巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ディスペンセーション主義者を理解する ⑱ 「旧約聖書のイスラエルにおける解釈学的見地」(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

小見出し

 

Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

本章では、旧約への適用――特に旧約預言への適用――という点で、文法的・歴史的解釈がどのように進行していくのか、みなさんとご一緒に考察していきたいと思います。

 

文法的・歴史的解釈は、そのもっとも狭義な焦点として、聖書記者はその著述によって何を意味(意図)していたのかを問います。

 

しかしそれは、「記者は頭の中で何を考えていたのか?」という事に関する単なる心理学的憶測ではありませんし、元々の聞き手はなんら手がかりがないにも拘らず、こちら側が勝手に、「聖書記者の意図は~~であったに違いない」と決めつける、そのような根拠なき推測でもありません。

 

そうではなく、文法的・歴史的解釈は、記者が実際に言及した内容に焦点を置きます。それはまた、記者の対象とする読者たちが、聖句の意味せんことを理解する上で何をもってjustifiedされるのか(正当化される、正しいとされる、正当だと理由づけられる)に関心をもつ解釈法であると特徴づけられましょう。

 

読み手に関する後者の特徴には、それによって、私たちが聖書記者の考えについての憶測や推測的読みを強いて回避させ、記者が実際に書いた内容に私たちを強いて局限するという長所があります。

 

しかしながら、人間の読み手は完全無欠ではありません。特に、私たちは、主観的に聖句の中にある意味を読み込ませるというような事を避け、どの意味が私たち読者が〔聖句を〕読み取る上で正しいとされる意味なのか――その部分を知ろうと努めます。

 

いずれにせよ、文法的・歴史的解釈は、聖書記者の持っていた諸目的を念頭におきながら、その当時の時代や文化の背景を基に聖句が何といっているのかを取り扱います。

 

前キリスト教時代の聞き手による実際の諸解釈(ACTUAL INTERPRETATIONS BY PRE-CHRISTIAN AUDIENCES)

 

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預言者ミカ

 

ですから、文法的・歴史的解釈は、聖書が書かれた当初に焦点を置きます。しかし(例えば)預言者ミカの時代のイスラエルの民がミカの言う意味を理解していた事(と私たちの捉えるその内容)に訴えるだけで、それがそのままミカ書の解釈に厳密なる回答が与えたことになる、と考えることはできません。

 

当時の民の中には、罪や頑なな心によって、理解を誤る者がいたかもしれません。さらに、こういった旧約聖句が書かれた当時のイスラエルの民の聖句理解についての情報さえあまりないのが現状です。

 

それゆえに、私たちは下記のようなフェインバーグの言及の真意を理解しかねます(1980, 46)。

 

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「旧約時代に上記のような諸聖句がどのように理解されていたのかということに関しては、説明の必要はありません。というのも、それは常識の問題であり、慎重な検証に開かれているからです。そうです。それらは徹頭徹尾(only and solely)字義的に取られていたのです。

 

 

もちろん、口頭での神の御言葉に対するいくつかの民の応答や、書かれた御言葉に対する応答という旧約それ自身の記録から、私たちはそういった回答者たちが神の御言葉をどのように理解していたのか、断片的な知識は得ることが可能です。

 

例えば、神が民に掟を与えた時、どのような事が起こったのでしょうか。掟を聞くやいなや迅速に直接的にそれらに従った人々は、その掟が直接的な意味を持っていると理解したわけです。そしておそらく従順なイスラエルの民たちは、神の掟を平べったく(flatly)解釈していたと思われます。

 

しかしまたおそらく、彼らはそういった直接的な応答に加え、それを越えたところにある付加的含意や暗示の類をみていた可能性もあります。

 

ですが、この事に関しては、私たちが「すべてのイスラエルの民は、多かれ少なかれ、《平べったい解釈》をする傾向にあった」と前提しない限り、特になにを立証する手立てもないというのが現状ではないかと思います。

 

前キリスト教時代における一般読み手の解釈について、私たちが得ることのできる最も精巧な資料は、旧約新約間の中間期(intertestamental period;旧約聖書の最後の書が書かれてから新約聖書の最初の書が書かれるまでの間の約400年)に存在します。

 

 

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中間期

 

フェインバーグはそのことを考慮していたのでしょうか。おそらくそうしていなかっただろうと思います。それはともかくとして、旧約新約間の時代の資料は、フェインバーグの諸結論を裏付けるものにはなっていません。

 

実際、この時代の解釈学的応答は非常に多様性に富んでいます。ある解釈者たちは「平べったく」解釈しています。そうかと思うと、ある人々はかなり空想的な解釈をしています。

 

