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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ⑯ 聖書の「字義的」解釈とは何でしょうか?【後篇】(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大、新約学)

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Jam Session:〔特にジャズの〕ジャムセッション、即興の演奏会(情報源

 

Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

前篇】からのつづきです。

 

字義性を定義する(DEFINING LITERALNESS)

 

この例から鑑みますと、「字義的な」意味について語る際に、少なくとも三つの妥当な方法がある言えます。

 

まず一つ目に、単語の「字義的な」意味とは、ネイティブ・スピーカーが、孤立したある単語(つまり、特定の文ないし談話といった文脈から切り離されたところにある語)について訊かれた際に、一番初めに思いつく意味だと言うことができるかもしれません。そしてこれが上述した、いわゆる「最初に頭に浮かぶ」意味です。

 

それゆえ、battleの「最初に頭に浮かぶ」意味は、「戦い、戦闘」です。「最初に頭に浮かぶ」意味は多くの場合、もっとも一般的な意味です。

 

そしてこれは(常にというわけではありませんが)他の可能な辞書的意味よりも性格において、より「物質的」ないし「具体的」である場合があります。(*他の可能な辞書的意味の中のいくつかは「比喩的」と分類されるかもしれません。)

 

例えば、burnの「最初に頭に浮かぶ」意味は、「火が燃える」です。これは、燃えるような(=激しい)怒りという時のburnの隠喩的な使い方よりも、より「物質的」ないし「具体的」です。

 

最初に頭に浮かぶ意味、ないしこの意味合いにおける「字義的」意味は、あらゆる「比喩的・象徴的」意味に相反しています。

 

曖昧さを避けるため、私は単語におけるこういった意味を「最初に頭に浮かぶ意味」と呼びます。覚えておいていただきたいのは、これは孤立した環境にある単語の意味です。

 

しかし、もしそういった単語が文を形成したらどうなるのでしょうか。もちろん、想像の上では、機械的にそれぞれの単語に「最初に頭に浮かぶ意味」をあてがっていき、そうやって文全体(ないしはパラグラフ全体)を解釈するプロセスを進めることは可能かもしれません。

 

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チョコレートミルクシェイク;(shake=握手する)情報源

 

f:id:Kinuko:20170417214748p:plain

 ...one's mind(精神) wander(ぶらぶら歩く)=思いがさまよう(情報源

 

しかしその結果は往々にして、人工的で、時には馬鹿げてさえいます。なぜなら、これは、単語のどの意味(sense/senses)が実際に「作動するか」という決定の上に及ぼす文脈の影響を考慮に入れていない解釈方法だからです

 

こういった解釈を、《最初に頭に浮かぶ型解釈》(“first-thought interpretation”)と呼ぶことにしましょう。

 

それでは、「もしも、茨とおどろが、わたしと戦えば」を例にとってみましょう。この句を《最初に頭に浮かぶ型》で解釈するならどうなるでしょうか?

 

まず、(孤立環境にある)「茨」の「最初に頭に浮かぶ」意味は、「とげのある植物」です。「おどろ」の《最初に頭に浮かぶ》意味もそれに似ています。

 

それから「battle」の《最初に頭に浮かぶ》意味は、「敵軍に対する軍事行為」です。純粋に機械的な方法でこれらの単語をつじつまの合うように結合させることは困難です。あるいは、

 

―話し手は、次の軍事作戦において茨とおどろを武器として用いたいと思っているのだ。

―茨とおどろが(サイエンス・フィクション的)突然変異を起こし、彼らは意識的に軍隊を組織しているのだ。

 

と結論づけることもまあ、できない事はありませんが、《最初に頭に浮かぶ型解釈》が、時として奇妙で馬鹿げているのは確かです。

  

《平べったい解釈》

 

次に、私たちは、聖句を有機的全体と読みつつも尚、それらをできる限り最も散文的な方法で読んでいくメソッドを考えてみましょう。

 

この場合、私たちは明白なる比喩表現だけはかろうじて認めますが、それ以上の表現は頑として認めません

 

また、詩的ニュアンス、皮肉、語呂合わせ、それから、その箇所全体が可能性として持ち得る比喩的・引喩的性格なども無視します。少なくとも、そういった表現が完全に明瞭でない時にはいつでも無視するのです。

 

こういったやり方を、《平べったい解釈》(“flat interpretation”)と呼ぶことにしましょう。これは「可能であれば字義的(“literal if possible”)」式の解釈です。

 

それではここで再び、イザヤ27:2-4を例にとってみましょう。平べったい解釈は、この箇所が残りのイザヤ27章の中に組み込まれている事、それからこの章がイザヤ書全巻の内部に組み込まれていることを認識しています。

 

しかしこの解釈法においては、イザヤ27:2-5というのはあくまで、「主がやがて、ぶどう畑という形をとる完璧な園芸活動をなすようになることに対する預言」として理解されるに過ぎません。

