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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ⑫ いろいろな社会的要因(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

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Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

(訳者注:この章の中の小見出しは訳者によるものです。)

 

次に、ディスペンセーション主義のグループ内に存在する心理学的・社会的諸要因について触れておきたいと思います。心理学的・社会的諸要因というのは一般に、これまで私たちがずっと慣れ親しんできた解釈体系を後にすることを困難なものにします。

 

共有された世界観や諸教理を持つどんな文化/サブカルチャーにおいても、ある程度において、結束性(粘着性)を持つ社会的要因が働いています。(参:Berger and Luckmann 1967)

 

確かに社会的諸要因それ自体は、ある特定の世界観や教理の真理を擁護・反証する価値を持っていません。しかしながら、ある社会集団の構成員にとって「明瞭」「当たり前」「常識的」と思われている事がらが、《外側にいる人々》にとっても同じように「明瞭」であるかというとそうではありません。

 

ダーウィニズムへの対抗

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ディスペンセーション主義者の間に働いている一つの特別な因子というのは、ダーウィニズムに関しての破壊的諸勢力に対する、彼らの反動です。

 

諸科学の発展と共にダーウィニズムは、――キリスト者個人ないしは、少なくとも《準》キリスト教価値観に対する――従来の広範な西洋文化的コミットメントを抜本的に弱体化させました。

 

こういった風潮の中で、ディスペンセーション主義は、聖書の諸真理の持つ厳密さに重点を置くことにより、科学の主張する、いわゆる「正確な諸真理」という挑戦に答えようとしてきました。

 

また、聖書の用いる比喩・象徴的な、そして「完全に明瞭ではなく、完全に正確でもない言語」は、なにかマイナスのものであるかのように見えるきらいがありました。

 

それゆえ、「聖書の言語には高度の正確さがあるという事を信じる必要性」および「聖書の言語をできる限り、比喩・象徴的な方法では解釈しないようにしなければならない」という事に対するプレッシャーがディスペンセーション主義者の内にありました。

 

ですから、ある方々は次のように考えておられます。「ディスペンセーション主義を離れることは、すなわち、聖書が現代科学の諸基準にも立派に対峙することのできる書であるという主張を捨て去ることであり、また、正確で明瞭な聖書言語を取り扱うことによって得られる確実性を捨て去ることにつながる」と。

 

主観性への恐れ

 

第二番目の要因として挙げられるのは、主観性に囚われることに対する恐れ(the fear of subjectivity)です。ディスペンセーション主義者はこれまで、聖書の意味が、主観的偏見を基に、近代主義者たちによって歪曲されているのを目の当たりにしてきました。

 

そして往々にしてこういった偏見は、本格的な宗教「体系」や世界観による影響を受けています。ですから、当然のことながら、ディスペンセーション主義者たちは、そういった偏見に裏打ちされたものを拒絶しようとしてきました。

 

主観性に統治された聖書解釈というのは非常に間違っています。しかしながら、主観性そのものに対する恐れというのは、ややもすれば、解釈における明白な省察(explicit reflection)を拒絶する方向へと私たちを導きやすいのです。

 

ある人は、ただ聖句テクストの「平易な(“plain”)」意味に訴えようとします。そういった聖句は、すでに「平易な」意味を持つものとしてそこに存在しているため、解釈者の考え(input)をほとんど必要としません。そういうわけで、この人が、このレベルで聖句に取り組み続けるなら、彼は、最大限の客観性に裏付けされた確信を持つことができるとされます。

 

一方、別のある人が今度は明示的に、他の多くの解釈諸原則を検証していると仮定してみてください。この人は物事をそうそう当たり前には受け取りませんし、それに間もなく彼はこう気づくのです。

 

――確かにここには、他にも可能な選択肢というものが存在する。そして選択肢の存在というのは、個々の特定の聖句テクストの解釈に対してだけでなく、解釈諸原則の形成や構築に対しても当てはまるのだ、と。

 

諸原則それ自体は(部分的には諸聖句に訴えることによって)正当化されなければなりません。しかしその際、このプロセスが循環的になってしまう恐れがあります。そうすると、その人の中で、自分の純粋な客観性についての確信がかなりぐらつきます。

 

解釈学的省察

 

さらに、解釈学的省察というのは、「聖書解釈に及ぼす全体的諸体系の影響」についての省察も含み得ます。

 

