巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ディスペンセーション主義者を理解する ⑭ 「1コリント15:52の終わりのラッパについて」(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大、新約学)

小見出し

 

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Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

終わりのラッパ(THE LAST TRUMPET)

 

「字義的(“literal”)」解釈原則という極めて重要な課題に取り組む前に、いくつかの問題を例証している特定聖句をご一緒に見ていきたいと思います。

 

今、念頭にあるのは、1コリント15:51-53です。これはディスペンセーション主義についての議題における、最も有益な二つの聖書箇所の一つです。なぜなら、これは根柢にある解釈学的諸原則を表面に浮かび上がらせる聖句だからです。

 

ディスペンセーション主義検証においてこの箇所は必ずしも決定的な聖句ではないかもしれませんが、それでも対話相手との肯定的なコミュニケーションを築く上での最初のアイスブレーカー的な感じで用いることができるのではないかと思います。

 

患難期前携挙説にとっての問題聖句としての1コリント15:51-53(1 COR 15:51-53 AS A PROBLEM TO PRETRIBULATIONALISM)

 

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患難期前携挙説(情報源

 

1コリント15:51-53は、患難期前携挙説にとっての問題聖句です。なぜなら、この箇所は「終わりのラッパ」(=「最後のラッパ」〔新共同訳/岩波訳〕、“the last trumpet,” τη εσχατη σαλπιγγι)のことが言及されてあるからです。

 

さて、古典的ディスペンセーション主義理論では、1コリ15:51-53は、携挙のことを言及した箇所だと解釈されています。

 

携挙の7年、(選ばれたユダヤ人たちが集められるマタイ24:31の出来事と関連して)、目に見える形でのキリスト再臨がある際に、今度はまた別のラッパが鳴ります。そうなりますと明らかに、1コリ15:52で描写されているラッパの音は、本当のところ「最後の」ラッパの音ではないということになりそうです

 

一方、(古典的ディスペンセーション主義理論に反してですが)仮に、1コリ15:51-53の「携挙」と、マタイ24:31の「可視的再臨」が実質的に同時に起こるとしますと、二つのラッパはおそらく同一のものとなり、そこに解釈上の問題は何もありません。

 

それゆえに、この二か所(1コリ15:51-53とマタイ24:31)を調和させるに当たり、ディスペンセーション主義理論には、明らかなる困難があります。

 

さて、この困難点に対し、ディスペンセーション主義者は標準的回答を持っています。実際、この回答は、ディスペンセーション主義体系の内部においては、きわめて「明白な “obvious”」ものです。

 

おそらくこの体系の一般諸原則に、ある程度通じていらっしゃる方なら、その回答がどのようなものか察しが付くだろうと思います。そしてこの点における私の懸念は、そこに回答が有るか無いかの問題ではなく、解釈学的問い――つまり、その回答が『いかにして』得られたのか?――という懸念です。

 

私たちは絶えず、解釈学的問いをし続けなければなりません。――〈私が1コリント15:51-53を理解し、それをマタイ24:31と調和させようとする際の「諸原則」はいったい何だろう?〉

 

古典的ディスペンセーション主義者がこれらの諸原則について話す際、私たちにこう言います。「私たちは聖句を『字義的 “literally”』ないしは『平易に “plainly”』解釈しなければなりません。」

 

それでは1コリ15:51-53の「字義的」解釈とは一体何なのでしょうか?ここでいう「字義的」とは、特定聖句の解明を助けるあらゆる文法的・文脈的・歴史的手がかりをフルに考慮に入れるということを意味すると思われます。それは時に大変な努力を要します。しかしそれはやはり健全なものでしょう。

 

また、「字義的」であることは、私たちにとって、もっとも「平易 “plain”」ないしは「明らかな “obvious”」ものに固持することを含意し得ます。

 

さて、この原則に同意した場合、私たちは次のような議論を展開することになるでしょう。

 

 「えーと、1コリ15:52の『平易な』意味は、これが最後のラッパ(終わりのラッパ)だということになると思います。つまり、それ以後は、もうラッパは無いということです。

 

 あなたは私に、『私たちは聖句を《字義的に》解釈しなければならない』とおっしゃいますし、確かに、私たちが《字義的》であろうとするなら、ここの聖句があたかもそれ以外の何か他の事を言っているかのように主張することはできない話です。

 

 そこでマタイ24:31をみますと、そこにラッパのことが言及されているのですが、マタイの福音書のこのラッパは、

①1コリ15:52と同じラッパか、もしくは、

②それ以前に鳴り響いたラッパか

という二択になりますよね?というのも、1コリ15:52のラッパは、何と言っても「最後の」ラッパですから。(つまり字義通り文字通りに「最後」という意味です。)

 

 そしてマタイ24:30ではすでに、目に見える形での再臨のことが述べられています。そうなると、目に見える形での再臨は、『携挙』で信者のからだが変えられるのと同時期に起こっているようにみえます。