 

それでも尚、イザヤ27:6の「イスラエルは花を咲かせ」というのは、イスラエルの民の霊的繁栄のことを表す比喩ではないかと認めざるを得ないでしょう。

 

ですからイザヤ27:2-5を、霊的繁栄に対する間接的な言及(暗示・ほのめかし)と受け取るのは自然なことです。しかし、それが確かにそうだという事を「立証する」手立てはどこにもありません。ですから結局のところ、イザヤ27:2-5は、単に農業のことを言っている箇所かもしれないわけです。

 

その結果、それは、繁栄の一般的主題という観点からのみ、イザヤ27:6と関連づけられることになります。さらに言えば、純粋に農業的な意味における読み方こそが、最も「字義的」です。これは、荒唐無稽に陥ることはなく、尚且つ《最初に頭に浮かぶ型解釈》に限りなく近い解釈です。

 

もしこれがあまりに極端なケースだとお感じになるのでしたら、私たちは、より穏健な事例を取り上げることもできます。

 

仮にある人が、イザヤ27:2-5は、イスラエルに対する神の霊的ご愛護を表す比喩的な描写であることを認めているとしてください。でも、この人は、「いや、でも、エデンの園に対する暗示などというのは存在しない」と今も主張しています。

 

さて、「エデンの園に対する暗示はない」と言っているこの人が間違っていることを「立証」できる人は誰もいません。なぜなら、たしかにエデンは、ここの箇所で明確に言及されているわけではないからです

 

これもまた、平べったい解釈です。しかし《最初に頭に浮かぶ型》ほどは平べったくありません。

 

この「平べったい解釈」という用語は、最も極端な事例を指し示すものとして捉えると便利かと思います。そして、そうした上でですが、さまざまな度合でこの極端にアプローチする、複数の他の解釈が存在し得るということを覚えておかれるといいでしょう。

 

最後に、三番目の解釈法をみてみましょう。この解釈では、私たちは聖句を、有機的全体として読み、各聖句が、元来の聖書記者や当時の状況の事をどのように述べているのかを理解しようと努めます。そして私たちは自問します。「この聖句が書かれた当時、いったいどのような理解や推測が正当だとされていたのだろう?」と。

 

この解釈法は、聖書記者が伝達している意味を伝達しようと努めます。またこれは、きめの細かい暗示や、オープン・エンドな言語を進んで認めようとします。そして、聖書記者たちが、「どこまで暗示表現が拡大されるのか」に関し、一定の両義性やあいまいさの度合いを許している際には、それを認めるよう努めます。これを「文法的・歴史的解釈」と呼ぶことにしましょう。

 

もし書き手が、非常に想像力に欠けている(ないしは散文的タイプの)人であり、あるいは、その箇所が完全に散文調の書き物のジャンルの一部であった場合、文法的・歴史的解釈は、平べったい解釈と一致します。

 

しかしその他の場合においては、平べったい解釈と文法的・歴史的解釈は、必ずしも常に一致をみるとは限りません。

 

書き手が、より想像力に富むような書き方をしようとしている場合、文法的・歴史的解釈は、――たといそれが、誰も看過できないほど誰の目にも完全に明瞭なものでなくても――私たちが、そういった聖句の中に、暗示、語呂合わせ、その他の間接的伝達方法を探し求めようとすることを許してくれます。

 

それでは、ディスペンセーション主義の方々が言うところの「字義的」とは一体何を意味しているのでしょうか?彼らが意味しているのは、上に挙げたいくつかの類型の内の一つなのでしょうか?それとも、それとは別のなにかなのでしょうか?

 

ディスペンセーション主義の方々は繰り返し、自分たちは聖書の中の修辞(figures of speech)の存在を認めると言ってこられました。

 

ですから、①その発言を基盤に、そして②解釈学的諸原則についての彼らの言明のもっとも明確にして最良なものを基盤として鑑みるなら、私たちは、彼らがおそらく文法的・歴史的解釈を推進していると理解すべきだろうと思います。

 

さらに、これまでの解釈学理論の歴史の中で、sensus literalis(「字義的な意味」)という用語は、文法的・歴史的解釈と関連づけられてきました。

 

それゆえ、ただ単に文法的・歴史的解釈を目指すということで、(テクニカルな意味で)「字義的」という言葉を使うことに関しては、そこに歴史的根拠があるわけです。

 

しかしながら、現代の私たちの文脈において、ディスペンセーション主義者による「字義的」という語の度重なる使用は、有益なものではありません。

 

といいますのも、「字義的」という語が、「比喩的」の対立概念として理解される傾向があるからです。それゆえに、「字義的」という語は、非常に往々にして、上の二つのタイプの解釈法(《最初に頭に浮かぶ型解釈》or《平べったい解釈》)を指しうる状況にあります。

 

「プレーンな」解釈(“PLAIN” INTERPRETATION)

 

「プレーンな/平易な(“plain”)」という語も上記の語に代わる言葉として用いられています。ですが、この語にしても、たいした状況改善にはつながっていません。なぜでしょうか?