ユダヤ人のフィロン(Philo Judaeus, bc13-ad45/50)やクムラン共同体、ユダヤの黙示(Jewish apocalyptic)などを参照するだけでもそれは一目瞭然です。(例:Philo, Legum allegoriarum; 1QpHab, 1QpMic; 1 Enoch; Longenecker 1975, 19-50; Patte 1975)

 

イスラエルの希望(ISRAEL’S HOPE)

 

それでは本題に戻りましょう。――旧約の聞き手たちによる実際の解釈ではなく、「正当/正しいとみなされている(justified or warranted)」解釈についてです。聖書記者は実際には、旧約本文の中で何を述べたのでしょう。元々の聞き手が旧約聖句を理解する上で何が正当なもの(justified or warranted)とされていたのでしょうか。特に預言聖句の中で何が述べられていたのでしょうか。

 

イスラエルの自己理解および、イスラエルの神理解におけるいくつかの要因は、「彼らの預言理解は《平べったいもの》ではなかった」という見解に私たちを導かざるを得ないと思います。

 

もちろん、時折、特定の預言聖句は、主として(or全く)非隠喩的な予言として理解されてきたことでしょう。しかしその他の場合、イスラエル自身の態度は、いわゆるオープンエンド型の予想(期待・待望)だったはずです。

 

イスラエルは、どのようにしてその預言が成就に至るのか厳密には知らない状態のまま、そういったいくつかの預言の成就を待望しなければなりませんでした。また彼らは、一体どの程度まで、真理の隠喩的表現が作用するのかについても厳密には把握していなかったはずです。

 

例えば、その一例をイザヤ40:4-5に見ることができるでしょう。

 

4もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる。

5 こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである。

 

この直接的・遠隔的文脈をみる限り、元々の読み手が、4節の預言を、「単なる地形学的な変化(地の表面の形が変わること)についての描写だ」と理解することを絶対的に妨げるものは何もありません。

 

それゆえに、《平べったい解釈》は、「この節は地形学上の変化を言っているのだ」と捉えます。また、(「もし可能なら字義的」という原則を基盤にした)オリジナルな歴史的文脈の中における解釈法も、同様のことを言うでしょう。

 

しかし実際の状況は、《平べったい解釈》が思うほど、そう単純なものではありません。確かに、イスラエルの民は、これを、地形学上の変化以外の(あるいはそれ以上の)なにかであると見るよう強いられてはいません。しかしまた同時に、彼らは、「これは単なる地形上の変化です!」、もしくは「これこそが主要点です!」と捉えるように強制されてもいません。

 

まず第一番目に、直接的文脈(例:イザヤ40章~66章の大半)は、第二回目の出エジプトについてのテーマを提示しています。(イザヤ43:16-21、51:9-11、52:12、63:7-19等をご参照ください。)

 

荒野の中の道(40章3節)というのは、捕囚(以前にはエジプト;今はバビロン)から約束の地に至る道を描写する言葉です。そうであるならば、地形学上の変化を表す言葉は、神ご自身が民のただ中にいらしてくださる時に関連した備えの完全性を示唆する隠喩的表現であるかもしれません。

 

第二番目に、イザヤ2:1-18ではすでに、「神の至高性」および「人間高慢が低められるさま」を示唆すべく、そういった平らにするプロセスに関する類似の言語が使われています。

 

スコフィールド・レファレンス・バイブルは、イザヤ2:2の注釈として、「山というのは、聖書のシンボリズムにおいて、王国を意味する(ダニエル2:35、黙13:1、黙17:9-11)」と記されています。

 

スコフィールドのこの言及はもちろん《平べったい解釈》ではありません。また、厳密に言って文法的・歴史的解釈でもありません。なぜなら、彼の言及は、イザヤ書が書かれたその当時には未だ書かれていなかった聖書の各聖句にその拠り所を求めているからです。

 

しかしながら、("平べったい"ではなく)繊細な読者なら、イザヤ2:12-18の主要点は、高慢と謙遜、栄誉と不名誉、至高と屈辱にあるのであって、地形上の変化にあるのではないということを理解しておられるでしょう。

 

さあ、またイザヤ40:3-5に戻りましょう。イザヤ40:3-5は、隠喩的言語というその選択により、未来に関する散文的、年代記的描写よりは、確かに、より正確さの低い聖句といえます。しかしそれは「人間の高慢が低くされること」「二回目の出エジプト」「神の最終的贖いの宇宙的視野」といったテーマを互いに関連させつつ記述することに成功しています。

 

敬虔なイスラエルの読み手はここの聖句の主要点を押さえていたはずです。主はやがて壮大な《新》出エジプトにおいてご自身を顕現され、人間の高慢を取り扱ってくださるだろうと。