 

 繰り返しになりますが、『1コリ15:51-53を解釈する際、それを《字義的に》解釈しなければならない』とあなたは私におっしゃっていますので、従って、『携挙』と『再臨』の間に7年間の隔たりがあるということを私は信じることができないのです。」

 

 

こういった結論を避けるため、幾通りかの提案がなされるかもしれません。まず第一に、ある人は、「ラッパは一つしかないけど、そのラッパから複数の音響(blasts)がでている」と提言するかもしれません。

 

しかしこの説明は立ちゆきません。なぜかといいますと、1コリ15:52はラッパの「音(sound)」のことを言及しているからです。

 

これは、「長く続く一連の最後の出来事に関連した音響(blasts)のために使われる、単一の固定したラッパがある」というよりは、やはり、「神のラッパの最後の(sounding)であること」を明らかに含意していると言っていいでしょう。

 

二番目に、「ラッパの音はおそらく7年間続く」と提言する方がおられるかもしれません。しかしこの説明もまた立ちゆきません。なぜなら、1コリ15:52は、そこでの動きの迅速性を強調しているからです。

 

死者のよみがえりは、――ラッパがずーっと鳴り響くある長い長い時間のスパンの中で行なわれるというよりは――、連続的に終わりのラッパの音に続いて行われるものです。ええ、それが少なくとも、この聖句の「もっとも平易な(“plainest”)」理解の仕方のように思われます。

 

それから三番目に、「マタイ24:31は目に見える形でのキリストの再臨のことではなく、携挙について述べているのです」と言われる方がいるかもしれません。しかし一節前にあるマタイ24:30の「字義的」解釈は、否応なく確実に、それが目に見える再臨のことを言及しているという結論に私たちを導きます。

 

もちろん、上記のような議論は、私たちが「ごつごつした」意味において「字義的」であろうとする中で生じて来るものです。

 

しかしたとい私たちが健全な文法的・歴史的釈義によって1コリント15章とマタイ24章を理解しようと努めたにしても、やはり、これらの聖句は、「携挙」と「再臨」を同時期のものとしてみることによって、もっとも容易に調和されると言っていいかと思います。

 

ディスペンセーション主義者の標準的回答(THE STANDARD DISPENSATIONALIST ANSWER)

 

それではJ・ドワイト・ペンテコステ(1958, 189-191)によって提示されている標準的回答に耳を傾けてみることにしましょう。

 

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J. Dwight Pentecost

 

 「最後の("last"という語は、ある計画を完了させるという事を意味しているかもしれませんが、それは必ずしも、いつまでも存続するような『最後』ではありません。教会に対する計画がイスラエルに対する計画と異なっているように、〔教会とイスラエルの〕それぞれが、――二つの終りのラッパを同一のもの/同時期のものとすることなく――「終わりのラッパ」と呼ばれるラッパの音によって完結すると考えられます。

 

、、、(3)教会のためのラッパは、単一です。それはどんなラッパにも先行したことはないので、それは『一連の複数のラッパのうちの最後のものです』とは言えません。患難期を締めくくるラッパは明らかに、一連の七つのラッパの最後のものです、、、(7)

 

 1テサロニケのラッパは明らかに教会のためのものです。というのも、神は特別にイスラエルを扱い、一般的に異邦人を扱っておられますので、患難期のこの七番目のラッパは、教会のことを言及し得ません。そうするなら、教会とイスラエルの区別が失われてしまいます。」

 

 

ペンテコステは他にも多くのことを言及していますが、その大半は、患難期中携挙説や黙示録11:15で言及されている第七のラッパに関する特定の諸見解という文脈の中で論じられています。

 

次の点でペンテコステは確かに正しい事を言っています。それは、文脈によっては、「最後の」という言葉が絶対的な意味で受け取られてはならないということです。

 

しかしながら、具体的に、いつ「最後の」という言葉が《限定された意味で》理解されるべきで、いつそう理解されるべきではないのか、、、それらを私たちはいかにして決定することができるのでしょうか?その際に、どのような解釈学的原則を使っているのでしょうか。

 

そして、「最後の」という言葉を《字義的に》解釈するというのは、一体どういう意味なのでしょうか。

 

たしかに時々、「最後の」という語は、限定的属格(qualifying genitive)を伴うことがあります。例:「祭りの終わりの大いなる日に、、、」(ヨハネ7:37)。

 

また「最後の」という語は、明らかな文脈から限定を受ける場合もあります。例:マタイ20:8の「最後に」は雇われた人たちの最後の者と意味しているに違いありません。

 

しかし、1コリント15:51-53にそのような明瞭限定はまったくありません。その反対に、全体としての聖句は、1世紀のユダヤ人環境が全世界の終わりに関連していたところの出来事に関するものです。そして、そのパースペクティブ(大局観)は、限定されたいくつかの出来事といったものではなく、宇宙的なものです。

 

結局、「最後に」という語を非限定的に理解しないペンテコステの主張は、ただ一つの解釈学的議論に依拠しています。その一つとは、「それは教会にとっての最後であって、イスラエルにとっての最後ではない」という主張です。

 

しかし1コリントの手紙のどこに、「『終局性(“lastness”)』は教会に関する事柄に限定して理解されなければならない」という言及や暗示があるのでしょうか?

