巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ディスペンセーション主義者を理解する ⑬ ディスペンセーション主義の朋友との対話のために(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大、新約学)

小見出し

 

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Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

ディスペンセーション主義者との対話のために(STRATEGY FOR DIALOG WITH DISPENSATIONALISTS)

 

ディスペンセーション主義の是非をめぐって人々が議論を始めた場合、何が起こるのでしょうか。最初の小競り合いは、たいがいの場合、神学的なものです。人々は、教理問題に関し、終末の出来事に関し、クリスチャンと旧約律法の関係などに関し、互いに意見の食い違いをみます。

 

しかしそういった議論はすぐに特定の聖句に関わるものへと移行していきます。人々は釈義(exegesis;ある特定の聖句に帰する意味)のことで意見を違わせます。しかし釈義だけでは十分ではないのです

 

なぜなら、相違の本質は、解釈(hermeneutics;聖書解釈のための一般諸原則)を巡ってのものだからです。ですから、解釈学的問題に真っ正面から向き合わない限り、対話はその実をみることが少ないでしょう。

 

釈義の適切性(THE PERTINENCE OF EXEGESIS)

 

それでは、私たちは議論を、解釈学的原則のレベルに絞るべきでしょうか?いいえ、そうはすべきではないでしょう。大半のディスペンセーション主義の方々は(取り扱う諸原則が解釈学的なものであれ神学的なものであれ)ただ一般諸原則だけを基に議論を進めることに懐疑的ですし、そのように感じるのは正当なことだと思います。

 

彼らは特定の諸聖句をベースに議論したいと望んでいます。それゆえ、聖書解釈に関する省察は、釈義と結び付いていない限りあまり有益なものとはならないでしょう。

 

しかし釈義は、議論の中で取り扱う聖句の数が増えるに従って脱線しやすいというのもまた事実です。熟練したディスペンセーション主義者/〈非〉ディスペンセーション主義者は両者共々、自由自在に数多くの聖句を駆使することができます。

 

一つの聖句の解釈で困難に直面させられるや、彼らはすぐさま他の聖句に訴えます。というのも(彼らの考えの中では)、そうすることによって、最初の聖句の解釈が正しいということが明示されるからです。

 

そうすると対戦する論客は、ムッとなります。なぜなら、彼は相手の示すそういった聖句の一つでさえも、その解釈に同意できないからです。そのため、彼はさらに多くの聖句を持ち出してきてそれらを解釈し直す必要に迫られます。

 

聖書聖句というのは、一度に一か所のみを取り扱ってはじめて効果的・徹底的に議論可能なものですから、上記のような議論の仕方では、それぞれの側がただ、自陣営の正当性および、相手陣営の愚鈍さを確認した、と思うだけに終始するでしょう。

 

それぞれの側がただ単に聖句を、ゲシュタルト(形態)に照らし、そして自分の体系に照らしつつ見ています。そして「体系」それ自体がその他数多くの立証聖句を用いつつ、構築されているのです。そしてそういった数多くの聖句は、外部者に自分の体系をとことん釈明すべく用いられます。

 

ディスペンセーション主義の方々になんとか納得していただきたいと願っている非ディスペンセーション主義者の一人として、私は次に挙げる二つの箇所が特に有益ではないかと思いました。一つはヘブル人への手紙12:22-24、そしてもう一つは1コリント15:51-53です。

 

この二か所を選んだのは、これが古典的ディスペンセーション主義者が自らの見解を再び考え直す良いきっかけとなる箇所ではないかと思ったからです。そして古典的ディスペンセーション主義者自身が、反対方角へ持っていく議論のベースとして、自身が選ぶであろう諸聖句に関しての、最良の判定者になるのではないかと思います。

 

どちら側の議論も、お互いから学ぶという意味で歓迎されるべきです。ですが、私はディスペンセーション主義の方々がご自分の見解を表明するようには、この方々の見解を表明することはできませんし、それができるようなフリをするつもりもありません。

