巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ディスペンセーション主義者を理解する ⑰ 「字義性についてのディスペンセーション主義者自身の説明に耳を傾ける。」(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

小見出し

 

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Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

訳者注:この章に出てくる用語(《最初に頭に浮かぶ型解釈》、《平べったい解釈》、《プレーン解釈》等)は、前章の「聖書の『字義的』解釈とは何でしょうか?」【前篇】【後篇】の中で分かりやすく解説がなされています。ぜひご参照ください。〕

 

訳者注2:この記事はけっこう長いです。ですから、読む前にコーヒーか紅茶でも用意なさって、ゆったり、じっくりお読みになってくださいね。〕

 

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それでは、「字義的」解釈における諸原則についての、ディスペンセーション主義者の説明をみなさんとご一緒にみていきたいと思います。

 

字義性についてのライリーの説明(RYRIE’S DESCRIPTION OF LITERALNESS)

 

字義的解釈についての包括的説明の一つは、チャールズ・C・ライリー(1965, 86-87)によってなされました。

 

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Charles.C.Ryrle

 

ライリーの説明における最も重要なパラグラフは長いです。そこで、便宜上、私たちはそれらを数行ごとに区切りながらみていきたいと思います。導入的な概説をした後、ライリーは次のように始めています(1965, 86)。

 

「ディスペンセーション主義者は次のように主張します。つまり、自らの解釈原則は、字義的解釈の原則であると。これは何を意味するかといいますと、――著述の中であれ、会話や思考の中においてであれ――標準的用法の中に存在するものと同じ意味を各単語に付与するという解釈のことです。」

 

 

ライリーは間違いなく自分が文法的・歴史的解釈の定義に向かっていると考えていたはずです。しかし上記の文をみる限り、彼が《最初に頭に浮かぶ型解釈》("first-thought interpretation")を推奨していると受け取られても仕方がない感じはします。

 

つまり、「各単語には、――文脈のいかんに関わらず――辞書に載っている最も有名・顕著な意味(まず最初に頭に浮かぶ意味)が付与されるべきである」と主張していると受け取られかねないという事です。

 

ある単語の意味として、(辞書の中に見いだされる広範囲な意味の中の)一体どの意味が、与えられた文脈の中で作用するのかという問いがあります。

 

そしてその問いに対する「歴史的文脈、談話文脈、文文脈の決定的な影響」をライリーが述べなければならなかったのだとしたら、やはり彼は、もっとずっと複雑で高質な説明をする必要があったと思います。

 

しかしまだ最初の数行しか読んでいないのですし、ライリーに対してあまり辛く当たることのないようにしましょう。さあ、続きの文です。

 

「これは時折、文法的・歴史的解釈の原則と呼ばれています。なぜなら、各単語の意味は、文法的そして歴史的考慮によって決定されるからです。」

 

これは適切な言明ではないかと思います。ですがライリーは依然として、単語の意味に焦点を置いています。これでは十分ではありませんし、彼の言明は今も尚、いかにしての意味や談話の意味が生じるのかについての不適切な見解を前提しているといっていいでしょう。

 

文の意味というのは、その構成諸単語の意味のたんなる機械的総計ではありません。そこには文法・段落の文脈・歴史的文脈が存在し、それらが、読み手に対し、

①いかにして個々の単語が組み合わされているのか、

②それらが(言明、命令、話し手の態度、声の調子、暗示等のコミュニケーションをもたらすような)複雑な相互作用の中で、いかにして相互に修飾し合っているのか、

を語っているのです。

 

ライリーは続けて言います。

 

「この原則はまた、標準解釈(normal interpretation)とも呼ばれています。なぜなら、言葉の字義的意味は、すべての言語における彼らの理解へと至る標準的なアプローチだからです。」

 

不幸なことに、ライリーはここで《最初に頭に浮かぶ型解釈》について言及しているように見受けられます。一節の中の各単語に「字義的」意味、つまり、――単語が孤立した環境で作られている状況下――まず最初に思い浮かぶ意味を付与しなければならないとライリーは言っているのでしょうか?

