際の(『字義的』)出来事や制度を指し示しています。象徴的含みは、出来事のリアリティーを無効にはしません。そして、同じ事が預言についても言えます。未来のことに関する預言は、象徴的な含みと、ストレート(『字義的』)な成就の両方を持しているのです。」

 

ディスペンセーション主義者によるこのような承認は、重要な前進となります。なぜなら、これによって、「教会時代に対する二次的適用として、旧約預言を積極的に用いていく」という道が開かれるからです。

 

ディスペンセーション主義者は、今後も多かれ少なかれ、以前のような形態の「字義的」成就という捉え方を保持することが依然としてできます。しかし、旧約歴史の象徴的含みは、教会としての私たちに対する予型的教訓を含んでいます。

 

そしてそれと同様、預言の象徴的含みは、――たといそれらがいわゆる「成就」に該当はしなくても――私たちに対する意味を持つことになります。

 

さて、ここまで来ますと、ディスペンセーション主義者は再度、自らに問うことになるでしょう。「預言の成就とは本当に一体何を意味しているのだろう?」と。

 

前述しましたように、多くの旧約預言は、差し迫った未来において部分的成就を見たかもしれませんが――それでも今も尚、「後の日」の偉大なる成就の絶頂の時を待望しています。その時、主の栄光がはっきりと顕れ、旧約啓示の部分的で影的だったものは究極的・実体的なものに取って代わられます。そして、そのような諸預言は、最も広義な意味において「終末論的」です。

 

それでは、終末論的預言は、旧約歴史や旧約の諸制度(institutions)とまったく同じような仕方で作用するようになるのだと私たちは期待することができるのでしょうか?

 

旧約の歴史は、象徴的な予型としての含みを持つ時、二つの次元を持っています。

①シンボル(symbol)それ自体としての次元、それから

②そのシンボルが象徴するもの、としてのもう一つの次元です。

 

さらに、シンボルというのは、ただ単に、時代を超越したいくつかの霊的真理を象徴しているわけではありません。つまり、それらはただ単に垂直的な指向性をもっているわけではないのです

 

シンボルはまた「時間」の中で、――少なくとも間接的に――終末論的預言の懸念である、まさにそれと同じ時期を指し示しています。こうした二つの次元性は、「旧約の啓示がその性質において、予備的であり影的である」という事実と密接な関係を持っています。

 

終末論的預言は実に、これと同じ二つの次元を持っているのかもしれません。

①シンボル(symbol)それ自体としての次元、それから

②そのシンボルが象徴するもの、としてのもう一つの次元です。

 

しかし終末論的預言の成就の時は、クライマックスとしての啓示の時です。それゆえに、未来のその時、象徴(symbol)はリアリティーに取って代わられ、もはやリアリティーと平行した別々の歴史的認識を必要としなくなるのかもしれません。

 

予型としての神殿(THE TEMPLE AS A TYPE)

 

それでは神殿のことを例に取り上げてみましょう。聖書の中には、ソロモンの神殿、バビロン捕囚後にゼルバベルによって建てられた神殿、エゼキエル書40-48章で描かれている神殿、神殿を建てる者としてのメシア預言(ゼカ6:12-13)等が記されています。

 

神殿というのが旧約の領域における象徴的・予型的なものであることは皆同意しています。それは、人と共に宿る神の住まいを象徴する神の家です。またそれは天にある神の御住まいを型どって造られています(1列8:29-30、出エ25:40)。

 

それは天にあるものの「写しと影」です(ヘブ8:5)。また神殿は、天にある神の御住まいを「垂直的に」指し示していますが、それと同時に、――やがて神と人との共生が全き実現をみる――終末論的「時」に向け、前方をも指し示しています

 

またキリストのみからだが神の神殿であることにも皆さん、同意してくださると思います(ヨハネ2:21、参:ヨハネ1:14)。そして教会は公同的に、そしてクリスチャンたちは個々に、聖霊の宮です(1コリ3:16、エペソ2:21、1コリ6:19)。

