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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ゴスペルフラ現象についてのさらなる考察と気づき

 

 

冒頭の記事を書いた後、いろいろな方ととても有益な意見交換をする機会が与えられました。私はみなさんからの尊いご指摘により、以下のような点に気づかされました。

 

①「土着の民運動」が勃興した理由の一つに、過去の「文化破壊的」「文化帝国主義的」宣教メソッドに対する反省(or反動)があった、ということです。これは悲しいですが、やはり否定することのできない事実であり、キリスト教会の負の遺産だと思います。

 

②この前、米国人の宣教師の方に教えていただいたのですが、現代英語のredeemは、聖書的用法だけでなく、日常的にも使われる動詞であるとのことでした。その意味で、日本語で「文化を贖う」と言った時の(私にとってはかなり違和感のある)語感と、英語で「Redeem the Culture」と言った時の語感は、オーバーラップする点はあっても必ずしも同一ではないということに気づかされました。

 

ですから、「土着の民運動」やイマージング運動内での"Missional"な働きの背後には、前の記事で述べた諸要因以外にも、こういった歴史的背景、そして「単なる西洋キリスト教文化の押し付けではなく、現地の人々の文化をもっと尊重する形での宣教のあり方を考えていきたい」という人々の善意と愛の試みがあった(ある)と言えるのではないかと思います。

 

新たな気づき

 

また一連の「土着の民運動」の火付け役となったのは、やはり、1984年に出版されたドン・リチャードソンの著書 Eternity in Their Hearts(「彼らの心の中の永遠性」)であることを、他の宣教師たちとも確認いたしました。(類似の問題が、現在、西アフリカの宣教地でも起こっているとのことです。)

 

 

Don Richardson, Eternity in Their Hearts: Startling Evidence of Belief in the One True God in Hundreds of Cultures Throughout the World , 1984

 

この本の主旨をひと言で表現しますと、「神は、(宣教師たちが未開の地に宣教に出かけるはるか以前から)イエス・キリストの福音を受容させるべく、現地の人々の〔異教〕文化・宗教をすでに整えてくださっている」という宣教学上の仮説です。

 

ドン・リチャードソンは、ローマ1章をベースに、神の一般啓示、特別啓示の問題に触れ、また宣教地でのさまざまな具体的事例を挙げながら、その仮説の真実性を裏付けようとしています。

 

日本でのゴスペルフラ現象は、主としてハワイのニューホープ教会経由で日本に移植されたのではないかと思いますが、2005年7月に、ニューホープのウェイン・コルデイロ師が、ダニエル・キカワ師にTVインタビューをしています。

 

ここで交わされているお二人の会話を聞くと、キカワ師は、ドン・リチャードソンのEternity in Their Heartsからの影響をダイレクトに受けておられることがよく分かります。例えば、キカワ師は次のように言っておられます。

 

「神さまはハワイの人々を愛しておられ、、、彼らは神を知っていました。そして神を礼拝していました。しかしそこに侵略者が来入して、創造主を礼拝しない偽りの宗教を作り上げたのです。しかし主はその後も続けて、ロー(‘Io)の祭司たちの残りの者を残しておられました。パアウ(Pa’au)は、ローの祭司たちを殺しましたが、〔神に関する〕彼らの知識はその後も秘密裡に代々伝えられていきました。。しかし、時期が来て、神は宣教師たちを送り、彼らハワイ人に、『これがわたしの回帰である』との預言を与えられたのです。」

(引用元ココ

 

 

つまり、ハワイの人々は、昔々から(はっきりとした形ではなかったかもしれないけれども)〔三位一体の〕神を知り、〔三位一体の〕神を礼拝していました。しかし、侵略者たちにより、その真の礼拝が偽りの宗教に取って代わられました。しかし神は宣教師たちを遣わし、再び神を知る知識においての回復をもたらされた――そういう主旨だと思います。

 

このセオリーの革命的な点は、これによって、「異教文化」という従来のコンセプト自体がひっくり返される点にあると思います。事実、ドン・リチャードソンのこの仮説は、その後の宣教メソッドや文化に対しての考え方に大きな影響を及ぼしました。

 