 

控え目に言っても、ライリーはやはり、単語の域から出ておらず、文やコミュニケーション行為には言及がいっていません。

 

しかし彼に対して思い遣りの心を持ち、(たしかに彼の文章からはそのような傾向はみられるけれども)それでももしかしたらライリーは本当には《最初に頭に浮かぶ型解釈》を推進してはいなかった、と仮定することにしましょう。もしかしたら彼は次のように言いたかったのかもしれません。

 

 

「辞書に出てくる単語は、多くの場合、いくつかの可能な意味を持っており、隠喩的に用いられ得る潜在性を持っています。しかし、ある単語がある特定の節/特定の全的文脈の中に現れる時、私たちはほとんど自動的に、その単語に、文脈と一致する意味を付与します。ネイティブスピーカーの視点から見たこの「ほとんど自動的な」付与行為――これが、私の意味するところの『字義的意味』なのです。これはまた、手続きにおける標準的や方法ですから、『標準解釈』の一側面とも呼ばれ得るでしょう。」

 

 

不幸なことに、ライリーは「言葉の字義的意味」という彼自身のフレーズの中に付随するいくつかの特別な意味を定義するという点で心を配ることができなかったようです。それゆえに、彼が意味しているのは、《最初に頭に浮かぶ型解釈》であるかのようにどうしても思えてしまいます。

 

それではもう少しそういった点を明らかにすべく、次のパラグラフを読んでみましょう。

 

「これはまた、プレーン(平易な)解釈とも呼ばれます。――『字義的な原則は修辞(figures of speech)を排除する』などという誤った印象を誰も持つことのないためです。」

 

修辞に対するこういった言及は有益なものです。ですがここでの懸念は、――修辞表現を「排除しない」のは良しとして――、では一体ライリーは《平べったい解釈》に対しどのような捉え方をしているのかという点です。

 

《平べったい解釈》は「明らかな」修辞表現だけは認めますが、それを越える一切のものを頑として拒みます。ですから、「プレーンな(平易な)」という言葉には、最も明白な次元を越えるものに対する拒絶といった含みがもたされやすいのです。

 

もしくは、現代人としての私たちにとって「プレーン」であればそれで十分という含みがあるのかもしれません。もしそうでしたら、ライリーの言うプレーンは、前章で私が説明し定義したところの「プレーン解釈」に類似しているでしょう。

 

この解釈によれば、私たちの時代と聖書の時代の相違は比較的わずかなので、私たち自身の知識や文化の背景をもって聖書を解釈することで十分だということになります。

 

しかし「文法的および歴史的考慮」に関してライリーが前に言った事を考慮するなら、彼としては、私が意味する《平べったい解釈》について述べる意図はなかったはずです。

 

でも、彼がもしそうしたかったのなら、〔定義をするに当たって〕ライリーはもう少し必要条件や説明を導入すべきだったと思います。

 

それでは、ライリーが《平べったい解釈》という選択肢を排除するような言及をしているのか、それともむしろその選択肢を強化するようなことを言及しているのか、さらに詳しくみていきましょう。

 

「象徴、修辞、予型といったものは、この方法により全て、プレーンに解釈し、それらは決して字義的解釈と相反していません。結局のところ、修辞表現に付与する意味の存在それ自体が、用語に関わる字義的意味のリアリティーに依拠しているのです。修辞はしばしば意味をよりプレーン(平易)にしますが、それらを読み手に届けるのはあくまで字義的、標準的、プレーンな意味に他ならないのです。」

 

 

この説明はみなさんにとって助けになりましたか?ええと残念ながら、少なくとも私にとっては助けになっていません。

 

といいますのも、これを読むだけでは、ライリーがはたして文法的・歴史的解釈の事を言っているのか、それともいわゆる《平べったい解釈》の事を言っているのか定かではないからです。

 

上のパラグラフでは「字義的」という言葉が三回連続して使われています。一番目の「字義的」に関してですが、それが「文法的・歴史的」であることを私たちは願います。

 

それから二番目の「字義的」ですが、これは「最初に頭に浮かぶ意味」を意味しています。(つまり「比喩的」に対立するところの「字義的」です。)

 