実際、ディスペンセーション主義者であれ、契約主義者であれ、カルヴィニストであれ、アルミニウス主義者であれ、近代主義者であれ、とにかく神学体系というのは、私たちが所定の聖句に接する方法に対し、深遠な影響を及ぼしています。

 

世界観や社会的文脈というのは、私たちが知覚する内容、「明瞭なもの」として前提する内容、強調を置く内容に影響を与えているのです。

 

もちろん、ディスペンセーション主義者の中には、聖書解釈について省察し、それについて著述しておられる方々もいます。

 

しかしそういった省察にあってでさえも、こういった方々はご自分の解釈諸原則を最初から前提しておられるように私には思えますし、実際、非ディスペンセーション主義者はまさにその前提部分について、ディスペンセーション主義の方々ともっと議論や話し合いを深めたいと願っているのです。

 

特に、幾人かのディスペンセーション主義者は、聖句の『平易な意味』という、あくまで未分析な考えをベースに聖書研究に取り組んでおられるように外部者の目には映っています。

 

「気づいていないこと」に対する気づき

 

三番目の影響領域として挙げられるのは、大半のディスペンセーション主義の人々が、聖句に対する「統一されたディスペンセーション主義読み方」に寄与している一連の社会的要因に気づいていないという事実そのものに存しています。

 

ディスペンセーション主義者は、聖書が平易であり、解釈者はこの「平易な」意味に忠実でなければならないと力説しています。しかし不幸なことに、私たちと聖書記者との間を隔てる歴史的距離ゆえに、そういった従来の聖書記者たちの意図は、必ずしも常に平易であるとは限りません。

 

私たちが一般信徒の方々に聖書の意味は「平易だ」と勧める時、彼らはそれをどのように受け取るでしょうか。傾向的にみられるのは、彼らは私たちのそういった勧告を、元々の歴史的文脈の中ではなく、21世紀の文脈、それも自分たち自身のサブカルチャー文脈で読むよう奨励されているのだと受け取ってしまうことです。

 

こうして聖書は、元々の読者たちだけでなく、私たちのためにも直接的に書かれた書となります。「それでは、聖書の指し示す『私たち』とは誰のことを指しているのだろう?」――それはやはり、ディスペンセーション主義的に聖書を読むクリスチャンの集まりに違いありません。

 

一般信徒であるディスペンセーション主義者にとって、「平易な」意味というのは、仲間のクリスチャンたち(その仲間たち自身もまたディスペンセーション主義者です)から日頃、見聞きする教えや規範の背景を基に自動的にそれらを聖句に読み込むところの「意味」です。

 

それゆえに、彼らにとっての「平易な意味」というのは往々にして、ディスペンセーション主義体系の枠組みを通して見た時の聖句の意味となることが多いのです。

 

ここから次のような反応が生み出されます。時々(ええ、残念ながら、「しばしば」と言わねばならないかもしれません)、非ディスペンセーション主義者は、「えっ、なぜあなたは私たちとは違う聖書の読み方をしているのですか?」と驚愕するディスペンセーション主義者に遭遇することがあります。

 

彼らの最初の反応は、「この《非》ディスペンセーション主義者ははたして真のクリスチャンなのだろうか?」です。こういった反応が無理からぬのは、平易性に対しての解釈学的説明が次の2点に置かれ、強調される時です。

 

(1)(ディスペンセーション主義を信奉する)その教会の牧師が、会衆に、「福音主義クリスチャンの間でも、いろいろな解釈の相違がある」という事実を説明しようとしない。

 

(2)その教会(集会)のメンバーたちが、「自グループのその解釈から脱線すること」と、「聖書そのものを拒絶すること」とを同一視し始める時。

 

それと同じような社会的傾向により、学究的な古典的ディスペンセーション主義者の間であってさえも、1世紀の教会の神学的環境についての、幅のある省察が比較的乏しいと言えます。

 

〈非〉ディスペンセーション主義の新約学者たちにとっては少なくとも、古典的ディスペンセーション主義者による新約解釈というのは、「各書を1世紀の記者たちの1世紀の聴衆者に向けられた諸書として読もうとする純粋な試み」というよりは、むしろ、「すでに完了したディスペンセーション主義体系という背景をバックになされた解釈である」とみなされています。

 

しかしディスペンセーション主義の方々はおそらくそうは考えていないことだろうと察します。そのため、これは話し合いの起点としてはあまりふさわしくないでしょう。

 

新約学者たちはしばしば、聖書の記者たちの著述の「内側に」入り込んで、聖書を読もうと奮闘します。それにより、彼らは聖書記者たちが言った内容だけでなく、「なぜ」そのような仕方で記者たちが言ったのかを理解しようと努めているのです。どのような種類の懸念が彼ら記者たちの生涯や説教に命の息吹を与えていたのでしょうか?