 

そこに地形上の変化があるのか、そして、どれくらい、この《新》出エジプトが最初の出エジプトに類似しているのかといったことは、ここの聖句には明瞭に書かれていません。

 

こういった希望の表現は膨らみ、実際に預言が成就する時により明確になります。例えば、バプテスマのヨハネに関する預言成就の光に照らし、今や私たちは、悔い改めというのが、(イザヤ40:4で暗示されている)人間の高慢に対する主の取り扱いの主要な側面であったことをより明瞭に知るに至っています。

 

後の日

 

それでは再度、預言解釈という一般課題に戻ることにしましょう。「後の日(“latter days”)」のための旧約預言は、純粋にシンプルに言って、イスラエルの民にその中心を見い出していません。また、純粋にシンプルに言って、パレスティナの土地の刷新にその中心を見い出してもいません。そうです。むしろ彼らの待望のもっとも深い根源は、「主の来臨」の内に見い出されます。

 

「荒地で、主のために道を整えよ」(イザヤ40:3)。「主の栄光が現わされる」(イザヤ40:5)。「ユダの町々に言え。『見よ。あなたがたの神を。』」(イザヤ40:9)。「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める」(40:10)。「シオンに向かって『あなたの神は王となられた』と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう」(52:7)。

 

このような聖句は他にも枚挙にいとまがありません。神の来臨、栄光の中での神の顕現は、神の民の刷新をも含意せざるを得ません。出エジプトやシナイにおいてそうであったように、未来においても、神の来臨は、裁きと救い、その両方を意味します。そして神の来臨は土地の刷新を含みます。なぜなら、主が顕現される所はどこでも聖なる地となるからです(参:出エ3:5)。

 

それゆえに、預言は神の民および彼らの地の刷新についてこれほど多くを語っているのです。そしてこれらの事は神の来臨から隔絶したところにあるものではありません。目を見張るような壮麗な万物の刷新は、圧倒的に偉大な神ご自身の人格および後の日におけるご自身に関する啓示を顕示し、反映しています

 

しかしたとい、民と土地の刷新が神ご自身の来臨によって決定されるとしても、依然として、神ご自身が、預言的待望のもっとも深い中心におられます。イスラエルの民は神の来臨が何を意味するのかを詳細に予測できていたでしょうか。

 

そうです、それは平べったい解釈を意味しません。そうではなく、それは神ご自身が究極的な解釈者であるということに対する解釈を意味しているのです。

 

モーセでさえもただ神の「後姿」しか見ることができませんでした。全世界に対して全き栄光の内に啓示される神を持つということは(イザヤ40:5)、あまりにも壮観であるため、イスラエルの民は、隠喩的であるもの、そしてそれがどんな方法で隠喩的であるかについて控え目(reserved)でならなければなりませんでした。

 

 

祭司の王国としてのイスラエル(ISRAEL AS A KINGDOM OF PRIESTS)

 

特に、イスラエルの自己理解というのが、イスラエルの将来に関する彼らの預言の読み方に影響を与えました。それでは、イスラエルはどのような自己理解をしていたのでしょうか?

 

国として民としてのイスラエルに対し、神は、イスラエル自身の重要性の中軸は単なる生物学的/民族的境界にあるのではなく、ご自身との関係性の内にあるのだと言われました。イスラエルは神の御名を帯びることにより(民6:24-27)、彼らのただ中に神が住まわれるということにより(民14:14)特異な存在として特徴づけられた民でした。そして国民全体が、「祭司の王国であり聖なる国民」(出エ19:6)でした。

 

祭司として、彼らは聖の中で神に仕え(レビ19:2)、神を知る知識を全世界の国々にもたらすという、特別にして優れた役割を遂行しなければなりませんでした(創12:3、申4:6-8)。

 

それでは、イスラエルは祭司としての自分自身の役割をどのように理解していたのでしょうか?それは、アロンの祭司制の枠組みの中でイスラエルに与えられた非常に具体的な型を遵守することによって、でした。アロン系の祭司たち(そしてそれに従属するレビ人たち)はもちろん、非常に特別な意味における祭司でした。

 

全体としてのイスラエルはアロンの子孫たちとは同じ地位にはありませんでした。確かに共同体全体は、聖に関するより低い意味において(出エ31:13)、聖なるものでした。しかし、そうだからといって、祭司と民との間の区別を亡きものにしようとのコラの企ては正当化されませんでした(民16-17)。

 

アロン系の祭司たちは特別な意味で聖なるものでした。しかし、そういった特別性ゆえにこそ、アロン系の祭司たちは、民が――より緩和な次元において――いかにあるべきかということに関する一つのパターンを定めたのです。