それから三番目の「字義的」は、かなりの確率で、《平べったい解釈》だと考えられます。

 

ここからますます明らかにされる事実があります。それは、「字義的」という言葉のいわゆる「有用性」の一つが、この用語が、いくつかの異なる意味の間を移動することができるという事です。

 

さらに、上記の説明の中では、「開口」テクスト(“open-ended” texts)に関連する可能性が考慮されていません。あるテクストでは意味の中心的アスペクトが明らかかもしれませんが、どの位まである種の暗示表現やその意味が考慮されるべきなのか不明瞭なケースもあります。

 

そして、《平べったい解釈》がしくじるのは、まさにこの点においてです。この解釈は、曖昧で両義的な表現や、(積極的効果を出すべく用いられる)「可能だけど完全に明瞭ではない暗示表現」といったものの可能性を過小評価します。

 

しかしこれに対する応答もあります。そしてこういった《平べったい解釈》の支持者たちは、次のように議論を展開するかもしれません。

 

「私たちは、聖書記者たちが(ある箇所で)『開口』聖句を書いたかもしれないということは認めます。そしてそういった聖句を『平べったく』解釈するのは適切ではないということも認めています。

 

 しかし聖書というのは『開口』でオープンエンドなテクストではないと私たちは信じています。神は、聖書を執筆された際、それを隠そうとせず、むしろ真理を伝達することを意図されました。

 

 それゆえ、神は曖昧で両義的な表現やあまり明確でない暗示表現などを使うことはないと私たちは考えています。そして神はオープンエンドな隠喩の中で(つまり、どこまでその隠喩的比較が拡張され得るのか、私たちにとって明瞭でないような箇所で)詩的な可能性につけ込むような、そのようなことはなさらないのです。」

 

 

これは骨のある議論でありしっかりした立場ではありますが、ただ単に受容し前提するのではなく、しっかりと検証を受ける必要のある立場です。

 

解釈学的諸原則について言明する上で注意を怠るなら、私たちはいとも簡単に論拠なくそれらを前提してしまいがちです。さらに、この立場の信憑性を問うているのはただ単に私だけではありません。イエスの譬え話(参:マルコ4:11-13)や旧約の予型をみるだけでも、そこに十分な議論の余地があることが明らかです。

 

そしてもちろん、ライリーは私が引用しているこの論考の中で明確に予型のことについて言及しています。しかし予型のことを彼はどのように捉えていたのでしょうか。

 

特に、旧約予型の重要性は、元来の旧約文脈の中に見い出され得るものを越える可能性があると彼は考えていたのでしょうか。この問いに対し、聖書の霊感に関する正統見解をもっている大半の解釈者たちは「然り」と答えています。

 

さて〔彼の〕議論は次のようになります。

 

「神は創造のはじめから終わりを知っておられる。それゆえ、聖書の神聖なる執筆者として、主は《予型》とその《対型 antitypical》的成就の間の関係を築くことがおできになる。

 

 預言成就は後になって実現されるものなので、予型は、旧約時代の一般的方法によって得られるものよりも、より豊かになる。換言すると、ある場合においては、予型に対する神のご意図は、文法的・歴史的解釈によって私たちが得ることのできるもの以上に豊かである。

 

 そういった豊かさは、それが正当に認識されるなら、文法的・歴史的意味を侵害せず、それに相反するようなこともない。それは、預言成就と比較される際、予型に対する付加的重要性より生じてくるのである。」

 

 

もしこれが真なら、文法的・歴史的解釈は予型解釈にあたっての全てを成すものではない、ということになると思います。そして文法的・歴史的解釈は、解釈の全的行為の中における重要な一地点であるに過ぎないということになるのかもしれません。

 

それゆえ、ライリーは文法的・歴史的解釈のことについてだけを語っていたのではないと考えられます。予型のことに言及する上で、彼は文法的・歴史的解釈以上に豊かな諸原則をなにか考慮に入れていたのかもしれません。

 

他方、《平べったい解釈》を明確に排除しないことで、彼は、文法的・歴史的解釈よりも豊かでないなにかを支持すべく、ある偏倚を導入しているのかもしれません。(なぜならそれは、明瞭ではない暗示や比喩表現を考慮に入れようとしないからです。)