 

このような懸念を背後に、次のような中心的問いがもたらされます。

 

「もしも新約聖書が――《自覚的》古典的ディスペンセーション主義者である――当時の人々によって書かれたのだとしたら、はたして新約各書は、現在私たちが目にするような書であり得るでしょうか?」〈非〉ディスペンセーション主義の新約学者たちはこの問いに関して「否」と答えています。

 

ここで一つ譬えを出したいと思います。全体としての新約の教えは、――教会がそれ以降、三位一体およびキリストの二つのご性質についての信条を形成していった――その基盤を形作っています。

 

こういった信条形成は、新約聖書に固く基づいており、聖書の教えと完全に調和しています。しかし新約記者たちは、後に統合された省察の中で自覚的に得られたこれらすべての教義を、必ずしも保持していたわけではありません。

 

例えば、使徒たちは私たちの救いに関し、純粋にして最終的な真理を記述しました。しかしこういった使徒たちが、三位一体教義について、後のアウグスティヌスやナジアンゾスのグレゴリオスと同じような、自覚的・技術的洗練性なるものを必ず持っていたに違いないと想像するのは時代錯誤的といえましょう。

 

私はここで、アウグスティヌスがパウロよりも「良い頭脳」(もしくは劣った頭脳)を持っていたと言っているのではありません。そうではなくただ、アウグスティヌスの意識的省察が、使徒パウロのそれとは異なる方向に焦点を向けていたということなのです。

 

それでは、これをディスペンセーション主義に関する状況と比べて考えてみましょう。私が申し上げたいのは、「使徒たちは洗練された《自覚的》ディスペンセーション主義者であった」と考えるのは時代錯誤的だということです。

 

そのように主張するのではなく、ディスペンセーション主義者はむしろ、ただシンプルに、「私たちは正当にも、自らの教理の全体性から、後に形成されたディスペンセーション主義体系を演繹し、統合したのです」と述べるべきではないでしょうか?

 

そしてもしそうであるなら、新約の歴史的理解は、精神面における、私たちと使徒たちの間の距離をも考慮に入れることでしょう。

 

ですから、私たちは、マタイやパウロやヨハネやヘブル書の記者を、できる限り、彼ら自身の言葉で、つまり、「内側から」理解しようと努めます。そういう意味でも、やはり、使徒たちは《自覚的》古典的ディスペンセーション主義者のようには考えていなかった。――これが〈非〉ディスペンセーション主義学者たちの大体の所感です。

 

そして、〈非〉ディスペンセーション主義者は、「預言成就に関する聖書解釈という点で、新約記者たちの神学は、古典的ディスペンセーション主義の基本原則と相いれない」と考えています(on this hermeneutics, cf., e.g., Dodd 1953; Longenecker 1975)。

 

新約記者たちは皆、前千年王国説論者であったかもしれませんし、皆、無千年王国論者であったかもしれませんし、中には特にこれといった確信を持っていなかった人もいたかもしれません。

 

しかし全ての人は、キリストの初臨・再臨その両方において、キリスト及びキリストの民の内で為される成就という考えを中心に置いていました。そして(千年王国ではない)この中心的主題こそが、未来に関する1世紀のクリスチャンの教えを支配していたのです

 

しかし、こういった事を議論する際、私は皆さんに1世紀の教会に訴え出ないことを勧告したいと思います。1世紀の教会の神学的環境および、新約理解に関する教会の立場の評価に関しては多くの要因が関与しているからです。

 

また、ここまでの考察により、ハル・リンゼイの『地球最後の日(The Late Great Planet Earth)』を初めとする「センセーショナルなタイプ」のディスペンセーション主義についても、より良く理解することができるでしょう。

 

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一度ある人が、「聖書は21世紀の文脈で直接的に書かれているのだ」と前提し始めるなら、聖書と、最新の政治的・社会的ニュース事件の間を細かく関連づけようという試みは、何といっても魅力的なものになります。そして、このような重大な前提が一旦受容されるなら、そこからもたらされる結果は決して馬鹿々々しいものではなくなります。

 

恵みのみによる救い

 

最後のポイントになりますが、ディスペンセーション主義者は、恵みのみによる救いの純粋性を保ち、この恵みに基づく確信を保持したいと心を配っています。

 

