巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ディスペンセーション主義者を理解する ⑮ 聖書の「字義的」解釈とは何でしょうか?【前篇】(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大、新約学)

小見出し

 

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Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

「字義的」解釈とは何でしょうか?(WHAT IS “LITERAL” INTERPRETATION?)

 

それでは「字義的」聖書解釈についてご一緒に省察していきましょう。ある意味、ほとんど全ての問題が、この問いの下に埋(うず)もれていると言っても過言ではないと思います。

 

私たちはこれまで、「字義性」に対するダービーやスコフィールドのアプローチを概観してきましたが、もうすでに、こういった問題の存在に気づかれた方もおられると思います。

 

彼らのアプローチの中では、厳格な字義性が、「イスラエルと教会の二元的宿命」という、より根本的な原則に従属しているように見受けられます。

 

例えば、スコフィールドは旧約歴史に関しては、その非字義的で、「寓意的(“allegorical”)」な意味を用いることを惜しみなく奨励しています。そして、「絶対的字義性(“Absolute literalness”)」は預言解釈の内のみに見いだされます。

 

しかし、そうではありつつも、スコフィールドによれば、この「字義性」は、預言的言明における多くの「比喩(“figures”)」の存在と両立が十分に可能とされています(Scofield 1907, 45-46)。

 

そうなると、スコフィールドの意味する「字義的」とは一体何なのでしょうか?あまり明瞭ではありません。おそらく無意識的にでしょうが、この語にはすでに、この神学体系に属する諸前提のいくつかが積み込まれているのかもしれません。

 

しかし全てのディスペンセーション主義者が「字義的」という語を同じ方法で使っている訳ではありません。

 

例えば、修正ディスペンセーション主義者は「字義的」という語をただ文法的・歴史的解釈のことを言及する際に用いているかもしれません。そういう方々にとってこの語は特に何か特別な意味合いはないわけです。その場合、私は彼らに同意します。

 

しかしディスペンセーション主義関係の著作の大部分において、この語にはなにかしら付加された内包的意味があります。それゆえに私たちはこのキー・ワードをより詳細に検証する必要があります。

 

「字義的」という語の意味の持つ困難点(DIFFICULTIES WITH THE MEANING OF “LITERAL”)

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「字義的」解釈というものを定義し、より正確にそれを特定する試みは、もちろん望ましいものです。しかし、これは見かけほどそう容易な作業ではありません。

 

チャールズ・ライリー(1965, 86-87)は、自身の用いる「字義性」という語の意味を詳説すべく、「普通の(“normal”)」「プレーンな/平易な(“plain”)」といった関連用語を提示しました。しかし、それ自体では、これもまた不十分です。

 

正常性(normality)に対する私たちの感覚は、(全体的な世界観をも含めた)私たちの文脈感覚に抜本的に依拠しています(参:Stanley E. Fish, “Normal Circumstances, Literal Language, Direct Speech Acts, the Ordinary, the Everyday, the Obvious, What Goes without Saying, and Other Special Cases” (1978, 625-44))

 

スタンリー・フィッシュの論文の内容はここで繰り返さず、私は平行した経路でこの問題を検証していきたいと思います。

 

この問題の一つの主要な側面として挙げられるのは、多くの場合において、文ではなく単語に、「字義的」ないし「普通の」意味があるということです。

 

さらに、単語にとっても文にとっても、そしてコミュニケーション行為の中のどの点における意味の決定においても、文脈というのが極めて重要です。「どの文脈が考察されるべきで、そういった文脈がいかに考察されるべきか」という点は、意味決定のプロセスにおいて非常に大切です。

 

しかし文脈についてのこういった諸課題は、非常に多くの場合、古典的ディスペンセーション主義者の「字義性」議論の場において、論拠なしに前提されているように思います。ですから私たちはこういった問題をより精密にみていく必要があります。

 

言葉の意味(THE MEANING OF WORDS)

 

それではいくつかの具体例と共に、中心的課題にアプローチしていきたいと思います。ある文章から抽出した次のサンプルをみてください。

 

"battle"

 

この語の意味は何でしょう?"battle"という語のグラフィックな象徴は、名詞形の「戦い “a battle”」もしくは動詞形の「戦う “to battle”」となり得ます。

 