 

概して言いますと、ライリーの意味する「字義的」解釈における彼自身の説明には、まだまだかなりの議論の余地が残されていると思います。

 

ライリーはE・R・クレイヴェン(E.R. Craven)を引用しつつ、次のように続けています。

 

「いわゆる字義主義者は、比喩的言語、象徴が預言の中で使われているということを否定しませんし、偉大なる霊的真理がその中で表明されているということを否定してもいません。字義主義者のとるべき立場というのは、簡単に言いますと、預言は、――明白に比喩的だと捉えられている――その他の発話と同様、標準的に(normally)解釈されなければならないということです。」

 

この引用は、基本的に良いと思います。ただ不幸なことに、ライリー(もしくはこの文の中で引用されているクレイヴェン)は、何かが明白には比喩的でない場合どうすればいいのかについて私たちに語っていません。

 

つまり、こういうことです。仮に何かが「明瞭に、プレーンに、まぎれもなく比喩的」というわけではないけれど、一応、比喩的である可能性があるとします。

 

この場合、私たちはどうすればいいのでしょうか?ここに、《平べったい or プレーン解釈》と、文法的・歴史的解釈の間に存在する、多大なる潜在的相違が横たわっています。

 

《平べったい解釈》が、明瞭な比喩だけしか認めないのに対し、文法的・歴史的解釈は、あらゆる比喩・暗示を認めようとします。

 

ライリーとしては、文法的・歴史的解釈のことを述べようとしていたのかもしれませんが、もしもそうなら、彼はこの文の冒頭を「字義主義者」ではなく、「文法的・歴史的解釈者」とした方が良かったのではないかと思います。

 

字義性についてのその他の言明(OTHER STATEMENTS ON LITERALNESS)

 

上記のライリーとは対照的に、タン(1974, 29-30)は、以下に引用しますように、文法的・歴史的解釈をずっと明確に定義しています。

 

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Paul Lee Tan

 

「『解釈する』というのは、発話者ないしは書き手の元々の意味を説明することです。そして『字義的に』解釈するというのは、標準的、慣習的、そして言葉や言語の妥当な使用法に従い、発話者ないしは書き手の元々の意味を説明することです。聖書の字義的解釈というのはただ、標準的、慣習的言語の使用法に従い、聖書の元々の意味を説明することです。」

 

「、、、ある単語がさまざまな意味を持つのは普通のことです。しかし、単語がある状況下で使われる時、それは通常、ただ一つの意図された意味を持っています。」

 

「、、、発話者や書き手を『理解する』ためには、私たちはその発話者/書き手が言葉を、標準的に、かつ、多数の意味を含ませることなく使っているということを前提する必要があります。そしてこれが解釈学における字義的メソッドが、聖書啓示の中の神について前提していることなのです。このメソッドは聖書を謎かけではなく、啓示とみなしています。」

 

 

しかしタンは、《平べったい解釈》の方向へと、事を深刻に偏向させています。また単語についてタンが言っている内容においては、「最初に頭に浮かぶ意味」の方向へ向かう、同一の傾向が依然としてみられます。

 

二段落目では、タンはむしろ、次のように言った方が良かったと思います。「あるテクスト内のどんな単語の存在においても、その単語は、――文脈が一つ以上の意味を持たせるべく作動しない限りにおいて――ただ一つの意図された意味を持ち得ます」と。

 

イザヤ27:2-4の分析でみなさんと一緒にみてきました通り、ある文脈は同時に一つ以上の意味を作動させることができるのです。

 

例えば、イザヤ27:4の「戦い」という語は、

①主がイスラエルに代わって遂行しようとしておられる個人的敵に対する戦い(こちらが主要点)、

②庭師の、茨やおどろに対しての隠喩的戦い、

という二つの考えを同時に呼び起こしています。そしてこの箇所のフルな効果はそれら二つ両方の可能性に依拠しています。

 