救いの確信は御約束に対しての神の誠実さに深くかかわっています。しかしどのようにそれらの御約束は解釈されるのでしょうか?もしも御約束が「平易」でなかったとしたら、私たちの確信は脅威にさらされます。

 

さらに、ディスペンセーション主義者はこれまで熱心に、「神の多くの御約束は無条件である」という考えを擁護してきました。そして御約束の無条件性は、それらが言及されたまさにその形態において、成就することを保証します。

 

こういった「無条件性への願望」も、科学的に正確な言語という理想に彼らが惹かれている一つのほのかな要因なのかもしれません。

 

家庭や職場においての日常言語の中で、言明ないし約束は暗示的資格や諸条件を含んでいます。例えば、「5時にはあそこにいるから。」というフレーズには、しばし、暗示的な理解――つまり、「もしも急用がなければ/もしもあなたが約束をキャンセルしなければ」といった含み――と共に発言されることが多くあるのです。

 

一方、科学的領域において、諸資格ないし諸条件は、略さず詳細に説明されなければならないものとされています。ですから、聖書を科学的言語になぞらえようとする行為は、そこに多くの無条件的約束が存在することに対する強調を促します

 

もっとも、この点においてもヴァリエーションが存在します。大半の修正ディスペンセーション主義者は、子孫および土地に関するアブラハムへの約束は無条件であるけれども、預言成就に関わる私たちの参与は、信仰によって条件づけられていると考えています。そして私はこの立場に同意します。

 

社会的諸要因に対する評価(EVALUATING SOCIAL FORCES)

 

さて、ディスペンセーション主義の安定性や魅力に貢献している社会的諸要因についてはこれ位にしておきましょう。

 

それぞれの要因の背後には、「良い」動機や「良い」原則の要素があることに私たちは留意すべきです。しかしそれぞれの要因において、その「良いもの」は歪曲され得ます。

 

まず「私たちは精巧な科学に対し回答しなければならない」という懸念について考えてみましょう。ディスペンセーション主義者のこういった反応の背後にある良い原則は、神聖な権威および聖書の信頼性についての原則でしょう。

 

しかし、ここにはまた危険性も存在します。つまり、この原則をなんとか尊守したいと熱望する余り、正確性のための人為的現代基準や技術的言語を押し付けることによって歪みが生じるかもしれない危険性です。

 

次に、主観性に対する恐れ、そして聖書の「平易性」に対する主張についてはどうでしょうか。ここでもまた、背後には、聖書の明瞭さについての原則という「良い原則」が存在します。

 

救いのために必要な事柄は聖書の数カ所ではっきり言及されていますので、学ぶ事に遅い人でもそれらの十分な理解に達することができるでしょう。しかしそうだからと言って、聖書のあらゆる箇所が等しく明瞭であるわけではなく、また明瞭な聖句も、すべての点において明瞭であるというわけではありません。

 

それゆえ、それは、「全て(あるいはほとんど全ての)聖書箇所の意味は非常に明確なので、平均的な読者はすぐにその意味を把握することができる」という見解には相当しません。明瞭性の原則というのも、無誤性の原則と同様、過度に単純化され過ぎたり歪曲されたりする危険性があります。

 

次に、聖書解釈に及ぼす「伝統からの影響問題」についてはどうでしょうか?聖書解釈の最終決定を行使するローマ・カトリック教会の主張に反対し、宗教改革者たちは、「教会の伝統は聖書に並ぶもう一つの権威ではない。そして、教会の伝統は絶えず、聖書の批判の支配下になければならない」ということを強調しました。

 

そして、この要素、つまり、教会の伝統に関わる一切を排除するというのが、ディスペンセーション主義者の内にみられる真理の要素としての傾向であると思います。しかしながら、宗教改革の原則は、「教会の伝統は存在しない」「私たちは、聖書を解釈する方法において、完全に教会の伝統の影響を排除できる」ということと同一ではありません。

 

それでは、恵みによる救いおよび無条件の御約束に対するディスペンセーション主義の愛好についてはどうでしょうか?この懸念の内に存在する真理の要素は、明白であり重要なものです。

 

キリストは完全に私たちの救いを成し遂げ、私たちに代わって完全に神の義を満足させてくださいました。それゆえに、救いは保証されているのです。またそれは、キリストがすべての条件を満たしてくださっているという意味で無条件です。

 