 

ですからアロンは、イスラエルのための一つのパターンとしての存在していました。しかしアロン自身はそれ以上に深いなにかにまねて型どられていました。天幕のための指示は、「よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ」(出エ25:40)でした。天幕は聖なる場所であり、至高に聖い神の宿り場としての天に模(かたど)って造られました(1列8:27、30、34、36、39)。

 

天幕の務めもまた天的な務めに型どられたものであったと考えられます。神の絶えざる臨在の内になされる御使いの務め、そして神が「顔と顔とを合わせて」(民12:8)語りかけてくださったモーセの務めなども髣髴されます。そしてアロンはもちろん、そのままでは神の前に立つことができませんでした。彼は特別な装束を着なければなりませんでした。さもなくば彼は息絶えていたのです(出エ28:38、43)。

 

さらに、アロンの装束のいくつかの装具や配置にしても、少なくとも漠然と、天幕それ自体に相当しています。青服、金、指輪、「主への聖なるもの」と刻まれた純金の板などは皆、天幕の各側面を連想させるものです(参:Kline 1980, 42-47)。祭司であるアロンは天にある型に型どられていました。

 

それゆえに、イスラエルの祭司制の全き型には深さにおける諸レベルがありました。全体としてのイスラエルは祭司でした。アロンは祭司でした。そして神の天的な原型には、究極的な祭司制がありました。(下の図表10.1をご覧ください。)

 

 

 

 

ですから、祭司の国としてのイスラエルの存在には、象徴的な重要性がありました。しかしそうだからと言って、イスラエルの祭司制が「ただ単に」象徴的であったに過ぎないとか、「ただ単に」説明に役立つ教育的価値しか持たないとか、そういう事は全くありません。

 

それに、イスラエルの祭司制が「ただ単に」天にある「本物の」祭司的リアリティーを映し出す幻影にすぎないとか、そういうことも全くありません。いいえ、それは確かに実在するものであり、「本物」でした。――イスラエルの民がそれを受け取ることができる次元において、そしてその時点における神の解放を表す予備的(preliminary)性格および主の啓示にふさわしい次元において、それは「本物」だったのです。

 

神のための代理人だけでなく、まことの神ご自身が、真にイスラエルと共におられました。そして主の臨在は、祭司としての彼らの聖別を意味していました。にもかかわらず、イエス・キリストの到来により神が臨在しておられるようなあり方および強度(intensity)ではその当時、神は臨在しておられませんでした。ですから、その意味において、イスラエルにおける神の臨在は、予備的であり、「影的(“shadowy”)」であったのです。

 

預言書の中で言及されている後の日(the latter days)は、神の栄光がこの地に顕現する、かの広範な終末論的時代です(イザヤ40:5、60:2-3、ゼカ2:5)。

 

以前には神の栄光は天に限定されており、天幕および神殿の中の至聖所を満たすために従属的に顕れていました。しかし、終末論的に言えば、神はその威厳をもってこの地に来られるのです。後の日には天的なリアリティーが地上的で象徴的な映しに取って代わります。そして天的な原型が、影であったものを満たしそれを変えます。

 

それゆえに後の日というのは、アロンの祭司制における改訂(revision;詩110:4)、および祭司制と密接な関係を持つ律法の改訂を暗示しています(ヘブ7:12)。

 

しかしそれ以上に、それは、イスラエルそれ自体の存在における改訂を暗示しています。なぜならイスラエル自体、祭司の王国として選ばれているからです(参:イザヤ66:18-24)。

 

イスラエルの存在自体が初めより、象徴的かつ天的な含みを持っていましたので、預言成就にもそれらと同じニュアンスが包含されています。終末論的「時」というのは、イスラエルの性質それ自体における象徴的含みがリアリティーに変化する時です。

 

それでは、これが、パレスティナの土地の性質に関するイスラエルの認識にとって何を意味していたのか考えてみることにしましょう。地は神に属するものでした(レビ25:23)。

 

そしてそれは汚れた慣習により汚されてはならないものでした(申21:23、レビ20:22-24)。また拡大された意味において、土地そのものが聖く、神の宿る場所でした。聖なる土地として、それは天的な宿り場に対する神のご統治に型どられていました。しかしそれは、神が後の日に、全地になそうとしておられることをも明示していました。神の王国は、――(旧約時代において)それが天であったように――、今度は地に到来するのです。

 

パレスティナの地はエデンにもなぞられていました(イザヤ51:3)。それはアダムが落伍(失敗)した地点を指し示していました。エデンに対するアダムの統治(全地に対する統治の出発点)は堕落によって損なわれてしまったのです。