「茨」や「おどろ」というのは、個人的敵のことを表すべく、ぶどう園に関連した拡張比喩の中で用いられています。しかしそれらはまた、(字義的/文字通りの)茨やおどろの存在なしに、エデンの園の記憶を想起させる力も持っているのです。

 

それゆえ、「茨」や「おどろ」の全的効果は、――隠喩的&字義的関連性という――これら二つが同時に存在するということに依拠しています。

 

実際、大部分のメタファー(隠喩)の効果は、そのような二面(orそれ以上の)意味の同時存在に依拠しているのです(参:Max Black 1962, 25-47)。

 

それゆえに、タンの第三段落目は、事実上、メタファーの存在の可能性自体を排除してしまっています。おそらくタン自身にはその意図はなかったと思います。しかしながら実際、彼は非常に一方的で片寄った議論に落ち込んでしまっています。

 

そしてタンはさらに明確に次のように記しています。

 

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 「通常の人間コミュニケーションは、次のことを要求します。つまり、話される内容/書かれる内容は圧倒的に非比喩的であるという根本的原則を要求するのです。

 

 A・B・デイヴィッドソンは正当にも次のように言っています。『預言の解釈において私は次のことを第一原則にしています。

☆預言者の言葉を字義的に読む。

☆字義的な意味が〔預言者〕意味である。

☆彼は現実の間を動いているのであって、象徴の間を動いているのではない。そして人々(people)のような具体的なものの間を動いているのであって、我々の教会とか世界などという抽象物の間を動いているのではない。」(Tan 1974, 132)

 

 

タンは、コミュニケーションは「圧倒的に非比喩的」と言っています。もちろん、比喩的使用が起こる背景と対照する、非比喩的な語用というものは存在するに違いありません。また、一般的に言語学習者は、さまざまな文脈の中における語用を観察することによって、言葉の意味を習得していく場合が多いです。その意味において、たしかに、言葉の非比喩的使用というのは「圧倒的/支配的」でしょう。

 

しかし結局、そういった非比喩的言語の「圧倒的優勢」は何を意味するのでしょうか。それは、平均的な言語使用者がこれまで耳にしてきた発話の総数内における圧倒的優勢です。

 

そしてこういった種類の優勢は、「かなり長い談話でさえも完全に比喩的であるかもしれない」という可能性と十分両立し得ます。例えば、イエスの譬え話やジョン・バニヤンの寓話などは、徹頭徹尾、比喩的です。

 

聖書解釈における全域的要因について(SOME GLOBAL FACTORS IN INTERPRETATION)

 

さらに、ある話全体が、特別に比喩的な単語の存在なしに、全域的に比喩的であるかもしれない可能性について、残念ながらタンは考慮していないように思われます。

 

イエスの譬え話のいくつかがその例として挙げられます。例えば、失われた羊の譬え(ルカ15:4-6)は、それ自体においてストーリーとして受け取られていますが、よく見ますと、そこにはほとんど比喩的な言語は含まれていません。個々の単語のいくつかは明らかに比喩的な方法で使われています。

 

しかしルカのその文脈の中において、全体としてのこのストーリーが、意味の二面性に関連した拡張メタファーとして機能していることは明白です。つまり、それは、羊飼いと彼の羊という「牧畜的」面と、神の民の指導者と人々に関する「救済的」面に関連しているのです。

 

それでは、聖書の預言が退屈な歴史小説家のようなものなのか、ジョン・バニヤンのようなものなのか、たとえ話やそういったものなのか否か、私たちはどのようにして知ることができるのでしょう?聖書預言が、圧倒的・排他的に比喩的なのか、それとも非比喩的なのかという問題は、コミュニケーションにおけるいわゆる「根本的原則」をベースに「前提」されてよいものではありません。

 

それは、預言を、その口頭文脈(verbal content)および歴史的文脈の両方において見ていく中で決定されるべきものです(文法的・歴史的解釈)。

 

その意味で、――タンやデイヴィッドソンがしているように――それらを先行的に宣言してしまうことは、《平べったい解釈》ないし《プレーン解釈》ないし、その両方の方向へと、問われるべき課題にバイアスをかけていく事に他なりません。

 

デイヴィッドソンの言明にはまた別の問題があります。今回は、イスラエル/教会の区別に関しての問題です。

 

彼は上述の文の中で、「現実」と「象徴」、「具体的なもの」と「抽象物」をそれぞれ対立概念として捉えています。

 

また「人々」が具体的なものとして捉えられる一方、「私たちの教会」および「世界」は抽象物と見なされています。おお、あたかも私たちの教会が「人々」ではないと言っているかのように!そしてあたかも、「天」と「地」との間に存在するという、いわゆる根本的区別がここにおいて作動しているとでも言っているかのように!