 

そしてここでの問いは、「はたして教会とクリスチャンは、ゼカリヤ6:12-13の中にあるような預言に関連しているのか否か?」です。

 

まず留意したいのが、キリストご自身がゼカリヤ6:12-13に関連しておられるということです。ヨハネ2:12で暗示されているキリストの復活は、明らかにゼカ6:12-13の成就の一部です。なぜなら、神のすべての約束は、キリストの内にあって成就するからです(2コリ1:20)。

 

では、クリスチャンはどうでしょうか?クリスチャンはキリストと共によみがえり(エペソ2:6)、そして神の神殿であるキリストご自身が、彼らの中に宿っておられます(ローマ8:10)。そういう意味においてクリスチャンは神殿なのです。

 

そうであるならば、クリスチャンもまた、ゼカリヤ6:12-13にある神殿建設の預言成就の一部であると言うことを、なぜに回避することなどできましょう?

 

それでは今、新約の中でなされている成就のについて見てみることにしましょう。新約時代、私たちはシンボリズムの第二番目の次元――つまり、物質的な石で作られた神殿――を必要としているでしょうか?

 

旧約の中では、そこに二次元ありました。一つは「字義的」(石でできた神殿)、そしてもう一つは予型的・霊的なもの(神と人間の交わりにおける霊的リアリティー。現在、キリストの復活および聖霊の降臨により、それは実現している)です。

 

「もしも二つの次元があるのだとしたら、今もやっぱり二次元あるべきではないのでしょうか?」しかしそう反応してしまうと、私たちはヘブル人への手紙の主題を見落としてしまうことになります。ヘブル人への手紙によると、影なるもの(石でできた神殿)は、完全なものによって取って代わられる時、「廃止」され得るのです(ヘブル10:9)。

 

もちろん、新約時代それ自体は、神の御約束における最も完全にして豊かな実現を未だ含んでいません。そういった完全さが訪れるのは、新しいエルサレム、新天新地においてです。そしてその時にも、物質的、「地上的」な要素は残ります。

 

私たち救われた者はその時、体外離脱の霊ではなく、復活のからだをもち、都に住む者となります。そしてその都は同時に、至聖所である神殿なのです。この事については次章でくわしくみていきたいと思います。

 

差し当たり、旧約聖書における象徴的・予型的含みに関する解釈によっていくつかの挑戦がもたらされていることを受け止めたいと思います。

 

ディスペンセーション主義者は、こういった予型が、新約におけるキリストおよび信者たちに関する真理を予表(foreshadow)していることを躊躇なく認めておられます。ですから、ディスペンセーション主義者と対話をするにあたって、予型というのは話の自然な出発点になるでしょう。

 

文法的・歴史的解釈は預言の中にそれと同じ象徴的・予型的重要性をみていますので、それは、「いかに預言が、新約の信者たちと有機的に一致した関係を持っているのか」を表しています。ですから、予型的関係は単なる二次的適用だとして片づけてしまうことはできない、ということになります。

 

この点における、古典的ディスペンセーション主義理論の主要な弱さは、この理論が、これまで「予型的解釈」と「文法的・歴史的解釈」との間の統合をなおざりにしてきた事にあります。

 

 

文法的・歴史的解釈への制限(A LIMIT TO GRAMMATICAL-HISTORICAL INTERPRETATION)

 

予型に関してですが、もう一つ困難な事が生じてきます。それは次のようなことです。

 

前章で述べましたように、予型は、それが実際に成就されるまではフルに認識し得ないものです。予型はそれが語られたその時にはかなりの意味を持ちます。しかしそれはオープンエンドです。

 

ですから私たちは漠然とした一般的な仕方では、いかにして預言成就がくるのかを予測することはできません。その詳細は依然として不明瞭です。しかし一旦成就がなされるや、それは元々のシンボリズムの重要性の上に、付加的な光を照らすのです。