 

聖書が書かれた当初に生きていた聞き手たちにはすでに、十分な文脈状況に関する暗黙の了解(気づき)があったのです。彼らは当時の歴史的状況という文脈、文法知識の文脈、彼らがすでに聞き知っていたコミュニケーションの部分に関する文脈といったものを知っていました。

 

彼らは次の文を聞く前にすでに、こういった豊かな諸文脈を熟知していたため、その文章は普通、彼らにとって「プレーンな」意味であったわけです。

 

しかし、21世紀の聞き手である私たちが同じ文を読んだ上で、この「プレーンな」意味とはいったい何だろうと自問する際、私たちが得るのは、21世紀文脈(つまり、私たちの暗黙の知識と切り離せない部分である文脈)の中の文(orパラグラフ)の意味です。

 

時に、文法的・歴史的な意味は、私たちにとって「プレーン(平易)」とはほど遠い難解さを持っています。なぜなら、私たちは、その当時と現在との間に存在する相違を認識するよう奮闘し、尽力しなければならないからです。

 

さらに一般信徒のディスペンセーション主義者にとっての「プレーンな」意味とは、――ディスペンセーション主義の預言体系という――すでに彼らの内に存在している既存知識の文脈の中で彼らの心に浮かぶ意味であることが多いのです。

 

以上の事から、もしや四番目の解釈法が存在するのではないかという可能性に私たちは導かれます。つまり、「プレーン解釈法」です。

 

これは、解釈する人自身の世界観や歴史的状況という、その人の暗黙の知識の文脈によって、聖句テクストを解釈する方法です。そしてこれは元々の歴史的・文化的文脈の持つ役割を極小化させます

 

文法的・歴史的解釈が、「プレーン解釈」と違う点はまさにこの、解釈のための主要な歴史的・文化的文脈に関する論点にあります。

 

「プレーン解釈」は、すべてを、あたかもそれがダイレクトに、現代文化に生きる自分自身に向けて書かれているかのように読んでいくことです。

 

それに対し、文法的・歴史的解釈は、すべてを、それが元々の聖書記者の時代・文化の中で書かれたものであるとしつつ読んでいくことです。もちろん、私たちが、現代文化・サブカルチャーの中で書かれた現代文学を共に解釈していくなら、その際には、両者は同じです。

 

こうしてみてきますと、どうやら「字義的」とか「プレーン」という語にはある種のマイナスな障害があるようです

 

もしも、ディスペンセーション主義者が、《最初に頭に浮かぶ型解釈》、《平べったい解釈》、《プレーン解釈》などとは一線を画しつつ、真剣真摯に文法的・歴史的解釈を促進しようとしておられるのなら、これらの人々は、「字義的解釈」というフレーズを取り下げることによってその真剣さ・忠実さを示すことができると私は信じます。

 

現状をみますと、いわゆる「文法的・歴史的解釈」が、あいまいさを残さず一義的に、彼らの望むものを指し示している一方、「字義的」という語はあいまいで多義的であり、その結果、元来の文法的・歴史的解釈に、上記のような別種の解釈法の一部ないしは全部が示唆され持ち込まれてしまうという遺憾な傾向があります。

 

もちろん、「字義的」という語は依然として、〈非〉比喩的な意味で個々の単語を表す際に用いることはできます。

 

例えば、「ぶどう畑」という語は字義的には、ぶどうを栽培する畑のことを意味します。イザヤ27:2ではこの語は、イスラエルを指すものとして、非字義的・比喩的に用いられています。それとは対照的に、創世記9:20では、この語は字義的・非比喩的に用いられています。

 

この場合、「字義的」という語は、「比喩的」という語と相反しています。しかし、広範囲にわたる聖書箇所はどこであっても、そこに比喩表現が含まれているかもしれませんし、含まれていないかもしれませんので、「字義的」という語は、そういった「解釈に対する大局的アプローチを表すもの」としては、もはや使われません。

 

しかしながら、「字義的解釈」というフレーズを取り下げることは、幾人かのディスペンセーション主義者にとってはかなり困難を要する事ではないかと察します。なぜなら、「字義的」という語は、彼にとっての標語(モットー)であり、横断幕となっているからです。

 

これはある意味、便利な看板用語ではあると思います。なぜなら、まさしくこの用語は、自分にとって都合のいい時に、《平べったい解釈》や《プレーン解釈》にすっと滑り込むことのできる媒介物になり得るからです。

 

ではこれから、ディスペンセーション主義の人々によって提示された「字義的」解釈についてのより正確な言明をご一緒にみていきたいと思います。

 

彼らは本章で取り扱ったさまざまな困難点を回避しているのでしょうか。どうでしょうか。それでは次の章でそのことをみていきましょう。