 

イスラエルは「新しいエデン」に対する統治権を授けられました。パレスティナに対するこの統治は「最後のアダム」(1コリ15:45)としてお生まれになるべき「女の子孫」によって回復されるべき完全なる統治を待望しました。

 

これら全てが意味するのは、聖書預言を「平べったく」読むことは、文法的・歴史的解釈の侵害であるということです。そしてイスラエルの歴史を「平べったく」読むこともそれと同様、侵害となります。

 

イスラエルの歴史には、祭司の国としてのイスラエル自身の存在における、象徴的次元に由来するいくつかの象徴的含みがあります。

 

しかし終末論的預言は、そういった象徴的な含みが強調され、表面化してくるポイントなのです。なぜなら、それが予備的段階から最終段階への移行期だからです

 

そしてそういった象徴的含みは、従来、「予型(typology)」として分類されてきたほとんど全てのものを含みます。実際、イスラエルの存在は、初期予型で満ち満ちているため、成就の光の下に生きる私たちには、イスラエルのそういった状況を評価することは容易ではありません。本当にそれは不可能です。なぜなら私たちは自分たちがキリストから学んだことを忘れることなどできないからです。

 

しかしこれだけは言えましょう。イスラエルは象徴的含みのおぼろげな感覚を通して実に多くのことを知ることはできていたでしょうと。そしてそれと同時に、影は、本体が提供するあらゆる深さや豊かさを提供しなかったため、少ししか知り得なかった――ということもあり得ます。多くの内容は、明確にして、理性的に言明された手段によってではなく、むしろ暗に(tacitly)知られていたのでしょう。1

 

旧約イスラエルの終末論的待望についてもう一点だけご一緒に考察したいと思います。それ以前ではない「後の日」というのは、天的な神の現実が、その栄光の中で地に顕現する決定的な時期だからです。

 

それゆえに、近い(差し迫った)未来に関する預言的言明は、「後の日」についての言明とは異なる性質を持っています。近い未来においては、組織されたイスラエルの政治的・社会的共同体が多かれ少なかれ、直線状に続きます。そこでの預言的言明は、それらが象徴的・暗示的言語を用いている時でも、依然として象徴的な次元での成就を見い出すことが期待できます。

 

それに対し、「後の日」における成就(終末論の広義的意味における終末論的成就)は異なっています。ここでは象徴がリアリティーに取って代わり、それゆえ、成就に関する直線状の捉え方はもはや可能ではありません。つまり、解釈学的に言って、《前》終末論的預言成就(Pre-eschatological prophetic fulfillments)は、終末論的成就とは異なる性質を持っているのです。

 

そのシンプルな例としてマラキ3:3-4の預言を見てみましょう。マラキはここで、未来のある時点で、レビの子たちが主に受け入れられる義のささげ物を捧げるようになると預言しています。もしも考慮に入れているこの時期が《前》終末論的時であったのなら、ここでいう回復とは、レビ記で説明されている時系列に沿ったところの、義なる礼拝の回復のことだと思うのが自然でしょう。

 

しかしマラキ3:1-2の文脈をみますと、「後の日」という特別なフレーズこそ使っていないものの、これが、圧倒的な神の裁き及び、圧倒的な神の来臨に関する文脈であるだろうことが見て取れます。つまり、ここは「後の日」に関する文脈なのです。

 

その場合、「ささげ物」の形態が絶対的に同じものであり続ける、と見なすことができるのか、そう明確ではありません。継続した〔動物による〕血のささげ物が尚も捧げられることになるのでしょうか。もしくは(場合によっては)ささげ物は賛美とあわれみのささげ物に限定されるのでしょうか(ヘブル13:15、ピリピ4:18、ローマ12:1、15:16と同様)。

 

継続したささげ物の性質は、聖めのための最終的、決定的犠牲がなされた時に変化が起こされたのかもしれません(マラキ3:2、4:1ー3、参:ヘブル10:1-3)。

 

幾人かのディスペンセーション主義の方々はもちろん、エゼキエル44-46章を基盤に、「千年王国期に〔動物による〕血のささげ物が再開する」と考えておられます。しかし、本章で私たちはエゼキエル書に関するさまざまな議題を取り上げることはしません。なぜなら、そこには、さらなる解釈学的議論が関与してくるからです。

 

要点は次の点です。「後の日」に関するほとんどどんな預言聖句であっても、私たちは「これは、千年王国期における、完璧に『直線状』にして『明白な』種類の成就のことを言っている」と主張することができます。ええ。それは実際、可能です。

 