 

換言すると、すべてを理解するためには、人は、後に書かれた聖句を、初期の聖句と比較検討しなければならないということです。

 

しかしそういう比較検討の仕方ですと――本来、文法的・歴史的解釈を崩したり、矛盾させたりしてはならないのですが――それは文法的・歴史的解釈の境界線を超えてしまうことになります。

 

なぜなら、その方法は、元々の歴史的・文化的文脈の中では入手不可能な情報を考慮に入れているからです。

 

それゆえ、文法的・歴史的解釈では十分ではないということになります。もちろん、文法的・歴史的解釈は、私たちが特定の諸聖句を理解するに当たり、それらに統制や精錬をもたらす上での重要な役割を果たしています。

 

しかし私たちはそれと同時に、(そういった聖句が待望し、備えているところの)さらなる啓示に諸聖句を関連づけていく作業にも取り組む必要があります。

 

この部分は大切です。なぜなら、聖書解釈に関するディスペンセーション主義者の言明にはこれまでほとんど常に、この部分が省かれてきたからです

 

実際、ディスペンセーション主義者の多くは、「非ディスペンセーション主義的な読み方では、『新約を旧約の中に読み直す(“reading the NT back into the OT”)』という風になってしまうから」という理由で、非ディスペンセーション主義的な聖書解釈を拒絶してこられました。

 

そうですね、そういう風に表現するなら、たしかにこりゃダメだという感じはしますよね。そして、これではまるで旧約が「読み直す」ことを支持していないかのように聞こえてしまいますよね?それに時折、ディスペンセーション主義者の主張は間違いなく的を射ています。実際、ある人々の「読み直し」行為は、旧約の文法的・歴史的解釈の影響を消し去ってしまっているのも同然だからです。

 

しかしここでの困難点からそう簡単に目を逸らすことのないようにしましょう。といいますのも、ディスペンセーション主義者自身もまた、予型を用いる際に、上で述べたこととかなり似たようなこと事をしてしまっているからです。

 

また、多くの異なる聖書箇所からの聖句の統合解釈に依拠している「預言的体系(“prophetic system”)」を形成する際にもまた、ディスペンセーション主義者は同様のことをしてしまっています。

 

なぜでしょう?「聖書には一人の神的執筆者がおられる。だから、私たちははじめから終わりまで統一され首尾一貫した使信を期待することができる」という事実を鑑みる時、すべての解釈者は上記のようなことをせざるを得なくなるからです。

 

それゆえ、私はディスペンセーション主義のみなさんに、次の二つのことを提案したいと思います。

 

(a)旧約歴史/旧約預言の両方における象徴的・予型的含みを真剣に視野に入れた文法的・歴史的解釈の理解にいっそう深め、その観念を発達させていってください。

 

(b)前期の聖句と後期の聖句を《一緒に》検討することによってのみ引き出される洞察と共に、文法的・歴史的解釈から得られる諸成果を豊かにしていくようなさってください。

 

*それから、(b)の際、みなさんは、旧約の歴史聖句の中における予型の時だけでなく、旧約の預言聖句の中における予型的・引喩的箇所においても、そのことを実践するよう努めていってください。

 

おそらく修正ディスペンセーション主義者の中には、すでにこの事をしている方々がおられると思います。そして、こうしながら尚且つ、将来的な千年王国期には、終末論的預言の大部分における比較的「ストレートな」形での成就があるということを信じることも可能です。

 

私にとっては、そこは最も重要な問いではありません。むしろそれ以上に大切なのは、ここそこで、クリスチャンおよび教会における預言の成就がある、ということを認めることができるのかどうかという点です。そしてこの点が過去における論争の骨髄の一つでした。

 

それゆえに、こうした〔予型の問題に関する〕一歩進んだ省察は、今後私たちを互いに結び合わせ、一致に向かわせる助けとなっていくことでしょう。

 

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