 

1コリント15:20-28の視野は、万物の成就に至るまでの千年王国期全体を含んでいるということにディスペンセーション主義の方々は同意しておられます。そして1コリ15:45-57は明らかに15:20-28での多くのテーマを取り上げています。

 

ディスペンセーション主義者は聖句を「文字通り」「字義的に」取らなければならないと言います。それは、「聖書テクストの中で何ら根拠の見い出されない内容を、聖句の中に勝手に読み込まない」という事を本来、意味しているのではないでしょうか?

 

それでは、1コリント15:51-53の「字義的」解釈とは何なのでしょうか?これはディスペンセーション主義者が1コリ15:52の解釈で格闘している時、忍耐強くそして繰り返し問われ続けなければならない問いです。

 

最終的に、J・ドワイト・ペンテコステにとっての「字義性」とは、1コリ15:51-53を、すでに彼の頭の中にある「イスラエル/教会の区別」という思想で読むことを意味しているように思われます。

 

つまり、「この聖句はイスラエルの宿命について言及している箇所なのだろうか?それとも教会の宿命についてなのだろうか?」と問いながら聖句に臨むという事です。

 

しかしそうなると、「字義的」という語には、ディスペンセーション主義二分法という含意があまりにも詰め込まれ過ぎていて、そのため、もはや肯定的で公平な対話のための価値が失われてしまうことになります。

 

確かに、聖書の教理的統一性について高い見方を保持している解釈者であるなら誰でも、ある聖句を理解する際に、聖書の他の諸聖句と調和させるような仕方でそれを理解するよう努めなければならないことを認めています。

 

聖句は、直接的な文芸・歴史的文脈といった観点だけでなく、その他の聖書の包括的全体としての文脈の観点でも読まれ、理解されなければなりません。

 

さらに、解釈者というのは、自分が、聖書教理の総合的形態についての、ある種の諸結論をすでに形成しているということも認識しておく必要があると思います。

 

彼らは多くの教理的確信を保持していることでしょう。そして、幾つかの聖句からの明瞭な教えを基盤に築かれたそういった確信を、彼らは、――ただ単に新しい一つの聖句が解釈上の困難を起こしているからといって――、そうやすやすと棄てるようなことはしません。

 

それゆえ、ディスペンセーション主義者が1コリ15:51-53の聖句に関し、やっていることは、〈非〉ディスペンセーション主義者がやっていることとそう大差ありません。両者共に、先行する諸判断や確信からの影響の下、聖句を読んでいます。しかしこういったプロセスが、「人々が誤謬を捨て去ることを困難にする要因となっている」という事実は認識すべきだと思います。

 

ですから、1コリント15:51-53のこの簡略分析それ自体は、ディスペンセーション主義が間違っていることを示してはいません。しかしディスペンセーション主義体系が所定の聖句の解釈に影響を及ぼしているという事実に、より気づくことができたのではと思います。

 

その意味で、体系というのは確かに聖書解釈に影響を及ぼしているのです。そして前述しましたように、これはディスペンセーション主義体系だけに限った話ではなく、他のどんな解釈体系内においても、さまざまな点で類似の現象が起こり得るのです。すべての問題を回避できる人は誰もいません。

 

しかし、鋭利な「神の二つの民」という区別を設けている古典的ディスペンセーション主義内部では、上記のような問題はさらに深刻化します。

 

正誤は別として、古典的ディスペンセーション主義というのは、聖句に訴えるだけでは論駁ほぼ不可能な体系です。たといそこに解釈上問題となる諸聖句があったとしても、ディスペンセーション主義体系の援助により、ほとんど自動的にそこからの脱出の道が提供されます。

 

「字義的」という言葉がそういった諸問題を隠し覆ってくれます。なぜなら、「字義的」という語の許容範囲がいったいどこまでなのか明瞭ではないからです

 

ここでいう「字義主義」というのは、自らの体系が窮地に陥った時にはいつでも「イスラエルと教会の区別」という概念を輸入することを許可するような、そのような主義なのでしょうか?