"battle”という一単語を除いて他に何ら文脈が与えられていない場合、私たちはおそらくこれを名詞形の「バトル」として捉えるだろうと思います。実際、名詞形が動詞形からというよりはむしろ、動詞形がその意味を名詞から導き出しています。

 

もし街角で大勢の人に「"battle"というこの言葉を定義してください」とアンケートをとったとしたら、おそらく大多数の人が、「戦闘で従軍すること」(動詞)よりも、「バトル、戦争、戦い」という名詞形で定義づけをすることでしょう。そこから示され得るのは、彼らは動詞形よりも名詞形の方を考えているということです。

 

大半の単語には、「まず最初に頭に浮かぶ意味」("first-thought meaning")といったようなものが存在します。

 

つまり、「この語はどういう意味ですか?」と訊かれた時に人が自然に答える、そういう意味のことです。もちろん、全ての人が全く同じ事を言うわけではありませんが、それでもある種類の答えがたいがいの場合、支配的です。

 

しかし、ほんの少しであっても何かそこに文脈が与えられるや、語の意味についての私たちの推測には劇的な変化がもたらされます。次の例をみてください。

 

"to battle"

 

さあ、これで“battle”が動詞であることがほぼ確実になりました。(ただし、“to battle”が、“Off to battle we go”のように前置詞句である可能性はあります。)そして今も、《最初に頭に浮かぶ意味》として「戦闘に従軍する、戦う」という意味が私たちの脳裏にはあります。それではもう少しだけ文脈を増やしてみましょう。

 

"I had thorns and briers to battle"

(茨とおどろが、私と戦った。)

 

さあ、困ったことになりました!この節の「字義的な」意味は何でしょうか。もし私たちが、是が非でも各単語が、「最初に頭に浮かぶ意味」で構成されなければならないと主張するなら、もはやつじつまの合った解釈はできなくなってしまいます。

 

“battle”という動詞が示唆するのは、そこに生命を持った敵がいるということです。一方、敵として描かれている「茨とおどろ」は生命体ではありません。そうなると、この文はおそらく隠喩的なものではないかと推測されます。

 

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茨やおどろ

 

しかしもちろん、最小限の「比喩度」をもつ解釈も可能ではあります。例えば、一人の庭師さんがいて、彼は近頃悩まされている、庭の「茨とおどろ問題」のことを上のように鮮やかに表現した――そう捉えることはできるでしょう。

 

つまり、この場合、庭師さんは、「雑草を抜く(“keep out”)」に相当するものとして、比喩的な意味で“battle”という語を用いたのだと分析できます。

 

しかしもちろん、隠喩的文は、それ以上のことを暗示しています。それは軍事的状況と、農業の状況との間のアナロジー(類推)を私たちに提供します。

 

軍事的武器に相当する農業上の何かは存在するでしょうか?ある陣営が「敗北」したかのように見える、そういう農業的「戦い」の諸段階というものが存在するでしょうか?

 

「戦う」という語の使用は、「雑草を抜き取る」という語の使用よりも、もう少し含意するものがあると思います。しかしその度合いがどれくらいであるかは、文脈を見、はたしてその文脈が「戦争」と「農業」の間にさらなる比較を置いているのかを確かめて初めて判断が可能になります。

 

"Would that I had thorns and briers to battle"

もしも、茨とおどろが、私と戦えば」

 

さあ、文頭に付いている「もしも(“would that”)」という表現により、私たちの意味理解に大域的な変化が起こされます。それ以前には、私たちはこの場面が一人の庭師の、実際の経験であるという推測をせざるを得なかったのに対し、今や私たちはその経験がただ単に仮想上の、想像に基づくものに過ぎないことを知ったのです。

 

それではさらに文脈をみてみましょう。

 

"Would that I had thorns and briers to battle! I would set out against them, I would burn them up together"

「わたしはもう怒らない。もしも、茨とおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。」

 

これだけの文脈が与えられた今、私たちは「戦い」と「農業」との間にさらに拡大されたアナロジーを見ることができます。

 

「わたしはそれを踏みつぶし」「それをみな焼き払う」という行為は、他の諸都市に対して仕掛ける戦争の中で人が行なうことのできるものです。

 

しかし「最小限に抑えられた比喩度の(“minimally figurative”)」解釈は、こういった全ての「戦争アナロジー(例え)」が、茨やおどろに対する農夫のスキルを表すべくもたらされたと捉えています。

 

A pleasant vineyard, sing of it!