 

教会は天的なものと捉えられており、それゆえに、教会はなにかリアルでないもの、「具体的でないもの」として扱われています。それに対し、他の人々は地上的であり、それゆえに具体的だとされています。

 

このような論点回避の対照法は、いったいどこからやって来るのでしょうか?字義性という用語は事実上、(「地」と「天」の間の区別と同様、「イスラエル」と「教会」の間に区別を置く解釈をする)古典的ディスペンセーション主義教義のための暗語(cord-word)と化してしまっている感があります。

 

ある人々は私があまりにもライリーやタンやデイヴィッドソンに厳しいとお感じになっているかもしれません。彼らは本当に重要な論点をはぐらかそうとしているのでしょうか?彼らは本当に、《平べったい解釈》を有利にもっていきたいがために、事を歪曲しているのでしょうか?

 

それとも、彼らはただ単に不正確なだけなのでしょうか?おそらくですが、彼らは単に不正確なだけなのかもしれません。

 

しかし彼らが不正確であるところの、その特定の《方法論》は、ディスペンセーション主義者と〈非〉ディスペンセーション主義者との間を現在隔てている諸問題の所在を示す助けにはなりません。

 

いや、その反対に、それは、彼らや私たちを混乱させています。しかもこの事態が発生しているのは、事もあろうに、彼らが、――(他のアプローチと比較した場合の)聖書解釈におけるディスペンセーション主義アプローチの特徴点を明記しようとしている――まさにそういった文脈のただ中で起こっているのです!

 

私たちはまた別の方法でこの問題を描写することができるかもしれません。みなさん、ぜひ自問してみてください。

 

私たちが特定の旧約の歴史ないしは法に関する聖句に取り組んでいる際に、「いつ/どのようにして」予型的な意味を見い出すことができるのか、はたしてライリーやタンの説明は、それに対する回答を与えているでしょうか?

 

ライリーは明白に、予型の存在を許しています。一方、タンは推定上、一応は認めると思いますが、言葉の中に存在する複数の意味を否定している彼の言明から鑑みるに、もしかしたら彼は予型の存在を排除しているのかもしれません。

 

そして両者とも、①象徴的/引喩的意味があるのかないのかの決定において、また②そういった意味に付随している暗示がどこまで拡大されるのかの決定において、文脈の持つ極めて重要な役割についてあまり語ることをしていません。

 

そしてこれは、「予型的方法を、歴史と同様、預言にも適用することがはたして妥当なことか?」についての問いへと私たちを導きます。

 

この問いに対し、スコフィールドは「否、妥当ではない」と答えました。しかしライリーとタンは直接的には「歴史」と「預言」を区別していません。それゆえ、原則的に言って、彼らは「歴史」にも「預言」にも予型的方法を許しているようにも受け取れますし、あるいは逆にそのどちらにも許可を与えていないようにも見えます。

 

といいますのも、A・B・デイヴィッドソン論考からのタンの引用文(1974, 132)は、――教会に対してのその辛辣な排除言及と共に――、預言解釈に対する予型的方法の使用を禁じていることが明らかにうかがえます。

 

タンはあまりにも不明瞭な一般原則を使っているために、

 

①(歴史的聖句という)点においては、かなりの引喩性(ほのめかし)を許した上で解釈可能とする一方、

②(預言的聖句という)別の点においては、そのような引喩性をもったものをことごとく極小化した上で解釈を施しているのです。

 

そしてその場合、彼の一般原則は、文法的・歴史的解釈/《平べったい解釈》/《プレーン解釈》/そしておそらくはその他の諸解釈の間をも行き来する、不明瞭であいまいな性質のものです。