しかし、あらゆる場合において、それがかならず必然的に、その聖句の意図する純粋なる意味なのでしょうか?ここで問われているのは、はたして旧約聖書の聞き手たちが、「この聖句は最も明確な方法で成就しなければならない」と言うことを余儀なくされていたのか否か、という点です。

 

第二番目の例として、エレミヤの預言を取り上げてみることにしましょう。差し迫った未来におけるエレミヤの災いに関する預言(参:エレ24:1-10)と捕囚からの回復(参:エレ29:10-14)は、明白な仕方で成就します。

 

しかしながら、エレミヤはまたより遠隔的展望をも持っていました。エレミヤはさらに絶頂ともいうべき成就のことを言っており、その時、モーセ的秩序の全体は、より力強く、親しく、有効性をもつ契約――新契約――に取って代わります(エレ31:31-34)。

 

ここでエレミヤが終末論的リアリティーに触れていることは明らかです。そしてこの場合の成就解釈は、そう明白にというわけにはいきません。

 

もちろん、この聖句に関して、現在、意見の不一致があります。ある方々は、成就を千年王国期におけるユダヤ人だけに関連づけて解釈しておられます。しかしどうでしょう。その他にも可能な解釈というのはもしやあり得るでしょうか?千年王国期の成就を否定することなく、さらに、新約聖書期における成就が存在する、ということを言うことはできるでしょうか?

 

イエスが来られると、「後の日」が開始します。特に、イエスはその死の際、ご自身の血潮によって新しい契約をお立てになりました(マタイ26:28)。しかし確かに最後の晩餐の記述の中に「新しい」という語が出てきているのか否かについての本文テキスト問題はたしかにあります。

 

ですが、とにもかくにも、①契約についての言及、②罪の赦し(参:エレ31:34)、③モーセ契約の開始との並行ゆえ(参:エレ31:32)、そこに関連性があるのは確かです。

 

クリスチャンは聖餐に与ることによってこの契約への参与を祝います(ルカ22:19、1コリ11:24-26)。ですから、すべてのクリスチャンは、生物学的・社会的にユダヤ人であろうとなかろうと、それに拘りなく皆、新契約の参与者であるという結論を避けることは難しいと言えましょう(参:ヘブル10:11-22)。

 

なぜならキリストはイスラエル人であり、クリスチャンはキリストに結ばれていますから、クリスチャンはエレミヤ書の中でイスラエルとユダに約束されている諸恩恵に与ります。

 

それでは、誰と新しい契約が結ばれたのでしょうか?そうです、それはイスラエルおよびユダと結ばれました。それゆえ、それはイスラエル人であるキリストの恩恵により、キリストゆえにクリスチャンと結ばれています。

 

それゆえ、「イスラエルとユダ自身が、キリストの初臨の際、変化を経験した。なぜなら、キリストこそが最後にして、至高に忠実なるイスラエル人だから。こうしてキリストの周りにすべてのまことのイスラエルは集まるようになる」という方もおられることでしょう。

 

とは言いましても、おそらく多くのディスペンセーション主義の方々は、新契約に関するエレミヤの約束に対するこうした解釈のことで、完全には私に同意できないと感じておられるかもしれません。ここでは詳細にこの問題に立ち入りません。ただここで肝要とされている問題は、ある特定の聖句に関することではなく、原則――預言解釈の原則――に関することです。

 

終末論的預言成就を解釈するに当たり、――それを《前》終末論的成就とは異なる基盤で解釈することに対しての――健全にして堅固な文法的・歴史的土台が存在するという事と私は申し上げたいと思います。

 

エレミヤの時代のイスラエルの民は、(多くの場合、無意識的ではあったかもしれませんが)終末論的神の来臨の、世界を揺るがすような刷新的性格のことを理解していたはずです。

 

それゆえ、(例えばですが)「エレミヤ31:31の『イスラエルの家』および『ユダの家』は教義的確実性をもって、最も散文的、生物学的意味で解釈されなければならない」という風に主張するのは、文法的・歴史的解釈から逸れてしまっています。実際、そういった散文的、生物学的意味というのはむしろ、イスラエル人が経験上、短期的な預言として適用していたのではないかと思われます。

 

今、私が提唱しているのは、「元々の(文法的・歴史的)文脈において、終末論的指向性のある預言は、その中に付加的な可能性を組み込んでいる」という事に関してです。

 

終末論に関する旧約の人々の立場は、短期的預言に対する彼らの立場とは異なっていました。つまり終末論的預言にはオープンエンドな示唆性があったのです。ですから成就の厳密なる詳細は、往々にして、――その成就が実際に起こるまでは――特定できないものでした。

 

 