あるサイトには、日本でのゴスペルフラ現象は、「未信者の方に教会に来ていただくためのツールとして、まあ、一種のカルチャースクール的な感覚で受け入れられているのでは」という意見が載っていましたが、どうなのでしょうか。みなさんはどう思いますか。

 

しかし、たといそれがカルチャースクール感覚で受け入れられているとしても、それはひと昔前にキリスト教会で主流だった「英会話教室」とは、全く事の性質が違うということを覚える必要があると思います。ここでフラダンスが問題視されているのは、それがそのルーツにおいて深く異教主義(paganism)に関わっているからです。アメリカの教会内で「日本語教室」が開講されるのと、「ゴスペル巫女舞教室」が開講されるのとでは全く意味が違い、インドの教会内で「タミール語教室」が開講されるのと、「ゴスペル・ベリーダンス教室」あるいは「ゴスペル・ヨガ教室」が開講されるのとでは全く意味が違うのと同様です。)

 

もちろん、ハワイの人々が、そして古代の日本の人々が、アニミズムや神道という枠組みの中にあっても、実は三位一体の神を知り、三位一体の神を礼拝していたのだとしたら、それはそれとして非常に感謝なことではないかと思います。

 

また、これまでの宣教史の中でクリスチャンがキリストの御名によって「聖書の文化」というよりは、軍艦と鉄砲と文明の誇をバックにした「西洋キリスト教文化」を押し付けてきたというキリスト教会の功罪にも私たちは向き合う必要があると思います。

 

しかし、忘れてならないのは、上記の見解は、あくまで一セオリーに過ぎないということです。そしてゴスペルフラは、この一セオリーを唯一の根拠に現在、日本津々浦々の教会で、ほぼ無批判に受け入れられていっています。

 

この見解には学ぶべき点も多いと思いますが、これは、その潜在的方向性として、「キリスト無しの救いの可能性(→つまり形を変えた「ユニバーサリズム」)」「キリスト教シンクレティズム(混合主義)」「異教文化との融合・妥協」という非常に危険な要素を含んだセオリーでもあると思います。

 

注1*日本におけるキリスト教シンクレティズム、異教(神道)との融合を具現化した最も顕著な例が、1948年に手島郁郎氏が創始した原始福音・キリストの幕屋ではないかと思います。)

 

注2*キリスト無しの救いの可能性(ユニバーサリズム)についてですが、実はすでにこの辺りの流れから、「メシアニック・ムスリ」という新概念・動きが生み出されてしまっています。

Are there Messianic Muslims? 

A "New Evangelism" for the 21st Century

 

そしてゴスペルフラ現象の一番憂慮すべき点は、「聖」と「俗」、「正」と「誤」という本来はっきりした境界線が、今や教会の真ん中で、それも日曜礼拝というキリスト礼拝の中心部において週ごとに「ぼかされ」融合化されていっていることではないかと思います。

 

「聖」の中に「俗」や「異教」が入り込むことは本来、異常でグロテスクなことです。しかし、真に恐るべきは、もはやその異常が異常には見えない/感じられないという霊的麻痺状態に私たちが陥ってしまうことではないかと思います。

 

でも、それは本人も気づかないほどの、少しずつの変化です。毎週少しずつ「聖/俗」「善/悪」の境界線が私たちの内でぼかされていきます。

 

それは緩慢な変化ではありますが、しかし確実な変化でもあります。敵は私たちを少しずつ麻痺させることによって、一体どこに私たちを持っていこうとしているのでしょうか?

 

〈うん、結局、同性愛というあり方も、私たちクリスチャンが騒動しているほど大きな問題ではないのかもしれない。それは一つの多様性とも受け取れるのではないだろうか?〉

 

こうして、ぼかされ、ぼかされ、うつろになった目の先にはやがて、忽然と「善悪の彼岸」が現れることでしょう。

 

ゴスペルフラ現象――。

今後、この現象がどのような領域と相関しながら、私たちの教会の礼拝や、宣教・文化に影響を及ぼしていくようになるのか、注意深く見守っていこうと思います。

 

 

参考になる検証記事:

Herescope: The Indigenous Peoples Movement

From the Lighthouse Blog indigenous people’s movement

(Sandy Simpson, Ten Questions for Those Who Claim the “Supreme Beings” of the Nations are the True God)