旧約聖書のアブラハムへの御約束は究極的に、キリストの来臨を通して与えられる恵みに依っています。しかしその事実は、私たちクリスチャン側の従順や訓練の必要性を除去するものではありません

 

キリストの救いおよび救いの保証は、信仰の行使における、キリストとの一致の中でのみキリスト者たちに可能とされます。そして真の信仰は死んだ信仰ではなく、愛によって働く信仰です(ガラ5:6、参:ヤコブ2章)。

 

純粋な恵み(ガラ5:4)と純粋な信仰(ガラ3:2-14)のためにあれほど力強く戦っていたパウロは、これまた同じ手紙の中で、邪悪さの中に生き続けながらも肉的〔救いの〕確信にうつつを抜かしている者に対し、警告の言葉を容赦なく発しています(ガラ5:13ー6:10、特に6:8)。

 

パウロは「もしも。。。なら。。」という"if" の言葉を用いることを躊躇せず、悪しき行いの者たちには永遠の滅びを警告しました。

 

生活にも忠実さにおいても全く変化の伴わない、単なる口先だけの信仰は、人を永遠の救いへ導きません。なぜならそのような信仰は偽善的だからです。その他の聖句の中の無条件的言語は、こういったタイプの資格(適格性)から独立したところで作用はしません。

 

私たちは、恵みに関する新約の教説を過度に単純化し、それをアンチノミアニズム(無律法主義)に変質させてはなりません。

 

それゆえ、従順に関するあらゆる旧約聖句そして、「条件」について述べているあらゆる聖句を、恵みに対するアンチテーゼ的対立の内にある単なる「律法」だとレッテルを貼ることは、事を単純化し過ぎています。

 

今日、多くのディスペンセーション主義指導者の方々が、この危険性に気づき、自らをアンチノミアンの極端から切り離そうとしていられることに私たちは感謝すべきだと思います。

 

訳者注:アンチノミアニズムに関する記事のご紹介:


本章で皆さんとご一緒に見てきました社会的諸要因その一つ一つは、ある意味、そのどれもが「確実性への願望」に関連することに留意すべきです。

 

確実性に関するもっとも基本的形態は、救いの確実性を含めた、聖書の基本的諸真理に関する確実性です。

 

律法および、人間の責任に対するその強調/警告が導入されることにより、救いの確実性は容易に脅かされます。そういう意味でも、「律法」と「恵み」の間の鋭利な区別、そして無条件の御約束に対する強調は、ディスペンセーション主義の魅力を形作るものとなっています。

 

実際、ダービー自身、キリストの内にある自分の天的位置についての確実性へ「解放された」文脈の中でディスペンセーション主義を開始したことも注目に値します。

 

変遷する世の中で

 

次に、移り変わる世の中での私たち自身の役割に関し、ディスペンセーション主義は確実性への願望に訴えています。

 

それでは科学による諸変化についてはどうでしょうか。科学の発展は、人類の種の起源についてのダーウィニズム見解および「世界は巨大な自治メカニズムである」という科学による前提ゆえに、聖書の内に存在する私たちの確信を揺らがせ弱体化させているのでしょうか。

 

こういった脅威に対抗し、ディスペンセーション主義は、聖書の信頼性に確証を与えようとしています。しかしこのプロセスの中で、聖書をあまりにも現代科学の規準に合わせようとする危険に陥ることにもなりかねません。

 

特に、「字義性」に対する強調は、時として、聖書を現代科学に同化させてしまう危険性を持っています。

 

政治情勢の変化

 

では、政治的そして社会的世界における変化についてはどうでしょうか。ディスペンセーション主義は、「預言」と「私たちの時代」との間に、ある種の関連性を見い出すことを奨励しています。

 

こういった関連性の確立は、信奉者たちに、一見恐ろしく不穏にみえる世界情勢の出来事に対する深い志向と理解を提供し得ます。基準点として現代の出来事を聖書と統合させることにより、それを聞く人たちは、自分自身の立っている立場に関する正当性を再確認することができます。つまり、彼らはさまざまな出来事に関しての一貫した解釈を持っているわけです。「センセーショナル版」ディスペンセーション主義は、まさにこういった理由で非常に人々の心を掴みやすいのです。

 

 

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解釈における確実性

 

ディスペンセーション主義は、「聖書解釈」の面においても、一般信徒の方々に確実性を提供しています。現代のこの世は、ノン・クリスチャンの非合理主義および自律という主観性が非常に強勢を誇っています。こういった潮流に抗し、ディスペンセーション主義は平易性を主張しています。