I, the LORD, am its keeper;

every moment I water it.

Lest any one harm it,

I guard it night and day;

I have no wrath.

Would that I had thorns and briers to battle!

I would set out against them,

I would burn them up together.

「その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。

わたし、主は、それを見守る者。

絶えずこれに水を注ぎ、

だれも、それをそこなわないように、

夜も昼もこれを見守っている。

わたしはもう怒らない。

もしも、茨とおどろが、わたしと戦えば

わたしをそれを踏みつぶし、

それをみな焼き払う。」

 

これは何かエデンの園を思い起こさせるような情景ではないでしょうか?――古のエデンもしくは未来の新しいエデンの園を。

 

主の言及が聖書啓示の文脈を示唆しているため尚さらのこと、私たちはその可能性を考えます。この文脈では、エデンの園に関する創世記物語が明らかな背景となっています。それゆえ、私たちはエデンの園のことが暗示されているのではないかと考えるわけです。

 

にもかかわらず、そう考えさせるに絶対的に必要な明白なる言明というのはどこにもありません。もし私たちに全く想像力がなかったとするならば、その場合、私たちは次のように言うことができるかもしれません。「この箇所で主はただ、自分には手入れをしているぶどう畑がある、と言っておられるに過ぎない。これが新しいエデンだとかかつてのエデンの園だとか、そういう事は言っていない。」

 

実際、これはイザヤ書27:2-4からの引用句です。そして今私がみなさんにこの事をお伝えした際、私は事実上、みなさんにそれ以上にずっと広範囲な文脈を考慮に入れることができるような機会をも提供したのです。

 

つまり、差し上げたこの情報により、みなさんは、イザヤ27章の文脈、イザヤ書全体の文脈、イザヤという人物およびその時代文脈、イザヤ書前後に執筆された聖書の他の部分という文脈などを今や考慮に入れることができるわけです。

 

そしてこういった文脈の中で、イザヤ27:6は、「イスラエルは芽を出し、花を咲かせ」と言っています。この聖句およびイザヤ5章のぶどう畑のアナロジー(例え)を踏まえると、イザヤ27:2-4の箇所が実際、庭師(<畑を手入れする農夫)およびぶどう畑の全図を隠喩的に用いているということに皆さん同意されるはずです。

 

そしてイザヤ27:4での「戦う」は、「主がご自身の敵に対し戦いをする」という仮定上の戦争のことを考慮に入れています。

 

全体図は隠喩的ですが、「戦う」というこの語自体は、最初私たちが想像していたよりは「より隠喩度の低い(“less metaphorically”)」用いられ方をしているということが明らかになりました。

 

非人格的な茨やおどろとの問題(→非字義的戦い)よりも、個人的な敵に対する戦い(→おおむね "字義的戦い")が視野に入っているのです。

 

さらに、「戦う」という語の効力は、①戦争の雰囲気に対し私たちがその感覚を保持しているか否か、②庭師の茨とおどろとの葛藤がどのような仕方で戦争になぞられているかに依拠しています。

 

それに加え、全体の文脈を考慮に入れた時、エデンの園への引喩(ほのめかし)は実際に現存しているように私には思われます。エデンにおける平和の型は、イスラエルが将来的に経験するようになるであろう包括的平和を想起させるために用いられています。

 

この平和はもちろん主として、霊的そして社会的方法で自身を顕示しています。しかし、ここで視野に入っている実りの豊かさはまた、字義的な農耕的豊作をも包含しているように思われます。

 

それゆえ、これは申命記的な祝福(申28:1-4)および植物に関連する預言的な予測に関連しています。

 

しかし留意しなければならないのは、こういった一連の考えは、多くの言葉によって言及されているというよりはむしろ暗示され、遠まわしにほのめかされているものです。

 

ですから、「『確実な』証拠が提示されない限り、自分は散文的で、限定され、『統制された』聖書解釈を捨てない」と言い張る人たちに、こういった遠まわしの言及が実際のものであることを「証明」することはできないでしょう。

 

次につづきます。