 

それではこれから、ヘブル12:22-24と1コリント15:51-53およびそれに関連する解釈学上の問題に焦点を絞っていきたいと思います。私は、古典的ディスペンセーション主義の皆さんができるだけ理解しやすいような形で、これらの聖句と解釈学的諸原則を注視していくつもりです。

 

尚、〈修正〉ディスペンセーション主義の皆さんにとっても、古典的ディスペンセーション主義の方々との対話の中で、これらの聖句は有用かもしれません。

 

それから、〈修正〉ディスペンセーション主義者と、〈非〉ディスペンセーション主義者との間の対話ですが、そうですね、どの聖句箇所がみなさんの対話にベストなのか正直、定かではありません。〈修正〉ディスペンセーション主義者と〈非〉ディスペンセーション主義者は、それぞれの陣営の内にかなりの多様性を持っています。さらに、第3章と4章で見てきましたように、多くの点で両者の見解は近いのです。

 

その意味で、ヘブル12:22-24および1コリント15:51-53も、依然としてみなさんにとって、かなり興味深いものかもしれません。しかしすでに両者の間に存在するかなりの度合いの同意と一致ゆえ、こういった聖句を巡っての対話は、異なる外観を帯びることになるでしょう。

 

では、古典的ディスペンセーション主義者との対話の場合はどうなるのでしょうか?この場合、聖句テクストそれ自体に訴えるだけでは十分ではありません。みなさんは交互に「解釈学的諸原則」にも、そして「釈義」にも訴えることができるようなやり方で議論を進めていかなければなりません。

 

そうした時初めて、根柢部分に横たわっている解釈学的諸原則が表面に浮かび上がってくるでしょう。鍵となる諸聖句を用いることで、解釈者は具体的な方法で、解釈学的諸原則を取り上げることができます。そしてそれにより、古典的ディスペンセーション主義の解釈学的実践は、その理論自身に従っておらず、また従い得ないことが示されるでしょう。

 

上記の二つの聖句テクストを用いた議論に加え、対話のために大切なことは、「この聖句においては少なくとも二通りの解釈が可能である」ということを率直に認めることではないかと思います。一つは、古典的ディスペンセーション主義体系の中で作用させた時に理に適う解釈。そしてもう一つは対話相手の奉じる体系の中で作用させた時に理に適う解釈です。

 

この方法により、論客たちは二つの積極的目的を果たすことができます。一つは、彼らが、相手の立場に立って物事を考察し、いたわりの心を持って相手の見解に耳を傾けることで対話相手のディスペンセーション主義者と友情を築くことができることです。

 

また彼らはこういった対話を通し、より良く聖書を学ぶことができます。そしてディスペンセーション主義の聖書解釈者であることが一体どのようなものなのかをより良く知り、学ぶことができます。彼らは言うでしょう。「ああ、なるほど!こういった諸原則を用いるなら、確かに『この聖句の意味は~~だ』という主張は理に適ったものであることが分かる!」と。

 

そして彼らは、古典的ディスペンセーション主義の枠組みの《外側から》見た時にはクレージーに思えるような事柄であっても、それをヤジったりするようなことをもはやしなくなるでしょう。

 

それと同時に、彼らはディスペンセーション主義者に対し、「全体としてのこの体系自体が、釈義をする上での重要なinput(投入)になっているという事実」――これに対するより良い認識を対話相手に提供することができるかもしれません。

 

その際に、みなさんは二つの包括的フレームワーク(枠組み)を相手の前に広げ、それを提示します。(一つはディスペンセーション主義の枠組み、もう一つは相手の非ディスペンセーション主義の枠組みです。)

 

そうした上でみなさんは言います。「さあ、それぞれの枠組みが特定の聖句に適用される際、どのように働くのか見てみることにしましょう」と。それにより、これが一つの聖句の意味を巡っての愚鈍さの問題でもなく、他の立証聖句の存在に関する知識の不足といった問題でもないことがより明らかにされるでしょう。