 

そして社会学的相対主義化ないしは、真摯な神学論争のさなかに突如として現れてくる懐疑の問題に対し、一般に広く受け入れられているヴァージョンのディスペンセーション主義は、聖書解釈においての影響力ある要因としての「教会伝統」――これに対する基本的非認識を打ち出しています。

 

また、学術的諸問題や周到な文法的・歴史的解釈に関わる多くの未回答の問いに対し、ディスペンセーション主義は、一般読者に対する聖書の有効性を保証しています。

 

ある体系の中にいることでもたらされる確実性

 

そして、もちろん、ある「体系」を持ち、それに関わることで確実性がもたらされます。(この点・あの点でそれが正しいか間違っているかは別として)およそ「体系」と名の付く物は、多くの回答を提供してくれます。ですからその体系を離れ去ることは、何か空虚の中に迷い込んでいくもののように感じられます。

 

それゆえに、人々は、その体系を離れるよりは、体系の中に存在する数多くの「困難点」ないしは明らかな矛盾をむしろ我慢する道を選ぼうとするのです。

 

しかしこういった種類の問題を抱えているのはディスペンセーション主義だけだと考えてはいけません。ディスペンセーション主義者ではないあなたや私はどうでしょうか?私たちには確信があるでしょうか。それとも私たちは心もとなさに不安な思いをしているでしょうか。そうです、私たちにもまた、確実性に対する願望があるのです。

 

そして神は、イエス・キリストとの一致を通してたしかに私たちに確実性と安定感を提供してくださっているのです。しかしここで私たちは自分自身に自問する必要があるでしょう。

 

――果たして私は、キリストの羊の一人であることの他に、何か別の安定感を求めてはいないだろうか?

 

羊であることは、安全であることを意味します。そしてそれはあなたが全ての回答を得ているからではなく、あなたがキリストのご配慮の内にいるからなのです

 

誤った方法での安全性追及

 

私たちが誤った方法で安全性を求めるなら、それは他の人々を助ける私たちの能力に支障をきたらせます。例えば、私たちは自らを正当化させるべく、論敵たちを激しく非難する習慣を身に着け、それによって、「自分は正しい位置にいる」という感覚の内に安定感を補強しようとするようになるかもしれません。

 

ですから、ここまでの私たちのディスペンセーション主義分析は、「ディスペンセーション主義が誤っている」という事を示すためのものではありません。そうではなくむしろ、(ディスペンセーション主義者も、〈非〉ディスペンセーション主義者も共に)私たち皆が、一度立ち止まって、自らの歩みを振り返るための意図をもって書かれています。

 

自信過剰気味の方に対し、このメッセージは次のように言います。

 

 「あなた自身気づいていないかもしれませんが、あなたの信じている信仰内容に及ぼしている諸影響というものが存在します。 

 そして、あなた自身もしくは他の人々の抱いている悪い動機(混在した動機)が、秘かな方法であなたの信条の純粋性にダメージを与えている可能性は実際あるのです。

 あなたが他の人から教えられ、無批判に受け入れてきた隠れた前提(思い込み)はもしかしたらあなたの聖書理解に影響を及ぼしているかもしれません。  

 あなたの信条はことごとく神から来たものであることに、あなたは本当に確信を持っていますか?それは本当に確かですか?

 それとも、あなたがそれらの教えの幾つかを鵜呑みにしたのは、あなたの尊敬するあの牧師がそれをあなたに説いたからではないでしょうか?そのことを深く考えてみたことはありますか。

 そして、あなたとは違う解釈をしている人々の弁証にまともに耳を傾けることもしないままに、どうしてあなたは自らの信じる教えの詳細にそこまで自信満々になれるのでしょうか。」

 

一方、弱気になり自信を失いかけている人々にはこう語りかけます。

 

 「あなたは教師たちからこれまで受けてきた教育上の恩恵を含め、あなたに与えられている賜物を使うべきです。あなたは自分の持っている知識を教会の中で大いに役立てるべきです。

 そして聖書が言っていることを大胆に説き明かすべきです。しかしあなたはそれを教会の中で他の方々からの助言や矯正を受けながら行なうべきです。

 (あなたの信仰体系に属する陣営の外側にいるクリスチャンも含め)他のクリスチャンの見解に耳を傾けることは、それによって神が私たちを真理に導き入れる上で主が私たちに賜った道の一つなのです。」