 

そしてもしも実際に「字義主義」がこういった輸入措置を許しているのだとしたら、それは最も重要な解釈学的問い――それこそ〈非〉ディスペンセーション主義者たちにとっては死活問題であるところの問い――を棚上げしていることに他ならないのではないかと思います。

 

それでは「ある体系がいかにして反論され得るのか?」という事について、ディスペンセーション主義者自身は、どのように言っているのでしょうか。チャールズ・フェインバーグ(1980, 39)は、前千年王国説を検証することに関し次のように述べています。

 

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「第一に、聖書的だとされるある教理が、何らかの困難に遭遇した場合、その人はただ、〔申し立てられた〕その問題の解決は可能であることを示しさえすればいい。そしてある聖書箇所が前千年王国説に相反するという主張がなされた場合には、『釈義の諸規則に従えば、調和は可能である』ということを示すだけで十分である。」

 

まず初めに、後千年王国説も無千年王国説も、修正ディスペンセーション主義も歴史的前千年王国説も皆、ここでフェインバーグが提言しているものと同じ基盤の上にそれぞれ自分自身の見解を保持することができると私は考えています。

 

それぞれの論者は、自分自身の体系内において「調和は可能である」という事を示しさえすればよいのです。もちろん、堅固な前千年王国説論者、後千年王国説論者、無千年王国説論者であるなら皆、そのことをしっかり主張できるでしょう。

 

ですから、それぞれに異なる千年王国の立場を仲裁・調停するためには、フェインバーグの基準は本当にあまりにも脆弱なものと言わなければなりません。

 

しかし問題はさらに深刻化します。なぜなら、ここでフェインバーグは、「釈義の諸規則」とは一体何であるかについて未だにうやむやなままだからです。

 

彼の言うこういった諸規則は、1コリ15:51-53のような聖句を取り扱う際に、「イスラエル/教会」の区分を発動させる権利をも含んだところの諸規則なのでしょうか?

 

もしそうなら、私たちは循環的議論に入り込むことになります。この円は次のように循環していきます。

 

①前千年王国説ディスペンセーション主義は、「イスラエル/教会」の区別の妥当性を明示している。

②この区別は、解釈学的規則に統合される。

③そしてこの規則は、ディスペンセーション主義体系を構築し、調和させるために用いられる。

フェインバーグは続けて次のような事を書いていますが、あまり気強い内容ではありません。(1980, 40)

 

「すべての預言は、啓示のすばらしい計画の一部である。預言の真の重要性が認識されるためには、全ての預言的計画のこと、そしてご計画の部分部分の間に存在する相互関係の事が念頭になければならない。」

 

ここでフェインバーグは、ある人が預言を解釈する際、ディスペンセーション主義全体のことが念頭になければならないと言っているように思われます。

 

そして「ディスペンセーション主義の本質的要素は、釈義の諸規則に総合されている」と言っているかのように聞こえますが、みなさんはどう思いますか?

 

もしかしたらフェインバーグは、狭義の意味で、釈義の間に区別を置こうとしているのかもしれません(つまり、最初の引用文)。そして広義の意味で、預言の「重要性」についての評価を下しているのかもしれません(二番目の引用文)。

 

しかしながら、狭義の意味における釈義は当然のことながら、ディスペンセーション主義者が1コリ15:51-53を処置するようには処置しないでしょう。

 

ここに一つの大きな問題が残されます。「字義的」解釈とは一体何なのでしょう?そして聖句の解釈において、私たちは何を考慮に入れることを許容しても差し支えないのでしょうか。

 

さらに、私たちはいかにして対話の中で不毛な堂々巡り(循環性;circularity)を回避することができるのでしょうか。この種の循環に陥ってしまいがちなのは、何もフェインバーグ一人に限ったことではありません。

 

古典的ディスペンセーション主義者であれ、修正ディスペンセーション主義者であれ、無千年王国説論者であれ、後千年王国説論者であれ、皆が皆、自分自身の体系で諸聖句を調和させることは「可能」ということを示しつつ、結局ぐるぐる堂々巡りをしている、という事はあり得るわけです。

 

しばし起こることですが、この「釈義の諸原則」というのが、それぞれの体系内で微妙に違った傾斜(見方、観点;slant)で理解された上で、それぞれが自分の立場をますます立派に力強く構築しようとします。

 

往々にして、「字義主義」に訴えることは、聖書解釈における主観性を避けるための一部分だと考えられています。

 

しかしただ単に、「字義主義」という旗を振りかざしているだけでは、主観性への可能性を本当には回避できません。

 

私たちは自分が「字義的」という言葉を用いる時、それをどのような意味で用いているのか検証する必要があります。そしてそれが含意していること/していないことを明確にするよう努めなければなりません。

 

そうでなければ、結局その人は、外からの知的挑戦や洞察を避け、自らの諸前提や欠陥の内に逃避するだけになってしまいかねません。

 

もちろん、すべてのディスペンセーション主義者が逃避していると言っているのではありません。しかし、逃避していない方々は、そうしている人々がいるということを十分に考慮に入れるべきでしょう。