 

特定の神学的諸問題(PARTICULAR THEOLOGICAL ISSUES)

 

ディスペンセーション主義の福音主義クリスチャンと、非ディスペンセーション主義の福音主義クリスチャンを隔てている神学的諸問題は、短時間で口頭で話すことが難しい種類の問題です。なぜなら、多くの場合、それらは数多くの聖書テクストの内容統合にかかわっているからです。

 

一般に、神学的統合に関する真剣な取り組みというのは、聖書精読や黙想の時が最良でしょう。

 

しかしそれでも、論客は口頭で手短にこういった神学的諸問題のことを述べることで、相手のディスペンセーション主義の方が後にそのことを熟考する機会を提供することができるでしょう。以下に挙げる三つの領域における省察がもっとも有意義なものだと思います。

 

第一番目に、旧約の御約束についての教会の相続に関する事柄があります。

 

ここでの神学的問題のエッセンスは、とてもシンプルに提示することができます。旧約の御約束の中のどれが、キリスト相続人(Christ heir)に向けられているのでしょう。キリストはイスラエル人なのでしょうか。キリストはアブラハムの子孫なのでしょうか。そしてキリストはダビデの相続人(跡継ぎ)なのでしょうか。

 

これらの問いに対する回答は、「どれほど多くの神の約束があろうとも、それらはことごとく、キリストにおいて『しかり。』となります」(2コリ1:20参照)。

 

それでは、こういった御約束の内どれが、キリストと結ばれたクリスチャン相続人に向けられているのでしょうか。神学的に言えば、この問いに関して「その全てです」と回答することに抵抗するのは困難です。

 

と言いますのも、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです」(コロサイ2:9-10)。

 

また人は「天的な」祝福と、「地上的な」祝福を、手際よく小ぎれいに分割することもできません。なぜなら、そこに存在するのはただひとりのキリストであり、私たちはそのキリスト全体を受け取っているからです。からだのよみがえりとキリストにある万物の更新はまた、存在の物質的側面にも及んでいます(ローマ8:22-23参照)。

 

パウロが言うように、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)。

 

そしてパウロが「世界」(“world,” κόσμος)は私たちのものと言った時、それは決して誇張ではなかったのです(1コリント3:21-23)。このテーマに関しては第12章、13章で再びご一緒にみていきたいと思います。

 

それから第二番目の神学的問題は、旧約のシンボリズムの性質に関することです。旧約の中での神の啓示に漂う雰囲気は、終末論的希望で満ち溢れています。そしてこの希望は終わりの日に焦点を置いており、天的な神の住まいを目指すものです。

 

故に、そのような文脈においては、終末論的預言の最も「字義主義的(“literalistic”)」な読み方はベストなものではないと言えましょう。この問題に関しては、第8-11章で「字義性(“literalness”)」の意味を考察する際に、詳しくみていきたいと思います。

 

第三番目に、論争の中で聖書自体がどのように使われているのかといった問題があります。つまり、こういう事です。:ディスペンセーション主義者を、〈非〉ディスペンセーション主義者から最も違わせている問題の一つ(いや、おそらく最も肝心かなめとなる問題)は、旧約聖書の解釈問題であるということに、皆さん同意してくださると思います。

 

そしてこの問題はそれ自体の内に、①「ディスペンセーション(経綸)」ないしは天啓史に関する問題、②「イスラエル」と「教会」の問題、③聖書解釈における「字義主義(“literalism”)」に関する問題を内包しています。

 

さらに、「旧約預言の解釈問題」はこの問題の鍵となる下位区分(subdivision)に相当します。ですから、私は、以上のことが考察すべき神学上の中心課題だと考えています。

 

それではどのようにして、この主題に関する聖書自身の教えを見い出すことができるのでしょうか?――それはもちろん聖書を読むことによって、です。ええ、その通りです。しかしこれは壮大なプロジェクトです。では、聖書のどこか特定の箇所で、この主題についてより直接的に言及し、聖書の中の他のどの書よりも詳細にその事を述べている書は存在するのでしょうか?