偉大なる王の臣下としてのイスラエル(ISRAEL AS VASSAL OF THE GREAT KING)

 

次に、王のしもべとしてのイスラエルを考察してみることにしましょう。神ご自身がイスラエルを治める王でした(申33:5、1サム8:7)。またイスラエルは特別な祭司の「王国」であり、神はその王国をご自身の律法で治めておられました(出エ19:6)。神がイスラエルと結んだ契約は、ヒッタイトの諸王が自分の臣下と結んだ宗主権条約にも似ていました(参;Kline 1963; 1972)。

 

イスラエルの存在と自己理解という《編み物》は、実際、神とイスラエルの契約および、王である神としもべであるイスラエルの関係という《生地》によって織りなされていました。

 

地上的(人間である)イスラエルの王は、神の正義および神の統治の反映でなければなりませんでした(申17:14-20、1サム8:7)。そして彼は偉大な王である神の息子のようでした(2サム7:14)。このようにして、彼はまた、究極的な王であり御子を待望していたのです(詩2:7)。

 

その意味で、終末論ないし「後の日」は、神が、ご自身のしもべの救いのため、そして地に正義をもたらすため、絶頂なる方法でご自身の王としての御力を行使させる時に他なりません(イザヤ52:7)。

 

神は全地を統べ治める王になられます(ゼカ14:9)。主の力強い御腕は、出エジプトの時と同様、すばらしく統べ治めるでしょう(イザヤ40:10)。そして神の王制の顕現は、その内に、人間としてのダビデの王制を内抱しています。

 

神はご自身の民の牧者となられ、ダビデは牧者になります(エゼ34:11、23-24)。一方の行動はもう片方の行動となります。「ダビデの家は神のようになる」(ゼカ12:8)。事実、ダビデの子が、「力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ9:6)です。

 

それゆえ、イスラエルに対する神の王制は、終末論的時において、決定的刷新・変化および完全な実現をみます。

 

ダビデの系列にある(人間の)諸王とイスラエルの関係もまた変わります。そしてイスラエルそれ自体が変わります。なぜならそれは、王に対するしもべの関係によって成り立っているからです。

 

終末論的時に、しもべとしてのイスラエルは、唯一のまことのしもべ――神の救いそして神の統治を、イスラエルの諸部族だけでなく、全世界にもたらすお方――と神秘的に同定されます(イザヤ49:3,6、参:使徒13:47)。

 

イスラエルは王の民であり、聖なる地は王の統治下にある地です。そしてその両者共、神の統治が到来する時に、象徴から現実へと移行します。

 

預言的御言葉の受け取り手としてのイスラエル:真の預言のジャンル(ISRAEL AS RECIPIENT OF PROPHETIC WORDS: THE GENRE OF TRUE PROPHECY)

 

最後に、預言の背質および様態についてのイスラエルの理解について考察していきたいと思います。イスラエルの存在の中にあって、預言者たちのすべての預言は、モーセの務めを背景に読むよう意図されていました。預言者たちは主のための代弁者でした。

 

そしてモーセ自身は主のための代弁者の最高の模範として存在していました。またモーセを通し、主は後の預言の受容に関連した、イスラエルに対しての特定の諸指示を与えました。(特に民12:6-8、申13:1-5、申18:14-22において。)

 

イスラエルは、①預言者たちが固く主だけを礼拝しているのか、そして②彼らの預言する内容がはたして成就するのか否か、によって預言者としての彼らの信憑性を試すことになっていました。そして①②の内容共に、預言者の使信に対する基本的了解度を前提としていました。

 

他方、民数記12:6-8は明らかにその他の預言者たちをモーセの下位に置いています。モーセは、自身の役割とメッセージの基礎的資質においてだけなく、啓示の様態においても、他の預言者たちを凌いでいました。モーセとは神は「顔と顔を合わせて」語りました(12:8)。

 

そしてこれは幻や夢の中での、より遠隔的で間接的な現れの形態とは対照的です(12:6)。モーセに対して神は、「なぞで」話すことはせず、「明らかに」語りました。そしてモーセは、「主の姿を仰ぎ見て」いました(8節)。

 

それゆえに、モーセは、享受していた神との親密性の度合において、他の預言者たちを凌駕していました。彼は神の天的臨在の内的リアリティーに、より近くありました。「顔と顔を合わせて」「主の姿を仰ぎ見ていた」等の節は、モーセの、ダイレクトにして親密な神との出会いを特徴づけていると言っていいでしょう。

 

しかし、そういった明らかに強烈で絶対的な表現であっても、それら自身は相対的に理解されなければならないことを私たちは知っています。モーセでさえも、その最も深い意味において、ただ神の「うしろ」を見ることができただけであり(出エ33:23)、それも彼の生涯の中の絶頂ともいうべき一つの経験の中においてのみでした。