 

それから最後にもう一つだけ例を挙げたいと思います。フェインバーグ(1980, 46)のM・J・ウィンガーデン(M. J. Wyngaarden)に対する批判です。

 

ウィンガーデンは、「旧約の時代においてでさえ、上述したような旧約諸聖句は、潜在的・初期的な霊的解釈(spiritualization)を具象化していたと理解すべきだ」と書いているのですが、それに対し、フェインバーグ(1980, 46)は次のように反論しています。

 

「旧約時代に上記のような諸聖句がどのように理解されていたのかということに関しては、説明の必要はありません。というのも、それは常識の問題であり、慎重な検証に開かれているからです。そうです。それらは徹頭徹尾(only and solely)字義的に取られていたのです。

 

ここでのフェインバーグが意味している「字義的」とは何でしょうか?

 

他のディスペンセーション主義者と共に、フェインバーグもまた、「聖書には比喩的言語がある」ということを明白に認めています。ということは、「字義的」という語は、「修辞表現を全く持たない」ということを意味し得ません。

 

つまり、「徹頭徹尾、字義的」とフェインバーグは強い表現こそしているものの、実際のところ、彼は「修辞は無い」とは言っていないわけです。それゆえに、「字義的」は《最初に頭に浮かぶ型解釈》を意味してはいません。

 

それでは、それはただ単に《文法的・歴史的解釈》のことを含意しているのでしょうか?

 

この文脈においては、明らかにそれを含意していません。というのも、もしここで含意されているのが文法的・歴史的解釈だったとしたら、フェインバーグの言明自体が、ほとんど瑣末(さまつ)主義に陥ってしまうからです。

 

フェインバーグもウィンガーデンも両者共々、文法的・歴史的解釈の重要性を認めています。ですからここで争点となっている問いは、「はたして文法的・歴史的解釈の中に、いくらかの霊的解釈(“spiritualization”)は含まれているのか、それとも含まれていないのか?」です。

 

この問いに関し、ウィンガーデンは、「然り。含まれている」と答え、フェインバーグは、「否。含まれていない」と答えています。

 

そうした上で、フェインバーグは自分の立場が、ウィンガーデンとは違うことを表すべく、「字義的」という言葉を使っているのです。ですから、ここでの「字義的」というのは、いわゆる《平べったい解釈》にかなり近いと考えられます。

 

もし私が彼の言っていることを正しく理解しているのなら、フェインバーグは、「旧約著述の中の特定の事例において、文法的・歴史的解釈というのは、結果的に《平べったい解釈》と一致している」ということをまさに主張すべく、彼はここで「字義的」という語を使っています。

 

元々の聞き手は、平べったい方法で聖句を理解していた。ゆえに、文法的・歴史的解釈は、この平べったさを再生産しているのだ、と。

 

さて、それでは私たちがフェインバーグの言っていることを一応理解できたとしましょう。

 

ここでの彼の主張は非常に重要なものです。これは解釈学的論争のまさに心臓部分に近いと言っても過言ではないかもしれません。しかしフェインバーグは自分のその見解を弁明していません。そうする代わりに彼はただ、自分の見解は「常識の問題」と言っているだけです。

 

残念なことに、これは少なくとも私にとっては「常識」ではありません。私はそれを「常識」だとして前提してしまうのではなく、この問題を詳細に検証したいと望んでいます。それゆえ、本書の第10章と11章でこの問題を取り上げることにしたいと思います。

 

さて、「字義的」解釈とは何なのでしょうか?これは混乱を生じさせる用語であり、聖書解釈における死活問題の多くをはぐらかし避けるために使用され得る用語でもあります。

 

ですからできるなら、私たちはこのフレーズを使わない方が賢明だと思います。そしてむしろ文法的・歴史的解釈のことを言及すべきだと思います。

 

但し、「字義的」という語は、特定の単語や文の意味を論じる際には、依然として用いることができます。その場合の「字義性」とは、比喩的であることの反意語です。そしてそれは、私の言う《最初に頭に浮かぶ》意味とおおよそ同じような働きを成しているといっていいかと思います。