 

ええ、私は存在すると思います。それはずばり「ヘブル人への手紙」です。そしてもしそれがそうならば、私たちは旧約聖書解釈に関する私たち自身の教理を「主として」この書をベースに考察していくべきだと思います。

 

例えば、信仰義認の教理の場合、私たちはローマ3-4章、ガラテヤ3章という二大聖句から始めます。その後私たちは、その教理とヤコブ2章のようなよりマイナーな聖句を統合します。

 

しかしその際、もしも私たちがその手順を逆さまにし、逆向きにしてしまったらどうなるでしょうか?

 

仮に私たちがある主要聖句箇所を、一つの「構想」にフィットさせよう、適合させようとしているとします。しかしその「構想」たるや、わずかな数聖句からほとんど全面的に引き出されたものであり、しかもそういった聖句の意味も、それ自体においては絶対的に明確というわけではないのです。

 

このような手順を取る時、私たちはかなり誤謬や歪曲の道に陥りやすくなってしまいます。

 

そこで私は、自分自身にも、そしてディスペンセーション主義の朋友たちにも、次のことを提案したいと思います。皆さん、これからご一緒に、ヘブル書を読み、学び、黙想することに心を注いでみませんか?そして共に祈ろうではありませんか。主よ、どのようにして正しく旧約聖書を解釈し、正しく新約と旧約の関係を理解することができるのか、どうか私たちを教え導いてください。

 

そしてどうか「自分の見解をバックアップしてくれるようなヘブル書理解の方法があるのか、ひとつ見てみることにしよう」といった態度で聖句に臨む人が一人もいませんように。どうか私たちがただ単に自分たちの既存見解を裏付けることにひたすら固執するような態度を取ることがありませんように。

 

そうではなく、できる限り純粋に、そういった既存見解を一旦脇に置きましょう。そして――もしもヘブル書の内容のどこかが私たちに指摘するのなら――、御言葉によるそういった批判に進んで自らを従わせましょう。そしてヘブル書が導く所はどこであれ、その場所において、私たちが、謙遜な御言葉の聞き手であることができますように。

 

こういった訓練にリスクはないと思います。聖書は私たちを逸脱から守ることができます。ですから、自分の安全ゾーンをなんとか確保しようと、これまでの既存信条に堅くしがみつく必要はないと思います。実際、私たちがこれまで大事にしてきた諸見解に対して聖書が何らかの挑戦をすることを許さず心を開かないなら、そのような状態こそかえって私たちにとって安全でない状況になり得ます。

 

さらに、こういった共なる学びは、おそらく自分自身の立場に関して迷いがある方、どちらの見解を従ったらいいのか今も優柔不断の状態にある方にとっては、最良の学びの時になるのではないかと思います。

 

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そして、おそらく神が私たちにヘブル書を提供してくださった理由の一つは、私たちが安全で確実な出発点を見い出し、そうして後、旧約の解釈という複雑なプロセスに私たちを導き入れてくださるためではないかと思います。

 

実際、これは自分自身の人生の中でも実証されました。私にとっても、ヘブル人への手紙を用いたこの聖書の学びは決定打の一つとなったのです。ですからきっと他の多くの方々の人生の中でもそのような事が起こるのではないかと私は思っています。

 

しかしヘブル書自体、壮大なテクストですので、他に取り扱わなければならない諸テーマのこともあり、本書ではその全てについてお話することはできません。しかし第12章で、私たちはヘブル書の一つの鍵となる聖句、つまり12章22節から24節までをご一緒にみていきたいと思います。

 

Chapter 6 Footnotes

1 I am indebted to Edmund P. Clowney for this argument.