 

しかしもしも民12:8の表現が相対的だとしたら、後の預言者たちの〔神の〕臨在体験もまたモーセのそういった体験に関連していることがより容易に理解できます。イザヤ(イザ6:1-8)、エゼキエル(エゼ1等)、ダニエル(ダニ7:9-10)は主の栄光の啓示を見、強烈な種類の啓示を見ました。しかしそういった経験でさえも、民12:6-8を鑑みると、モーセの体験の下位に置かれなければなりませんでした。

 

「預言メッセージの明瞭性と直接性」は、「神の天的臨在に対する預言者の関係における明瞭性および直接性」に関連しています。モーセに対し、神は「明らかに語って、なぞで話すことはしない」(12:8)と仰せられました。

 

そこから含意されるのは、モーセの下位に位置するその他の預言者たちは、夢や幻といったもので特徴づけられる(12:6)、よりなぞを帯びた形で語っていたということです。

 

もちろん、神はここで(後期のあらゆる預言的啓示のジャンルの)狭義にして技術的に正確なる特性を明言しておられるわけではありません。その中のいくらかは確かに夢や幻の中で与えられましたが(ゼカ10:2、ダニ7:1、8:1等)、その他の多くははっきりこの形態に入るわけではありません。むしろ、民数記12:6-8の箇所で神は少なくとも、解釈のゆとりという点での、広義で包括的な特性をお与えになっていると考えるのが妥当でしょう。

 

それゆえ、ただ表面的に民12:6-8を考慮するだけでも、古典的ディスペンセーション主義者は深刻な諸問題に直面することになります。ある人は、スコフィールドの次の格言を大切にしておられるかもしれません。――つまり、歴史的聖句は多くの場合、「霊的重要性」を持っている。しかし預言の聖句に見いだされるのは「絶対的字義性」であると(1907, 45-46)。

 

が実際、スコフィールドは危険なまでに、民12:6-8の秩序を反転させてしまう瀬戸際まで行っています。何といっても民12:6-8は、全聖書の中にあって、預言の様態および相対的字義性について明確に述べている数少ない箇所の一つだからです!

 

しかしながら民12:6-8の挑戦は、これよりも深刻なものです。なぜなら民12:6-8は、より広範囲な文脈でみるなら、「天的なリアリティー」と「地上的な象徴」との間の関係についての問題を再び浮かび上がらせているからです。

 

イスラエルは地上にいました。堕落以来、彼らは神の臨在から離されていました。神の「御顔」、神の栄光、あらゆる属性の中にある神ご自身の現実といったものは、天の中心であり心臓部に当たります。地上におけるイスラエルと、この究極的中心との関係はどのようなものだったのでしょうか?

 

出エジプト記33:23と民数記12:6-8はどちらも、イスラエルがこの究極的リアリティーに接近するに当たっての間接性および仲介的資質を強調しています。モーセの時代、モーセ自身が仲介者として仕えていました(参:申18:16、出エ20:18-21)。

 

預言者たちは、――ある点においてモーセには及んでいませんでしたが――モーセの型にならう仲介者たちでした。このように、預言者がsubordinate(従属的、副次的、補助的)である限りにおいて、イスラエルはその預言者のメッセージ自体がヴェールで覆われた/象徴的な性質をもっているのだろうと考えていたことでしょう。

 

そうです。終末(eschaton)は、ヴェールの覆いが取り外される時です。――国々を覆っていたヴェールが外され(イザヤ25:7、イザヤ40:5)、またそれだけでなく、イスラエルの覆いが外される時です(エレ31:33-34、例えばイザヤ6:9-10との対照として)。

 

終末の時までは、イスラエル自身の存在は、モーセ立法の構造によって秩序づけられていました。それゆえ、モーセの体制に一致している短期的預言は、より「直接的」もしくは直列形の成就がもたらされることが眺望されていたのかもしれません。

 

そして究極的な預言者――モーセ以上に偉大なるお方――が興る時、成就はその性質変更を余儀なくされます(使徒3:22-23)。

 

預言の性質や預言的啓示の様態についての以上のような考察は、――祭司の王国および偉大なる王の臣下としてのイスラエルの存在についての省察により――イスラエルが到ることのできる諸結論と符合していると考えられます。

 

Chapter 10 Footnotes

1 Martin J. Wyngaarden (1934, 88-135) speaks in this connection of “latent spiritualization” in the OT. I am not altogether satisfied with the way in which he develops his argument, but I believe that the basic idea is sound.